釈迦牟尼仏 (しゃかむにぶつ) 関連語句 浄飯王
。提婆達多。摩耶。悉多太子。十六王子
。仏陀。 ①梵語のシャーキヤムニ・ブッダの音写。インドに生まれた釈尊。シャーキヤ族出身の聖者の意。牟尼は聖者の意。仏は仏陀の略で、真理を覚った者のこと。釈迦文尼・釈迦文・釈迦仏とも音訳し、釈迦・釈尊・釈迦牟尼世尊ともいう。また、意訳して能仁・能忍という。姓の瞿曇(くどん)はゴータマ、太子名の悉達多(しっだった)はシッダールタのそれぞれの音写。悉達太子ともいう。また、釈迦族は日種という王族に属したから日種・日種太子とも呼ばれた。祖父の師子頬(ししきょう)王には、浄飯(じょうぼん)・白飯(びゃくぼん)・斛飯(こくぼん)・甘露飯(かんろぼん)の四男と甘露の一女があり、浄飯王の子が釈迦で、斛飯王の長男が提婆達多(だいばだった)、次男が阿難(あなん)である。母の摩耶夫人は隣国の拘利国王・善覚の娘で、出産のために生国へ帰る途中の藍毘尼(らんびに)園で釈迦を生んだ。誕生した釈迦は四方に七歩あるいて、右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と述べたと伝えられる。その後、釈迦は父・浄飯王とともに伽毘羅衛(かびらえ)城に住み、母・摩耶(まや)が出産後七日目にして死去したので、妹の摩訶波舎波提(まかはじゃはだい)が養育した。この継母は難陀(なんだ)を生んだ。成長した釈迦は耶輸陀羅(やしゅだら)と結婚し、一子・羅羅(らごら)をもうけた。ある時、城の四門から外出した際に老人・病人・死者・沙門をみて人生の無常を痛感し、人生の真理を追求しようと出家を決意した。時に、十九才(一説では二十九才)。沙門となった釈迦は、当時最大の強国であった摩竭提(まかだ)国の首都・王舎城へ向かい、賢者の教えを受けるもあきたらず、そこから西南の伽耶城近郊で苦行生活に入った。その際、釈迦の身を案じた浄飯王が遣わした陳如等の五人も共に苦行した。しかし、苦行では解脱を得られないと悟って中止し、村の娘が捧げた牛乳のおかゆを飲んで体力を回復した。五人はこれを見て堕落したと断じ、釈迦を捨てて西方の波羅奈城の鹿野園に去った。釈迦は独りで迦耶城近くの畢鉢羅樹(菩提樹)下におもむいて瞑想に入り、ついに悟りを開いた。時に三十才(一説では三十五才)。悟りの後、二十一日間、悟りの楽を自受したが、この時の心境を菩薩達に説かしめたのが『華厳経』である。釈迦は悟りの内容を人々に説くかどうか暫時思惟したが、梵天の勧請を受けて説示することを決意し、かつて苦行を共にした五人に示すために鹿野園を訪ね、四諦・八正道・中道等を内容とする『阿含経』を説いた(初転法輪)。次いで、事火外道であった迦葉三兄弟およびその弟子千人を教えを授けて弟子とし、王舎城に入り頻婆娑羅(びんばしゃら)王を教化して、竹林精舎の寄進を受けた。この頃、六師外道の弟子であった舎利弗と目連は五比丘の一人・阿説示の教えを聞いて仏弟子となった。また、伽毘羅衛城に帰省して難陀や一族の羅羅等を弟子としたほか、舎衛国の波斯匿(はしのく)王、祇園精舎を寄進した須達(しゅだつ)など多くの人を導いた。その後、八十才で入滅するまで、釈迦は絶えずインドの諸地方を巡行して説法を続け、教団は次第に拡大していった。釈尊が止住した地として有名なのは、摩竭提国王舎城の竹林精舎・耆闍崛山と舎衛国の祇園精舎である。五十年にわたる釈尊説法の内実は阿含部の一部といわれるが、後に多くの大乗経典が成立し、釈尊の教えの真実性を照らし出した。それを説法の順序に構成配当し、五時(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)説を立てたのが天台智顗である。釈尊は八十才の時、拘尸那(くしな)城外の沙羅双樹のもとで入滅した。火葬に付された遺体の舎利と灰は十箇所に分けられ、それぞれに塔を立てて供養された。後世の仏伝では釈迦の生涯における象徴的な出来事として下天・托胎・誕生・出家・降魔・成道・説法・涅槃の八つを挙げ、これを八相成道と称した。釈迦の思想は、梵我一如説に代表される伝統的バラモン教の実在論と、六師外道に代表される新興の反バラモン教思想の唯物論・快楽主義などが対立する中で、その両者を極端と断じて退け、あくまでも現実をありのままに観察し、日常の実践の中で我執や我欲を滅して真実の自己を確立し、究極の平安な境地として涅槃を目指すというものであった。なお、釈尊の生存年を宗祖は、鎌倉時代の通念にしたがって『周書異記』の紀元前1012~949とし、四月八日仏誕・二月十五日仏滅と認識していた。なお、近年の研究では入滅年を紀元前485年とし、また最近では紀元前386年の宇井説、紀元前383年の中村説などがある ②爾前経の教主である釈尊。華厳・阿含・方等・般若の各部の経典を説いた釈尊のこと。『薬王品得意抄』〔13832〕等に見える。③『法華経』迹門の教主である釈尊。『秀句十勝抄』〔35214〕等に記されている。④『法華経』本門の教主である釈尊。『報恩抄』〔23257〕等に触れられている。⑤釈尊の仏像、またそれを本尊とすること。釈尊像には鋳像・木像・画(絵)像がある。鋳像については『断簡二八四・三論宗御書』〔40542〕等、木像・絵像・画像の釈尊については『呵責謗法滅罪抄』〔18612〕・『四条金吾釈迦仏供養事』〔22612〕・『日眼女釈迦仏供養事』〔26947〕等に言及されている。また、釈尊像を本尊とすることについては『兵衛志殿御返事』〔24428〕・『一代五時鶏図〔西山本〕』〔34695〕等に見える。 |