五位の視線 −「芋粥」小論−                           藤堂尚夫         
     

 【一】

 田中純は「新技巧派の意義及びその人々」「「新潮」大6・10)において「氏(引用者註 芥川をさす)は必ずその人物から、或る人間らしいものを見出
してそれを普遍的な人間性の中に環(ママ)元せずには置かない。」と述べた後、「芋粥」を例にとって、次のように書いている。

 更に彼の「芋粥」に於いて、あの愚直な主人公が、如何に人間らしい光彩を放って居るかを見よ。異常にやくざな醜悪な人生の断面から、或る人間
 らしい光つたものをのを−丁度塵芥の中に光る燐火のやうなものを−掴み出して来る氏の特殊な才能には、吾々の驚異に値ひすべきものがあ
る。                                                                        (傍線部分 原文では傍
点)
 芥川が、この「芋粥」において主人公五位の人生から掴み出したとされる「人間らしい光つたもの」=「塵芥の中に光る燐火のやうなもの」とは、いっ
たいいかなるものであろうか。
 この問題に対する答えを明らかにすることを、本稿の目的とし、以下に詳述してゆきたい。

 【二】

「芋粥」の最終段落は、次のようになっている。

 五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐ
 る彼である。京童にさへ「何ぢや。この赤鼻めが」と罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路
 をうろついて歩く、憐れむ可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。−
 彼は、この芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から乾いてゆくのを感じた。晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にし
み るやうに、風が寒い。五位は慌てゝ、鼻をおさへると同時に銀の提に向つて大きな嚔をした。

 五位は、狐が芋粥を飲む姿を眺めることによって、「此処へ来ない前の彼」を思い起こす。その姿は、「憐れむ可き、孤独な彼」であるが、しかし、
「芋粥に飽きたいと云ふ慾望」ゆえに「幸福な彼」なのである。
 この五位が京での自分の姿を回想する場面は、原典である『今昔物語』(註1)中の「利仁将軍若き時京より五位をゐて行くものがたり」には見あた
らない。いわば、芥川が新しく原典に付け加えた創作の部分であるが、この五位の回想には、芥川が「芋粥」を書いた意図がうかがえる。
 今一つ、芥川が原典に付け加えた五位の回想をみてみよう。

 さうして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならな
い ものはない。我五位の同情すべき食慾は、実に、此時もう、一半を減却してしまったのである。

 この前には、芋粥をつくる準備の「戦場か火事場へでも行つたやうな騒ぎ」を見て、山芋が芋粥になる事を考える五位が描かれている。
 この二つの五位の回想を考えあわせれば、五位の意識の志向が、「芋粥に飽かむ」事の実現に向かっているのと同時に、京都に居た頃の彼自身
の姿にも向かっていることがわかる。
 「芋粥」を論ずる際に、必ずといってよいほど取り上げられるものに、夏目漱石の芥川宛書簡(大5・9・2)があるが、その中で漱石は「芋粥」について
「前半」が「細敍絮説に過ぎ」たと評している。この漱石の「芋粥」評は、「物語り類は(西洋のものでも)シンプルでナイーブな點に面白味が伴ひま
す。」と云うように、書き方について述べているものであって、主題について評しているものではないが、ここには、どうして芥川が「前半」を「細敍絮説
に過ぎ」るほどに「ベタ塗り」をしなければならなかったか、という問いが含まれている。
 漱石の云う「前半」とは、東郷克美氏(註2)の見解に従えば、「敦賀に出発する以前、つまり基経の第における利仁とのやりとりの場面まで」をさ
す。これは、前に触れた、五位の回想する、京での五位の姿を叙した部分にあたっている。芥川が「ベタ塗り」をしてまで描き出さねばならなかったの
は、後半部から照明されるべき京での五位の姿なのである。漱石が「然して御手際からいふと首尾一貫してゐる。」(傍線 引用者)と評していること
もその傍証となるであろう。芥川作「芋粥」には、前半と後半を結びつける計算がうかがえるのである。
 次に問題となるのは、京での五位の姿である。以下、京での五位の姿を中心に、しばらく考察をしていきたい。
 まず、注目されるのは、五位の登場の場面である。云うまでもなく、最初の一章は、五位の人間像を、それこそ「蒔絵」のように何層にも塗りこめて
描き出している部分であって、芥川の創造が、一番顕著になっている部分である。その第一章に、五位はまず、「某と云ふ五位」という云い方で登場
させられている。そして、その姓名が伝わっていないことを、芥川は、五位が「平凡な男」であり、旧記の著者が「平凡な人間や話に、余り興味を持た
なかった」と説明している。次に、五位の風采を細かく叙述した後、「我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである」と述べて
いる。(傍線 引用者)ここで「平凡」と「非凡」という相反する語が五位に対して使われているが、ここには、「平凡」ということばで、後に芥川がカギカ
ッコづけで「人間」としているように、この物語の内容が人間全般にあてはまること、いわば、物語の一般化をする意図が見られるとともに、「非凡」な
風采ゆえに、というよりも、風采が「非凡」であるということだけのために、五位に「世間の迫害」を集中させる「人間」を描き出す意図がみられる。つま
り「人間」全般に物語を一般化し、普遍化する意図と、いわばハグレ者ともいうべき五位を設定することによって、「世間の迫害」を具体的に描き出す
意図との二つの意図が、五位の形象に塗りこめられているのである。
 五位の形象に、「世間の迫害」を具体的に描き出す意図があることを述べたが、「人間」は、五位を通して「世間の迫害」を感じざるを得ない。五位
は、その存在自ら「世間の迫害」を、「人間」たちに問うのである。        

 唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔
  をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられる
の は、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが、−多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる」−さう云
ふ 気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。                                   (傍線 引用
者)

 五位の顔や声に、どうして彼等は「或いぢらしさに打たれてしまふ」のか。それは、無位の侍が五位に感じとったように、「世間の迫害にべそを掻い
た、『人間』が覗いてゐるからである」(傍線 原文では傍点)この「人間」はまた彼等自身であり、彼等の内なる「人間」が、五位の「笑ふか、泣くの
か、わからないやうな笑顔」に、また、「いけぬのう、お身たちは。」という声に共鳴し、自らを内から責めるのである。五位の顛や声は、気がつかぬだ
けで、五位を揶揄するすべての「人間」のそれである。彼等は、本来なら彼等が自ら発しなければならない筈の「いけぬのう、お身たちは」という五位
のことばに打たれるのである。
 彼等の多くは、この「いぢらしさ」をすぐに忘れてしまうが、これを忘れない者の一人に無位の侍がある。彼は「丹波の国から来た男で、まだ柔かい
口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年」である。丹波の国から京に上って来てまだ間もないであろう若い無位の侍は、これから「世間の迫
害」の前に初めてさらされるであろう青年であり、その意味では、京で「世間」にがんじがらめにされてしまった他の人々よりも、五位に「いぢらしさ」を
より深く感じることができる人間である。先に引用した「世間の迫害にべそを掻いた、『人間』が覗いてゐるからである」の前にある説明は、このことを
暗示的に述べている。

 栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも                                           (傍点 引用者)

 この部分についで、先の引用文が書かれているのだが、このことは、すでに無位の侍が自分の中に「世間の迫害にべそを掻いた、『人間』」が存在
していることに、充分自覚的であることを示している。無位の侍が五位に出会ったことによって、世の中すべての「本来の下等さ」を見ることができた
のも、五位に「一味の慰安」を感じることができたのも、この自覚ゆえのことである。
 しかし、無位の侍に世の中の「本来の下等さ」が見えるのに反して、五位には、その気配を見ることさえ、少なくともこの場面ではできない。では、五
位自身は、他の人々に、「人間」を感じさせ、無位の侍に「本来の下等さ」を見せるためにだけ用いられている道具にすぎないのだろうか。
   
  【三】 

 五位の存在がどういうものか、が問われるのは、第二章以下である。少なくとも、芥川の筆によれば、この「芋粥」の話の目的は、「芋粥に飽かむ」
事が実現する、その始終である。
 「芋粥に飽かむ」慾望は、五位にとっては「唯一の慾望」であり、「彼の一生を貫いてゐる慾望」であった。しかし、この慾望を果たす事は、「存外容
易に事実となって現れた。」(傍線 引用者)このところに、五位が芋粥を慾望通りに飲むことの出来なかった理由がある。五位は「芋粥に飽かむ」慾
望の実現について、次のような考えさえ廻らすようになる。

 どうもかう容易に「芋粥に勉かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやう
に、見えてしまふ。出来 る事なら、何か突然故障が起こつて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにあり
つけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。                                            (傍点 引用者)

 容易に慾望を満たしては、自分の長年の辛抱が「如何にも、無駄な骨折のやうに見えてしまふ。」このように、慾望の実現に関する幻滅は、五位が
自分の辛抱に拘泥しているところに由来しているのである。しかし、ここで辛抱というが、五位は芋粥を飲むことを辛抱しているわけではない。芋粥
は、「無上の佳味」であり「万乗の君の食膳にさへ、上せられ」るほどのものである。五位のロに年に一度の臨時の客の折にしか入らないのは、あた
りまえの事なのである。この事情は、他の侍たちにとっても、たいしてかわりはあるまい。すなわち、「芋粥に飽かむ」事は、京ではとうてい満たされる
筈のない慾望なのである。五位が京で辛抱していたのは、「世間の迫害」をその身に受けるつらさである。その辛抱が、三好行雄氏(註3)の云うとこ
ろの「生存の意羞(レーゾン・デートル)」としての「芋粥に飽かむ」慾望に結集されているのである。
 ところで、慾望の突現の容易さが、五位の「生存の意義」を奪うことになるのだが、その容易さはどこに起因しているのか。
 それは、五位が利仁から、思いもかけない「燐憫」の情を示されたところに起因している。

 「お気の毒な事ぢやの。」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽か
  せ申さう。」                                                                       (傍線 引用者)

 五位にとって「軽蔑」を受けるのは、日常茶飯の事であり、それにさらされることも、今さらとりたてて意味がある事ではあるまい。しかし、「憐憫」の
情を受ける事は、恐らく五位の人生には、かつて無かった事にちがいない。利仁から「憐憫」を受けた事が、(もちろん「軽蔑」まじりではあるが)五位
の慾望の実現を容易にしてしまったのである。それゆえ、五位は、後の回想で、京から敦賀に来たことを、そして、京での自分の姿を、思い浮かべな
ければならないのである。
 利仁の舘において、五位は自分の寝姿を見ながら、現在の自分の姿と京での自分の姿を比べる。その時、五位は「芋粥に飽かむ」慾望の実現が
待遠しくもあり、また先にのびて欲しくもある、という「何となく釣合のとれない不安」をもつが、つづいて「この矛盾した二つの感情が、互に剋し合う後
には、境遇の急激な変化から来る、落ち着かない気分が、今日の天気のやうに、うす寒く控へてゐる。」 (傍線 引用者)とあるように、「何となく釣合
のとれない不安」の根底には、はからずも利仁から「憐憫」を受けたために起こった、「境遇の急激な変化から来る、落着かない気分」がある。五位
は、しばしば犬にたとえられるのだが、「芋粥に飽かむ」慾望は、まさに京を犬のようにはいずりまわっている五位にだけ、「一生を貫いてゐる慾望」
たりうるのである。
 その犬であるべき五位が、利仁からの「憐憫」を受けることによって、犬に甘んじていることが出来なくなってしまったのである。
 利仁に饗宴の席で声をかけられて、五位は自分を見失う。

 五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。答へ方 一つで、又、一同の嘲弄を受けなければならない。或は、
 どう考へても、結局、莫迦に されさうな気さえする。                                               (傍点 引用者)

 侍所では、他の侍たちにとって、空気のように「眼を遮らない」存在でしかなかった五位にとって、この「衆人の視線」に身をさらすことが、すでに「境
遇の急激な変化」であるが、そのために、ふだんから嘲弄されており、少なくともわき目には、嘲弄に対して「無感覚」に見える五位が、「一同の嘲弄」
を恐れている。この五位の姿は、すでに通常の五位の姿ではない。
 利仁に誘い出された五位は、利仁に同行する過程で、ますます京をはいずりまわる犬であるという意識(これを「負け犬](註4)とよぶならば、「負け
犬」意識が失せて、「勝ち犬」に自分を同化させてしまっている。

 自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に
 包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。

 自分の意識を「勝ち犬」に同化させてしまっている五位は、利仁に使いをさせられて、「遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばな
らぬ」とわなわなと震えて泣かなければならない「負け犬」である狐に向って、

 「広量の御使でござるのう。」

と言ってしまうのである。京で、「負け犬」であった我身を忘れて・・・

   【四】

 先に少し触れたが、五位が、「芋粥に飽かむ」慾望の実現に、幻滅を感じ出すのは、利仁の館に到着してからである。
 寝所での様子は、すでに述べたので省略するが、この次の場面では、山芋を集めることを告げる告れが出る。その告れの声は、「一語づゝ五位の
骨に、応へるやうな気さへする。」利仁の意志一つで、下人たちは山芋を集めなければならないのである。その後、「何となく釣合のとれない不安」が
五位の心に戻って来る。「殊に、前よりも、一層強くなつたのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離
れない。」翌朝、五位は山芋の一件が気になって部屋の蔀を上げると、山芋が山のように積まれていた。五位は「殆ど周章に近い驚愕に襲はれて、
呆然と、周囲を見回した。」その山芋を使って芋粥を煮る騒ぎを見て、山芋が芋粥になることを考え、京からわざわざ敦賀まで来たことを考える。「考
へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。」
 以上が、五位の食慾が「一半を減却してしまつた」経経である。
 ここで、『今昔物語』中の原典を思いおこせば、この経緯は殆んど芥川の創作であることがわかる。原典では、寝所では女を抱き、告れの声には、
「あさましくもいふかな」と思うだけである。そして、芋粥をつくる様子を見た際の心もちは、「早う署(ママ)預粥を煮るなりけりと見るに、食ふべき心地せ
ず。返りては疎ましくなりぬ。」と簡単に説明されているにすぎない。
 では、芥川は、どうして原典にこのような創作を加えたのであろうか。
 「負け犬」五位が利仁に同行することによって「勝ち犬」に意識を同化したことは先に述べた。京から利仁の館までの旅程は、五位が「勝ち犬」意識
を持っていることのできた時間である。しかし、五位は、いつまでも「勝ち犬」でいられるわけではない。やはり、五位は「負け犬」にすぎないのである。
五位が食慾を失う経緯は、五位がそのことに気付く経緯でもある。であるから、寝所では「釣合のとれない不安」を感じ、告れの声に「「一語づゝ五位
の骨に、応へるやうな気」がし、「あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心持ち」になり、芋粥づくりに「周章に近い驚愕に襲はれ」「何一つ、情無くな
らないものはな」くなってしまったのである。
 一時間後、五位は利仁、有仁とともに芋粥を前にする。ここでも芥川は芋粥づくりの様子を、五位の回想として、再び描き出すのである。
 ここは京ではなく、利仁の館である。ここでは、自分は藤原基経に仕える侍の一人ではなく、この館の主の客である。しかし、もしこの「境遇の変化」
がなかったならば……
 自分は朝飯の膳に向う人ではなく、薄刃を動かす男たち、山芋をすくう下司女たちの間を尨犬のように、はいずりまわっているに違いない。
 このような考えが、五位の頭に浮かんでいたとすれば、五位が芋粥を食せずして満足を感じたとしても、無理はない。
 この時点で、五位は「芋粥に飽かむ」慾望を根こそぎ失なってしまったのである。
 「芋粥に飽かむ」慾望を失なってしまった五位は、それでも有仁や利仁に芋粥をすすめられる。その時の五位の弱りようは、いかにも「負け犬」を思
わせる。また、有仁・利仁の様子も、五位を揶揄する京の人々の姿と重なりあう。この時、五位は自分が「負け犬」であることを改めて思い知らされる
のである。
 

  【五】

 三好氏の論によって、「勝ち犬」と「負け犬」の相対的な人間関係に「世の中の下等さ」があることが明らかにされている。
 この相対的な人間詞係について、芥川作と原典とを比較することによって、再検討をしてみよう。
 まず、問題となるのは、五位と利仁との関係である。
 五位について、原典では「年ごろになりて所得たる五位の侍」と説明している。五位が芥川作において卑小化されていることは、長野嘗一(註5)の
指摘する通りである。
 また、原典での五位と、利仁との身分関係は、五位の方が上である。(註6)五位は、利仁に尊敬語でもって遇せられ、珍客として女まであてがわれ
ている。五位の風采のみすぼらしさは芥川作と変わらぬが、ここには、利仁=「勝ち犬」・五位=「負け犬」の関係は認められない。むしろ、この原典
については、実力はさておき、五位が利仁により身分が上であるために、勢力のある有仁・利仁によって宿報をもたらされた、という解釈が妥当なの
ではないだろうか。(註7)とすれば、利仁=「勝ち犬」・五位=「負け犬」として描き出した芥川作は、この二人の関係が原典とは逆になる。
 この、芥川作と原典とを比較した際に見出される関係の逆転は、五位と利仁との間にだけみられるのではない。芥川が「ベタ塗り」をした「前半」に
もみられるのである。
 もし、芥川作で、五位が「所得たる五位」であったならば、侍所の連中の態度は、ずいぶんと変わっていよう。五位といえば・昇殿を許される身分で
ある。下役はもちろん、上役にも、あなどられることはそうあるまい。まして、「所得たる」という条件がついていれば、上役・下役両方から相応な尊敬
を受けているはずである。
 このように、五位の卑小化には、二重の関係の逆転が潜んでいるのである。
 【二】で、五位の形象に物語を一般化する意図があることを述べたが、芥川がこの関係の逆転に意識的であったとすれば、このことはより大きな意
味をもつ。
 この関係の逆転が意味するものは、風采の非凡さだけのために、「勝ち犬」と「負け犬」の関係が成り立つことがあるということであり、その風采の
非凡さが、もし他の要因にかわるならば、筒単にこの関係が変わってしまうということである。原典で、五位が風采があがらないのにもかかわらず「所
得た」のに対して、芥川作では、同じ五位の身分にもかかわらず、(註8)風采の非凡きゆえにいじめられるのは、この証拠である。こういった関係の
相対性に、芥川作の眼目がある。
 このことに気付く時、世の中の人間すべてが、何らかの要因によって、その身を「負け犬」に墜とすことが、いかに容易に起こりうることかがわかる。

 侍所の連中はもちろん、利仁でさえも、まかりまちがえば「負け犬」となる。五位のみじめな姿は、我々人間すべてに共通する「人間」なのである。同
じ「人間」を内部に有しながら、「世間の迫害」という形で、人を傷つけてしまう。ここに、世の中すべての「本来の下等さ」がある。田中純の云う「普遍
的な人間性」とは、このことをさしているのであろう。

  【六】

 次に、【二】で提起した問の答えを明らかにすることにしたい。その答えは、五位の狐を眺める、その視線にある。
 すでに「芋粥に飽かむ」慾望を失なった五位にとって、利仁・有仁に芋粥をすすめられることは、大変な苦痛である筈である。その時、登場するのが
阪本の野狐であり、五位はこの狐の登場によって、芋粥を飲むことから救われたのである。狐の登場は、五位にとっては、救いである。
 しかし、この狐の登場の意味は、これだけではない。狐が利仁に使いをさせられる場面において、この狐の姿は「負け犬」であるという点において、
京での五位の姿と一致している。
 また、芋粥欲しさに利仁の館に見参するこの狐の姿は、基経の第で芋粥を飲みほした後も、椀をしげしげと眺める五位の姿に酷似している。何回
か、京での自分の姿資を回想し、すでに「芋粥に飽かむ」慾望を失なってしまった五位の眼には、この狐の姿が、「芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯
一人大事に守つてゐた、幸福な彼」と重なりあって見えていたのである。事実、波は、この直後に京での自分の姿をふり返っている。
 何度か京での自分の姿を回想した五位には、「勝ち犬」と「負け犬」の関係の相対性は、感覚的に認識されている筈である。
 「勝ち犬」と「負け犬」の関係の相対性を知った五位が、狐に向ける視線は、無位の侍が五位に向けた視線と同じものとなっている。
 ここで、五位は、自分の中に「世間の迫害にべそを掻いた、『人間』を自覚する。そして、この「人間」が、世の中すべての人々の中に存在することも
知ることとなる。この時五位の眼に映るものは、単なる狐の姿なのではなく、世の中の「本来の下等さ」なのである。そして、それと同時に、世の中す
べての人々に共通する「人間」を見て、「一味の慰安」を感じているのである。
 田中純が指摘した「人間らしい光つたもの」「塵芥の中に光る燐火のやうなもの」とは、この五位の視線であり、この視線にこめられていたものなの
である。
 この暖かい視線を得た五位には、もう「芋粥に飽かむ」慾望は、意味を持たない。最後に、「恐るべき芋粥」が、なみなみとつがれていた銀の提に向
って、五位は覚えず大きな嚔をするのである。

 註
(1)「今昔物語』は、長野嘗一校注『今昔物語 五』(「朝日新聞社刊・日本古典全書」のうち)を参照した。尚、本稿での『今昔物語』からの引用は、本
   書による。
(2)東郷克美氏「『芋粥』−笑うものと笑われるもの−」(菊地弘・久保田芳太郎・関口安義編『芥川龍之介研究』所収)
(3)三好行堆氏「負け犬」(『芥川籠之介論』所収)
(4)三好氏前掲書中の用語。尚、「勝ち犬」も同様。
(5)前掲書の頭注による。
(6)長野嘗一は『古典と近代作家−芥川龍之介』(「弟四章 芋粥」)において、五位と利仁の身分を説明している。それによれば、五位は「天下の−
  の人の恪勤として五位という位を持」ち、利仁は「無位の土豪」である。
(7)原典の最終段落「実に所に付きて年来に成りて免されたる者は、かかる事なむおのづから有りけるとなむ、語り伝へたるとや。」をめぐり、利仁
一  家に対する宿報か、五位に対する宿報か、二つの説がある。長野『古典と近代作家−芥川龍之介』参照。
(8)芥川は冒頭で、この作品の背景に、平安朝を指定している。もちろん、「どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。」とし
   ているが、芥川が五位の身分を誤まって認識していたのでない限り、平安朝における五位の身分と芥川作の五位とには懸隔がありすぎ、ここに
何  らかの芥川の意図が介在するはずである。本稿は、この文脈によって理解されたい。
 
                                   (「イミタチオ」 第四号 昭和六十一年四月三十日発行 金沢近代文芸研究会 に掲載)
但し、本文に附した傍点は、傍線に改めてある。


 
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