円仁
(えんにん
) 関連語句 理同事勝 794~864。天台宗延暦寺第三代座主で、慈覚大師と勅諮され、御書では「前唐院」「覚」とも呼ばれている。下野国(栃本県)都賀郡の人で、俗姓は壬生氏。初めは同郡の大慈寺広智について出家したが、十五歳で叡山に登り最澄に師事して、弘仁五年(814)三月に円頓大戒を受けた。その後止観業の学生として十二年の籠山行を修し、承和五年(838)入唐し、求法すること十年。全雅・元政・義真等から密教を、宗叡・元侃等に悉曇、そして志遠・宗頴等に天台学を受けた。帰国した翌年に伝灯大法師・内供奉に任ぜられ、仁寿四年(854)に天台座主に補された。『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』を撰述し、日本天台宗に真言密教を積極的に導入して天台密教(台密)の基礎を築き、中国・五台山の念仏を移植して天台浄土教の形成に寄与した。また、『顕揚大戒論』を撰して円頓戒を祖述し、法華懺法を確立した。このように叡山天台宗の確立・発展には大きく寄与・尽力した円仁であるが、宗祖は円密雑乱の張本人として厳しく弾劾している。特に、法華・華厳等は身語意密を説かないゆえに唯理秘密教と規定し、それを説く大日・金剛頂等の事理倶密教に劣るという、いわゆる「理同事勝」の顕密二教判は、師の最澄の法華一乗主義を否定したものとして、円珍と共に師子身中の虫と批判されている。このような円仁に対する非難が明確に説かれるのは身延入山以降であるが、例えば『報恩抄』〔22955〕では「弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ふる事なし。…慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう」と述べられている。 |