二話ー邂逅の不協和
「玉鼎ー」
春風さざめく、のどかな昼の下がり。
古い書物を紐解いていた玉鼎の元に、一人の朋友が訪ねて来た。
「……太乙、よく来たな」
突然の来訪に少し驚きはしたものの、玉鼎の表情はすぐに嬉しそうなものへと変わる。
お互い知り合った十二仙の仲でも、玉鼎と太乙は特に仲が良かった。
自然、普段は無表情な彼の顔も綻ぶというものだ。
「いきなり押しかけてごめんねー、お詫びと言ったらなんだけど、はいこれ」
弾んだ声音で、頭をかきかき、太乙はひょいっと左手の包みを持ち上げる。
白い包み紙から僅かに覗く桜色に、玉鼎は土産の正体を知り、くすりと笑みを洩らした。
「仙桃か……そういえば久しく口にしていないな。いいのか?そんな貴重なものを」
「なに言ってるのさ、君と食べたいから持ってきたの」
心外だなぁとわざと頬を膨らませて、太乙は慣れた動作で玉鼎の側に歩み寄ってゆく。
友が手にしていたのは、どうも彼には似つかわしくない仙術の類いの書。
太乙は僅かに首を傾げて、ああ、と手を打った。
「それ、変化系の術書だよね。もしかして、新しく取った弟子の為の?」
何気ない太乙の言葉に、微かに玉鼎の指が強張る。
「……よくわかったな」
「そりゃあねぇ、君にそんな術似合わないし……大体変化術なんて、古の大神仙が編み出した幻の難術じゃないか。今じゃ修得している者は一人だっていないよ………まあ、それはともかく、元始天尊様から結局君が弟子を取った話は聞いたしね………ちょっと、特別なんでしょう?」
「…………ああ」
「そう。……まあ、僕は事情を詳しく知らされなかったけどさ、君から言ってくれない限り、何も聞こうとは思わないから。……でも、僕にできることがあったら言ってね」
にっこり笑いながら、太乙は玉鼎の肩にぽんっと手を置いてくる。
その部位から、友の優しさが伝わってくるようで、玉鼎は薄く笑いながらゆっくりと眼を閉じると、
「………ありがとう」
「いいよ、そんなの。それよりさ玉鼎。せっかくいい天気なんだから、外でこれ食べない?あのいつもの泰山木にでものぼってさ」
その魅力的な申し出に、玉鼎もまんざらではない様子で、すっと窓の外を仰ぎながら、
「ああ、そうしようか。………では、少し待っていてくれ。……弟子に、告げてだけくるから………」
「楊ゼン」
回廊の奥の、一室。
そこのドアをコンコンと叩きながら、玉鼎は中に居る筈の弟子に声をかけた。
しかし、一向に反応が返ってこない。寝ているにしても、眠りの浅いあの子のことだ。すぐに気づくと思うのだが。
「………楊ゼン、いないのか?」
否応ない静かな空気に、少し心配になって、玉鼎は扉に手をかけようとした。
そのとき、
「………師匠………」
自分が通ってきた左方の回廊から、不安そうに揺らいだ声。
玉鼎は驚いてそちらに顔を向ける。
小さな愛弟子の姿が、そこにあった。
「楊ゼン、どうしたのだ、どこに行っていた?」
「………どこにも。ただ、庭園から右に折れた廊下にいただけです」
洞府の回廊は、途中幾つかに枝分かれしている。玉鼎はそのまままっすぐに楊ゼンの部屋に向かったから、気づかなかったようだ。
「そうか。………それなら、いいのだが」
微かに安堵する側から、楊ゼンが無言でぎゅっと玉鼎の裾を掴み締めてくる。
そして、玉鼎がその動作に疑問符を投げ掛ける前に、
「師匠………あの方は、どなたですか?」
「え?……ああ、見ていたのか?」
「聞こえただけです。………見つかっちゃ、いけませんから」
「……………そうだな。だが心配しなくてもいい。あの男は私の昔からの友人だよ。太乙と言ってな、いつかお前に会わせたい」
人の良い、とても優しい男だ。きっとお前も好きになるだろう………
そう言って笑う師の表情は、どことなく弾んだものだった。
楊ゼンは、それに俯きながら唇を噛み締め、小さく首を振って、
「…………いい、です」
「え?」
「お会いしたくなんて、ありません」
「楊ゼン?…………どうして?」
「………師匠以外の人が、ぼくを普通に見てくれるとは思えません」
嘘を、ついた。
本当の理由は、そんなことではないのに。
でも師の友人を悪く言ってしまえば、きっとこの人は怒るだろうから。
…………嘘、を………
「そんなことはないよ。………太乙は十二仙のなかでも一番柔和な性格だから、お前の師にと名もあがっていたのだ」
楊ゼンの言葉を疑おうともせず、玉鼎は彼を安心させるようにそう言った。
だが、
「え…………?」
途端楊ゼンは顔を強張らせ、呆然と玉鼎は見上げる。
今にも泣き出しそうに、紫の大きな瞳が潤んでいた。
「よ、楊ゼン?どうした……どこか辛いのか?」
それに反対に驚いて、玉鼎は大袈裟なほどに取り乱した。弟子の涙は、自分にとって何よりも狼狽えの対象となる。
修行などでは、涙の一雫も見せようとしない彼だけに。
「楊ゼン………泣かないでくれ」
震える頭を大きな掌で撫でながら、玉鼎はあやすように楊ゼンの眦に浮かんだ雫を指で拭う。
その仕草に触発されて、楊ゼンはようやくまともに玉鼎の顔を見つめた。
高潔で線の細い、何度眼に映そうと褪せない美貌。
この人だけが、自分を選んでくれたのではなかった。
偶然、崑崙の教主に請われたから、師匠は僕を引き取ってくれただけ。
そんなの当然かもしれない。
僕は妖怪だから。
誰も、好き好んで師になってくれなんてしない。
わかっているのに、当たり前な筈なのに。
師匠があまりにも自分に優しくしてくれるから、いつのまにか勘違いをしていた。
この人は、僕だけの師匠じゃない。
労わりからでも何でもない、ただ心から笑い合える人がいる。
僕よりもずっと………ずっと、近いところに………
「…………なんでも、ないです」
締め付けられるような胸の痛みに耐えて、楊ゼンは小さくかぶりを降った。
心地よい掌の温もりから、必死の思いで離れる。
少しでも気を緩めれば、滝のような涙を流してしまいそうだった。
「そんな筈はないだろう………こんな苦しそうな顔をして」
訝しげに呟いて、玉鼎は図るようにすっと楊ゼンの頬に手を伸ばしてくる。
彼はそれから慌てて身体を引いた。
もう一度触れられれば、きっと自分は泣いてしまう。
泣きながら、側にいてほしいと縋ってしまう。
自分が涙を見せれば、師匠が拒絶できないのを知っていたから。
そんな卑怯な真似をしたくなかった。
そう思っていれる間に、早くひとりになりたかった。
「大丈夫……ですからっ。早く、太乙様のところへ行ってあげて、ください………師匠の、大切な人なんでしょう………?」
玉鼎を顔を見ないように、楊ゼンのやっとの思いで吐き出すように言う。
明らかに様相のおかしい弟子に、玉鼎はしばらく床に膝をつきながら逡巡していたが、
「………そう、だな………本当に久しく会ったものだし………では楊ゼン、洞府の中でいい子にしていておくれ。夕刻までには戻ってくるから」
やがて振り切ったように、さら、と光沢ある黒髪を流して立ちあがる。
目線高いその位置から、愕然とした楊ゼンの表情は窺い知ることができない。
もし見えていたなら、きっと玉鼎は太乙との約束を反故してでも、楊ゼンの側を離れなかったことだろう。
「では、楊ゼン」
カツカツと、どこか厳かな足音が、自失している弟子から遠退いていく。
やがて、なびいていた髪の一房が、折れた回廊の向こうに消えていった時、張り詰めていたものが音を立てて切れて、楊ゼンはぺたんと床に座りこんだ。
焦点のぼやけた紫眼から、一粒の涙が頬を伝い切る間もなく、次から次へと湧きあがってくる。
喉の近くまでこみあげてきた嗚咽を、楊ゼンは唇を覆った手の中で洩らした。
どこかで、少しだけ期待していた。
友人より自分を選んで、睦言を囁きながら自分を抱き上げてくれる師の姿を。
あるはずもない、ひとりよがりな夢。
妖怪の血の流れる胸が、張り裂けそうに痛かった。
「どうしたのさ玉鼎。何だか元気ないけど」
それから数刻ほど後のこと。
二人は言い交わした通りに、泰山木の上で仙桃をかじっていた。
立派な大きさの枝からぶらぶらと足を揺らせて、太乙は半分ほどに鳴った土産物を片手にそう問いかけてくる。
先程の楊ゼンの様態が気にかかっていた玉鼎は、弾かれたようにハッと顔を上げた。
「あ、ああ、いや。………少し、弟子の様子がおかしかったので、気になってな」
「弟子……って楊ゼン君だっけ。何かあったの?」
軽く問い返しながら、ひょぃ、と太乙は玉鼎の腰掛けている枝に飛び乗ってくる。いつも研究に没頭して不健康な生活を送っている割には、意外なほどの身の軽さだ。もっともこれ以上高くなると、動くことすらままならなくなってしまうのだが。
「別に何も………ない、とは思うんだが」
「なんだか頼りない返事だねぇ」
自信薄げな友の応えに、太乙は呆れ半分で肩を竦めた。元々、これだけ人心の機微に疎い者も珍しいのだ。その彼に突っ込んだところまで読み取れ、と言うのは確かに難しいかもれない。
が、
「彼だってまだ小さいんだからさ、ちゃんと可愛がってあげなよ。………君以外、頼れる人は誰もいないんだから」
事情はよく知らないが、たった一人で異端な世界に放り出されたのだ。
支えてくれるものがいなかったら、きっと自分にだって耐えられないに違いない。
「………ああ、そうだな」
「本当にわかってるの?」
「……そのつもりだ]
「……………何だか不安だなあ。まあ君は嘘つかないってわかってるからいいんだけどさ、あんまり弟子を哀しませるような真似をしたら、僕がいつでも引き取るよ。一応これでも候補者だったみたいしね」
その一見怒っているような台詞に、それでも玉鼎は眩しそうに笑う。
優しい友。
彼は、自分を心配して言ってくれているのだ。
一人で全てを背負わなくていいと。
疲れたなら………いくらでも変わりになってあげると。
「………ありがとう、太乙。大丈夫だよ………私が不甲斐ない所為で、お前にはいつも心配をかけてしまうな」
「そんなんじゃないよ。………君は私の親友だから、頼られたいだけ。あ。もう1個どう?」
ガサ、と包みを探って、ひょいと太乙は一番大きな仙桃を取り出す。
それを、玉鼎は礼を言いながら素直に受け取った。
白昼も過ぎ、陽の光を含んだ暖かな風が、枝葉を静かに通りぬけてゆく。
それによって匂い立つ、泰山木の優婉でどこか厳粛な香りに包まれ、二人の高仙はは穏やかな時を過ごした。
そして、落日も近い時刻。
思っていたよりも話し込んでしまったと、玉鼎は半ば急いた様子で洞府の扉をくぐる。
それから少し歩いた回廊の先に、いつもの広間。
たいていはそこで本を読んでいる楊ゼンの姿が、今はどこにも見当たらない。
「楊ゼン……今帰ったよ、いないのか?」
きょろ、と所在なげに周囲を見渡して、玉鼎は肩に巻きつけてあった、長い藍色の領巾を習慣的に腕に落とした。するとちょうど肩掛けのような形になる。
洞府でくつろぐときの、彼の常時の格好。
それだけで、外の顔とは全く違う、しっとりとした雰囲気が醸されるのだから不思議だ。
「楊ゼン?」
そうして、玉鼎は更に奥の回廊へと足を進める。
その中途には、素朴な造りの小さな庭園が見受けられ、朱というより蘇芳色に近い柱が回廊を縁取るようにして連なっていた。
そこを過ぎれば、玉鼎と楊ゼンの自室以外に、両手で余るほどの部屋が設けられている。一つは書斎であったり、一つは薬室であったりするが、ほとんどが来客用の空部屋だ。
玉鼎はその周辺を歩みつつ、やがて楊ゼンの部屋に行き着く。
そして何気なく扉を叩こうとした時。
「!」
玉鼎は一瞬耳を疑った。
中から洩れ出てくる、小さな呻き声。
その主が誰かなんて、考えるまでもない。
「楊ゼン!」
バン!と扉を開け放ち、玉鼎はふためいて楊ゼンの元に駆け寄った。
寝台で喉を抑えるようにして、うつ伏せになっている幼い身体。
強く閉じられた瞳からは間断なく涙が溢れ出し、呼吸は浅く、発汗も酷い。
蒼い髪の乱れ具合から、今までどれだけ苦しんでいたのかが察せられる程だ。
「……し………しょ………」
「楊ゼン……!やはり辛かったのだな、どうして言わなかったんだ!」
彼の額に手を当て、玉鼎は一気に顔色をなくした。酷い熱。子供特有の発熱の類いなどではない。
そう感じ取ると、玉鼎は一刻も早く解熱に効果のある薬を調合してこようとした。
「楊ゼン、すぐに戻ってくるから待っていなさい」
そう口早に言い残して、すぐに楊ゼンの元から立とうとしたのだが、
「………師匠………!」
追い詰められたような声で叫ぶと、楊ゼンは身体を起こして玉鼎の首に抱きついてきた。
師の冷たく澄んだ体温が、触れた肌から直に伝わってくる。
激しく乱れた呼気も、ままならない身体も、今の楊ゼンにはどうでも良いことだった。
「………ここに、いてください・・……おねがいです………」
これ以上僕から離れていかないで。
お願いだから、誰よりも近い位置であなたの微笑みを見せてほしい。
それを我侭だと思う余裕も、今の自分にはないから………
「楊ゼン……?しかしお前が………」
「いいんです……おねがいです師匠、おねがい………」
喘ぐようにして紡いでいた懇願がすりかわり、最後にはうわ言に近いものになっていた。
それでも、玉鼎の首に回された腕の力は緩もうとしない。
切迫した弟子の苦態に、しばし困惑していた玉鼎だが、やがて宥めるように楊ゼンの頭を撫で始めた。
何度も何度も………ただ、腕の中の小さな身体に安心をもたらすように。
そうする内、次第に楊ゼンの呼吸も少しずつ落ち着いていった。
「………大丈夫か?楊ゼン」
涙で濡れた頬を衣服の袖で優しく拭いて、玉鼎はそっと楊ゼンの腕を首から剥がすと、元通りに寝台に戻してやる。
それでも彼の指は、玉鼎の髪を一房、しっかりと握り締めていた。
それに苦笑しつつも、玉鼎は何度かついばむような口づけを楊ゼンの額に落とす。
苦痛に強張った愛弟子の顔。
こんなにも苦しんでいたことに、全く気づいてやれなかった自分が酷く腹立だしかった。
玉鼎は後悔に満ちた表情で、手に取った楊ゼンの小さな掌に自分の額を押しあてて、
「安心してお眠り。………私は、ずっとここにいるから………」
それとだけ、楊ゼンに告げた。
しかし、その言葉だけで十分だったのだろう。
楊ゼンは一度安堵したように薄く眼を開けると、すぐにスゥ…と深い眠りにおちていった。
弟子の指に握られた髪をなぞるように梳きながら、玉鼎は月明かりの元で思う。
まだまだ、この可愛い弟子には自分が必要なのだろうかと。
不安で眠れぬ日も、闇に怯える日もまだ未だ多い………繊細な、脆い子なのだと。
………そんな思いが、いつしか裏切られることも知らずに。
何だか不穏な空気になってきた二話目です。
でもま、まだ玉楊っぽいでしょうか?