月下木蓮<4>






「……少しは楽になったか?」
 道徳真君の洞府、紫陽洞。
 食物を喉に通し、今は酒を飲んでくつろぐ二人の仙人の姿があった。
「ああ……とても」
 玉鼎真人は月のよく見える窓の桟に腰掛けながら、朱色の杯をくっとあおる。
 かたや道徳真君もかなりのペースで酒瓶をあけていた。
 双方ともが相当な酒豪なので、一向に乱れる気配はないが。が、それでも酒の甘い香りの所為か、場の雰囲気は和んだものになっていた。
「……そういえば、お前の弟子は?」
 ふと思い出したように、玉鼎真人は横目で道徳真君を眺めながらそう口にした。
「ああ、天化か。今日は一日修行だ。戻るのは早くて明朝だろうな」
「……修行?夜通しとは随分と厳しいことだな」
「そうでもない。あの子が望んでやっていることだ。……早く強くなりたいと、そればかりが口癖でな」
「………強く……か」
 どうして、と聞き返すのは愚問だろうか。
 守りたい者のためなら、人はいくらでも強くなれる。
「そう……しかしお前は心配いらないだろう?」
「え?」
「楊ゼンはもう既に、師であるお前を越えたというじゃないか」

 楊ゼン。

 誇りに思っていたはずの名が、今は何よりも辛く心に響く。
「楊ゼン………そうだな…」
 呟いて、ぐい、と一気に玉鼎真人は酒を飲み干した。
 らしくない彼の様子に、道徳真君は微かに首を傾げるが、
「……まあいい。それより玉鼎、どうする。もう夜も更けて時間も経つが……戻るか?それならば送っていくが」
「え、あ……ああ………」
「それとも泊まるか?部屋ぐらいいくらでも空いているから」
「…………」
 玉鼎真人は物憂げな瞳になって黙り込んだ。
 できることならば、このまま道徳と夜を語り明かしたかった。
 だが、楊ゼンは行き際、自分にこう言ったのだ。
 待っています、と。
 ……剣呑な光を、宿した眼で。
「………私、は……」
「玉鼎?……どうした、そんなに悩むことか?ああそれとも弟子が心配か?」
「弟子……いや、心配など、楊ゼンには無用だろう」
「はは、確かにな。……って、じゃあ何を難しい顔してるんだ」
 道徳真君はさすがに少し表情を引き締めて、席を立ち、玉鼎真人の座る窓に近寄る。
 彼の背後には、ほんの僅か欠けた月が、不気味なくらい冴々と銀光を放っていた。
 その月光の粒子を浴びる玉鼎真人。
 元々麗々しい容姿が、いっそう艶を含んで眼に映る。
 しかし今、その美貌にはありありと深憂の念が見て取れた。
「………玉鼎」
 道徳真君はスッと身を屈めて、玉鼎真人と眼を合わせる。
 その明眸は以前と変わらぬ美しいものでありながら、疲弊しきっていた。見ていて、痛々しいほどに。
「……本当に何があった?」
 呻くように問うて、道徳真君はそっと彼の青白い頬に触れる。
 酒を飲んでも、一向に熱を持たぬ彼の身体。
 一体何が枷となっているのか……
「……俺には言えないか?」
 押し黙ったままの友に、彼は寂寞とした口調で語る。
 誰しも、内に隠匿しておきたい密事は有るものと承知していても、やはり信じてもらえぬという落胆はいなめない。
 そんな想いが玉鼎真人に伝わったのか、彼は小さく顔を上げた。
 大切な……大切な友人。
 そんな顔を、させたいわけではないのに。
「……すま……ない……」
「………そうか。なら、いい。だけどせめて飯ぐらいはまともに食えよ」
 わざと軽い調子でぽんぽんと玉鼎真人の肩をはたいて、さて、と道徳真君は身体を返す。玉鼎真人を送るために、黄巾力士を引っ張ってこようとしたのだ。
 だが、
「………玉鼎……?」
 彼の肩から浮きかけた甲に、冷えた掌が重ねられる。
 しばし間を置いて呼びかけても、無言。
 俯いた玉鼎真人の表情は、長い髪に遮られて窺い知れない。
 ……だがすべては、その震える手指によって語られていた。
「玉鼎」
 滅多と、いや今までに一度として見たことがない。
 こんなにも危うげな友の姿を。
「…………」
 道徳真君はその行動の真意を問うことはせず、ただ彼の髪に手を梳き入れた。
 そのまま、くっと頭だけを自分の胸に引き寄せる。
 そして、多少なりと身じろぎをした玉鼎真人の耳元へ向かって。
「少し休めよ、玉鼎………ずっと、こうしてるから……」
 だからもう、すべてを忘れて眠ればいい。
 俺は、お前の側にいるから……
「……道……徳………」
 掠れて、悲哀に満ちた声色。
 頭を支える掌の温もりが心地よい。
 顔を埋めた箇所からは、トクトクと規則正しい心音が伝わってきて、
「……お前はいつも……陽の匂いがするな……」
 玉鼎真人は安堵に誘われるかのように、スゥッと双眸を閉じた。
 その頬を、静かに銀の雫が滑り落ちていた。




 彼はそのまま深い夢路を彷徨う。
 窓の外……光月に照らし出された、ひとつの影に気づくことなく。

 

 

 

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