《こどもの絵展》 平成20年5月4日(日)~11日(日) 「心のかよいとこどもの絵展」 開催

今からおおよそ50年前、私が中学生の頃に描いた絵が「心のかよいとこどもの絵展」に展示されました。
この作品は、木水先生が生前アトリエとして使われていた離れの縁側に収納されていました。
この度の「心のかよいとこどもの絵展」のための作品を、関係者の皆さんと探していた時に発見し、半世紀ぶりに感激の対面をしました。
思い起こせば、この絵は、講堂の高い位置に掛けられていて、その下あたりにバスケットボールのゴールがありました。たぶん時にはボールが当たったのでしょう、ベニヤの一部が傷ついていました。
その絵を木水先生は、校舎改築で廃棄処分されそうだったのを運び出して、ご自宅の離れに保管してくださっていたのです。

50年前に描いた作品と記念撮影




【マスコミの方々に集まっていただき展覧会の開催を発表しました。その時の挨拶文です。】

皆さんこんにちは。私は木水先生に武生三中時代に教えて頂いた生徒の一人で、片山智と申します。木水先生が亡くなられて10年の節目に図画教育の偉業を振り返る児童画展開催の記者会見にお呼びいただき光栄に思っています。幹事の方々のご苦労に感謝申し上げます。昨年突然、丹南高校の朝倉先生が尋ねてこられて、木水先生の教育活動の研究をなさっておられて武生三中時代の指導記録が空白になっているので当時に壁画を描いた生徒の私に木水先生について教えて欲しいとのことでした。

さて当時を振り返ってみますと、小学校までは写生や静物画でしたが、木水先生の図画の授業は人物のある普段の生活を描きなさいという課題がいつも出されて水彩絵の具で描く授業でした。文化祭には生徒の図画作品が学校中の廊下に張り出されました。図画コンクールも何度か行われ私も入賞してほめられたり、賞品の絵の具などの画材をもらったりした当時のなつかしい賞状が残っています。個人的には2年生の時に1坪スペースの壁画1枚と2坪スペースの壁画1枚の計2枚をそれぞれ2ヶ月あまりかけて描きました。図画室に隣接した狭い倉庫室に、白い塗料を塗ったベニヤ板を用意して頂いて、立て掛けた状態で壁画を描きました。風景画や静物描写は目の前の描く対象を観察しながら写して描く場合が多いのでやり易いのですが木水先生の図画の課題は人物の入った生活体験を描くという課題だったので絵を描く時、想像して描くわけですから大変苦労しました。非常に頭が疲れてボーっとなりました。体質の性もありましたが、しょっちゅう鼻血を出していました。写す対象が見えないわけですから思いどうりの形や色にならず、難しい作業の連続でした。こんな描き方で描けと指導されたことはありませんでしたが、北川民治画伯の作品集を見せてもらった覚えがあり美しさに感動してからいつしか私の描き方が北川民治画伯の影響を受けたのかも知れません。従来の図画教育のように見て観察して描くという写生画や静物画の授業とは違って、人物を描く・生活画を描く、考え作り出して創作して描くというそれらの授業課題が木水先生独自の哲学である創作能力を育成するという図画教育方針を自ら考え出されたのではないかと今となって推測されます。先生のこの教育方針が現役の美術教員の方々に大きく関心を持たれている所以と考えています。木水先生が亡くなられて10年も過ぎた今でも朝倉先生のように木水先生の教育哲学を理解し研究しようとされる方が出てこられるのだと思います。

私くしは専門の大学に進学し美術ジャンルに進むきっかけになったのも少なからず木水先生が影響していると思います。又、現在までデザインを中心にした広告代理店をやれて来れたのも木水先生の創作能力育成に沿う教育を受けたので考えて創作する描画能力が少なからず役立ったからこそと、木水先生のご指導に感謝致しています。

木水先生の功績のもう1つは子供たちの絵をいつまでも大切に保存して下さったことです。木水先生は児童画を心から愛しておられた証ではないかと今になって感じています。また先生が亡くなられて10年たっても今日のように仲間を集めるグループパワーの吸引力と申しますか、グループの中心になってくれるカリスマ性をもっておられた方だと尊敬しています。

先生は子供の絵を玄関に飾ろうという運動も始められました。有名画伯の絵を玄関に飾るのも良いけれど、自分の子供時代の絵とか、我が子の絵を飾ろうという運動はすばらしい事だと思います。私も先生に賛同して何10年も前からまずは自分の絵からと思い玄関に飾って来ました。

先生についての思い出の幾つかをあげてみますと、宮崎村小曽原の陶芸の体験もありました。石像彫刻の授業もありました。御影石を取りにご自宅の近くの石切場に行った帰りに自宅で昼ご飯をご馳走になりおいしい黄な粉のご飯だったのを覚えています。黄な粉は栄養たっぷりで健康食だといっておられました。授業の合間に夏休みに旅行先の絵画のグループと会った時の内容を話して下さったり、戦争時代の体験談を話していただいたりを覚えています。奇跡的に助かったトラック島の生々しい生還の様子や、可愛がった原住民に戦後再び訪れ当時の日本語を覚えていたその原住民と敵味方を越えて熱く再会した様子などでした。先生が心のつながりを大切にされたことがうかがえます。

河野村小学校の校長先生をされていた時の先生自らの作品、ぶりのぼりの版画を拝見した時、木水先生は画才としても、偉大な才能の持ち主だと感じました。こいのぼりではなく出世魚と言われるぶりのぼりの描かれた版画でした。その時まで木水先生が描かれた絵を見たことがありませんでしたが、さすが美術教員ならではの才能の持ち主だと思いました。美しい河野海岸の港の青空に潮風をイッパイのみこんで泳いでいる魚、ぶりの5匹の家族の版画で家族の出世と繁栄と平和を象徴するがごとくのすばらしい絵でした。

成人してからの個人的な思い出の幾つかを申し上げますと、先生は人脈が広くて、度々知人を紹介していただきました。私の教員免許の教職実習校に母校の武生三中を世話していただき、この度の児童画展の総監督をしておられる八田先生をご紹介いただき、教職実習期間には八田先生から親切なご指導をいただきました。シルクスクリーン印刷をされている方を紹介されて現役で活躍されている様子にはげまされたり、また小学校の絵の先生が卒業記念に生徒達自ら描いた絵をカメラで撮影して縮小して渡すためにプリントの仕事を紹介していただいたり社会に出てからもいろいろ御世話になりました。養護学校の校長先生になられた時、私は学校を訪問し、アイオウ画伯の壁画を見せていただいたり、知的障害者の教育の難しさを話していただいたりしました。私の結婚式には中学の恩師代表として快く祝辞を述べて頂いた事がありました。祝辞の内容は確か、生徒の性格や行動を観察していると直感的に何故か光っている子とそうでない子にわかれるそうです。私は光ってる分類に入っていた。きっと良い未来の予感がするとの励ましの言葉を頂きました。

昨年、中学の同窓会の時に偶然中学の卒業記念作文集が見つかったのでその文集を同窓会の当日、会場に持って行ったところそれを読んだ同級生たちがなつかしさいっぱいで当時のことを思い出して、大好評でした。後日改めて印刷して全員に送ってあげた経験がありますが、作文集も児童画もタイムカプセルといえるのではないでしょうか。木水先生が大事に保存してくださった約50年前のタイムカプセルの私たちの絵がいよいよ見れるチャンスがやってきました。この児童画展を企画された八田先生をはじめ、丹南アートグループ・現代芸術研究会の皆様、そして忘れてならないのはこれらの絵を大切に保存して頂いた木水先生のご家族や保存に努力され国定先生をはじめとする関係者の皆様のご努力に深く感謝申し上げます。出来る限り多くの入場者に来ていただくようわれわれも応援したいと思います。


2008年4月13日(日)「讀賣新聞」地域のページに掲載。
絵画展を機に木水先生の足跡をまとめた本が出版されました。
『木水育男(奥右衛門)と児童画』
 -心のかよいと子どもの絵展-

著者:朝倉俊輔
発行日:2008年3月25日
発行:
 木水育男先生没後10周年顕彰会
 現代芸術研究会




「案内ハガキ」