漱石の一断面 −〈金〉をめぐって−
                                 藤 堂 尚 夫
 漱石の肖像が千円札に載り、千円札といえば漱石を思い出すこととなって久しい。漱石がお札に登場することに関しては、漱石の身内の方のコメ
ントがいくつかマスコミを通して伝えられた。長男の純一氏は、漱石はおそらく喜ばないという意味のことを述べたようだ。(1)長女の筆子氏は、あるテ
レビドラマに登場して、千円札は漱石によく似合うという意味のナレーションをしたと筆者は記憶している。
 漱石が千円札になったという事実に対しては、他の人物がお札になったのとは多少違う感じを持たぎるを得ない。たとえば平岡敏夫氏は、新千円
札登場の数か月後に、先の純一氏の見解に同感を示し、「漱石の金銭感覚」(2)と題するコラム書いている。その中で、漱石の〈金〉に対するこだわり
が作品の中から指摘されているように、漱石の文学の一断面として〈金〉が大きな役割を担っていることは否定し得ない。(本稿では、金銭・および金
銭にまつわるものをまとめて〈金〉と表記することにしたい。)
 ところで、純一氏の見解と筆子氏の見解とは、一見反対のことを述べているようであるが、漱石と〈金〉とのかかわりあいを考えると、決して矛盾す
るものではない。漱石の一生は〈金〉と戦い、〈金〉に悩まされ続けた一生であった。身近な問頭にはたいてい〈金〉がからんでいた。そして、その戦い
や悩みを文学として作品に描き続けてきた。かりに〈金〉が漱石の文学から取り除かれたならば、漱石の文学は現在とはかなり違ったものとなったで
あろう。〈金〉は漱石を苦しめたが、漱石は彼の文学の要因として〈金〉を取り込んでしまっているのである。その意味で純一氏の見解も、筆子氏の見
解も、漱石と〈金〉とのかかわりの二面性を云い得ていると云えるだろう。
 このような漱石と〈金〉のかかわりについて、これから考えてゆきたいと思う。

  註          
1 筆者はこの記事を未見。註2の平岡氏のコラムによる。
2 「時事百科」〈昭60・4)のち『漱石研究』(有精堂 昭62・9)所収。

【一】漱石の〈暗さ〉をめぐって

 漱石の誕生のこと。そして間もなく里子に出されたこと。これらの事実によって始まる漱石の伝記をひもとく時、漱石がなにかしら暗いものを背負っ
てこの世に生まれて来たという感覚を持たずにはいられない。
 漱石研究史を見れば、戦後、漱石の〈暗さ〉が大きくクローズアップされてきたことがわかる。この〈暗さ〉について、荒正人がまず「漱石の暗い部分」
(1)を指摘し、そのあと平野謙の「暗い漱石」(2)江藤淳氏の「低音部」(3)など、様々な云い方で表現されている。なお、研究史に先がけで、折口信夫・
中野重治(4)がすでに指摘していた事実もある。漱石の〈暗さ〉はこのように広く認められているのである。
 もちろん、漱石の文学が、ユーモアを散りばめた初期のものから、人間の苦悩を鋭く描き出した後期のものへと変貌した、その根底には諸氏の指
摘するように漱石の〈暗さ〉があるには違いないのだが、この〈暗さ〉の起源はどこにあるかについては疑問がある。荒正人は、精神分析の手法を用
いて漱石の〈暗さ〉の起源を十歳のころ(5)に求めている。しかし、この起源はもっと遡ることができる。自伝的作品『道草』を見ると、漱石は二歳から
九歳までの養子として育てられた塩原の家を思い出し、そこに自分の〈暗さ〉の起源を見い出している。また『道草』から推測すると、漱石は塩原家と
夏目家との間で損得で価値を計られる物品として扱われたものと思われる。養子体験は、自分の価値を〈金〉で計られるという悲しむべき体験であっ
たと云えよう。     
 では、漱石が唯一の自伝小説『道草』を書いたのはなぜか。これは、にわかに答えを出せる問題ではないが、右のような体験から、〈金〉が自らの
〈暗さ〉にどのような影響を与えたかを検証しようという漱石の意志が、『道草』創作の要因となっていると考えることは可能であろう。
 漱石は塩原家に養子に出きれる前に古道具屋(6)に里子に出された。しかし、新宿の通りでがらくたと一緒に並べられているのを姉に発見されて、
家に連れて帰られる。
 このことは漱石自身が『硝子戸の中』に書いていることである。また、この作品には、成人してからの伝聞として、母の高齢ゆえに懐妊が夏目家に
おいて喜ぶべきこととされなかったことも書かれている。その上、夏目家の経済状態が良くなかったため、自分が余計者として扱われていたことも、
漱石は知っている。
 このように漱石の誕生は、決して明るいものではなかったのである。
 『道草』を綴りつつあった漱石が、この生まれて間もない頃を思い起こしていたのかどうか。

 大正四年一月十三日から二月二十三日まで「朝日新聞」に「硝子戸の中」を連載。
 同年四月、『硝子戸の中』を一冊にまとめて出版。
 同年六日三日から九日十日まで、「朝日新聞」に「道草」を連載。

 この二つの作品の成立が極めて近接しているという年譜的事実から、漱石が生まれて間もない頃を念頭におきつつ『道草』の世界を構築していた
ものと推測できる。
 このように、漱石が自分の誕生と成長の過程とを振り返る時に、自分の一生に背負わされることとなった〈金之助〉という名について、なんらかの感
慨を抱いていた、ということは想像できないことではない。
 〈金之助〉という名の由来を記した最初のものは鏡子夫人の語った『漱石の思ひ出』(7)であろう。〈金之助〉の名の由来については、小宮豊隆(8)・荒
正人(9)の両氏も、ほぼ同様の説明をしている。これらによれば、大略次のごとくである。

 漱石は慶応三年正月五日生まれであるが、申の日申の刻の生まれにあたる。昔から申の日中の刻に生まれた者は、大泥棒になるといわれてお
り、それを防ぐためには名に金偏の字をつければよいという俗信が一般的であった。それで〈金之助〉と名付けられた。

 ここに見られるように〈金之助〉という名の由来には、泥棒になることを防ぐという、〈金〉にまつわる意識が関係している。また、実家の経済状態の
困窮のために漱石が余計者扱いされていたことから考えてみると、〈金之助〉という名には、夏目家の〈金〉の助けを願う意識を感じ取ることもできよ
う。
 もし、漱石が後に〈金之助〉という自分の名をめぐってなんらかの感慨を抱いていたとすれば、右のようなことに思い至っていたはずである。そうであ
るなら、漱石は<金〉が自分の人生に経済的な影響を与えたということはもちろん、自分の人生において、人間関体のキーワードとして、影を落として
いたことにも気付かぎるを得ない。
    
   註
 1 「漱石の暗い部分」(「近代文学」昭28・12)
 2 「暗い漱石(一)(二)」(「群像」昭31・1・2)のち「夏目漱石I」として『芸術と実生活』(講談社 昭33)
 3 『夏目漱石』(東京ライフ社 昭31)なお改版「決定版夏目漱石」(新潮社 昭54)がある。
 4 一般には中野重治が最初に漱石の〈暗さ〉を指摘したと考えられており、平野謙が引用しているが、実際は折口信夫が最初であろう。折口は「ア
   ララギ」(大6・8)の「新刊紹介」において、「夏目漱石」(赤木桁平著)を取り上げて、この書の欠点の一つとして「夏目さんの明るい方面の叙述の
      わりに、根本的愛執を起こさせる氏の暗面の記録或は直観のないといふこと。」(傍線 引用者)と漱石の〈暗さ〉を指摘している。
   中野は「小説の書けぬ小説家」(「改造」昭11・1)の中で、主人公に「漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ」と言わせている。
 5註1に同し。
 6八百屋という説もある。
 7夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』(改造社 昭3)所収「七 養子に行った話」に詳しく語られている。
 8「夏目漱石」(岩波書店 昭13)所収「三 出生」
 9「評伝夏目漱石」〈実業之日本社 昭35)所収「第一章 漱石の生涯・幼年時代」

 【二】−文学史・研究史を硯座として−

 【一】では、おもに漱石の実体験から〈金〉とのかかわりあいを考えてきた。ここからは、〈金〉が漱石の文学の特質であることを明らかにしてゆくこと
としたい。
 漱石の作品にあらわれた〈金〉について、全体的に述べたものに荒正人「漱石の物質的基礎」がある。荒は、この論文の冒頭に近い部分で、漱石と
〈金〉に関して次のように述べている。

  一般的に漱石ほど、作品や他の文章のなかで、金銭のことに言及した作者はいない。 漱石は、物質的状況と人生ないしは文学のつながりをき
わめて重くみていたのである。

 ここには〈金〉が漱石文学の特質の一つであることが指摘されているのである。では、文学史に眼を向けたとき、〈金〉と文学のつながりはどれだけ
描かれてきただろうか。
 〈金〉を題材とした作品として、まず思い浮かぶのは、尾崎紅葉の『金色夜叉』であろう。その題名が示す通り「金色」(〈金〉)のために人間が「夜叉」
(化け物)になってしまうことを描く物語である。この作品は、近代文学史において、はじめて〈金〉を取り込んだ作品であると云えよう。しかし、その他
の作品を、と見回したところで、漱石の作品意外には殆ど見あたらない。もちろん、私小説の、中には主人公の柊済的困窮を描いたものはいくつか
あるが、それらは状況設定の一つにしかすぎない。(たとえば、宇野浩二『蔵の中』・葛西善蔵『子をつれて』など)
 このように見てゆくと、近代文学史上、その作家活動において〈金〉を問題として描き続けてきた唯一の作家が漱石であったと云える。
 漱石は近代文学史に大きな足跡を残した作家であり、漱石についてはおぴただしい量の研究がなされている。近代文学研究上の課題の殆どが漱
石に内包されている感もあるのだが、〈金〉に関する研究は意外に量的には乏しい。管見に入ったもので、〈金〉を対象として論じているものは、前掲
の荒正人「漱石の物質的基礎」・中村光夫「漱石小論?」(2)・吉田ひろ生氏「道草の影−『道草』論」(3)同氏「道草−作中人物の職業と収入」(4)であ
る。
 荒は漱石が作品中で〈金〉についてどう書いているかを調査し、中村は漱石の〈金〉に対する意識について論じている。この二つの論文では、漱石
の文学における〈金〉を総論的に扱っている。それに対して、一作品における〈金〉を分析しているのが吉田氏である。吉田氏は「道草」論の視点とし
て〈金〉を障害感と結びつけて論じている。(5)また、氏は、作中人物の職業と収入について、克明に実証している。
 研究史というカテゴリーには入るまいが、吉田氏の実証をもとに、磯田光一は道徳的な漱石像に対する疑問を呈示している。(7)吉田氏の論文で、
健三の収入とその使い方が明らかにされたが、磯田はその数字をもとに、『道草』における健三の生活と『道草』を書いた頃の漱石とが衣食に困らぬ
ことを明らかにして、その後、次のように述べている。            

  『道草』の素材になっている時代の漱石も、のちに『道草』を書いたころの漱石も衣 食に関するかぎりでは、まったく不足するところはなかった。
むしろ、衣食が足りてい たから、衣食に還元できない精神的な主題を追い求めたと考えられる。

 この引用部には、漱石の文学における重要な特質が示唆されているように思われる。漱石が「衣食に還元できない精神的な主題を追い求めた」と
いう指摘がそれである。あるいは、このことは容易に理解できるかもしれない。
 たとえば、『吾輩は猫である』の迷亭、『虞美人草』の中野、『それから』の代助、『彼岸過迄』の松本などに代表される〈高等遊民〉が、漱石の作品に
登場することが、その証左となるであろう。この〈高等遊民〉は、「糊口のために奔走することなくもっばら自己の資性教養を高めることができる人」(8)
と説明されている。この説明は「衣食に関するかぎりでは、まったく不足することはなかった」漱石自身にもあてはまる。また、この 〈高等遊民〉たち
は、作品の中で、主人公として活躍をしたり、主人公の内面を読者に呈示したり、作者の思想を代弁したりする。このように、〈高等遊民〉たちは、そ
れぞれの作品において重要な役割を担っているのである。

  註
 1『評伝夏目漱石』(実業之日本社 昭35)
 2『《評論》漱石と白鳥」(筑摩書房 昭54)
 3「国文学」昭51・11
 4竹盛天雄編『別冊国文学?5 夏目漱石必携』80冬季号
 5註3に同じ
 6註4に同じ
 7「衣女足りて文学生まる 道徳的な漱石への疑問」〈「毎日新聞」昭55・7・17〉
 8藤多佐太夫氏「漱石語彙辞典」(吉田精一編『夏目漱石必携』《学燈社 昭4》)所収)

 【三】−作品の中で−

 【二】では、文学史・研究史を視座として、漱石と〈金〉とのかかわりを見てきたが、ここでは漱石の作品の中で〈金〉の占めている位置を明らかにして
ゆさたい。
 これから取り上げる作品としては『野分』『こゝろ』『道草』の三編を考えている。まず『野分』『こゝろ』『道草』を比較しつつ考え、次に『こゝろ』を問題と
し、『道草』に行きつく道をたどってゆくこととしたい。
 
 (1)『野分』を軸として

 『道草』の健三が「帰ってきた男」(1)であるのならば『野分』の道也もまた、「帰って来た男」と云えるだろう。

 八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京 へ戻つて来た。                        
 (『野分』一)

 健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持つたのは東京を出てから何年目になる だらう。                            
 (『道草』一)

 道也と健三の類縁性は、ただ「帰ってきた男」であるということだけにはとどまらない。道也は田舎から帰って来た際、金を取る手だてを心配しなくて
はならなかった。そして、「健三は外国から帰つて来た時、既に金の必要を感じた。」〈五十八)道也も健三も〈金〉が必要な東京に帰って来たのであ
り、云いかえれば、〈金〉の世界に帰って来たのである。
 しかし、道也は〈金〉と戦うのだが、健三は〈金〉のために苦しむだけ、という違いがある。このことは、何を意味しているのだろうか。
 すでに和田謹吾氏(2)が注目していることであるが、『道草』において漱石が見据えていたのは、明治三十六年から明治四十年四月以前、つまり『野
分』執筆前後の心情であるということは注目に値する。『道草』が漱石のロンドン留学の時期に題材を取り、ほぼ漱石の実体検を描いているというこ
とは有名であるが、『野分』もほぼ『道草』の体験と同じところから発想されたと云えるだろう。とすれば、〈金〉について『野分』の再検討を行なったの
が『道草』であると考えることも可能である。
 越智治雄(3)は、道也の形象と関連させて次の「断片」を引用している。

 現代ハバーソナリチーの出来ル丈膨張する世なり而して自由は己れ一人自由卜云フ意ナラズ。人々が自由卜云フ意ナリ。人々が自己ノパーソナ
リ チーヲ出来得る限り主張スルト云フ意ナリ。出来る丈自由に出来得丈ノパーソナリチーヲfree playニbringスル以上 は人卜人トの間ニハ常ニテン
シ ョンアルナリ。社会の存在ヲdestroyセザル範囲内ニテ出来得る限りに我ヲ張ラントスルナリ。我は既二張リ尽シテ此先一歩デモ進メバ人ノ領分
ニ  踏ミ込ンデ人卜喧嘩ヲセネバナラヌ所迄張リツメテアルナリ。去れドモ心のウチ二アル我ハ際限ナシ理想ハ現実以上ヲ意味ス。理想は
realizationヲ 意味ス。彼等は自由ヲ主張シ個人主義ヲ主張シ。パーソナリチーの独立卜発展とを主張シタル桔果世の中の存外窮屈にて滅多二身
動キモナラヌ  事ヲ発見セルト同時二此傾向ヲドコ迄モ拡大セネバ自己の意志ヲ害スル事非常ナリ。
                                                                 (傍線 引用者)(「断片 三十八・九年)

 現代はパーソナリティの膨張する時代であり、我を張り尽して人々は身動きができなくなったと漱石は云う。そして傍線を付した部分に云われている
認識へと進んでゆく。漱石は、この引用部分に続けて、内心の本能的要求は事実の上にあらわれているのでなく、文筆の上でsupermanやideal man
という不平の表現者を説くという形であらわれており、そこに一条の活路を開こうとするのだ、と云う。越智はこのsupermanを道也に見ているのである
が、当を持た見解であると思われる。漱石は、このパーソナリティの膨張の時代をとらえて、結婚が失敗に終わる理由、人が御上の御意向に従わな
くなる理由などをここに求めている。いわば、『野分』の時代はパーソナリティの膨張の時代である。そして、その時代における時代を漱石が認識し、
そこから抜け出す路を見い出そうとしたのが、『野分』の道也の形象としてあらわれたと云える。
 道也は、ともあれsuperman相当の人物であったのだが、前掲「断片」が、後の『こゝろ』において重要な役割を果たしている先生の現代に対する認
識として、再び形を変えて書かれていることには注意を向けざるを得ない。

 私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。 自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、其
犠牲としてみんな此淋しみを味 はわなくてはならないでせう。
                                                                   (傍線 引用者)(「先生と私」十四)

 『こゝろ』の先生は道也のような人物ではない。不平を表白するどころか、「私のやうなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」「何うしても私
は世間に向つて働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」(「先生と私」十一)と云う男である。この点、道也と先生は、パーソナリティの膨
張の時代に対して正反対の態度を示しているのである。
 先述の「断片」の中で、漱石は「白紙の上に向つてsupermanヲ説く人ハ共愚を笑ふ。自己モ亦其愚ナルナ知ラザルニアラズ。」と述べている。道也
を形象することが現実に対する実効をともなわないことを激しい熱意を持って『野分』の世界を構築したにせよ、漱石は認識していたのである。
 『野分』という作品において、漱石は道也よりも「一人坊つち」に「淋しさし」を感じる周作の方に日常の実感を込めて形象したのではないかと思われ
る。『ここゝろ』の先生によれば「淋しみ」は現代に生きる人すべてが払わなくてはならない犠牲なのである。「一人ぼつち」を「崇高」とする道也は、所
詮文筆上の血のかよわない人間であると云えよう。
 「淋しい」人間という点で周作と先生とは血脈を通じているのであるが、この二人の「淋しさ」はまた、〈金〉とのかかわりを有する点で一致している。
このことについて少し触れておくことにしたい。
 まず『野分』を見てみよう。周作の父親は周作が幼い頃に官金を消費し、牢屋の中で肺病のために死ぬ。周作は、このことから自分が罪悪を受け
継いでいると感じていた。彼は東京で大学を卒業し、〈金〉の世界に認められることを望むが、認められることはない。この際、彼は「一人坊つち」の
「淋しさ」を感じるのである。
 では『こゝろ』を見てみよう。先生は両親が死亡したため故郷にいる叔父に財産の管理を任せる。叔父は、父が頼りにしており、自分も頼りに思って
いた人物であるが、彼は知らぬ間に財産を横領していた。それで先生は、叔父が自分を欺いたという認識を持つようになリ、他の親戚の者も信じら
れないと思うようになる。そして、Kの自殺を契機として人間すべてを信じられないと感じ、「淋しさ」を感じるのである。
 『野分』と『こゝろ』とで、「淋しさ」が共通することを述べてきた。『道草』においても、漱石は「淋しい」ということばを使っている。「淋しき」は〈金〉を媒
介として、周作−先生−健三と受け継がれているのである。

 (2)『こゝろ』における〈金〉

 『こゝろ』の難解さは有名であるが、この〈金〉の問題については、先生やKの死、「明治の精神」などの問題に隠れて、殆ど究明されていないように
思われる。しかし、先生にとっては避けることのできない問題であったはずである。
 先生はしきりに私の財産問題を気にかけ、私も先生の財産について気にかけるようになる。また、私は先生からふつうの人間がいざというまぎわに
急に悪人になると言われ、その意味を先生に尋ねる。その答えは次のごとくである。

 「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐに悪人になるのさ」
                                                                            (「先生と私」二十九)

 この答えは、私には平凡に響いたのだが、先生にとっては「生きた答」(「先生と遺書」八)であった。その時、先生の念頭には憎悪をともなって叔父
の姿が思い浮かべられていた。
 〈金〉は、人間不信の要因として先生に暗い影を落としているのだが、この暗い影は、ただ単に人間不信の要因に留まるだけではないだろう。この
ことについて、先生は次のように述べている。

 「いや見えても構はない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいふと屹度昂奮するんです。君には何う見えるか知らないが、私は是で大変執
念 深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」
  先生の言葉は元より猶昂奮してゐた。然し私の驚いたのは、決して其調子ではなかつた。寧ろ先生の言葉が私の耳に訴へる意味そのものであ
つ た。
 (中略)
  「私は他に欺むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人
  であつたらしい彼等は、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変つたのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日迄背負はさ
れ てゐる。恐らく死ぬ迄背負はされ通しでせう。私は死ぬ迄それを忘れる事が出来ないんだから。然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個
人 に対する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は披等を憎む許ぢやない、彼等が代表してゐる人間というものを、一般に憎むことを覚えたの
   だ。私はそれで沢山だと思ふ」
                                                                             (「先生と私」三十)

 先生は「財産」ということばに、叔父に財産を横領された体験を重ね合わせているのであるが、先生が人から受けた「屈辱や損害」は忘れることが
できないと云う。もっとも、先生がこの事件のために失った金額はわからないが、少なくとも夫婦と母親(すでに亡くなっているが。)が、現在まで無収
入で暮らしてきたのであるから、それはどの貧窮状態に陥ったというわけではない。むしろ〈金〉のために叔父たちに「欺むかれた」こと、そのために
親戚の者を信用できなくなったこと、これらが先生が受けた「屈辱や損害」なのである。云いかえれば「生れたままの姿」が「塵に汚れた」(「先生と遺
書」九)ところに、「屈辱や損害」があるのである。
 しかし、何よりも驚かされるのは、先生がこの横領事件のために人間を憎むということである。人間を憎むということは、人間の中で生きてゆくこと
が絶望的であることを示している。
〈金〉は先生をこのようなところまで追い込んでいるのである。
 先生が「金を見ると、どんな君子でも悪人になるのさ」と云う時、これはまさしく先生の「生きた答」であり、その肉体からしぼり出した答であると云っ
てよいだろう。
 いま一つ、考えられねばならないのは、先生は、財産つまり〈金〉でもってKを誘き寄せたのではないか、ということである。稲垣達郎(4)は先生とKと
の関係にも〈金〉が影響していること示唆している。以下にその概略を記しておく。

 先生は善意から、金に困るKを自分の下宿に同宿させ、Kにわからぬように食費等を援助してやる。ここに、先生のKに対する「優位」が見られる。
そして、先生の善意に反して、Kが先生の財力、つまり〈金〉に「誘き出される」のと同じかっこうになっているのであり、そのためにKが自殺への道を進
んでゆくこととなる。

 このように考えるならば、〈金〉のために「屈辱と損害」を受けた先生が、自らの手で〈金〉のためにKを破滅に追いやったことになる。これは先生にと
っては、手ひどいアイロニーであるが、またこのことは先生自身の大問題でもある。

 叔父に欺むかれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取る丈あつて、自分はまだ確かな気がし
 てゐました。世間は何うあらうとも此己は立派な人間だといふ信念が何処かにあつたのです。それがKのために 美事に破壊されてしまつて、自分
  もあの叔父と同じ人間だといしきした時、私は急にふ ら/\しました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったので
す。
                                                                 (傍線 引用者)(「先生と遺書」五十二)

 先生は、叔父の策略の中に「下卑た利害心」(「先生と遺書」九)を見たが、自分自身にも「下卑た利害心」があることを感じたのであろう。ともかく傍
線を付した部分にあらわれている先生の状態は注目すべきである。先生はこのために現在のような生活を営み、自殺への道へと傾斜してゆくので
ある。

(3)『道草』における〈金〉

 『こゝろ』において〈金〉は『野分』においてよりも人間の内面に深く影を落としている。このことは、「淋しさ」を有する人間が〈金〉と向きあった結果で
あると云えるであろう。また、漱石は『こゝろ』の世界において〈金〉が人生に対して大きな影響を持つことを我々の前に提示したが、その際、〈金〉が人
生の多くの場面に影を落としていることを認識しはしなかっただろうか。
 『野分』の道也は〈金〉の世界に帰って来た男であったが、〈金〉に対しては超然としていた。しかし『こゝろ』において〈金〉の持つ意味を認識し直した
とき、漱石の眼は人間関係における多くの場面において〈金〉が影を落としているという現実をとらえなければならなくなっていたのである。それゆえ
健三は『野分』の道也が帰って来た〈金〉の世界に帰って来たのである。
 では『道草』において〈金〉はどのような意味を持つのか。このことについて考えてゆきたい。
 『道草』では、〈金〉が様々な意味を持っている。先述の吉田ひろ生氏は「『道草』では無心や金策依頼ばかりでなく、生活の種々相が利害や所有欲
という面から描かれている。それらは健三の幼児の記憶から、現在姉におごられる鮨にまで影を落としている。」(5)とも述べている。
 『道草』は、過去と現在がからまりあいつつプロットが展開している。この一編は「帰って来た男」健三が、「過去の幽霊」(四十六)である島田の出現
のために不安になるところから始まる。そして、これを契機としてお常のことも思い出す。彼らは「彼(引用者註 健三をさす)の不幸な過去を遠くから
呼びおこす媒介」であった。
 では、島田とお常が呼び起こしたところの「不幸な過去」とはどのようなものであろうか。
「吝嗇」な島田夫婦に、健三は「金の点に掛けて寧ろ不思議な位寛大」に「余所から貰ひ費けた一人つ子として、異数の取扱ひを受けてゐた。」(四
十)その取扱いの根底には、「健三に対する一種の不安が常に潜んでゐた。」島田夫婦は健三を彼等の「専有物」にしようとしたのである。このため
に健三は「心の束縛が、何も解らない彼の的に、ぼんやりした不満足の影を投げた」という状態に陥いる。(四十一)
 この「心の束縛」を健三にもたらしたのは島田夫婦の健三に示す愛情のうちに予期されていた「変な報酬」である。では、この「変な報酬」とはどのよ
うなものであるのか。

 金の力で美しい女を囲つてゐる人が、其女の好きなものを、云ふが儘に買つて呉れるのと同じ様に、彼等は自分達の愛情そのものゝ発現を目的と
して行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せねばならなかつた。さうして彼等は自然のために披等の不純を罰せられた。
しかも自ら知らなかつた。                                                           (傍線 引用者)((四十
二)

 島田夫婦は健三に着物や玩具をよく買い与えるが、その行動は「愛情そのものの発現」ではなく、「健三の歓心を得るため」のものである。彼等は
「金の力」で健三の「歓心」を買っていたのである。
 島田夫婦の健三に対する処遇は、健三の気質までも「順良」から「強情」に変えてしまった。〈金〉は人間の気質までも浸食するのである。
 このような状況は、実家においても同様である。

 実家の父に取つての健三は、小さな一個の邪魔物であつた。何しに斯んな出来損ひが舞ひ込んで来たかといふ顔付をした父は、袷ど子としての待
遇を彼に与へなかつた。今迄と打つて変つた父の此態度が、生の父に対する健三の愛情を、ねこそぎにして枯らし尽くした。
                                                                         (傍線 引用者) (九十
一)

 父は健三に「今に世話にならうといふ下心のな」く、「面倒を見て遣るのは、たゞ損になる丈」と考える。つまり、父は健三の価値を〈金〉になるかなら
ないかで計っているのである。〈金〉のために健三は愛情まで枯らしてしまっている。
 このような健三の幼少時代を象徴するような一文がある。

 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかつた。寧ろ物品であつた。   
                                                                          (傍線 引用者)(九十
一)

 実家でも養家でも、健三は「物品」として抜われ、〈金〉になるかならないかでその価値を計られていたのである。健三の過去は、〈金〉においてはま
さしく「不幸な過去」であったと云わねばならない。
 『道草』において、健三はたびたび過去に意識を向けるのであるが、それはまた、自分の身にまとわりついた〈金〉を見据えることでもあり、現在の
〈金〉とのかかわりを考えることでもある。
 ここまで『道草』について、過去における〈金〉の意味を述ペてきた。本来ならば、現在の〈金〉の意味についても述べるべきであるが、このことはすで
に吉田ひろ生氏(6)によって論じられ、筆者は今これ以上の見解を持っていない。以下に氏の挙げる〈金〉の意味を記しておく。
一、超克すべき対象となる。
二、倫理的な障害感と結びつく。
三、人間関係の欠如感に結びつく。
四、飢餓感に近い障害感と結びつく。

 以上で『道草』における〈金〉の意味はほぼ云い尽くしたことと思う。健三は、その過去においても現在においても、〈金〉となんらかのかかわりを持
ち、〈金〉のために悩み苦しむこととなっている。

 これまで漱石の作品の中での〈金〉を、ごく一部であるが、見てきた。ここで改めて気付くことは、やはり、漱石の文学において〈金〉が大きな役割を
果たしていることである。漱石には〈金〉を遠ぎけようとした面と、〈金〉に自分の身を近づけようとする面と、二つの面があった。たとえば、前者は〈高
等遊民〉の設定などとして、後者は金持ち批判などとして、作品にあらわれている。
 漱石は確かに「衣食に還元できない精神的な主題を迫い求めた」と云える。〈金〉をとらえようとして、自身の文学の中で〈金〉を描き続けてきた。こ
の稿では、そのすべてを考え得たわけではないが、〈金〉が漱石文学の一断面として注目され得べきものであることは明らかになったことと思う。そし
て、おのおのの作品における〈金〉については、今後の課題として、考察をしてゆきたいと考えている。
    注
 l 江藤淳氏「『道耳』と『明暗』」(前掲「決定版 夏目漱石」所収)
 2 「『野分』の構図−作家漱石の原点−」(「言語と文芸」第75号 昭46・3)
 3 「野分」(『漱石私論』角川書店 昭46・6)所収)
 d 「Xさんへの手紙」「同つづき」(「漱石全集月報」13・15《昭41・12昭42・3》)
 5 前掲『道草の影−『道草』論」
 6 同前

 なお、漱石の作品の引用は岩波版全集により、旧字は新字に改めた。
 
                                      (「仁愛国文」 第6号 昭63・12に掲載 尚、掲載原文と一部表記を変えている。)
 


 
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