一滴の水
藤堂尚夫
  小学生の頃に、雨粒の一滴が空から落ち、川を流れ、海にそそぎ、蒸発してまた雨粒となる、という絵で水の循環について教えられた。その時、私は一滴の水に是大なロマンがあり、命の流れが脈打っていることを感じたのではなかったか。
  「郷土の作家」という言葉を使うとき、私は一種の胡散臭さと、それと裏腹な言いようのない親しみを感じている。福井を郷土とする私にとって、一番親しみを感じる「郷土の作家」とは、中野重治と水上勉なのである。
  先輩にあたる中野は、ある講演の中で、福井の後輩である水上の姓は「ミズカミ」と読まれるべきだと述べた。「水上勉」は「ミナカミツトム」と読まれるのが一般的であるが、「ミズカミ」と読むのが正しい。このことは「姓名のこと」「図書」昭62・2)という文章のなかで「やっぱりミズカミツトムでゆきたいと思う。」と水上自身も述べている。 「水」を「ミズ」と読むという、一見些細なこだわりは、水上のいろいろな思いをあらわしているのかも知れない。その思いのうちに自分の姓の中に「水」を正確な形で持っていたいという思いがあるのではないかと私は想像したくなる。というのも、水上が故郷に昭和六十年に創設した「若州一滴文庫」があるからである。「一滴」という命名は、儀山善来という同郷の禅僧の言葉「曹源一滴」によるらしい。水を命の源ととらえ、一滴の水でも大切にすべきだという教えだという。この文庫が創設されたのは、佐分利川の子供たちに本を開放するためでもある。川へのこだわりも水へのこだわりに通るであろう。
   一滴文庫の中に「一滴」の思想の系譜が表にされて示されている。その系譜に釈宗演から夏目漱石へと向かう流れがあるのを見つけたとき、水上文学の中にも漱石文学が息づいているという思いにかられた。系譜の一部分だけを拡大してみることの不当さは承知しているが、文学の世界の大ききに思いを馳せることの楽しさも大いに味わいたいと思う。文学の水脈を感じることも、あながち水上の思いから離れていないだろうと一人合点の満足をする次第である。
   「水」は自然の代表であるといってよいいだろう。昨年上梓された「山の暮れに」では、主人公が故郷の若狭に帰り、赤土を掘り、焼き物を焼く生活を営む、主人公の視線の先には、いつも何等かの自然物があり、その視線には慈しみが必ず含まれている。この、主人公のイメージは、私のなかでは一滴文庫にいる水上勉という人物とぴったりと重なりあってくる。ふらりと文庫をたずねて、庭先でくつろいでいる水上を思いがけず眼にしたことがあるが、あたりを見渡す彼の視線には、この主人公の視線と同質なものがあったような気がしてならない。
   一滴文庫では、実際に赤土を掘り、その土で茶碗などを焼いている。鉄分が含まれた赤っぼいその肌は、決してなめらかとはいえないのだが、どこか自然の温もりを感じさせる。また、文庫の中にある水車工房では、実際に竹紙をすいており、竹の和紙は独特の暖かみを感じさせる。このように、自然のなかで、自然と調和しながら息づいているのが若州一滴文庫の姿であり、水上自身の姿でもあるのだろう。水上は「竹泥山人」と号しているのだが、まさにぴったりの号だと竹紙に描かれた彼の絵を見て感心したことも記憶に新しい。
   一滴文庫に行く度に感激を新たにして帰ってくることができるのは、竹人形によるところが大きい。竹で作った大きめの文楽人形が竹人形館に展示されているのだが、この人形と向かい合っていると、それぞれの作品の世界が浮かび上がり、多くのものを払に訴えかけてきてくれる。一度、しぐれた寒い日にこの文庫を訪れたことがあった。竹人形館の中には、私一人。しんしんと身体の芯まで冷えてくるのだが、私は人形の一体一体と心ゆくまで対話することかてきた。人形との対話というよりは、人形と対峙しつつ、一体になれたといった方がよりふさわしいかも知れない。人形の命ということばが、私の頭に浮かび、そのことばは私の頭から消えないでいる。
   私の非常に勝手な思い込みを最後に記しておく。「水」からの連想でこの稿を綴ってきたのだが、私と中野や水上との水脈についてである。中野の自伝作品の中には「藤堂高雄」という人物が登場し、水上の「山の暮れに」の主人公は「藤堂伊作」である。私と同じ姓の登場人物を二人の「郷土の作家」がいみじくも描いているのである。もちろん、登場人物と私は何の関係もないのであるが、先述したようなこだわりを持つ二人の作家であってみれば、私の一方的な思い込みをも許してくれるのではないか、と勝手に思っている。(「イミタチオ」第16号 平成3年3月31日発行に掲載)
 
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