策士の戯れ〈2〉
「………で、何でいきなりこーなるんだっ!!!」
やっぱりというか予想通りというか、とにかく有難くない展開に、道徳は罵声と呼ぶには生易しい悲鳴をあげた。
あの後力一杯自分の名を叫び、体当たりするように抱き着いて来たまではいいものの、すぐに庭の茂みへと押し倒されたのだ。
当然のように衣服にかかってくる手をどうにか振り払いながら、道徳は必死で天化を牽制した。
こんな往来のとんでもない場所でコトに至られては、羞恥で身が細るの話どころではない。
「待て!待てって天化っ!お前には羞恥心ってもんがないのかっ!あと自制心とか道徳心とか………!」
「だぁーって本当に久しぶりじゃんか………大丈夫だってコーチ、すぐに終わらせっから」
「誰がンなことに応諾した………っ!……あーもう、頼むから天化!これだけ太公望に渡しに行かせてくれっ!」
もはや悲痛な感すら抱く道徳の声に、さすがに天化の指が止まる。
若くて無茶苦茶で直情実践型とはいえ、楊ゼンよりは余程ましな性格の彼だ。
………あくまであの天才と比べて、だが。
「………これって何さ?」
何とか弟子の態度を変えることに成功し、道徳は衣服を整えながらはーっと息を吐き出した。
そしてごそごそとふところを探ると、
「………この書簡だよ。元始天尊様直々に筆を取られたものだ。多分の先の戦のことだろうから……早く渡さなきゃ………」
「多分、ってコーチも見てねーの?」
「オレの一存で開封できるはずないだろう。お前も開くなよ」
クギを刺した側から、ぱっとそれを天化の手から奪い取ると、忠義心に厚い道徳は恐る恐る彼の下から抜け出した。
弟子に気を変えられるうちに、早くこの場から離れたい。
そうでなくとも、この男の自覚ある理性の薄さは何度も体験済みだ。
げんなりした顔つきで、早々に立ち去ろうとした道徳だが、
「っ………天化……!おい、いい加減にしろ……って………!」
またしても背後から強く羽交い締めにされ、いい加減困り果てた抗議の声を投げた。
しかし天化は、そんな師の尤もな言い分をものともせずに、
「久々に弟子に会ったって言うのに、随分と冷たいんさねコーチ………普通は師叔より俺っちを優先してくれるもんさ?」
未だ熱情覚めやらぬ熱っぽい声を、耳朶を舐めるようにして囁かれる。
それに背筋が寒くなるのを感じて、道徳は手荒く天化の拘束から逃れた。
久々も何も、こちらから会わないようにしていたのだから世話はない。
「ったく、どうしてお前はそう……大体、再開を喜ぶ間もなく人を組み敷いてくれたのはどこのどいつだっ」
俺はこんな真似をしにきたんじゃないんだと言い捨てた後、気づいたように天化に問いかけた。
「……ああ、そういえば天化。太公望はどこにいる?さっきからずっと探してるんだが………」
「師叔?……んー、今は執務の時間だろーから……こっからまっすぐ行って、左に二回、右に一回折れたとこの部屋にいると思うけど」
「左に二回、右に一回、か………わかった、ありがとう」
どんな目に合わされようと、結局は底抜けに人の好い道徳だ。そうすんなりと礼を言われて、天化は小さく苦笑するしかない。
こんな師だから、自分は眼を離すことが出来ないのだ。
「どういたしまして。………じゃあ俺っちも行くさ」
「…………え?」
「………そんなロコツに嫌な顔しないでほしーさ………どうせとんぼ返りするつもりなんだろうけど、そうはいかね―さ。ちゃんとコーチの希望通り、それを師叔に渡し終わってから部屋でヤルかから。それならいいさ?」
「何がいいんだ、バカっ!!誰もそんなこと言ってないだろっ!」
「さー、とっとと行くさコーチ」
「ちょ……天化……!」
スタスタと自分に構わず歩き出した彼を見て、正直道徳はこのまま脱力したい気分に陥った。
何だって実直に育ててきたはずの愛弟子がこーなってしまうのか、あまりに情けなくて涙すら出てこない。
まあ、今更どーこー言ったところで無駄か……と道徳はがっくり肩を落としながらも、天化の後に続く。
とはいえ、彼の腐った提案に応じるつもりなど毛頭なかった。
いざとなったら、天化を振りきって逃げればいい。まだ力のほうは自分が上だ。
………この時点でそう思っていられる彼は、やはりとてもおめでたいのかもしれない。
「師叔―、いるさー?」
軍師専用の執務室。
コンコンッと天化が少々荒っぽく扉を叩けば、すぐに応答があった。
「天化か、開いておるよ」
「お邪魔するさ」
簡素な挨拶と共に、天化はそれを開き、中に道徳を招き入れる。
「や、やあ太公望。久しぶりだな」
「………おお、道徳。よく来てくれたな。して、こたびは何用で?」
何だか妙な間を持って、太公望はにっこりと微笑んだ。
勿論天化は「なーんか企んでるさね」などと少なからず疑心を抱いたが、その肝心の師の方はめっきりな様子である。
むしろ太公望の砕けた応対にほっとし、急ぎ書簡を手に取った。
「ああ、これ……元始天尊様からの書簡だ。何でも自らお書きになったそうだから、大事な文書なんだろうな」
太公望は片手で頬杖をついたまま、無言でそれを受け取って、
「………そうか。それはわざわざすまなかったのぅ。ゆっくりとここで休んでいけ」
「え、あ、いや………気持ちは有難いけど、オレは………」
もう帰るよ、と、天化を気にしつつも道徳が辞退しようとしたとき、
「そうではないよ、道徳。聞こえなかったか?」
不意に、太公望の声色が変わった。
「わしは休んでいけ、と命令しておるのだよ」
「なっ………?」
揶揄するような口調で言われて、道徳はしばらくその言葉の意味が掴めなかった。
命令するも何も、そのいわれがない。
「何言ってるんだ、太公望?オレは今すぐに戻るぞ」
「やってみればよいよ、無駄だからな」
「無駄って………」
その最後の台詞に、道徳がぴくりと遅まきながら反応したとき、
どぉぉぉぉぉん…………どぉぉん…………
得体の知れない爆撃音が、遠くから風に乗って運ばれてきた。
道徳は思わず欄干の向こうへと視線を移して、
「………?何の音…………………………」
そこで、限りなく嫌な予感が道徳の背筋を走り抜ける。
つぅ…と比喩でなく頬に冷汗が伝った。
何故なら、木々や建造物に遮られた欄干より外の景色。
その一角から、細く立ち上っている黒煙。
そして、確かちょうどその方角には………
「………………まさか」
声に出して呟いて、そこで耐えきれなくなった。
「コーチ?」
天化の驚いた声を背に、ばぁんっ!と扉を蹴破ると、道徳は一目散にその黒煙へと向かって疾走したのだった。
「ふーんなるほど………相変わらずえげつない策をろうじるもんさね、アンタは」
道徳が部屋を文字通り飛び出した後、太公望から色々と聞き出した天化は、呆れ半分感心半分の第一声を投げた。
「ふふ、何せこの単調で健全な毎日に飽き飽きしておったところだからのぅ………わしは退屈が苦手なものでな。ちょうどいい暇つぶしじゃ、暇つぶし」
「ふーん………暇つぶし、ねぇ………それで終わりゃ文句はねーんだけどよ」
「……何が言いたい?天化」
「べえぇつにぃぃぃ………ま、それより俺っちはコーチの後追うさ、アンタは?」
「ふむ………さぁて、どうしようかのぅ」
そう言って不吉に笑う太公望の考えが、何となく読めてしまった天化だ。
だんっ!!!
素直に城の作りに沿って走る余裕すらなく、道徳は欄干から一気に場外へと飛び降り、そのまま凄い勢いで野原に向かって駆け出した。
その顔つきは、既に泣き出しそうなものになっている。
「……太公望の奴………っ!とんでもないことを………!」
甘かった。すっごく甘かった。
彼に会う度、自分はいつもそれは酷いメにあわされてきたではないか。
それでなくとも久々な再会を、例外と取る方が間違いだったのである。
半ば祈るような気持ちで、道徳が黄巾力士を着地させた場所に、ザッと足を踏み入れたとき、
「…………………やっぱり……………」
目元には涙、口元には投げやりな笑みさえ浮かべて、がっくりとその場に手をついたのだった。
さて、コーチの受難の始まりです(笑)