『野分』論 − 冒頭をめぐつて −
                                                                                             藤 堂 尚 夫

  文字作品において、その冒頭の重要さは改めて云うには及ばないかもしれない。作家は作品の書き出しを熟考するようであるし、書き出しさえうまく
いけば、作品はほば完成したとまで云われる。読者もまた、作品世界の人口である冒頭から作品世界を想像し、日常世界から作品世界に入りこん
でいく。
   夏目漱石の作品の冒頭は、どれもその作品世界の入口として良く出来たものであるのは云うまでもない。『吾輩は猫である』『坊つちやん』などの
冒頭はその主人公の性質を簡潔に表現しているし、『草枕』の冒頭の流麗さは多くの人の知るところである。漱石は、冒頭に心をくだいた作家の一人
と云えるだろう。
   私は、『野分』の冒頭部分から『道草』との関連を考えてみたことがある。(註1)その際「帰って来た男」という共通性を指摘し、道也と健三が〈金〉の
世界に帰って来たことを見た。このことからも考え得るように、『野分』の作品世界において〈金〉は重要な位置を占めるのだが、その分析の手始めと
して、冒頭にこだわって考察を進めることを本稿の目的としたい。

     註

     1 拙稿「漱石の一断面−〈金〉をめぐつて−」(「仁愛国文」第六号・昭63・12)

一 道也の性質

まず、『野分』の冒頭を引用しておきたい。

    白井道也は文学者である。
  八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東 京へ戻つて来た。流すとは門附に用ゐる言葉で飄然  とは
徂徠に拘はらぬ意味とも取れる。 道也の進退をかく形容するの適否は作者と雖ども受合はぬ。
                                                                                                                           (傍点 原文 ただし傍線に改めてある)

この冒頭部分で、まず最初に注意すべきは、最初の一文であろう。この一文で、白井道也を明確に「文学者」と規定しているのだが、この道也に対す
る規定には、意義深いものがある。
  漱石の抑期の作品には、冒頭部分で主人公の性質を語り、その性質によってその作品世界が規定されているものが多い。例を挙げておこう。

吾輩は描である。名前はまだ無い。

                                                     (『吾輩は描である』)

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。

                                                       (『坊つちやん』)

   『吾輩は描である』(以下『描』と略す。)『坊つちやん』の主人公は、そのまま全体を通して視点人物であり、語り手でもある。引用部分では、主人公
=語り手が自己紹介の形で自らを規定し、そのことが語りの性格づけをもしているのである。

それに対して『野分』では語り手が自ら「作者」と名のり、「作者」が道也を形象する形を取っている。『野分』の語り手をただちじ漱石とするには問題が
あるが、漱石の道也に対する思い入れが、このような語りの形態をとらせたとは云えよう。

視点人物という点を考えれば、『野分』では四人の視点人物が、その場面によってその任を果たしている。その四人とは、作者・高柳同作・中野輝
一・白井道也の四人であるが、道也は他の登場人物(周作・輝一)と比して、自分の内面を語ることはないし、ほとんど内面については「作者」が語っ
ているのである。

この道也に村する語りの形態にも、漱石の意図を見てもよいだろう。つまり、漱石が「作者」という自分に近い語り手を登場させ、「作者」によって道也
を形象せねばならぬほど道也像への思い入れが強いのだと考えられるのである。

以上述べたことを念頭に置きつつ、改めて第一文の意味を考えてゆきたい。

なぜ道也は「文学者」なのか。今『野分』の登場人物をふり返り、共通点を挙げれば、道也・周作・輝一の三人は「文学土」なのである。しかも述作を
なりわいとしている。その点では、道也以外の二人も「文学者」相当の人物であるのだが、「文学者」と云われているのは道也だけなのである。

まず手がかりとして、先述の語りについて述べておこう。
『猫』『坊つちやん』は主人公が視点人物であり、語り手であるから、読者の眼は、主人公の認識と同一の地点を見ることになる。そして人間関係も主
人公の把握の仕方によってしか読者の眼に映らない。しかるに『野分』では、語り手・視点人物が複数存在することで、読者の眼にはそれぞれの認
識が映り、多層的に示されている。人間関係についても、道也−周作・周作−輝一・道也−輝一の三様のものが読者の眼に入ってくる。小宮豊隆
(註2)は、道也を「志士」派もしくは「人生」派、周作を「人生」派にして且つ「拘泥」派、輝一を「俳諧」派もしくは「草枕」派と分類しているのだが、この
ことは三人の「文学土」の性質の違いをいみじくも云い表している。そして、道也を「文学者」と規定している理由を考える手だてともなる。
周知のように、漱石は「志士」のように文学に向かう決意を弟子の鈴木三重吉宛書簡(明治39・10・26)において表明している。

     そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イヤなものでも一切 避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何も出来ぬ    と
いう事である。
  (中略)
  僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやり とりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学  をや
つて見たい。それでないと何だ か難をすてヽ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん
                                                                                                                                   (傍点 引用者 ただし傍線に改めてある)

先の小宮の派分けは、この書簡を念頭においたものであろうが、「俳譜」派から「志士」派へと傾いている漱石の意識が強く表れている。このことが
『野分』執筆の動機となっていることは明らかだが、漱石自身がただちに「志士」派=道也となっているわけではない。相原和邦氏(註3)が指摘してい
るように、道也は漱石とは別タイプの人間であり、漱石にとって「かくありたき自己」なのである。

漱石自身は、世間に対して道也ほど「泰然」「飄然」としていることは出来ない、生身の人間なのであった。引用した書簡は、傍点を施した部分からわ
かるように、漱石の現状に対する不足の表明と、文学に対する態度についての希望の表明なのであって、自らが「志士」であるとの表明ではないの
である。

漱石白身が投影されていると見られるのは、周作である。漱石は「志士」派を理想とはしたが、「俳諧」派とも交渉を持っていた。この構図はそのまま
周作のものと云ってよい。周作は、その視野に道也の「志士」派・輝一の「草枕」派の両方をおさめている。〈金〉を規準とすれば〈金〉を持たぬ周作
は、「志士」派に近く設定されており、話が進むにつれて、道也=「志士」派への志向を強めて行く。

このような周作像は、『草枕』の時代から先の書簡までの漱石の意識と多くの点で一致しており、周作は漱石の血脈をよく受け継いだ人物として形象
されていると云えよう。

まとめて云えば、道也を「文学者」とすることによって、「文学者」としての理想が道也の形象の根幹にあることを示しているのである。

          註

          1 視点についての考察に相原和邦氏 「漱石文字の視点」(『漱石文学−その表現と思 想』・塙書房 昭55)がある。この中では『猫』『坊つ
          ちやん』の視点は「主人公即 ″私″の視点」『野分』の視点は「中立的全能視点」と分析されている。

          2 「解説」(『漱石全集 第二巻』・岩波書店 昭40)

          3 「『野分』の位置」(「国文学」昭49・11)

尚、先掲の拙稿において、道也の形象に触れており、参照していただきたい。

二 〈金〉との関連

一で、漱石の「文学者」としての理想が道也にあることを述べたが、この冒頭に〈金〉の影が見えており、それが「文学者」という道也の規定と共鳴して
いるように思われるのだ。
   先述したように、すでに第二文から道也が〈金〉の世界に帰って来たことを私は指摘している。ここでは、先に引用した冒頭の第三文以下につい
て、〈金〉の影をさぐりたいと思う。
   第三文以下は、あるいは不要な説明と見えるかもしれない。しかし、語りの一部として語られているのだから、何らかの意味があるに違いない。
   ここでは、語り手が自ら語った「流す」と「飄然」ということばについての説明がされているのだが、それならばもう少しこの意味にこだわり、註づけを
してみよう。

門附 人家の門口で芸能を見せ、金品をもらい受けること。また、その人。(註1)
徂徠 ゆきき。往来。去来。(註2)
                                                                                                                                            (傍点 引用者 ただし傍線に改めた)

  この二つの語釈をもとにして、第三文の意味を解釈すると、次のようになるだろう。

  八年前大学を卒業してから、田舎の中学二・三箇所で芸を見せ、金品を得て歩いた末に、そのゆききにこだわらずに、東京へ戻って来た。

  注目すべきは、〈金〉と「芸」との関係である。この解釈は、道也の考えとよく似かよっているのである。道也は「芸」を金品を得るための手段であり、
人格とはかかわりがないと考えている。

     道也はかう考へて居る。だから芸を售つて口を糊するのを恥辱とせぬと同時に、学問 の根底たる立脚地を離るゝのを深く陋劣と心得た。彼  が
至る所に容れられぬのは、学問 の本体に根拠地を構へての上の去就であるから、彼自身は内に顧みて疚しい所もなけれ ば、意気地が    ないとも
思ひ付かぬ。 (一)

  先ほどの第三文の解釈と、この引用部分を照らし合わせてみれば、『野分』の冒頭が、〈金〉と「学問」とのかかわりという問題を提示していることが
わかる。道也は〈金〉と「学問」との間に「芸」を置いている。道也は〈金〉を得る手段としてのみ、「芸」を考えているのであるが、「芸」とは「人格の修養
に附随して蓄へられた」(一)ものであり、教育を受け、学問をした上での、いわば副産物なのである。そして、「学問」の目的は、「人間か出来上る」
(一)ことであり、「芸」を覚えることではない。
  このような考えは、漱石の〈金〉に対する恐れを解決するための一つの手だてとなっているだろう。『永日小品』の中に「金」と題する文章があるが、
その中で〈金〉の色分説を述べ、その根拠を次のように述べている。

   然るに一度此の器械的の労力が金に変形するや否や、急に大白在の神通力を得て、道 徳的の労力とどんどん引き換へになる。さうして、     勝
手次第に精神界が攪乱されて仕舞 ふ。不都合極まる魔物ぢやないか。

   これが容谷子の色分説の根拠であるが、〈金〉がこのような「魔物」であったとしても、「道徳的の労力」に努める人の態度によっては、その弊害の
度合も変わるのではないか。作中人物の自分のそのような問い対する空谷子の答えは悲観的である。

  「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かないん だらう」
  「さうさな。今の様な善知善能(ママ)の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方 がないかな。現代の神は野蛮だからな」

  この答えを見ると、解決策はなさそうに思われるが、唯一考えられるのは、道也の如き考え方かもしれない。道也は「芸」と「学問」とを分かち、「芸」
を売ることで自身の 「道徳的の労力」を買収されることを防ごうとしたのだ。これは、道也が任地を追われるたびに「道を守るものは神より貴し」(一)
と心の中でくり返すように「道」を守りぬくという方法である。「道」を守りぬくことで、道也は「現代の神」=〈金〉から自由になっているのだ。本文におい
て、道也を「泰然」「飄然」と評する理由はここにある。漱石自身、留学時代に〈金〉のないことに大変苦しみ、昼食を節約してまで書物を買っていた事
実があるが、そのような漱石であれば、「芸」のみを売るという道也の考え、身の処し方は「道徳的の労力」を守る方法として認識していたことは想像
できないことではない。

          註
     1 『日本国語大辞典』(小学館)による。
     2 「注解」(前掲『漱石全集 第二巻』)

        以上、冒頭を中心に『野分』について考えてきた。冒頭にも〈金〉がその影を落としていることは、この稿によって明らかになったことと思う。し
     かしながら『野分』の世界の入り口を考えてみたにすぎないのであり、作品世界全体にわたる考察が必要であることは云うまでもない。他日を
     期して、道也と周作の二人を中心において、『野分』の世界に分け入ってみようと考えている。

                                                                           「仁愛国文」7,89.12, に掲載




 
What's new  プロフィール インターネット上の鏡花情報 インターネット上の鏡花情報−補遺および訂正 漱石の一断面
夏目漱石/「野分」論−冒頭をめぐって− 中野重治/「街あるき」論 中野重治/「中野重治短編集」 重治と漱石のこと 資料 中野重治書簡
中野重治/「歌のわかれ」をめぐって インターネット上の中野重治情報 インターネット上の中野重治情報2  芥川龍之介/「芋粥」小論 掲示板
書籍検索 ウェブ上の夏目漱石(暫定版) 検索エンジン 一滴の水 近代文学情報(暫定版)
リンク集 テクストデータの部屋 書評 夏目漱石/「野分」論−周作をめぐって1−