薬王品得意抄

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薬王品得意抄の概要

【文永二年、南条時光妻、聖寿四十四歳、真筆−断存】 
此の薬王品の大意とは、此の薬王品は第七の巻、二十八品の中には第二十三の品なり。
此の第一の巻に序品方便品の二品有り。序品は二十八品の序なり。
方便品より人記品に至るまでの八品は、正には二乗作仏(にじょうさぶつ)を明し、傍には菩薩・凡夫の作仏を明す。
法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は、上の八品を末代の凡夫の修行すべき様を説くなり。
又涌出品は寿量品(じゅりょうほん)の序なり。分別功徳品より十二品は、正には寿量品(じゅりょうほん)を末代の凡夫の行ずべき様を、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説くなり。
然れば此の薬王品方便品等の八品、並に寿量品(じゅりょうほん)を修行すべき様を説きし品なり。
此の品に十の譬有り。第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申すべし。此の南閻浮提に二千五百の河あり。西倶耶尼に五千の河あり。総じて此の四天下に二万五千九百の河あり。
或は四十里・乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有り。然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず。
法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経、
大日如来の所説の一切経、阿弥陀如来の所説の一切経、薬師如来の所説の一切経、過去・現在・未来・三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり。
譬へば諸経は大河・中河・小河等の如し、法華経は大海の如し等と説くなり。
河に勝れたる大海に十の徳有り。一に大海は漸次に深し、河は爾らず。二に大海は死屍を留めず、河は爾らず。三に大海は本の名字を失ふ、河は爾らず。四に大海は一味なり、河は爾らず。五に大海は宝等有り、河は爾らず。
六に大海は極めて深し、河は爾らず。七に大海は広大無量なり、河は爾らず。八に大海は大身の衆生等有り、河は爾らず。九に大海は潮の増減有り、河は爾らず。十に大海は大雨大河を受けて盈溢無し、河は爾らず。
此の法華経には十の徳有り。諸経には十の失有り。此の経は漸次深多にして五十展転なり。諸経には猶一も無し。況や二・三・四乃至五十展転をや。
河は深けれども大海の浅きに及ばず。諸経は一字一句十念等を以て十悪五逆等の悪機を摂すと雖も、未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり。
此の経の大海に死屍を留めずとは、法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ。何に況や悪人なる上、謗法を為さん者をや。
設ひ諸経を謗ずと雖も、法華経に背かざれば必ず仏道を成ず。設ひ一切経を信ずと雖も、法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ。
乃至第八には大海は大身の衆生あり等と云ふは、大海には摩竭大魚等大身の衆生之有り。
無間地獄と申すは縦広八万由旬なり。五逆の者無間地獄に堕ては一人にて必ず充満す。此の地獄の衆生は五逆の者、大身の衆生なり。
諸経の小河大河の中には摩竭大魚之無し。法華経の大海には之有り。五逆の者仏道を成す。
是実には諸経に之無し。諸経に之有りと云ふと雖も、実には未顕真実(みけんしんじつ)なり。
故に一代聖教を諳ぜし天台智者大師の釈に云く「他経は但菩薩に記して、二乗に記せず。乃至、但善に記して悪に記せず。今経は皆記す」等云云。余は且らく之を略す。
第二には山に譬ふ。十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり。十宝山とは、一には雪山、二には香山、三には軻梨羅山、四には仙聖山、五には由乾陀山、六には馬耳山、七には尼民陀羅山、八には斫伽羅山、九には宿恵山、十には須弥山なり。
先の九山とは諸経諸山の如し。但し一一に財あり。須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり。例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し。
華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より、法華経の即身成仏勝れたるなり。
須弥山は金色なり。一切の牛馬・人天・衆鳥等、此の山に依れば必ず本色を失て金色なり。余山は爾らず。
一切の諸経は法華経に依れば本の色を失ふ。例せば黒色の物の日月の光に値へば色を失ふが如し。諸経の往生成仏等の色は、法華経に値へば必ず其の義を失ふ。
第三には月に譬ふ。衆星は、或は半里・或は一里・或は八里・或は十六里には過ぎず。月は八百余里なり。
衆星は光有りと雖も月には及ばず。設ひ百千万億、乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも、一の月の光に及ばず。何に況や一の星、月の光に及ぶべきや。
華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之を集むとも、法華経の一字に及ばじ。
一切衆生の心中の見思・塵沙・無明の三惑、並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし。
華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし。法華経は闇夜の月のごとし。
法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し。深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し。
月無くして但星のみ有る夜には、強力の者・かたましき者なんどは行歩すといへども、老骨の者・女人なむどは行歩に叶はず。
満月の時は女人老骨なむども、或は遊宴のため、或は人に値はんが如き行歩自在なり。
諸経には菩薩・大根性の凡夫は設ひ得道なるとも、二乗・凡夫・悪人・女人乃至末代の老骨の懈怠・無戒の人々は往生成仏不定なり。
法華経は爾らず。二乗・悪人・女人等猶を仏に成る。何に況や菩薩・大根性の凡夫をや。
又月はよい(宵)よりも暁は光まさり、春夏よりも秋冬は光あり。法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有るべきなり。
問て云く、証文如何。答て云く、道理顕然なり。
其の上、次ぎ下の文に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云。
此の経文に、二千年の後、南閻浮提に広宣流布すべしととかれて候は、第三の月の譬の意なり。
此の意を根本伝教(でんぎょう)大師釈して云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是其の時なり」等云云。
正法千年も像法千年も、法華経の利益諸経に之れ勝るべし。然りと雖も月の光の春夏の正像二千年より末法の秋冬に至て光の勝るが如し。
第四に日の譬は、星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも、未だ星の光を消さず。日中には星の光消ゆるのみに非ず、又月の光も奪て光失ふ。
爾前は星の如く、法華経の迹門は月の如し、寿量品(じゅりょうほん)は日の如し。寿量品(じゅりょうほん)の時は迹門の月未だ及ばず。何に況や爾前の星をや。
夜は星の時月の時も衆務を作さず。夜暁て必ず衆務を作す。爾前・迹門にして猶生死を離れ難し。本門寿量品(じゅりょうほん)に至て必ず生死を離るべし。
余の六譬之を略す。此の外に又多くの譬此の品に有り。其の中に、渡りに船を得たるが如しと。
此の譬の意は、生死の大海には爾前の経は或は筏、或は小船なり。生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし。
例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り、鎌倉よりい(江)の島なんどへとつけども唐土へ至らず。唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり。
又云く「貧しきに宝を得たるが如し」等云云。爾前の国は貧国なり。爾前の人は餓鬼なり。法華経は宝の山なり。人は富人なり。
問て云く、爾前は貧国と云ふ経文如何。答て云く、授記品に云く「飢ゑたる国より来て忽ちに大王の膳に遇へるが如し」等云云。
女人の往生成仏の段は、経文に云く「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有て是の経典を聞て説の如く修行せば、此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩大衆に囲遶せられて住する処に往て、蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。
問て曰く、此の経・此の品に殊に女人の往生を説く、何の故か有るや。答て曰く、仏意測り難し、此の義決し難きか。
但し一の料簡を加へば、女人は衆罪の根本、破国の源なり。故に内典外典に多く之を禁しむ。
其の中に外典を以て之を論ずれば、三従あり。三従と申すは三したがうと云ふなり。
一には幼にしては父母に従ふ、嫁して夫に従ふ、老て子に従ふ。此の三障有て世間自在ならず。
内典を以て之を論ずれば、五障有り。五障とは、一には六道輪回の間、男子の如く大梵天王と作らず。
二には帝釈と作らず。三には魔王と作らず。四には転輪聖王と作らず。五には常に六道に留まりて、三界を出でて仏に成らず〈超日月三昧教の文なり〉。
銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云。
但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せず。はんよき(樊於期)といゐし者はけいか(荊軻)に頚をあたい、きさつ(季札)と申せし人は徐君が塚に剣をかけたりき。これ約束を違へず、妄語無き故なり。何に況や声聞・菩薩・仏をや。
仏は昔凡夫にてましましし時、小乗経を習ひ給ひし時、五戒を受け始め給ひき。
五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給ひき。財を奪はれ、命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず。
大乗経を習ひ給ひし時、又十重禁戒を持ち、其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給ひき。此の戒を堅く持て無量劫之を破りたまはず。
終に此の戒力に依て仏身を成じ、三十二相の中に広長舌の相を得たまえり。
此の舌うすく、ひろく、ながくして、或は面にををい、或は髪際にいたり、或は梵天にいたる。
舌の上に五の画あり。印文のごとし。其の舌の色は赤銅のごとし。舌の下に二の珠あり。甘露を涌出す。此れ不妄語戒の徳の至す所なり。
仏此の舌を以て、三世の諸仏の御眼は大地に落つとも、法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば、一切の女人は何なる世にも仏には成らせ給ふまじきとこそ覚えて候へ。
さるにては女人の御身も受けさせ給ては、設ひ后三公の位にそなはりても何かはすべき。善根仏事をなしても、よしなしとこそ覚え候へ。
而るを此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事、又不思議に候。
彼の経の妄語か、此の経の妄語か、いかにも一方は妄語たるべきか。若し又一方妄語ならば一仏に二言あり、信じ難し。
但し無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず」。涅槃経の「如来には虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因ると知しめす」の文を以て之を思へば、仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給ひけるは妄語と聞えたり。
妙法華経の文に「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説くべし」。
「妙法華経 乃至皆是真実」と申す文を以て之を思ふに、女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は、実語不妄語戒と見えたり。
世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時、或は失ある時は永く子為るべからざるの理、起請を書き或は誓言を立ると雖も、命終の時に臨めば之を許す。
然りと雖も賢人に非ずと云はず、又妄語せる者とも云はず。仏も亦是くの如し。
爾前四十年が間は、菩薩の得道・凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず。
或は又許すににたる事もあり。いまだ定めがたかりしを、仏の説教四十二年すでに過て、八年が間、摩謁提国・王舎城・耆闍崛山(ぎしゃくっせん)と申す山にして法華経を説かせ給ふとおぼせし時、先づ無量義経と申す経を説かせ給ふ。無量義経の文に云く「四十余年」云云。

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