天台宗
(てんだいしゅう
) 関連語句 智顗。湛然
。最澄。五時八教。一心三観。一念三千。延暦寺 中国隋代の天台大師智顗(538~97)が開いた宗派で、『法華経』を依経とするところから法華宗・天台法華宗・天台円宗ともいい、台宗・円宗と略称される。 教義としては教相と観心の二門に大別される。まず教相門では、『法華経』の教旨に基づき、釈尊の一代聖教を五時八教に分類して諸経の意義と位置づけを示し、釈尊出世の本懐は法華円教にあると規定する。そして、万法の理体と現象の事相とに差別がなく、現象がそのままで真如の実相であるという円融三諦の妙理を説き、この妙理を一心に即して体得し知見すべき実践方法として観心門が説かれる。具体的には一心三観・一念三千の妙観に基づき、修行段階に六即・五十二位を立て、四種三昧・二十五方便・十境十乗観法(円頓止観)などの観法により速やかに仏果を成ずる旨が示されている。 中国天台宗においては、智顗以前に北斉代の恵文が竜樹の『大智度論』や『中論』によって一心三観の理を感得し、これが南岳恵思を経て天台智顗に伝えられたという。智顗は南三北七の教義を研究・破折し、『法華玄義 』『法華文句』『摩訶止觀 』の三大部を著わして天台宗の教観二門を大成した。 智顗の没後は章安潅頂が第二代の法燈を紹継して教線を張ったが、潅頂以後は智威・恵威・玄朗と伝承されたものの、玄奘の新訳仏教等に押されて、その教勢ははなはだ衰微した。そんな天台宗を再興したのが妙楽湛然(711~82)であり、天台三大部の注釈書を著わして天台義を宣揚し、華厳教学を摂取して超八醍醐義を推進した。湛然の門家は多士済々であったが、中でも道邃と行満は日本天台宗の開祖・最澄の入唐相承の師となった。その後、唐の会昌五年(845)の廃仏や唐末・五代の争乱などにより宗風は衰えたが、典籍を高麗や日本に求め、清竦の門に義寂と志因が出て宗運復興の兆しが生まれた。これを趙宋天台といい、義寂の法系を山家派、志因の法系を山外派と称した。 義寂・義通の法脈を受けた山家派の四明知礼(960~1028)は優れた著作を造って山外派と宗義に関して争ったが、知礼を代表とする山家派が山外派を圧した。しかし、明末に智旭が出て以降は衰微の一途をたどった。 日本へは早く鑑真が天台典籍を伝えたが、本格的な天台宗の将来は伝教大師 最澄(767~822)が入唐して道邃・行満から相承を受け、延暦二十四年(805)に帰国して比叡山に開宗して果たされた。ただし、最澄は天台円宗の他に戒・禅・密の三宗を同時に伝来し、特に密教を重視して止観業(円教)と遮那業(密教)の年分度者を賜って開宗したので、中国天台宗とはかなり質を異にし、これがその後の日本天台に大きな問題を残した。また、最澄が晩年に尽力した大乗戒壇の別立運動は没後七日日の弘仁十三年(822)六月十一日に勅許が下り、天長四年(827)五月に戒壇が建立されて成就した。 その後、円仁・円珍が相次いで入唐求法して真言密教を積極的に導入し、そのために日本天台宗は急速に密教化して行った。特に、最澄があくまでも天台円教を基盤とした円密一致を堅持したのに対して、円仁・円珍そして安然に至り密教中心の円密一致、あるいは円劣密勝へと変貌していった。この天台密教は東寺の真言宗の東密に対して台密と呼ばれ、最澄の根本大師流(山家流)・慈覚大師流・智証大師流を根本三流とし、以後台密十三流と称される分流が生じた。 そんな中、円仁の法系と円珍の法系が争い、結果として円珍の徒が叡山を下りて園城寺に拠ったので、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)とが分立した。その後、比叡山は一時頽廃したが、第十八代・良源(912~85)が諸堂の復興や教学の整備に努力し、弟子に源信や覚運などが輩出して法華教学が興隆した。また、源信の恵心流に覚運の檀那流が対抗して発生し、この恵壇両流は口伝法門を重視して八流に分派して行き、その中で阿弥陀信仰が発展した。 以上のように展開した日本天台宗は真言宗と共に平安仏教の中心的な存在として栄えたが、その教学ははなはだ観念的・高踏的・遊戯的にして民衆との接点がなく、それに飽き足らず思った諸師が叡山を下りて鎌倉新仏教の諸宗を起こていった。宗祖はその初期に日本天台宗、特に最澄の最も忠実な後継者たろうと努めたが、竜口法難を契機として『法華経』本門に足場を定めるようになり、天台宗の迹門立ちと袂を分かつに至った。『断簡三六四』〔41045〕などに言及されている。 |