三話ー鴇色の追憶







「玉鼎。最近付き合いが悪いな」
 玉虚宮。
 そこで、今しも席を立とうとしていた玉鼎は、背後からかけられた声に振り返った。
 途端、彼の顔に自然な笑みが浮かぶ。
「ああ、道徳………」
 清虚道徳真君。太乙と並ぶ、玉鼎の唯一無二の友である。
 剛毅木訥、公明正大な誰からも好かれる人柄だが、その彼も玉鼎には格別がはからい良かった。
 どうも存外不器用であるこの男には、放っておけぬ感情が湧くらしい。
 今も似たようなものだった。
 このところの玉鼎は、前にも増して他仙との交流が薄くなっている。
 十二仙の会合後には、大抵辺りの山々にもうけられた庵で酒盛りなどをするのだが、彼だけはいつも謝辞を述べて帰途についてしまっていた。
 それまでは、進んで宴に列することはないものの、理由もなく断る、などという無粋なことはなかっただけに、太乙や道徳を始め、皆が心配していた。
 そして今日、また多くを語らず宴を辞退しようとしていた彼に、道徳はたまらず問い掛けた。
 気のせいか、うっすらとした疲れが玉鼎を覆っている様にも思えたのだ。
「一体どうしたんだよ。訳も言わずに立て続けに宴に出ないなんて。ただでさえ会う機会が少ないんだから、顔ぐらい出したらどうだ?」
 みんな気を揉んでるぞ、とけして責める出ない口調で言ってくる道徳に、玉鼎は困ったような顔つきで笑って、
「すまない………少し、私用があるのだ」
「この前もそんなこと言ってたじゃないか………まあ、無理強いする気はないが………今は僥光山の紅葉がすごいらしいぞ。観るだけ観に行かないか?」
「……………」
 明るい調子で、道徳は直も玉鼎を誘う。
 それが、自分を気遣ってくれるが故だとわかっていただけに、玉鼎は胸の内が痛かった。
 心配をかけるつもりなぞ、毛頭なかったのだけれど。
「どうも私は要領が悪いらしいな………だが今日は見逃してくれないか?次からは、必ず参列するから…………」
 本当に申し訳ない、と頭を下げて真摯に謝罪されれば、道徳とてそれ以上口の挟みようがない。
 たかが宴、と割り切れないのが、玉鼎の良いところだ。
 そんな思いに肩をすくめ、道徳は小さく息を吐いた。
 元々、自分だって形式から参加しろと言っていたわけではない。
 彼が宴席の隅にでもいると、場の雰囲気は否応なく雅やかなものになった。
 立ち居振舞いに隙がないから、ひとつひとつの動作が妙に様になるのだ。
 一度、風になびく満開の枝垂桜の元で、玉鼎が珍しく楽を奏でた時などは、一同言葉もなく魅入ってしまった覚えがある。
 まだ年若い普賢真人など、その時に改めて玉鼎に心酔したようだ。
 それほどまでに、玉鼎の纏う気は異質なもので………彼の親友という立場を、道徳は少なからず誇っていたのだが、
「わかったよ。別にそんなカオしなくていい………太乙達には言っておくから、急いだらどうだ?」
「あ、ああ。………ありがとう、道徳。また次の機会に」
 そう口早に言い残して、玉鼎はすぐに回廊の奥へ消えていった。
「………………」
 道徳はそれを見送りつつ、辺りに仄かに漂う木蓮香に無言で目を伏せて、
「………オレの誘いを断るほどの私用、か………何だかなぁ………」


 お前が宴に出ないのが気に入らないわけじゃない。
 オレの言葉に応じてくれなかったお前は、多分初めてだから。
 …………俗語で言えば、嫉妬のようなものだろうか。
 情けないことだとは思うが、玉鼎のたった一つの挙動に、取り巻くもの達は過剰に反応してしまう。
 そんなこと、お前は少しも気づいてやしないんだろうけど。


「まったく………何であいつはああなのかねぇ………」

 

 

 

 


「楊ゼン」
 黄巾力士を走らせ、玉鼎は急いた様子で洞府に足を踏み入れた。
 その黒髪は僅かに乱れ、呼吸も心なしか荒くなっている。
 文字通り飛んで帰ってきたことが、容易に窺えた。
「あ、師匠!お帰りなさい!」
 息を正して広間を見渡す前に、そんな弾んだ声音がよこされる。
 首を返せば、書物を片手に楊ゼンが小走りに近寄ってくる姿が眼に入った。
 玉鼎はほっとして、足元に抱き着いて来た幼い弟子を軽々と持ち上げると、
「ただいま、楊ゼン。熱は出さなかったか?」
 何より先に、そう問うた。それと共に、楊ゼンの額に日課のように掌を押し付ける。
 あの日から、自分が洞府を長く留守にするたび、楊ゼンは頻繁に発熱するようになった。
 元々幼子の体温は高いから多少の熱は当然なのだが、あの異常な熱さには危機感を覚えるほどだ。
 それからというもの、玉鼎は極力洞府に留まるようにした。時折興じていた太乙や道徳のところへの遊山も控え、会合などが合っても、今日のようにできるだけ早く帰るようにしている。
 その玉鼎の気遣いをよく理解しているだけに、楊ゼンは嬉しさでいっぱいだった。だが………
「はい、全然大丈夫です………けど師匠、僕の所為で師匠のお時間が………」
 側に居てほしい。
 でも師をこんなにも束縛してしまうのは辛い。
 どちらと迫られれば、選択肢は決まっている幼い葛藤に、それでも静かに笑って、
「お前はそんなこと気にしなくて言い。体調に気をつけて……修行に励みなさい。私は、お前の成長が何より嬉しいのだから」
 ぽんぽんと楊ゼンの後頭を撫でつつ、玉鼎は近くの椅子に腰を下ろす。
 そして、楊ゼンの読みかけていた簡単な書物を手に取ると、
「さあ楊ゼン。今日はどんな鍛錬を積んだのか………私に教えてくれないか」


 

 

 



 そうして。


 百余の年は緩慢に、しかし確実に過ぎ去っていった。
 永遠を生きる仙人にとって、そう大した時の流れではないけれど。

 


 …………けれどそのなかで、目覚ましい成長を遂げた者も、いる…………


 

 

 

 

 

 

「ハァァッ!!」
 ギッ、ギィンッ!ガッ………
 玉泉山。ある山麓の岩瀬。
 足場悪いその周辺で、息もつかぬ攻防を繰り返す二人の師弟がいる。
「どうした、楊ゼン。………終いか?」
 ガキッと楊ゼンの三尖刀を振り払い、玉鼎は余裕を絶やさずに弟子を挑発する。
 その反動で大岩まで跳ね飛ばされた楊ゼンは、肩で息をしながらも口惜しそうに下唇をかんで、バッと態勢を立て直すと、
「まだまだぁっ!」
 そうして叫び様、玉鼎の四方を囲む岩々を三尖刀で一挙に切り裂いた。
「!」
 大小の落ち着く場を失った破片は、一斉に玉鼎に牙をむく。
 気づけば、岸壁の向こうから、楊ゼンが追い打ちをかけるようにこちらに突き進んできていた。
 二重攻撃。周囲を有効に利用するのは、格闘能力が高い証拠だ。
 しかし、
「さすがだな……だが」 
 抜き差しならぬ状況に立たされながらも、玉鼎はそんな風にどこか感慨深げに微笑んで、斬仙剣を無造作に振った。
 その手の軌道が迅すぎて、楊ゼンには捉えることができない。
 一瞬怯んだ後に、彼は慌てて玉鼎から後退した。根拠はない。勘というやつだ。
 そして、それは正しかった。
 …………ッキィンッ…………
 楊ゼンが飛び退いたのとほぼ同時に、鍔鳴りにも似た音を立て、全ての岩が例外なく粉々になって崩れ落ちたのだ。
 もしこのまま飛び込んでいたら、確実に師の剣の餌食となっていたことだろう。
 それを思って、楊ゼンが畏怖と共にほっと一息をついた瞬間。
「!!」
 玉鼎の姿は刹那のうちに彼の視界から掻き消え、次には背後からぴたりと首筋に刃が押し当てられていた
 無駄のない、その洗練された妙技に、楊ゼンの額からつぅ、と冷汗が一筋流れ落ちる。
 そうして、無言のまま、スッと構えにあった三尖刀をおろして、
「まいりました、師匠」
 素直に、自分の負けを認めた。
 途端、くるっと刃を返されて、首からそれが離れる。
 更に皮革におさめられる音を背で聞き、楊ゼンはそっと身を翻した。
 そこには、先ほどの戦慄さえ覚える闘気を微塵も残さぬ、いつもの穏やかな師の姿。
 そして、
「また腕を上げたな、楊ゼン」
 日課の手合わせを追えた後、必ず最初に告げられる言葉。
 玉鼎は、手取り足取り楊ゼンに技を教えることはない。
 実践のなかで、弟子自ら精進したことを感じ取り、そうして優しく誉めるだけだ。
「とんでもない………まだ、貴方の足元にも及びません」
「そんなことはない。段々、お前との手合わせが怖くなってきている……三尖刀もまだ渡したばかりだというのに、流石だな」
 くすくすと上機嫌な様子で笑って、出し抜けに玉鼎はふわりと楊ゼンの身体を抱き上げた。
「えっ………?」
「大人しくしていなさい。膝と脛を怪我している……すぐに手当てをするから。すまなかったな、手荒なことをして」
 言うが早いか、タンッと楊ゼンを抱えたまま岩を下り、玉鼎は洞府へ向かって歩き出した。
 慌てたのはその弟子である。
「いっ、いいです師匠!このくらい、自分で歩けますからっ」
「そうか?その割には膝が笑っているようだがな」
 からかうように言われて、楊ゼンは真っ赤になった。怪我はそう深手でもないが、師の言う通り今日は大技を連発させた所為で、消耗が著しかったのだ。
 必死で隠していたつもりだったのに、と楊ゼンは少し恨めしそうに玉鼎を睨む。が、すぐに美笑で返されて、更に顔を赤らめるだけだった。
 師の笑顔にはとことん弱い楊ゼンである………というか万事が弱い。どんな動作を目の当たりにしても、一つ覚えのように胸が弾んでしまうのだ。
 少しこの過剰な憧れをどうにかしなくては……と思い詰めて既に百年に至っている。
 そんな玉鼎にはよくわからぬ弟子の葛藤を見つめつつ、彼もまたしみじみとした実感を噛み締めていた。
 幼子の頃から見れば、かなり身体的にも成長したように思う。外見で言えば、年の頃は一五、六だろうか。まだ少年の体つきだとは言え、すらりとした手足と花のような顔から、将来どれほどの美丈夫になるか容易に想像がついた。
 日々の小さな変化にでもささやかならぬ喜びを感じることができるのは、ひとえに玉鼎が弟子を溺愛しているが故だろう。
 だが、決してただ甘いというわけではない。
 その証拠に、修行の時の玉鼎は楊ゼンを弟子としてではなく戦友として認めている。
 堕落した甘えを許さぬその姿勢を、楊ゼンはよく理解し、そして誰よりも尊敬していた。


 ………そう、このときの彼は、まだ自分でも気づいていない。


 他意ない憧憬の裏側に隠された………もう一つの感情を。

 

 

 

 

 

 



「どこか不都合なところはないか、楊ゼン」
 汚れを落とすための湯浴みの後、思いの外器用に玉鼎は楊ゼンの節々に手当てを施していた。
 楊ゼンも、軽くその部位を動かしてみて、
「いえ、どこも。………ありがとうございます、師匠」
「なに。では、そろそろ………」
 昼餉にしようか。
 そう呟いて立ち上がりかけた時、洞府の扉がコンコンと上品になった。
 なんとなく、長い付き合いの所為か、それだけで相手が掴めるような気がする。
「………太乙か?」
「?」
 来訪者も見ぬうちの玉鼎の言葉に、楊ゼンは正直驚いたが、
「ご名答。お邪魔するよ、玉鼎」
 それが当たっていたことに更に驚いた。
 …………反面、何か胸にしこりのようなものが溜まる。
 それを振りきるように、楊ゼンも立ち上がって、
「お久しぶりです、太乙様………僕は席をはずしましょうか?」
 ひそかに卑屈な感をこめて、楊ゼンはうわべだけの笑顔を取り繕った。
 彼が成長してから、太乙や道徳はこの洞府に頻度高く足を運んでくるようになった。
 弟子が本来の姿を隠せるようになっていたので、玉鼎としても後ろめたさなく友を歓迎することができ、また楊ゼンも玉鼎の期待に応えるように、立派な態度で高仙達に接した。
 もう幼子とは言えない外見になった自分に、我侭を言って師を縛り付ける権利などない。
 どんなに長い留守であっても、身勝手な意見を述べれるはずもない。
 若年ながらも賢慮に秀で、揺るがぬ自覚があるだけに、余計楊ゼンの胸中は糢糊なものとなっていった。
 師が友人と触れ合うたび、言い知れぬ不快感が奥底から湧きあがってくる。
 それでも楊ゼンは、必死にその衝動をひた隠していた。
 玉鼎の誇る友に好感を抱いていないなどと知れたら、きっと今の円満な師弟関係に皹が入る。
 彼は、それを何よりも怖れた。
「ああ楊ゼン君、久しぶり。がんばってるみたいだねぇ、君の高評はあちこちで聞くよ、玉鼎に苛められてない?」
 扉の側から足を進め、太乙は軽い挨拶と言わんばかりにそんなことを尋ねてくる。
「人聞きが悪いな、太乙………」
「ふふ、冗談だよ。君ほどの英邁な師を持てて幸せだよ、楊ゼン君は。ね?」
 にこにこと優婉に微笑んで、太乙は玉鼎の後ろに居た楊ゼンになおも話し掛けた。
 その言葉にだけは、楊ゼンも知らず笑って答えを返す。
「はい」
「だよねぇ。羨ましい限りだよ………ああ、それでさ玉鼎。今日は遊山ついでに伝えたいことが合ったんだ」
 その予期せぬ台詞に、玉鼎は黒髪を流して首を傾げる。
「伝えたい、こと………?」  
「あ、やっぱり忘れてるね。まあいいけどさ………君が舞を献上する時節だってこと」








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何だか段々内容が外れていきます。
勝手に玉鼎さまを舞者にしてしまったり……

 

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