月下木蓮<6>
「気づかれましたか、師匠」
水差しを片手に持って、楊ゼンは眼を覚ました師に冷えた声音で語りかける。
「……………」
玉鼎真人は、まだ現状を把握できていなかった。
呆然と固まったままの身体から、ぽたぽたと水滴が敷き布に落ちる音を聞いて、ようやく水差しの中身が自分に撒かれたのだと認識する。
それと同時に、ここに居るはずもない、弟子の姿を。
「………楊……ゼン……?……何故………ここ、に……」
「そんなことはどうでもいいでしょう。帰りますよ、師匠」
震えた問いを切り捨てて、楊ゼンは手荒に絹布を剥ぎ、玉鼎真人を無理矢理寝台から引き摺り出す。
「な………」
そして間髪居れず、無防備な彼の鳩尾を手加減なしに蹴り上げた。
「………っ………」
呻きすら漏らさずに力の抜けていく身体を、楊ゼンはゆっくりと軋むほどに強く掻き抱いて、
「……申し訳ありません、師匠………でも、貴方が悪いんですよ………」
貴方が、悪い。
僕を遠ざける、貴方が。
己に言い聞かせるような、脆い呟き。
色褪せた玉鼎真人の唇に、楊ゼンは乱暴に自分を重ねる。
幾度も味わったそれは冷たく、そして儚いほどに甘くて、
「ん…………」
………一筋の涙が伝い落ちた黒髪から、微かな紫木蓮の芳香が漂っていた。
気がつくと、暗い寝台の上で楊ゼンに組み敷かれていた。
手首は頭上で戒められ、身体を覆うものは何もない。
あったのは、ただ耐えがたい屈辱と、苦痛だけで。
思う様、行き過ぎた想いに身体と心を抉られ続けた。
溢れ出る涙は、尽きることを知らなかった。
「………師匠………」
汗で額にはりついた髪を払われ、その感触にうっすらと玉鼎真人は瞼をあげる。
もう、眼を開くことさえ億劫だった。
苛まれ続けた全身は、鉛を食んでいるかのように重く、腕すらもだるくて持ち上げることが出来ない。
苦痛ですらある倦怠感に眉をひそめるところへ、楊ゼンの唇が降りてきた。
渇いた唇に触れるだけの………優しい口づけ。
「ん…………」
コク、と黒髪に隠れた白い喉が鳴る。
首の内を滑り降りていく、冷たい液体の感触。
「もういいですか?」
「………ああ…………」
「……やっと口をきいてくださいましたね」
微苦笑して、楊ゼンはコトリと水の入った器を机上に置いた。
先ほどまでの容赦なさが嘘のように、彼の表情は穏やかで………哀しい。
「すみませんでした、師匠………お辛いでしょう?」
おそらく、初めて耳にする労わりの言葉。
玉鼎真人は少なからず驚きを含んだ顔になったが、それはすぐに和らげられた。
彼はまた静かに瞳を閉じて、
「…………すまない」
「え?」
ぽつ、と虚空に投げ出された微かな謝罪。
今度は楊ゼンが眼を見張る。
「………帰ると、言ったのに………」
それは本心だった。
今の彼は、幼い頃の姿と重なって玉鼎真人の眼に映る。
………夢を見た所為か、それはわからなかったけれど。
それでも、彼からいつものような恐怖感は感じられなくて、
…………何故か、心に波紋は立たなかった。
「師匠………」
楊ゼンは息を詰めたように呻いて、疲労した師を抱く手に力を込めた。
その仕草に多少なり強張った玉鼎真人の髪を、安心させるように柔らかく梳いて、
「………すみません………貴方は、何も悪くない……」
そう。この聡明な師に何の咎があるだろう。
弟子に対する優しい愛情につけ込んで、彼を汚したのは他ならぬ自分なのだ。
だがそんな卑怯な手を使ってでも、この人が欲しかった。
待っていても、どれほど想っていても、永遠に手に入ることのない珠玉。
………どうすればよかった。
この行き場のない、激しい憤りを。
「………わかって、いるんです」
「……楊……」
「わかっているんです。自分がどれほど理不尽な仕打ちを貴方にしているかぐらい………」
声が震えていた。
玉鼎真人は何も言わなかった。
楊ゼンはなおも血を吐くような告白を綴る。
「それでも貴方には……僕だけを見ていて欲しいんです。貴方が誰かに触れられたり………本当は見られる事だって耐えられない………」
「楊ゼン……」
「これは師弟愛なんかじゃないんです。わかってください、師匠………」
律動する指が頬にかかる。
玉鼎真人はそれにそっと己の掌を重ねて、
「わかっている」
伏せた眼もそのままに、言葉を紡いだ。
「え?」
「わかっていたよ、楊ゼン………」
だからこそ、恐れた。
私は確かにお前を誰よりも愛している。
禁忌に触れることは、何よりも深い悔恨ではあったけれど。
……それでも、お前の為ならばどんな罪にだろうと身を染めるだろう。
そう……己の命を賭す事さえ厭いはしない。
だが、
「………愛してる、楊ゼン。お前を」
私にそんな価値などない。
お前に狂うほど愛される、そんな重い存在ではないのに。
「師匠………それは、憐れみですか?」
「違う」
耐えられなかった。
自分の所為で、誇り高い弟子が闇に堕ちていくことに。
一度お前の側に居ることを決めてしまえば、もう二度と離れられなくなる。
それが、怖かった。
愛する弟子を、これ以上狂気の淵へと追いやりたくはなかった。
だから………逃げた。
己の濁った想いと、荒れ狂う葛藤から眼を背けたくて。
「私には………」
しかもう、それも限界かもしれない。
あの紫水晶の瞳の誘惑に……私はこれ以上………
「お前だけが……いてくれれば、いい」
………己を偽ることが、できない。
玉鼎真人は無理に腕をあげて、ぎこちなくそれを相手の首に回す。
それを了とでも取ったのか、楊ゼンはゆっくりと身体を重ねてきた。
「ではもう………僕から逃げませんか、師匠」
「…………ああ」
「本当に?」
「………本当だ」
その応えに彼は満足気に微笑しながら、玉鼎真人の首筋の傷をそっと舐め上げる。
そして、硝子を扱うかのような仕草で彼の耳元へ唇を寄せて、
「………愛しています」
あなただけを………ずっと……
月下木蓮。
暗紫の花弁紡ぐ夜香は、神仙をも妖しく惑わせる。
けして焦がれてはならない………背徳の誘いへと。
わーっ、やっと終わりましたっ。自分でもかなりアレな終わり方です。
ううっもっと精進せいよ、自分………(TT)
楊玉ってすごく好きなんだけど、難しいですね……(弱音)