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さて、#1The Rising Forceについて話を進めることにしましょう。

2005年までにJAシリーズは18冊刊行されています。(Ep.2公開前後からアナキンとのコラボのシリーズ、ジェダイ・クエスト、 略してJQシリーズが10冊刊行、Ep.3公開に絡んでラスト・オブ・ジェダイ、LOJが4冊刊行されました。
JAシリーズには幾つかの面白い特徴があります。
まず、巻頭を飾る#1だけが作者が違います。#1はデーブ・ウォルバートン(Dave Wolverton)、#2以降はジュード・ワトスン(Jude Watson)に作者がバトンタッチしています。大部分の作品がワトスンの手になることからJAの基本的性格はワトスンによって形成されたと言ってもいいのですが、 実は私は#1こそ、その後の全シリーズの性格付け、方向性を決定した作品だと思っています。

発行が1999年6月、アメリカでのStarwars EpisodeI:the Phantom Menace が圧倒的好評で人々に迎え入れられた直後に当たります。(日本に入ったのは7月の日本公開前でした。私は公開前に#1,#2を入手していましたから)。  Ep1の支援スピンオフとしてそれほど期待されずに、反響次第では多分数巻で消える運命をもってデビューしたと思われます。

  映画から離れぬように

しかし大方の予想を裏切ってJAの滑り出しは上々でした。まずキャラクター設定が、映画SWとオーバーラップする人物については厳密に同じ路線を取ったこと( 具体的にはクワィ=ゴン、ヨーダ、メイス=ウィンドゥたちです)が成功の元でした。次に主人公のオビ=ワンはEp.1を遡ること12年ですから、映画のオビ=ワンの雰囲気を予想させながら、かなり自由に性格付けができたこと、これが読者の興味と関心を捉えた第二の要因でしょう。また、各巻読み切りでありながら全体としてストーリーが継続することと人間関係を細やかに書き込んだことがジュビナルとはいえ、一般の読者層の支持を得ました。Amazon の読者レビューにも完成度の高い作品と賞賛されています。

オビ=ワンは「わたし」か「ぼく」か
 
字幕にしてもそうですが、小説を読んで映画SWのコースから離れていない、違和感がないための重要なポイントは 用語の選択、呼称の選択であろうと思われます。用語、呼称で全体の人間関係などが決定されますから、オビ=ワンが自分を「ぼく」と称するか、「わたし」と言うかで、極端に言えばオビ=ワンの成熟度、 知性、相手との距離などを決定する事になります。

Ep.1のオビ=ワンはパダワンとは言え、もう成人ですから「わたし」といって何の違和感もなかったのですが、JAで12歳の少年がしかめつらしく 「わたし」を連発するのも、子供らしくないし余り気にも入りませんね。
おまけに、「わたし」からはじめれば、結句は「〜です」「〜ます」となります。お師匠さまのクワィ=ゴンは「わたし〜だ」のパターンを大きく 崩すことはありませんが、これにオビ=ワンまで「わたし〜です」では全体が硬直してしまいます。それで折衷案としてマスターやヨーダといった年長者に対する ときには敬意を払って「わたし」を、バント、リーフト、ガレンそれにあのブルック、話が進展するにつれて友達となる、シ・トレンバと話すときは「ぼく」というように 相手によって自然な感じが出るように使い分けるが望ましいのでしょう。
一人称に対するこだわりはまだ続きます。
敬愛するジェダイマスター、クワィ=ゴン・ジンに対して口を開くときはもちろん「わたし」ですが、#2で爆発が差し迫って、二人が生死の瀬戸際に立たたされるとき、 オビ=ワンがある回避法を思いつきます。余りに切羽詰まった状況下で、しかも何としてもクワィ=ゴンにこの方法の行使を認めさせるために、オビ=ワンは普段の礼儀正しい、 いい子の言葉遣いを忘れて「ぼく」を連発します。後に同じ年頃の子供達が大人と争って、一つの星の運命を決するような社会に身を投じる事件があります。その時指導者の 少年に最初は「ぼく」を使わせますが、オビ=ワンとの確執が生まれオビ=ワンを憎むようになってからは「おれ」にシフトしています。このように日本語の呼称は一言で読者に人間関係を把握させてしまうという魔術のような力を持っているのです。

ご学友登場
 
少年少女小説の定義って・・何でしょう? それほど硬く構えなくてもいいのですが、形式は明快です。まず主人公が当該年齢であること、それに年齢の近い 「お友だち」が登場すること。JAもしっかりこのお約束を踏襲しています。それで毎巻、様々なお友だちが顔を見せます。

#1ではアルコナ(アーコナ)星人のシ・トレンバです。
オビ=ワンはシと一緒に、するなと釘を刺された探検ごっこまがいのことをして、結局シを窮地に立たせてしまったり、二人で協力して宇宙船の危機を防いだりします。 後もずっとシとオビ=ワンは2匹の子犬がじゃれ合うようにストーリー展開の中でころころ遊び回っているといったら言いすぎでしょうか?

巻を追うごとにこの「ご学友」は革命を目指す地下組織(と言うと聞こえはいいけど実はこそ泥まがいの)凸凹コンビの兄弟になったり、 王室付きの接待係の少年になったり、シリアス編では戦乱に明け暮れる母星に武力革命を起こそうとする少年少女パルチザンになったり、ジェダイ聖堂の生徒仲間になったり (女の子)、毛色を変えて任務で訪れた惑星の若い男女カップルになったり、同じジェダイ・アパレンティスの女の子になったり、手を変え品を変え、苦心しています。
若い読者層に興味と共感を抱かせるためかも知れませんが、同工異曲の感は拭えません、これもジュビナルの宿命でしょうか。
もう一つ、映画のようにPGだとかX等という指定こそない物の、ジュビナル小説に現れないのは極端な暴力とsexのシーンです。
当然JAにもこの二つは自己規制しているようです。ただどうしてもライトセイバー戦や闘いのシーンは避けられないので、その辺りはうまく、 ブラスター光弾を偏向させたり、機械を壊したり、相手の武装解除をしたり、そういった描写になっています。生身の敵を一網打尽に斬り倒す痛快シーンは望めそうにもありません。 もちろん青年になったオビ=ワンのラブ・シーンも御同様に見られそうにもありませんね。
 
オビ=ワンは「おとな」か「こども」か
 
オビ=ワンの性格付けがアンバランスに見えるのはこの辺りです。
作者の頭ではEp.1のオビ=ワンのイメージが強すぎるためか、ジェダイ聖堂の成人ジェダイの中で、厳しい肉体的・精神的訓練を受けている、 実年齢より遙かに大人びた少年と、大人の目を盗んで向こう見ずをやったりする男の子の二つのイメージが上手く融合していないようです。

もう少し具体的に言うと、パダワンになれる年齢制限にかかりそうで心沈むオビ=ワン、偶然のチャンスでクワィ=ゴンに試合を見てもらえたのに 冷たく批判されて苦悩するオビ=ワン、ダークサイドに目覚めたようなライバルの奸計に落ちて誤解を解けないまま、それでもジェダイらしく聖堂を去ろうと決意する 健気なオビ=ワン、予期せぬクワィ=ゴンとの再会と彼の再度の、いや再々度の拒絶に絶望しながらも最善を尽くそうとするオビ=ワン……これらは読者側からの感情移入も 容易で「大人」としてのオビ=ワンの側面が描かれています。

しかるに前記のシ・トレンバとの冒険ごっこ、聖堂での口喧嘩(これは下級生にたしなめられている)、ハットとの意地の張り合い、黄色い嘴で クワィ=ゴンに食ってかかるなど、これは幼い顔が表面に出たところ。子供から青年に移行する途上の年齢にはよくあることではありますが、描写が極端すぎて、 いかにも子供受けを狙った恣意性を感じてしまいます。わたしとしてはオビ=ワンの設定精神年齢をもう少し上に取ってほしかったと思います。 
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