一話ー仙と妖の出会い
「楊ゼン、今日からここがお前の家だよ」
重い表情と足取りの幼い子の背中を軽く押すようにして、玉鼎は自分の洞府へと彼を招き入れた。
「ほら、お入り」
「…………」
気遣わしげな声に大人しく従って、楊ゼンと呼ばれた幼子は黙したまま、おずおずと中に足を踏み入れる。
物怖じを、隠し切れない様子。
玉鼎はそれを感じ取って、ひとつ辛そうな息をついた。
通天教主の嫡子、楊ゼン。
この子を預かりうけたのは、つい先ほどの玉虚宮でのこと。
元始天尊から事情を賜り、黄巾力士に乗って今に至るまで、まだ彼は一言も言葉を発しようとしなかった。
緊張と不安と恐怖………そして哀しみと孤独感。
小さな両肩に背負わされた業の深さが滲みでているようで、玉鼎は不憫そうに眉目を寄せる。
崑崙と金鰲の和の為の、体のいい人質のようなもの。
そう彼が思っていても仕方がない。仕方はないのだけれど。
「………楊ゼン」
知らず口をついた名もそのままに、玉鼎はさら、と長い黒髪を磨かれた床に落とし、膝を折って楊ゼンの顔をのぞきこむ。
そして、青白い肌を羽根のような仕草で包んで、静かな、優しさに満ちた笑みを顔に浮かべた。
崑崙山一の美貌を謳われた高仙の、極上の笑顔。滅多とかたちづくらないだけに、余計鮮やかさが眼に眩しい。
父にすら、そんな風な微笑みを与えられたことのなかった楊ゼンは、鬱屈していた感情も忘れて、大きな紫眼をびっくりしたように見開いた。
その彼の様子に、くすりと声を洩らして玉鼎は柔らかな美声を紡ぐ。
「楊ゼン、そんなに怯えないでおくれ。……私が、怖いかい?」
調子を崩さぬ穏やかな問いかけに、楊ゼンは一瞬びくりと肩を竦ませるが、
「………ぃ、いいえ………」
間近で映る黒曜の瞳に、結局は適わなかった。
消え入りそうな微かな声で彼の言葉を否定して、楊ゼンはもう一度不思議そうに玉鼎の顔を見る。
少しも害意の影がない、綺麗で優しい笑顔と美声。
会って間もない、妖怪を嫌う崑崙の仙の筈なのに、どうしてこの人はこんな笑い方をしてくれるのだろう。
ここでは異形でしかない、妖怪の自分に対して。
「やっと口を聞いてくれたな。………私は不器用だから、嫌われなくてほっとしたよ」
「ぁ…………」
安堵の溜め息をついて、立ち上がろうとした玉鼎の髪を、楊ゼンは咄嗟に掴んでしまう。
「?楊ゼン?」
それに玉鼎は少なからず驚いたが、楊ゼンは自分のその動作にもっと驚いていた。慌ててパッと繊細な黒髪から指を離す。
「ご、ごめんなさい……あの………」
しどろもどろになって、楊ゼンはどう言えばいいのかわからなかった。
ただ、あの微笑みが離れていくのが嫌なのだと。
そう、思っていただけで。
「……………」
「!ぅわ………」
俯いて言葉を探していた楊ゼンだが、突然ふわりと身体を持ち上げられて、思わず小さな悲鳴を洩らす。
落ち着いて辺りを見れば、目線がやけに高い。
そして、自分を抱くしなやかな力強い腕。
「あっ………」
「これで良いか?楊ゼン」
同じ位置に、同じ笑顔。
春光を浴びる残雪のように、張り詰めていた神経が解かれていく。
同時に、緩んだ涙腺から、ぽろぽろと玉のような雫がこぼれはじめた。
「よ、楊ゼン?どうした………嫌なのか?」
唐突な涙に心底焦って、玉鼎はらしくなくふためきながら、楊ゼンの身体を下ろそうとする。
だが、
「違…ぃ、ます……はなさないでください………」
掠れた、か細い声。
楊ゼンが泣きながら玉鼎の服をぎゅっと握り締めてきた。
途端、ぴたりと玉鼎の動作が止まる。
そして、どうすればいいのか迷っている彼の首に、楊ゼンの細い腕がそろそろと回されて、
「仙人、さま……ぼく、僕はいらない子ですか?どこにもいちゃいけない子ですか?」
「楊ゼン?」
「父上は……僕、のことなんて………っ」
……………きっと、どうでもよかったんだ。
そんな涙まじりの台詞を言い終える前に、強い力に抱きすくめられる。
少しだけ、胸が苦しかった。
「………そんなはずがないだろう、楊ゼン。その逆だよ、君の父上は誰よりも君を愛していたから……だから、こうして私達に託されたんだ」
「………仙………」
「君は聡明な子だ。………わかって、くれるな」
その詰めたような声に、楊ゼンはしばらく黙り込んだ後、それでもこくんと首を縦に振った。そうして、もう一度玉鼎の首元に顔を摺り寄せてくる。
「……いい子だ」
玉鼎はその頭をぽんぽんと叩いて、楊ゼンを軽く抱き直した。
小さな身体。
震えている四肢。
………自分に、この子の心の傷を、少しでも癒すことはできるのだろうか。
「ああ、それと楊ゼン。私のことは師匠と呼べばいい。これから、お前はここで私の弟子として過ごすのだから」
「………弟子?え、で、でも僕は………」
「だから、私の賢い弟子だ。……それ以上は、何も言わなくていいよ」
含んだ口調で言い終えて、彼を抱く玉鼎の腕に知らず力がこもる。
同情をしたいわけではない。
この子だって、きっとそんなものは望まないはず。
それでも……こうして湧きあがる感情は、抑えようがなかった。
「……そう、呼んでくれるか?楊ゼン」
控えめに囁いた言葉を耳に受け、楊ゼンは彼の見事な黒髪に細い指を絡ませる。
そして、別段迷ったような様子はなく、それでもどこか気恥ずかしそうに、
「………し、師匠………?」
……………………師匠。
例えようもなく、愛らしい声。
「……そうだよ、有難う」
する、と指で楊ゼンの頬を撫で、玉鼎はゆっくりと楊ゼンをおろそうとした。
だが、それは必死な弟子の手指に遮られる。
「楊………?」
「い、いやです……僕、こうしていたいです。ねえ、ししょう……師匠は、僕のこと、嫌い……ですか。僕、邪魔じゃありませんか?」
潤んだ瞳に、訴えかけるような哀願の問い。
そんな言葉が痛々しくて、玉鼎は返事をする代わりに楊ゼンの前髪を薄くかきあげ、そこに唇を落とした。
あくまで優しさを失わぬ仕草で。
「し、ししょ………」
「これが応えだよ……私は言葉で伝えることが苦手だから………これで、勘弁してくれないか?」
驚いて声を詰まらせる楊ゼンに、玉鼎は言う。
優しく優しく、これ以上ないほどの慈愛を以って。
「…………師匠…………」
「さて、もう夜も深いな。話さなければならないことはたくさんあるが……今日はこれで………」
「あ、あの………師匠」
寝てしまおうか、と言いかけた言葉を、どこかまだたどたどしい弟子の称呼に飲み込む。
「ん?………どうした?」
「僕、まだ寝たくないです」
「え?」
寝たく、ない。
夜が、襲ってくる。
自分のなかの、魔性と同じ色が。
「だ、だから師匠………お話、してくれませんか?」
「話………?」
「はい。僕、まだ何も知らないんです。金鰲とは違うから………ここで、まもらなきゃいけないこととか、他にも………」
そう逼迫に玉鼎の衣服を掴みながら言ってくる楊ゼンを、彼はしばらく思慮深げに見つめていたが、
「………そうか、そうだな。本当にお前は聡い子だ」
やがて静かに楊ゼンの頭を撫で、近くの窓の桟に腰掛ける。
細工格子の奥遠くには、ただ白く円かな満月。
そして、その光に仄白く照らされる、月より白い神仙の肌。
あまりにも高潔な雰囲気をまとう師の姿に、楊ゼンの幼い眼は、それでも一瞬にして奪われた。
「ここならば、あまり暗くないだろう。………今宵は望月か、美しいな楊ゼン」
「…………」
「楊ゼン?」
しばたく惚けたように玉鼎の容姿を凝視していた楊ゼンだが、首を傾げながら言う彼の言葉に、ハッと我に返る。
「ぁ、は、はい……きれい、ですね………」
月を見る前にそう返しつつ、楊ゼンは取り繕うように笑った。見惚れてました、とはとても言えない気がする。
「………?まあいい。それで、楊ゼン、どんなことについてまず知りたいのだ?」
衣擦れを手慣れた様子で正しながら、玉鼎は穏やかに言った。
お前が問うて、私を頼ってくれるなら、どんなことでもその耳朶に囁こう。
自分は不器用だけれど、できうる限りの愛情をお前に注ぎたい。
お前が独り立つその日まで……私は、よき師でありたいものだ。
「………ほんとうに、教えてくれるのですか?」
「ああ、私にわかることなら」
「じゃあ、師匠……師匠のこと、いっぱい教えてください………あなたのことを、知りたいんです……」
その予想もしなかった返答に、玉鼎は僅かに眼を見張る。
「………私、の?」
「はい。………だめ、ですか?」
「いや、そんなことはないが……しかし………」
この通り、なんの変色もない生活を送っているだけだ。
お前の考えているような、愉しいことは何もないと思うのだが、
「いいんです」
「楊…………」
「師匠の好きなこととか嫌いなこととか……どんな方と仲が良いのか……なんでも、いいんです」
あなたに関わる全てのこと。
何より先に、まずそれを知りたい。
「………そうか、わかったよ、楊ゼン。言葉が足るなら、夜通しでも語り明かそうか」
そう言って静かに笑う、今は師となった仙人の微笑は、今までに見た何よりも美しいものだった。
とりあえずまだ一話目です。しかしつまらない…えっええと、触りということでっ!←言い訳するな
この話が最後はダーク楊玉に変わるというんだから……うーん(汗)