第28回ちょっといって講座

グローバル化の闇でうごめく改憲プログラム

本山美彦 福井県立大学教授(京都大学名誉教授

 

                      日時:2007年8月8日

                      場所:国際交流会館

竹内正毅福井県地方自治研究センター理事長あいさつ

 ご苦労様です。参議院選挙も終わりましたが、安倍首相の言葉を聞いていると、悪いのは久間防衛相や赤城農水相であり、私の考えは国民に支持されているといっています。それほどまでに地位に執着するのは、明治憲法に帰っていこうとする、どうしても憲法改悪をして歴史に名を留めたいという強い意向があるようです。闘いに敗れたのですから一度お辞めになって「再チャレンジ」したらどうかと思います。また,国民年金や介護保険などの問題で社会保障カードを作って、国民総背番号制度をやりたいとする意志がありありと出ているのではないでしょうか。福祉・社会保障などを掲げ、一見左のようで、右旋回していったナチス・ドイツのように、国民を統制していこうとする裏があるのではないか。新聞報道だけではなく、今日の本山先生話の中でも、我々が気をつけて見なければならないことが多々あると思いますので、限られた時間ですがよろしくお願いします。

 本山美彦講演

<はじめに>

 8月6日から8日というのは、私にとってはセンチになる日です。一族郎党が広島の原爆でやられました。私ももしかすると被爆した可能性があるのですが、私の家には船がありました。若松から神戸まで八幡製鉄所の資材を運ぶ船を祖父が持っており、たまたま、前の日に、わが直系の一族だけは船で四国の方へ行っていて、広島へ帰ろうかとしたときに、朝、トイレであのキノコ雲を見たわけです。その時祖父の判断は偉かったです。前から広島には何か起こるという噂が立っていました。そこで、もう1週間広島に入るのを見合わせました。それで、黒い雨にも会わずに済んだわけです。しかし、帰ったらそこは地獄でした。自分の全の人生があの瞬間に決まったといっても言い過ぎではありません。反戦と意識がこびりついています。

 わが父は兵隊検査は甲乙丙丁の丁で、身体虚弱で軍隊に取られませんでしたが、疎開先の長男である叔父は戦死しました。軍隊に対し許しがたい憎悪を持っています。特に海軍は嫌いでした。人間を人間と思っていない。兵隊の補充をしなければなりませんから、山間部からきた兵隊に泳ぎを覚えさせるため、船からどんどん突き落とすのです。そうすると毎日のように誰かが死ぬのです。その訓練の上官は偉そうな威嚇的な言葉でした。戦争の怖さは、敵ももちろん怖いですが、負けて帰ってくれば殺されるほどビンタがあるわけです。ものすごく暴虐的です。

疎開先では、北朝鮮系の人で「イトウ」さんという方がおられました。インテリの方で、日本とアジアの歴史を小学校の半ばまで個人的に教えてもらいました。その時、初めて歴史の意味が分かってきました。彼が国に帰るときには村中で見送りました。

 戦後のきちんとした人たちは、今の安倍内閣の人たちと比較してはるかに品格があったということです。

 憲法ができた頃の状況、あのころの日本人の精神の気高さを訴えておきたい

今日の話しの順番として、賀川豊彦、宮沢喜一、今の憲法第9条を作った幣原喜重郎、そして、アーミテージ報告について話させていただきます。安倍内閣は、米国から押付けられた憲法を自前のものに変えなければならないというキャンペーンを張っています。しかしそれは米国から否定されています。憲法を改正しろというのが米国の要求です。今の国民投票法案ですが、憲法改正発議が出たとたん、このような話をすると逮捕されることになるわけです。今回の参院選で民主党が多数を取り、みなさん浮かれていますが、選挙では憲法改正は争点になりませんでした。絶対憲法改正を許すなといった人たちは1人も通りませんでした。これは大変なことです。しかも、恐ろしいことに今の民主党の面々の半分以上は改憲派です。そうなってくると、自民党はウルトラCを持ってくるのではないか。小泉純一郎の復権があるのではないかと思っています。民主と自民が割れて、新しい翼賛体制が出てくるのではないか。それは、憲法改正をするという1点でまとまった体制です。そこまで情勢が来ているのに、我々は浮かれているのです。憲法改正が今回の参院選の争点にならなかったことに我々は危機感を持つべきです。

1 賀川豊彦について

 賀川豊彦は日本最大の生協組織であるコープこうべの創始者です。40万世帯・100万人を超える組織です。1921年に川崎造船所の歴史に残る大争議がありました。そのときの社長が平尾八三郎・労働組合の委員長がクリスチャンの賀川豊彦でした。この2人が四つに組んで、労働組合側が負けたわけです。その後、社長の平尾八三郎と組合委員長の賀川豊彦が意気投合して作ったのが、神戸の生活協同組合、甲南大学の前身の甲南中学、そして、甲南病院です。今は別荘地の岡本、御影、本山ですが、そのころ大阪の財界の連中が神戸に移り住んできました。そのとき僻地であったものが、大阪の財界人が移り住んできたために物価が高騰する、そして貧富の差が目の前にあるわけです。今も御影の大林組の大豪邸は広大ですが、そのような豪邸が水飲み百姓のすぐ前に建つわけです。それでは社会不安が生じるというので、経営者側と労働者側がお金を出し合って、地元の連中もいける学校をつくろうということでできたのが甲南中学です。甲南中学はお金持ちの子供が行くところといわれましたが、当時の軍国主義華やかりしころ、私の通った神戸一中学は頭は丸刈りでズック、カバンではなく風呂敷包みだったのですが、甲南中学は革靴・サージの制服、長髪というスタイルでした。軍国主義華やかりし頃、そのような自由な精神を鼓舞したわけです。神戸で反戦活動をするのは甲南出身でした。灘神戸生協は「一人は万人のために・万人は一人のために」というのがスローガンです。食料の様々な問題が起こったときも、食の安全という意味では生協はスーパーよりもはるかに強い。その後、賀川豊彦は神戸の新川という貧民街で貧民救済活動をしています。

私の『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』という本のあとがきでも書いていますが、賀川豊彦は幾度も憲兵隊に拘束されていますが、そのときのことを詩にしています。「人の罪を背負って十字架にかかったイエスの弟子の私は 国の罪も負わねばならず 背負いきれない国の罪に 私の頸は沈み 頭はうなだれる おお 涙よ 涙よ しばらく分かれてゐた涙よ また同居する日が来たね」というセンチメンタルな詩を作っています。1945年東京大空襲後、米国の日本向け放送、「ブラック・レジオ」といいますが、それは次のように賀川豊彦を貶める内容を報じています。「連合軍が戦争に勝ったならば、賀川は総理大臣になって米国に協力し、日本のキリスト教徒を第五列とするであろう」と。ようするに賀川は米国の味方として米国の隊列に組み込まれるであろうということです。国民的人気のあった賀川が裏切ったというキャンペーンを張ったのです。賀川はそれに反論し、1945年7月、米国に呼びかけました。「アメリカよリンカーンの精神に帰れ」と。そして、日本が負けた8月30日、読売新聞にマッカーサー宛の手紙を書いた。「閣下は多数の日本人を観察されたでありませう。そしてまたその日本人が口をきっと結んでゐる表情に気づかれたことと思ひます。日本人は最後まで戦ふつもりでゐました。おそるべき原子爆弾が、やがてわが身辺に落下するとゐふことを予想して覚悟しなかったものは只一人もありますまい。…陛下の詔勅によって戦争から平和へと完全転回しました。その決意の固さと新しい理想への出発点の努力が、閣下の見られる日本人のきっと結ばれた口元の表情なのです。このやうな民族が、国家が、他に例を見ることが出来ませうか。…総司令官閣下、私は率直に貴官に言わねばならぬ。サンフランシスコ会議の31の結論、国家の安全保障、国際裁判、国際警察の設立だけでは、日本をはじめ、多くの失業国家を見出すであらう。…閣下の外人収容所に対する給付品の投価物は正しく浦和に投下されました。それを受け取った人達(外人捕虜−本山注)は、熊谷の戦災者たちにそれを贈りました。これは何を意味するでせうか。力で治めるよりも心でゆくべき千古の真理を例示するものです。」と。(「愛と奉仕。賀川の信念は日本の軍部にも米国にも媚びなかった。権力に憧れ、権力の行使に喜びを見い出し、平気で大衆を金儲けの巨魁たち差し出す卑小な人間とは異なる高尚な精神を、日本は確かに持っていたのである。今こそ、この事実を思い起こそうではないか。」(本山美彦:『売られ続ける日本…』))このように懸命になって戦後の占領政策に反抗していた人たちがいたのです。

 原爆が落ちるということを皆知っていたのです。呉や神戸でもそうですが、1トン爆弾とか10トン爆弾がどんどん落ちてきました。米国は広島の原爆「リトルボーイ」は実験をしていましたが、長崎の原爆「ファットマン」は実験をしていませんでした。失敗する可能性がありました。そこで、10トン爆弾を沢山落として、そのうちの1つが原爆で、もしそれが不発なら黙っていればいいということでした。いきなりではなく、我々は慣らされていたのです。原爆の開発があったらしいという情報は入っていました。 私の父も軍需工場に勤めていて、日本の仁科博士の動向なども知っていました。日本も鴎緑江国境で実験をやろうとしていました。日本人は新型爆弾が落ちてくるらしいということを覚悟していました。日本の左翼は平和万歳、米国万歳、進駐軍万歳、解放軍万歳というばかりで、戦争の原因を調査することをさぼっていました。戦争をきちんと検証していたのは右の方でした。なぜ戦争が起こったのか、避ける方法がなかったのかと。あの時、左翼陣営がさぼったツケは大きい。

賀川はノーベル平和賞の対象者になりましたが、米国側から太平洋戦争中、賀川が反米を唱えていたということで見送られています。

2 宮澤喜一について

 宮澤喜一が1945年8月について書いています。「東久邇宮内閣という日本で初めてで、その後にも例のない皇族首班の内閣が出来た。当時誰も戦争に負けたことがどういうことか分かっていませんし、占領についてもどういうことか分かりませんでした。とにかく電気がついてうれしかった。屈強な米兵が来るというので婦女子の安全を図らなければならないから政府が慰安所を作ることまで閣議決定した。こんな変なことに日本人の意識が傾くありさまだった。そこいらがまず占領というものではないかと思いました。占領とは文字通り、政府がやること・箸の上げ下ろし一つに至るまで第一生命ビルにいるマッカーサーの指示を受けるのです。地方には軍政部があり、県庁の人は皆そこへ行って指示を仰ぎます。これ以上の屈辱はないのですが、そういう状況であって、それは行政府ばかりではありません。国会そのものに占領軍司令部の国会担当者が乗り込んできて、指示するのです。そうした屈辱の最たるものが、日本の議会制度の確立に非常に寄与したという理由であるアメリカ人が叙勲されました。そのアメリカ人は国会に乗り込んできて、ああやれ、こうやれと指示をした男でありした。国会に貢献した人ではありません。ただ口やかましい人に過ぎなかったのです。50年も経つと、こういう指示が国会制度に寄与したことになるのだなと実に複雑な思いがしたのであります。良い占領などは本来あり得ない。日本政府という大組織があり、一方占領軍という大組織があると、日米が対立するのが当たり前ですが、そのうちに例えば、財政は財政どうし、交通は交通どうしで気持ちが通じてきますから、相手国との対立だったはずが、次第に自国の部門どうしの対立になるのです。組織というものは時間が経つとそういうものですが、それをうまく利用したりして何とか日本はやってきました。もう占領はごめんだと日本は思うし、アメリカ側でもマッカーサーは占領は長くやってはいけないとい哲学を持っており、当時の吉田総理も早期に占領を終結させようと努力していました。」「市場経済にはそれなりの欠陥がある。世の中においては貧しい人と富む人との間に財産格差・所得格差がある。そういう貧富の差を再配分することが、そもそも政治の機能であるとソーシャル・デモクラッツは考えます。ですから高額所得者からは高い所得税を取るべきであり、資産課税は厳しくすべきである。産業政策も労働政策もある程度は政府がしなければなりません。それがために政府があるのであり、極端にいえば、市場経済でよいのなら政府はいらないのだと私は考えます。そういう立場の政党が日本でどれくらい成功するか別ですが、そういう政党が生まれてくるなら、私は誠に理屈が合っているなと思います。」たいしたものだと思います。あの状況の下で我々が人間らしく生き延びようと思えば、占領軍と闘わなければならない。その闘うときに我々は何をしてきたか。残念ながら、かつての保守系の連中の方が骨があった。

3 幣原喜重郎について

幣原喜重郎((しではら きじゅうろう、1872 1951年)日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:194510 - 19465月)、第40代衆議院議長)を調べておりましたら、今月発売の『月刊現代』9月号で立花隆が「私の護憲論−憲法第9条の発案者はマッカーサーか幣原喜重郎か」を書いています。勘所をつかんでいます。

 幣原喜重郎は軟弱外交と言うことで日本の軍部から嫌われた男です。結論から言うと彼が今の憲法第9条を作ったのです。誇らしげに語るべきです。なぜに日本は戦争に踏み切ってしまったのだろうということで、東大の連中が入江俊郎(いりえ・としお1901-1972年 194511月法制局次長、翌19463月法制局長官。この間、日本国憲法制定、憲法付属法令の立案責任者として尽力した。1948年以降、国立国会図書館専門調査員、衆議院法制局長、最高裁判事)という人を呼んで講演させました。その証言があります。ホイットニー(コートニー・ホイットニー WhitneyCourtney)という連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局長がいました。マッカーサーが首になったときに自分も辞めていきます。その後フランク・リゾー大尉が民政局長になります。入江はそのフランク・リゾーに第9条はだれが作ったかと聞きました。世間一般ではマッカーサーだというのですが、フランク・リゾーは幣原だといったのです。幣原がマッカーサーにうったえた。マッカーサーがそれを採用したのだと。マッカーサーが作った文書です。1946年2月13日です。その前、2月1日に日本側が自主憲法を作ります。それが毎日新聞にすっぱ抜かれます。そこでGHQが激怒するのです。これでは明治憲法と何処が違うのかと。そして、2月4日にホイットニーに憲法草案を考えるように命じたのです。ホイットニーは幣原と相談し、幣原から意見を聞いて出来たのがGHQの草案です。研究者間では争点ですが。何らかの形で第9条を取り巻く取引があったのです。

 2月13日のGHQ草案は「国権の発動たる戦争は廃止する。いかなる国であれ、他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍のその他の戦力を持つ機能は将来も与えられることなく、交戦権が国に与えられることもない。」というものでした。

現在の憲法第9条

「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となっています。単純な学者・自民党の幹部たちはこれを並べて、憲法はマッカーサーの押しつけであるというのです。確かにこれだけを並べればいささかの違いもない。しかし、幣原がマッカーサーに渡した文案があります。「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護をいまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」戦争を放棄する、軍隊を持たないばかりでなく、自衛権も持たないということです。かつてのガンジー・毛沢東に並ぶ考え方です。外国が攻めてきても、全ての日本人を皆殺しにはできないであろう。そのうちに国際世論が反対するであろう。少なくとも軍隊を持たない国からは外国軍は撤退するであろう。ガンジーの無抵抗主義であり、毛沢東が「米軍は張り子の虎だ・人民の砦によって核爆弾なんてどうってことはない」といった論理に匹敵します。

 幣原は、ここまで言わなければ日本の戦争責任は償えない、一切の武力を放棄する、自衛権も放棄する、このことによって始めて日本は国際社会に受け入れてもらえるんだ、その為に自分は命を賭してマッカーサーを口説くと言った。この辺りのことを大事にしたい。幣原は、支配層の一角ではあった。しかし、少なくとも、日本の軍部からは遠ざけられていた人であった。このような骨のある右と我々が連携を模索してこなかったことが今の日本の悲しい姿を作ってしまったのです。この『消された伝統』(本山美彦ブログ名)をもう一度思い起こさなければ日本の再生はありません。我々が外国へ行ったときに大声で日本語でしゃべる日本人に対し「日本人か」という地元民の嘲りの目は耐え難いです。「外国に行ったら英語でしゃべれよ」といいたいです。このような外国人にデリカシーの無さを批判されるわけです。これには、戦争責任をあいまいにしてきたことも影響しているのでしょう。幣原が言うように、彼らが反省しろということ以上の言葉で反省しなければなりません。

後に、ケーディス(チャールズ・ルイス・ケーディス Charles Louis Kades, 1906年−1996)は米国の官僚・軍人・弁護士。連合国総司令部における日本国憲法草案作成の中心人物)が自衛権放棄案を勝手に抹消したのです。勝手に抹消したことにマッカーサーは憤った。マッカーサーは自衛権の放棄を含めて、これが全てなんだということを古森義久((こもり よしひさ、1941 - )ジャーナリスト、産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。)がインタビューで引き出しています。江藤淳が『占領史録』(講談社文庫)として作っています。残念ながら左翼にはこういう研究はありません。

左翼研究者が悪いことは全てを数量化してものを考えてしまうことです。階級だとか、GDPだとか、所得格差がどうだとかです。しかし、大事なのは人間関係です。誰と誰が親しかったか、誰と誰がケンカしていたかの人間考証史を左翼文献で見つけることは難しい。残念ながら右の連中の独壇場です。

幣原が懐刀として使ったのが、青木得三という経済学者です。中央大学の経済学部教授となった人です。「大東亜戦争調査会」というのを作るのです。彼は、「大東亜戦争調査会」の模様を書いています。青木得三は大蔵省に20年以上いましたが、幣原喜重郎に個人的に付き合っていたのです。1945年の11月に幣原が「大東亜戦争調査会」というのを作りました。どうして無謀な戦争を我々はしたのか、その証言を得るために、陸軍から3人の中将、海軍から3人の中将、政治家からは重光馨、近衛文麿、児玉誉夫らを入れています。これが幣原の評価の分かれるところです。もちろんソ連はいちゃもんを付けてきました。そこで、「大東亜戦争調査会」は半年でさたやみになりました。青木の本を読めば、幣原がいわれるような悪い人ではなかったことが分かります。必死になって当時の模様を浮き彫りにしようとしたのです。現実に戦争命令を下した人間の証言を得なければ何の歴史的証明にもなりません。「大東亜戦争調査会」というのは非常に大きな役割を果たしたと私は思っています。リベラルな連中も出ています。読売新聞の論説員だった馬場恒吾、兵庫県の伝説的な反戦の政治家斉藤隆夫、片山哲、高木八尺、東畑誠一、小汀利得、大内兵衛、有沢広巳、和辻哲郎、阿部真之介らです。蒼々たる右の連中を入れると共に、そうそうたる左の連中を入れてバランスを取ったのです。

(これからの大学は国からの補助が減らされます。科学研究費といって、いい研究だといったところに国の研究費がどっと来る。私は科研費を要求しましたが、第一次審査で落ちました。こういう形で思想統制がきます。無言の圧力があると思います。)

 東畑、大内、有沢は左翼中の左翼です。何回も東大を首になり、反戦活動を貫いてきた。そうした男たちが戦後吉田内閣のブレーンだったのです。傾斜生産方式から戦後復興を生み出した経済学者たちはみんな左だったのです。誰一人米国万歳者はいませんでした。

細川隆元 朝日新聞元政治部長が次のようなことをいっています。「幣原説を調べたときに、幣原氏自身は直接私に憲法第9条は全く自分の発案だと語られた。只でさえ軟弱外交として拒否されてきた幣原さんが、9条は自分が作ったとなったら日本の人たちは総反発したであろう。だから言えなかった。それはマッカーサーのせいだということによって日本人は受け入れるであろうと。幣原さんの性格から嘘をついているとは思えない。青木得三は、幣原が懸命に9条を作ろうとしていたことを我々は見なければいけないと言っている。」と。幣原喜重郎が1946年3月27日の戦争調査会での挨拶の中で、「先般政府の発表しました憲法改正草案草稿の第9条におきまして、国の主権の発動として行う戦争及び武力による威嚇はこれを永久に放棄すると掲げられております。かくの如き憲法の規定は、現在世界各国いずれの憲法にもその例を見ないのでありまして、わが国一人、陸海空軍その他の戦力はこれを許さず、国の交戦権はこれを認めないということは、全く現在においては異例に属することでございます。今なお原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは夢の理想である、現実の政策ではないと考える人がいるかもしれません。しかし将来、学術の進歩によりまして、原子爆弾の幾十倍・幾百倍にわたる破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することが出来ましょう。もし左様なことが発見されたる暁におきまして、何百万の軍隊も何千隻の艦艇も何万の飛行機も全く威力を失って、短時間に交戦国の大小都市はことごとく灰燼に帰し、幾百万の住民は一丁皆殺しになるということも想像せられます。今日我々は、戦争放棄の宣言の大旗をかざして国際政局の広漠たる野原を単独に進みゆくのでありますが、世界は早晩戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ旗をかざして、遥か後方からついてくる時代が現れるでありましょう。」と述べています(青木得三:「平和憲法は米国製ではない−幣原さんの悲願」『平和』昭和29年5月号)。これはすごいと思います。確かに夢物語です。でも、今世界にうったえるには、これしかない。これが、ソ連によって右翼のアンシャンレジュームではないかといって消された大東亜戦争調査会の最初の冒頭の挨拶です。青木さんが1947年から1952年まで『太平洋戦争前史』全6巻(学術文献普及会 昭和2526)を出しています。命を賭けた研究です。

もう1つの例ですが、青木は「幣原さんから呼ばれて行くと、コリンズという中佐が戦争調査のことで訪ねてきた。幣原さんは新憲法の戦争放棄の条項を誰が思いついたかを彼は質問してきた。彼は、マッカーサーが押しつけたというふうに日本はいわれているが、本当は日本人の誰かが言ったのではないかということを探りに来た。あなたもどうせ呼ばれるだろうから慎重に発言するようにと幣原に言われていたので、私はコリンズには幣原のことをいいませんでした。」という証言をするのです。論争が始まるときに、この証言の信憑性が議論になりました。

入江の証言。「幣原さんが急に亡くなられて、林さんが後任の衆議院議長になられたときマッカーサー総司令官のところに挨拶に行かれた。マッカーサーは憲法第9条は全く幣原さんの発案であり、幣原さんが余り強く主張するので私もこれに同意したと話されたそうであります」としています。

これも入江の証言。マッカーサーは、林が1950年5月3日に訪米したときに林に言った。「幣原さんが総理の時に日本国憲法の制定に当たられたのであるが、Mr.幣原は日本は一切の戦力というものを放棄すると言った。その時にこの非常に高邁な思想というか、その崇高な精神に打たれて私は非常な敬意を持っている。これは全く世界にどこにもない一つの手本を示すものだと考えており、その当時既に自分としてはこの考え方は早きに失するのではないかという感じを持ったが、現在の世界情勢を見るとどうも50年くらいは早かったのではないだろうかね。」この段階であの9条をその時マッカーサーはあの9条は幣原のものであるということを、マッカーサーは、みんなの前で、衆議院議長の前で証言したのである。

入江の証言は続く。「天皇制を残してくれと幣原はいった。マッカーサーは出来る限り協力するといったのでほっと一安心した。次に、幣原は世界中が戦力を持たないという理想論をマッカーサーに展開した。その為には戦争放棄すること以外にはないといった。これを聞いた途端にマッカーサーは急に立ち上がって、両手で手を握り、涙を目にいっぱいためて『そのとおりだ』と言い出したので、幣原はびっくりしたという。しかし、マッカーサーも長い悲惨な戦争を見続けているのだから身にしみて戦争はいやだと思っていたのであろう。」「世界から信用を無くしてしまった日本にとって、戦争をしないと言うことをはっきりと世界に声明すること、只それだけが、敗戦国日本を信用してもらえる唯一堂々と言えることではないかとマッカーサーに言った。」

 入江。幣原さんは敗戦の日・8月15日に街を歩いていると、一般大衆が怒り狂っていた。「彼らの憤慨するのも無理はない。戦争はしても、それは国民全体の同意も納得も得ていない。国民は何も知らずに踊らされ、自分が戦争しているのではなくて軍人だけ戦争をしている。我々の子孫をして再び自らの意志でもない戦争の悲惨時を味わうことの無いようにと思ったと言った。」

マッカーサーが言いだしたのであれ、幣原が言い出したのであれ、少なくとも、戦後日本の責任を償うにはそれしかないと当時の日本の為政者たちは思っていたと言うことです。日米安保条約は国会を通ったのではなく、サンフランシスコ講和条約の時に、時の吉田茂首相が議会の同意を得ずに一存でやってしまった。日本の再軍備復興を米国から要求されたので、そんなことができるか、米国が日本を防衛してくれるならいいということで約束してしまった。帰ってきて吉田は袋だたきに合うわけです。これをどう理解するかは難しい問題ですが、少なくとも左翼陣営は戦後の命を縮めるような外交について、ほとんど理解ができていない。だからフランスのような国民戦線ができないのです。戦後の出発点で我々は正しい選択をしたということに自信を持つことです。私の『民営化される戦争』(2004年ナカニシヤ出版)で書きましたが、アイゼンハワーは、これまでは米国は平和な国であった。農機具メーカーが、戦争で儲かることが分かった途端に、武器メーカーになってしまった。武器を蓄えればいつか使いたくなるものだ。そのために米国はしなくてもいい戦争にこれから巻き込まれるであろう。これからは米国人は、市民はそのような産軍複合体の陰謀を阻止するべく監視を怠ってはいけない。あえて言う。私は戦争の悲惨さを見てきた。戦争の悲惨さを見てきたが故に二度とあのような惨禍をしてはならない。人類何千年の歴史が一瞬の戦争で破壊される。そういう暴虐をというものをなくさなければならい。という趣旨の演説を大統領を辞めるときに全米にラジオ放送で流したのです。

今の米国はチェイニー副大統領、ラムズフェルド前国防長官にしても文民です。文民統制というのは軍隊が暴走することを冷静な文民が諌めることだと私どもは簡単に考えます。しかし、チェイニー、ラムズフェルドは産軍複合体の経営者です。戦争することによって彼らはどのくらい儲かるのか。自らはワシントンの安全圏にいて、部下たちにああしろ、こうしろ、死んでこいというわけです。現在のシビリアンコントロールは基本的に間違っています。産軍複合体との利害関係を持つ者は一切軍の命令系統に入ってはいけない。アメリカの場合は、ほとんど、ロッキード・グラマンをはじめ兵器を作る会社の経営者などが国防長官などになっている。こういう時代に、マッカーサーが幣原の提案に涙を流したということは非常に大きな意味を持つわけです。

わが日本の一番悪い選択は改憲をすることです。教育基本法の改正を始めとする一連の法律の改正は、3年後の憲法改正発議をめざしたものです。国民投票法は18歳から投票権を持つ。18歳から投票権を持つということは、現在の高校1年生から「愛国教育」をしなければならない。その間、「北朝鮮は攻めてくると」いったことを繰り返せば、我々壮老年がいくら反対しても若い連中が競って投票に行くことになる。ご存じのようにナチスが台頭したのは、ヒットラー・ユーゲントの若者たちでした。若い人たちは煽られやすいのです。私の場合、印鑑登録が遅れていますが、いやらしい教師がいるが、印鑑登録をしていないぞということで逮捕できる。運転免許証が現住所になっていないというのも公文書違反で逮捕できる。国民投票法は「公務員はビラを撒いてはいけない」「学生に煽ってはいけない」としています。憲法改正は、国民投票法、憲法改正発議、国民投票、という3段階で行われますが、第一段階の突破口が開かれたのです。今回の参院選では、護憲派が討ち死にして、もしかすると、改憲に賛成するのではないかという議員が票を伸ばしても、現在の安倍をむちゃくちゃ蔑ろにして、次に小泉が来たときにヒットラーの再来だといえるわけです。

4 アーミテージ報告

日本のジャーナリズムではほとんど注目されませんでしたが、アーミテージ報告というのは非常に恐ろしい内容を含んでいます。今年の2月、アーミテージを代表とするグループがレポートを出しました。『日米同盟 2020年に至るまでのアジアを正しく導く』(TheU.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020)『第二次アーミテージ報告』)というものです。よくこのような文書を出したなと思います。7年前に、このグループは『米国と日本 ―成熟したパートナーシップに向かって』(The United States and Japan: Advancing Toward a Mature Partnership)というレポートを出しています。これが『第一次アーミテージ報告』です。

『第一次』はブッシュ政権に対しての就職運動でした。『第二次』は次期「民主党」政権に対する就職運動だと見た方がいいと思います。共和党は負けると思います。1996年に日米安全保障宣言というのがあり、日米安全保障が必要であると強調されましたが、具体性が欠けていた。そこで、軍事に関心のある16人が、踏み込んだ対日政策の道筋を提言したのが『第一次アーミテージ報告』です。2000年11月に選出される次期大統領にアピールしたのです。これが功を奏して、ブッシュ政権発足後、16人の知日派グループからアーミテージをはじめ、ウォルフォウィッツ、ケリー、パターソン、グリーンが新政権の要職を仕留めたのです。一種の猟官運動です。

 日米同盟の基礎を作るための政治、安全保障、沖縄、諜報、経済関係、外交の 6つの分野での行動指針を提示しました。我々は日米安保条約といいますが、岸内閣の時の日米安保条約改定時の問題は軍事だけではなかったのです。日米経済は一体化すべきであるとう第2条にあるわけです。それが恐かったのです。あの段階で、日本は米国のいうことを聞くことが条件づけられたのです。我々は米国の餌食になってしまっているのですが、この餌食から脱出しようとすれば、日米安保条約の廃棄を照準にしなければなりません。

ブッシュ新政権は第一次報告のことごとくを採用しました。そして、今回、再度、米国大統領選の直前に、しかも、イラク問題で手詰まりの状況下で、前回とは軸足をずらせた報告が、提出されたのである。内容的には、日本の軍事強化と、日米中との多角的安全保障構造の構築を謳ったものであり、米国の一極主義をそれとなく反省したものです。我々は、北朝鮮に対し急に米国は軟弱になったといいますが、既にこの第二次報告で方向性は決められていたのです。アジアの変化が自分たちの出番を用意するだろうという再度の就職活動です。

第一次アーミテージ報告は日本を破壊しました。

 『第1次報告 』では、ブッシュ政権の対日指令のほぼすべてが盛り込まれていた。

 政治に関しては、政・財・官を結ぶ「鉄の三角形」を打破すべきであることが強調されていました。「官僚癒着の自民党をぶっ壊す」というものですが、その通りになりました。しかし、実は新しい三角形ができているだけです。

 安全保障に関しては、集団的自衛権を日本が認めていないのは、日米同盟にとってがんであるとされました。「日米防衛協力指針」(いわゆるガイドライン)は上限ではなく、下限(基盤)であるとし、そのためにも「有事立法」を完成させるべきだとされ、防衛産業面で日米が協力すること、ミサイル防衛でも両国は協力しなければならないことが強調されました。これらは全部実現しました。

沖縄に関しては、地勢的に依然として重要であることが確認され、その上で、「日米特別行動委員会」(SACO)合意に基づいて、米軍基地の再編、統合、縮小を行うことが打ち出されました。しかし、アジア・太平洋地域への迅速、且つ、効率的に海兵隊が展開できる体制を整備すべきだとされていた。今までは、ソ連という共同の敵がいて、陣地合戦だったのです。今は巨大な敵はなく、ゲリラ戦だと、だから、いつでも、どこからでも攻撃できなければならない。イージス艦です。世界何処でも補給路を確保するのではなく、補給は日本の近くでは日本の自衛隊が補給してくれる。臨機応変で、飛行機で戦争する。具体的には日本の米軍基地は日本に返還されるであろう。但し、日米の共同使用で、運用費用は自衛隊に出させる。一番安上がりで日本各地の空港が使われていくと思います。

私は、神戸空港に疑いを持っています。関西空港、伊丹空港、岡山空港があって、なぜ、神戸空港を持つのかです。市民は大反対でしたが、建設されました。那覇、鹿児島、佐世保、北九州、新潟便が飛んでいますが、これらの地の港は、アジアで戦争が始まったときに、まっ先に負傷兵が運ばれてくるところではないか。神戸空港を降りれば再生医療都市です。世界の最先端の医療が受けられます。しかも、米スタンフォード大学と遠隔指令で結ばれている。おそらく、アジアの有事を考えています。我々は、PETなどを受けに行きますが、いろんなアジア人の医療データが収集されていくのでしょう。神戸の非核宣言都市は撤廃されていくでしょう。

 諜報に関しては、日米間の諜報能力の統合が謳われていたました。そのさい、日本は日本固有の諜報能力を強化しなければならないとされ、具体的には、諜報活動を合法化する立法の必要性が強調されていたました。諜報活動の資金分担の均衡も要求されていました。みなさんは、あぶない電子メールは使わない方がいいですよ。漏れ漏れです。私の好みの本が次々に宣伝で送られてきますが、メールを精読しなければ私の好みなど分かるはずがない。メールの中身が分析されているのだと思います。

 経済協力に関しては、市場開放、グローバル化に民間部門が対応すること、規制緩和、貿易障壁の撤廃、経済の透明性確保が強調されました。米国政府は、日本にこれを促してきたが、日本はなかなかそうした問題解決に対応してくれなかったとして、次のような由々しき裏話を『第1次報告』は漏らしていた。「業を煮やした歴代の米政権は、さまざまな通商政策のオプションを練り上げ、作り替え、日本政府がこれらを採択するように促してきた」。

 何のことはない。米国の指令通りに日本政府が動いてきたという、国内からの批判に対して、日本政府は断固否定してきた。しかし、このレポートは、米国政権が日本政府に圧力をかけ続けてきたことを平然と漏らしていたのである。ブッシュ・小泉政権下での『日米投資イニシアティブ』は、このレポートの要求の具体化であった。

この中身が2年前に出した『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(2006年 ビジネス社)なのですが、同じことを書いている関岡英之さんの本の方が有名になりました。

さらに、日本の労働者は「いごこちのよい終身雇用」の享受を止めるべきであるとまで言われています。

 ITに関しては、それが、規制緩和とビジネスの柔軟性をもたらすとの位置付けが行われていました。

 外交に関しては、米国のアジアにおけるポジションを日本政府は支持すべきであるとした上で、日本が、国連安保理常任理事国になる条件として、国際的な「集団的安全保障上の義務を果たさねばならない」としていました。あるいは、銀行問題の処理、財政金融刺激政策の継続(ゼロ金利)、橋・トンネル・高速鉄道建設の見直し、会計制度の変更、自由貿易協定をシンガポールだけではなく、韓国、カナダ、米国にも広げること、農業保護の見直し、ロシアの天然資源開発への協力、インドネシア支援、等々、箸の上げ下ろしに至るまで行われているのです

『第2次アーミテージ報告』の改憲要求

 元駐レバノン大使・天木直人氏が、とりあえずの評価だがと断られた上で、『第2次アーミテージ報告』は、「日米安保条約の米国からの事実上の決別宣言である」と発言されています。その論拠を同氏は2つ示している。1つは、アジアの共産主義を防ぐことが目指されていた日米安保でなく、米・日・中の調整によるアジア安全保障の構築を米国が考え始めていること、2つは、日本が自主防衛を目指した兵力充実、憲法改正、集団的自衛権の承認に踏み込もうとしている日本政府の動きを米国が歓迎していること、がそれである。

 確かに、日米同盟のみを重視すれば、日米ともにアジアで孤立するといった認識が報告では示されている。アジア全体の安全保障を確保するためにも、「日本は、自主防衛に責任をもつべきだ」と報告では書かれている。"However, it is important that Japan shoulder  responsibilities in providing for the mainstay of its own defense." そのためにも、「日本は憲法問題を解決」しなければならないと指摘されている("Japan chooses to.....resolve constitutional questions.")日本はこの第二次アーミテージ報告に沿って動くのでしょうか。

気になる個所をいくつか列挙しよう。まず、日本の防衛費の増額要求。

 「日本の総防衛費は世界の5指に入るが、対GDP比では134番目にすぎない」。

 「米国は、なるべく早く、F22のような飛行連隊を日本に配置すべきだし、日本の航空自衛隊が、米国の最新鋭の戦闘機を導入するように図るべきである」。

 防衛庁時代には、独自の予算編成ができなかったが、省に昇格した防衛省は、首相を通さずに予算要求ができることです。日本の防衛予算は、増額の一途を辿るでしょう。高額の米国製最新鋭戦闘機、ミサイル、艦船を買わされるために。米国の軍産複合体にとって、日本はますますおいしい市場になるのであろうと思います

 これまでの日米安保体制は、日本の軍事的強化を抑制する側面をもっていました。しかし、自主防衛を促し、憲法改訂までをも示唆した今回の報告によって、日本は米国第51番目の州としての軍事活動を米国のために提供する義務を負うことになるでしょう。報告が、2020年以降も朝鮮民主主義人民共和国が核兵器を開発し続けることの可能性を指摘し、

 「核問題は朝鮮半島の統一でしか解決できない可能性が高まっている」

と叙述したことは、北東アジアでの軍事的緊張に日本の軍隊が対応すべきであることを示唆したものです。

 そうした軍事的な強化を促す一方で、報告には、APEC重視の姿勢が見られます。2010年の日本でのAPEC首脳会議の開催準備まで訴えています。これは、アジアが固まることをアメリカが恐れていることを示しています。そこで、オーストラリアやカナダやメキシコやチリを入れろとなる。日米安保条約はアメリカ以外と浮気するなというものでしたが、今回オーストラリアと日豪軍事同盟を結んでいるのです。2月にチェイニー副大統領が日本に来ましたが、これが目的でした。日本の野党は何をしていたのか。やっと、国政調査権を持つことができますので、こうした大事なことを野党は追及して欲しいです。日本やASEAN主導下の東アジア共同体を牽制する意味である。APEC中心のアジア編成を米国が日本に要求しているのである。おそらく、米国は、中国を米国経済圏に組み込む決断をしたのであろう、また、インドというものも組み込んでいくということです。就任後、真っ先に安倍首相が訪中したのは、そうした米国の対中戦略転換を反映したものだったのだろう。       

 この報告を梃子に、日米の「経済統合協定」(EIA)締結、憲法改訂と日本の自主的防衛力の増強を前提とした日米軍事同盟の強化が、安倍政権に突きつけられた米国の強硬な要求となることは、まず、間違いないわけです。

 今日、憲法改正を要求する最大の勢力は、米国です。日本の憲法を変える、これは日本の義務なんだという米国の論理の延長上に我々があっていいのでしょうか。我々は米国と心中していいのか。米国にはろくな産業がありません。全世界を荒らし回って、輪転機を印刷して、最も安いところから商品を買ってきて、失業する若者を世界中に語学講師として派遣する。そこで日本語を覚えれば、引き抜かれた日本会社に就職する。

 日本には、銀行・証券・保険業界の垣根はあるのですが、米国では、シティーグループというこの垣根をなくした巨大金融機関が出現した。1998年に金融近代法の下で形成されたものですが、このシティーグループに日興は乗っ取られたのです。日本の法律はどうなっているのでしょうか。銀行法44条、証券法65条はどうなっているのでしょうか。そして、今年中に日本の証券法がなくなるのです。こんなことをやらせておいていいのでしょうか。われわれのなけなしの金がみんな米国へ行ってしまうのです。OECD加盟先進国中の50%の貯蓄を日本1国で持っている。米国は貯蓄ゼロです。人の金で商売しているのです。我々はゼロ金利、米国は5%の金利です。日本のカネが乗っ取りに使われ、我々の地場産業にはお金が回らないのです。

 私たちの大事なことは、必要なものは作っていくことです。教育は自分たちの手で行うことです。大事なことは民族教育です。その為にはアジアと友人になければならない。中国、韓国と友人になり、北朝鮮とも、台湾とも、ベトナムとも…。

 そして、経済の再構築に持って行くしかない。日本との経済的交流において、米国を抜いて中国が1番になってしまいました。日本は、アジアの中に生き残っていくしかないわけです。貿易はアジア大陸内部で完結しています。日本はその網から外されてしまっています。アジアには、日本はもういらないのです。そこにヨーロッパが入ってきているのです。日本に留学しない、独仏に行く状況です。中国公共投資・新幹線も敗退に次ぐ敗退になってしまいます。こういうときに靖国参拝して何になるかです。現在の憲法第9条を、ここまで苦しんで作ってきた、この努力を、現在の日本人は、一度継承するから、アジアの皆さん、見てくださいということが大事なのです。

現在の憲法はそう簡単に変えられない憲法です。米国の憲法などは常に変わっています。戦後60年経っても変わらない憲法はおかしいと思うかも知れませんが、なかなか変えられないように作られているのです。それは我々の財産です。どのような政党が今後出来るかも分かりませんが、憲法は、政党・権力者にくさびを打ち込む財産なのです。政権が変わっても憲法は変わらないということなのです。変えてはならない性質を憲法に付与したのです。今からでも遅くないので、幣原さんらが努力したことを、自民党の中に提携できる友人を見つけることです。橋本派は反米、森派は親米でした。台湾派は親米、中国派は反米でした。靖国神社のA級戦犯合祀は日中平和条約締結の年でした。台湾派がA級戦犯合祀を押し切ったのです。こうした歴史を1つ1つ発掘していかねばなりません。米国・中国との関係で自民党は分裂したが、それをチャンスとして当時の野党はみなかった。だから橋本派は壊滅させられました。米国から距離をおこうという連中が全員パージを受けた。その後にアメリカの後押しで成立したのが、小泉政権なのです。政治的嗅覚・政治的感覚をきちんと理解しておかなければ負け犬の遠吠えになってしまいます。

 

質問

T…幣原喜重郎首相が戦争放棄を提案した動機に天皇制を守るということがあったといわれています。天皇制を一旦廃止したら復活させることは出来ない。軍隊は再建することはできるという彼一流の思いがあったと立教大学の中沢先生がおっしゃっていましたが、どうでしょうか。

本山…天皇制をどうするかですが、戦時中、米国はエマーソンを特使として、中国延安に送って、中国にいた当時の日本共産党の幹部・野坂参三((18921993年)慶応義塾大学理財科を卒業後、日本共産党へ入党、1930年に同党を代表してモウクワに送られ、その後中国の延安で反戦運動を指導、46年1月に帰国した。)と会っているのです。天皇制のために日本共産党は闘ってきた。共産党としては天皇制の廃止をいいたい。しかし、残念ながら、(当時の日本人は)天皇制は宗教である。これを廃絶するとそれこそ1億総決起で抵抗するかも知れない。天皇制は戦略として残すべきではないかと野坂は答えている。そこで、取引として、ポツダム宣言を受け入れると、府中刑務所に収容されている日本共産党の幹部である徳田球一(とくだ きゅういち、1894年‐1953年 沖縄県出身 弁護士、日本共産党の創立に参加、中央委員となる。1928年の315事件で検挙され、以後18年間を獄中で非転向を貫いた。日本共産党書記長(初代))らは虐殺されるであろう。だから、まっ先に府中にいってくれといったのです(徳田らは解放されて、進駐軍を「解放軍」といってあとから笑われることとなりますが)。しかし、共産党の幹部ですらそう言わざるを得なかったのです。

日本にはまだタブーがあります。“天皇廃絶”といった瞬間に、憲法改悪阻止が言えなくなるのではないか。「美しい国日本」の縦糸に天皇制があり、よこ糸があって織物をつくっているのです。福井に来て越前と関係のあるといわれる継体天皇のことも少し研究していますが、継体天皇についても、王権を簒奪した王であるとは言えても、天皇廃絶までは言い切れません。幣原さんは天皇維持論者であったとは思います。

A…靖国神社A級戦犯合祀のことで台湾派との関係について詳しくお願いします。

本山…当時、京都では台湾派と中国派の学生が対立しました。光華寮事件((こうかりょう) 1967年〜 京都市に所在する、中国人の留学生の寮(学生寮)の土地・建物の明け渡しをめぐって争われた)などということもありました。1971年のアメリカの頭ごなし外交でニクソンが中国へ行きました。その時、田中角栄らは行こうということで浮き足だった。しかし、当時の保守派は現在の中国を「中共」(「中国共産党」の略称であるが、1949年に成立した現在の中華人民共和国を、一時的に中国共産党の支配下にある地域であるとし、未承認であった)と呼んでいました。一方、台湾は国府(国民政府)と呼んでいました。台湾が正式国家であり価値が上だったのです。その価値観がひっくり返る。そのアンチテーゼとしてA級戦犯合祀を持ってきたのだと思います。このような戦後史の闇を暴いていきましょう。

 

(資料)

 アーミテージ氏の経歴

 リチャード・L・アーミテージ(Richard Lee Armitage)氏は、1945年生まれ、1967年アナポリス海軍兵学校卒、兵学校時代には、アメフトとウェイト・リフティングの選手、ベトナム戦争時、駆逐艦で勤務、1973年退役、1973年在サイゴンの米国防局(U.S. Defense Attache Office)に勤務、1975年国防総省情報局勤務、1978年 ロバート・ドール上院議員秘書、1980年ロナルド・レーガンの大統領選対外交問題顧問、19811983年国防次官補代理(東アジア・太平洋地域担当)、19831989年国防次官補(国際安全保障担当)、航空自衛隊次期支援戦闘機(FS-X)開発問題処理を担当、1989年在比米軍基地返還交渉代表、1991年湾岸戦争時ヨルダン特派大使。そして、1993年コンサルタント会社「アーミテージ・アソシエイツL..」を設立し、その社長になる。国防評議会委員、国防政策委員会委員、米国・アゼルバイジャン商工会議所理事、2001年国務副長官、2004年辞任。アジアの要人との会談は数知れず。タイ、韓国、バーレーン、パキスタンから勲章を授与されている(http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/aa/richardl.html)。

 そして、ジョセフ・ナイが共同編者である今回の『第2次アーミテージ報告』でのアーミテージの肩書きは、「アーミテージ・インターナショナル社長」になっている。ナイは、ハーバード大学ケネディ・スクール教授であり、オマーンのスルタン(Sultan of Oman)となっている。

 

★★★★★★★★★★★★講師プロフィール★★★★★★★★★★★★★★

本山美彦(もとやま よしひこ)

1943年 神戸市生まれ。京都大学経済学部を卒業、同大学大学院経済学研究科修士課程・博士課程に学ぶ。甲南大学助教授を経て、1986年、京都大学教授。2006年度より福井県立大学大学院経済・経営学研究科教授。

《主な著書》

『豊かな国・貧しい国』(岩波書店)『ノミスマ (貨幣)』(三嶺書房)『「帝国」と破綻国家』(ナカニシヤ出版・編著)『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』『姿なき占領』(ビジネス社)など著書多数

 

 

★★★★★★★★★★★ちょっといって講座実行委員会★★★★★★★★★★

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