円珍  (えんちん ) 関連語句 寺門。天台の真言

 814~891。天台宗延暦寺第五代座主で、同宗寺門派の派祖である。智証大師と勅諮され、御書では「山王院」「後唐院」「証」とも呼ばれている。讃岐(香川県)仲多度郡金倉の人で、俗姓は和気氏。弘法大師空海の甥といわれる。十五歳で延暦寺の義真に師事して顕密両教を学び、天長九年(832)十九歳にして年分度者となり、受戒して円珍と改名した。嘉祥二年(849)に内供奉十禅師となり、次いで伝灯大法師位に就任。仁寿三年(853)に入唐し、天台山で物外から止観と天台章疏を学び、開元寺の般若怛羅に梵字を習学して、青竜寺の法全から真言密教を受法した。天安二年(858)に帰朝して、比叡山山王院に居住し、同時に園城寺長吏に補された。貞観五年(863)園城寺で宗叡等に伝法阿闍梨位潅頂を授け、同八年には園城寺は延暦寺別院となり、円珍はその別当となった。同十年四月の安恵の入寂を受けて延暦寺第五代座主に就任し、次いで伝法潅頂道場として園城寺を下賜され、ここに山門・寺門の別が始まった。たびたび宮中に赴いて講経修法し、寛平二年(890)には少僧都に任ぜられたが、翌年帰寂した。円珍の法系は寺門派・智証大師流と呼ばれて、台密(天台密教)の一系列を形成している。中国より将来した経典は四四一部千巻の多きに及び、自らの著書は『法華論記』十巻・『授決集』2巻・『入真言門住如実見講演法華略義』二巻など多数現存している。宗祖は佐渡配流後に至り天台密教に対して強烈な批判を加え、例えば『太田殿許御書』〔19376〕に「善無畏・金剛智の両三蔵、慈覚・智証の二大師、大日の権経を以て法華の実経を破壊せり」とあるように、慈覚大師円仁と共に円珍をその代表として破折している。