月下木蓮<5>
「やっと寝たか……」
掛布に肘をついたまま、道徳はふぅっと息を吐いた。
先程の広間とは別室の、寝台の上。
微かな寝息をたて、玉鼎真人が横になっている。
あの後、自分に凭れかかったまま眠ってしまった彼を、ここにまで運び込んだのだ。
「まったく、青白いを通り越して土気色じゃないか……こんなになるまで、何をしたんだか……と」
苦り顔を作りながら、ふと道徳真君は玉鼎真人の首筋で眼をとめた。
白皙の肌に、まだ新しい傷痕。
おかしな場所を怪我するものだとひとりごちて、彼は席を立つ。
「微熱があるから、とりあえず布濡らして額に……あ、と煎薬あったっけな……」
甲斐甲斐しい台詞を呟きながら、道徳真君は回廊を折れて広間に足を踏み入れる。
瞬間、髪に手をかけたままギクリと静止した。
凍った威圧感と静謐を以って、広い室内に佇む一人の男。
その凄絶なまでの蒼の美貌は……よく見知ったものだ。
「………楊……ゼン……?」
「お邪魔しております、道徳師弟」
丁寧な挨拶とは裏腹に、その語調は思わず目を見張ってしまうほどに冷たい。
元々の容貌が石膏象のように整った造りだ。彼が無表情になればなるほど、受ける圧迫感は比例して強くなった。
「どうか……したのか。こんな時間に」
ぎこちなく、道徳真君は部屋を歩きながら彼に尋ねる。
楊ゼンは淡々と言葉をついだ。
「ええ、師匠がこちらにおられるでしょう?」
「え?あ、ああ。しかしもう眠って……」
「連れて帰ります。師匠はどこに?」
カッと靴を鳴らして、回廊に歩み寄ろうとした楊ゼンを、道徳真君は驚いたように振り返った。
「楊ゼン?今玉鼎は熱があって寝てるんだ。動かすなら、もう少し落ちついてからの方がいいだろう」
それに、と道徳真君は一旦言葉を切り、
「……玉鼎、彼に何かあったのか?なぜ、あんなにやつれて……」
「道徳師弟」
気遣わしげな道徳真君の態度に、楊ゼンは不愉快そうに眉根を寄せて、言い切る。
「師匠はどこです?」
その応え以外、聞く耳すら持たぬように。
「楊ゼン」
道徳真君はさすがに厳しい表情になった。
いつもとは、違う。
他にはどうであれ、彼は己の師を誰よりも崇拝していたはずだ。
……そう、誰よりも………永く、側に居て…………
「…………っ」
楊ゼンの冷静さを欠いた言動から、道徳真君は今更のように疑念を抱く。
滅多と人と交わらぬ玉鼎が、理由もない限りあそこまで困憊するとは思えない。
困惑の果てに、行きついた結論はそれだ。
「……楊……ゼン……玉鼎に………何を……」
何を、した。
あの気丈な友が涙をこぼすまで、何を。
緊張した面持ちのまま、道徳真君は言葉を絞りだす。
良くない予感に、冷汗が頬を伝った。
楊ゼンは多くは語らず、ク、とただ美麗に笑んで、
「何を……ですか。その様子からして、既にお察しのようですが」
「楊ゼン!」
道徳真君の怒りも露な叱責に、それでも彼は冷笑を浮かべたままだ。
「貴方の思ってらっしゃる通りですよ。師匠は凛然とした外貌に似つかず、存外に弱い方なんです……だから、あそこまで衰弱してしまわれて……」
「………楊ゼン……君は……」
虚ろに言葉を紡ぐ彼の眼に、道徳真君はゾクリと戦慄にも似た悪寒を覚えた。
狂っている、と。
そんな思いすら、行き過ぎだとは思えないほどに。
「……そんな眼で見ないでください、道徳師弟。自覚は、ありますから」
「……え?」
楊ゼンは綺麗に笑った。灰色の自嘲を含みながら。
「わかっているんです。自分が……狂い始めていることぐらい」
以前から煩わしいほどに、欠けた正気が警戒音を放っていた。
己にも抑えきれないほどの、狂気じみた執着心に対して。
……どこで道を踏み誤ったのだろう。
静かな夜の似合う美しい人を、気がつけばこの手指で苛んでいた。
極限まで求めても満たされない、枯渇を続ける貪欲な欲望。
そんな感情は、ただ師を傷つけるだけだと……冷えた心でも、判らないはずがないのに。
「師匠はきっとこう思っているはずですよ……親に対する愛情と恋慕とを僕は履き違えているのだと。……でも、そんなものの区別がつかぬほど、僕は幼くはないんです。幸か不幸か……ね」
「楊……」
「師匠がいれば、他に何もいらないのに……でも、あの人はすぐに僕から離れようとするんです。今日だって……貴方の元に逃げ込んだ」
楊ゼンはとうとうと呟いて、踵を返し回廊を進みだす。
「楊ゼン……まだ話は……!」
「道徳師弟」
そして、ゆるりと今一度振り返った。
透いた(すいた)紫暗の眼光。
その内には、確かな狂気が在った。
「貴方は、誰かを愛したことはありますか?」
愛した、こと。
「そう……その人がいない世界を、考えることすらできないぐらい……」
それが僕にとっては師匠なんです、と言い残して、彼の姿は回廊の奥に消える。
道徳真君は、制止の言葉すら忘れ、呆然と佇立していた。
誰かを、愛したことはあるか。
その人が存しない世界などに、生きていく価値すら見出せぬほど。
「………言って、くれる」
ぽつりと道徳真君は言い捨てて、いつのまにか熱の冷めた手を額に当てた。
もう、楊ゼンには何を言おうと無駄だろう。
彼の眼には、あの漆黒の涼貌しか映ってはいまい。
その楊ゼンを拒むかどうかは、玉鼎の決めることであって……
………自分の口出しすることでは、ない。
わかっているのにな、と道徳真君は息を吐いて洞府の外へと向かい出す。
それ以上二人の近くにいると、自分が何をするか判らなかった。
「…………」
外に出れば、慣れた純朴な土の匂い。
冷涼な夜気に肌を晒して、暗天に陰る朧月を見つめながら、
「……愛する、者か」
自嘲して、彼は呟く。
いないはずがない。
だが、それをお前に言えはしないよ……楊ゼン。
どこか遠くで、愛しい弟子の泣き声が聞こえる。
光と闇の明滅する泥沼のような黒い地を這い、ようやっと彼の小さな後姿を見とめて、
………泣かないで、と手を差し伸べる前に、意識は白く弾け散った。
「気づかれましたか、師匠」
多分、あと一回で終わります……うう、長くてすみません(TT)
だんだん自分からドツボにはまっていってるような……。