最澄
(さいちょう
) 関連語句 比叡山。天台宗。三国四師。 767~822。日本天台宗の開祖で、伝教大師・根本大師・叡山大師・山家大師等と称する。俗姓は三津首(みつのおびと)、幼名は広野(ひろの)。近江国(滋賀県)滋賀郡の人で、後漢・孝献帝の末裔帰化の家に生まれたとされる。十二歳で近江・国分寺の行表の許に出家し、その後国家試験に合格して宝亀二年(780)十二月に得度し、名を最澄と改めて主に華厳を習学した。延暦四年(785)東大寺戒壇院で小乗戒を受けたが、静寂の地を求めて比叡山に入り、「願文」を作成し草庵を結んで独り諸経論を勉学した。その中で華厳宗・法蔵の著作を通じて天台智顗を知り、鑑真将来の天台三大部等を写得して研究に励んだ。また、延暦七年(788)七月には一乗止観院(根本中堂)を建てて、等身の薬師如来像を自刻して奉安し、その後比叡山上に諸堂を建立した。その学徳により桓武天皇の外護を得て、延暦二十一年(802)南都七大寺の高僧十四名を高雄山寺に招いて法華十講を修し、同二十三年に入唐した。九ヶ月在唐して道邃・行満等に天台および戒・禅を学び、順暁から密教を受けて帰国し、翌年の同二十五年一月に止観業・遮那業設置の認可を得、勅許により日本天台宗を開いた。しかし、その一月余り後に桓武天皇が崩御し、新たに即位した嵯峨天皇は新しく唐より帰朝した真言宗の空海を篤く信任した。その結果、最澄は自宗内部の整備に努め、空海に師事しての密教の伝受、法相宗の徳一との仏性論争、さらには南都僧綱との大乗戒別立論争などをその晩年に展開した。弘仁十三年(822)二月に伝燈大法師位に任ぜられ、六月四日に入寂。その初七日に大乗戒が勅許されて、天長四年(827)に戒壇院が建立され、貞観八年(866)法印大和尚位を贈られて「伝教大師」の諡号を賜った。弟子に義真・円澄・光定・円仁・仁忠などがおり、著書は『守護国界章』『法華秀句』『山家学生式』『顕戒論』等多数遺されている。天台沙門として出発した宗祖はみずからを「根本大師門人」と称して最澄を深く敬慕し、法華経の行者の先達と認識して三国四師の一人に列ねた。また、真言等の諸宗の天台宗への依憑を論証したその著『依憑天台集』を重要視し、三一権実論争や大乗戒別立運動も高く評価している。『断簡一九』〔36551〕などに言及されている。 |