月下木蓮<3>



 ある日の早朝。
 楊ゼンが洞府の中央にある広間に足を踏み入れると、玉鼎真人が身支度を整えていた。
「師匠」
 いささか面食らった様子で、楊ゼンは師の名を呼ぶ。
「今日はどうかなさったんですか……僕の方が早く起きたと思っていましたが」
 いや、寝台から動けたのか、と言った方が正しいかもしれない。
 玉鼎真人は気づいたように憔悴した黒眼を楊ゼンに向けると、
「ああ……今日は、小用があるのでな……山外へ、出る」
 昨晩の名残か、少し掠れた声でそうとだけ告げた。
「そうですか。……どこへ、行かれるんです?」
「……会合だ、十二仙の」
 玉鼎真人は一呼吸置いて呟くと、バサッと羅綾を羽織り、斬仙剣を手に取った。
 その秀麗な横顔は酷くやつれ、眦には暗い陰りがうかがえる。
 楊ゼンはそんな師の風体にわずかに眉をひそめると、
「夜は、戻ってこられますよね?」
 静かだが、断定的な口調で返答を促した。
「……ああ、多分……」
 顔を伏せて言う、彼の曖昧な言葉に、楊ゼンはスッと眼を細めて、
「わかりました。待っていますから」
「………楊ゼ……」
「それではお気をつけて、師匠」
 楊ゼンは腰を折ってかるく辞儀すると、すぐに玉鼎真人に背を向けた。
 カツカツと、冷たい跫音が床に反響しては遠退いていく。
 そして、後には静寂ばかりが残った。
「………楊……ゼン……」
 がく、と玉鼎真人は膝から床に崩れ落ちる。
 耐えていた汗が、頬に幾筋もの痕を作って床を穿った。
「……っ………」
 靄のかかる頭と瞳と……軋む身体とを痛いほどに握り締めて、
「………私は………」





「玉鼎、どうしたんだ、その顔!」
 会合の席について開口一番、隣に座っていた道徳真君が驚声を張り上げた。
 そんな反応を予想していたかのように、玉鼎真人はつとめて冷静に微笑んで、
「……大したことはない。このところ、少し寝不足なだけだ……」
「少しって……尋常な顔色じゃないぞ」
「大丈夫だ。それより……早く始めよう」


 会合といっても、さほど深刻な問題ばかりを話し合うわけではない。むしろ普段あまり会うことのない十二仙同士の語り合いの場のようなものだ。
 色々と取り止めのない会話が交わされるが、最後は結局、仙人界や人間界の行く末を案じる意見が飛び交うようになる。
 そんな大問題を吟じる論争に、簡単にかたがつくわけがなく……朝に話をはじめても、気づくと空には闇色の帳が下りていた。
 そしていつもその辺りで議論は打ち切りになる。
 ………崑崙の師表たる立場にある十二仙が、己を曝け出せるのは、同じ十二仙の間柄でだけだ。
 だから会合終了時は、皆一様にすっきりとした顔をしていた。
 玉鼎真人とて、今まではその例外ではなかったのだが……




「玉鼎……お前、本当に大丈夫か?」
 宮殿を出て、玉鼎真人が黄巾力士の元へ向かおうとしていた時。
 会合の最中もずっと心配そうな顔をしていた道徳心君が、そう言って話しかけてきた。
 玉鼎真人は、そんな朋友の気遣いに小さく苦笑して、
「道徳……その心配性な性格は直っていないな」
「悪かったな。仕方ないだろう……そんな状態のお前を見れば。それに俺だけじゃない」
「何?」
「……皆気を使っただけで、お前のことを本当に心配してたぞ」
「………そうか。気を使わせて、悪かった」
 苦い表情の道徳真君に、玉鼎真人は無理して笑顔を作り、黄巾力士に歩み寄ろうとする。
 が、思わぬ強い力に身体を引き戻された。
「な………」
 身体を返そうとして、その瞬間に急激に頭が揺れた。ぐらり、と視界に紗が走る。
 そのまま地に倒れ落ちそうになった身体を、力強い腕に抱き留められた。
「道徳……何を……」
「何を、じゃない!このくらいの衝撃で眩暈を起こすなんて、本当にどうかしてるぞ!……それに熱まであるじゃないか……」
「………いい……大丈夫……だから……」
「何が大丈夫だ。そんな調子でよく黄巾力士を操作できたものだ」
 ぶっきらぼうに言い放つ彼の腕をそっと押して、玉鼎真人は顔をあげた。
 澄んだ瞳と視線がぶつかる。
 ………不思議とそれが心地よくて、
「怒って、いるのか……?」
「当たり前だ。辛いのなら素直に辛いと言え」
「………すまない」
「別に謝ってほしいわけじゃないさ。……ただ具合の悪いときくらい俺に頼ってくれればいい。……お前は普段から寡黙過ぎだ」
 辛いとき、苦しいときに、お前を支えてやれるくらいの力ならあるから。
 ……そうして偽りの微笑で誤魔化すのはやめてくれ。
 自分があまりにも薄い存在に思えてくる。
「……道徳……」
「いいから、ほら立てるか?」
「………ああ……」
 道徳真君に肩を抱かれたまま、玉鼎真人は何とか上体を立て直す。
 ふらふらと、かなり危なっかしいバランスではあったが。
「………よかったら寄ってかないか。ここからなら、お前よりオレの洞府の方が近いだろ」
「え?……しかし……」
 洞府には楊ゼンが、と言いかけて、玉鼎真人はくっと唇を噛む。
 なぜかは判らないが、そのことを道徳に告げたくはなかった。
「遠慮するな。久々に酒でも飲みながら飯を食おう。どうせロクなもの口にしてないんだろう?……お前は昔から食が細かったよな……」
 こちらの気持ちを悟ったかのように、道徳真君は次から次へと明るい言葉を綴り続ける。
 玉鼎真人は頭の片隅をよぎる弟子の影に怯えながらも、いつしかは優しい友との会話に刻を忘れていた。

 


 

←BACK 

NEXT→

                                                     


 

ひとつ戻る小説TOPに戻る