九話ー藍青の波紋〈下〉





 

 


「懐かしいですね、本当に。……師父と酒を酌み交わすなんて」
 とくとくと玉鼎の持った盃に酒を注ぎながら、藍は自然と胸に湧き上がった思いを口に出した。
「そうだな……確かに、懐かしい」
 それをまるで水のように難なく飲み干しつつ呟くに玉鼎に、藍は笑い、ゆっくりとともう一度周囲を見渡す。
 昔の、彼の部屋。
 玉鼎の言葉通り、そこは何も変わらぬままに残されていた。
 誰も使っていないのならば、当然端々に積もるはずの埃も塵も一切見当たらない。
 いつ自分が訪ねてきてもいいようにと、師が手入れをしていてくれたのだろうか。
 そう思うと、改めて胸にこみ上げてくるものがあった。
「………師父もお変わりありませんね。相も変わらず、お美しい」
「またそのような……お前の口上手も健在のようだな。……そういう麗句は、女人に囁くものだ」
 自分そんな世辞を言わなくてもいい、唇が疲れるだろうと苦笑しながら諭す相手に、藍は心の中で首を振る。
 少しも自分の罪深さに気づかぬ師が歯痒くてしょうがない。
 僅かな嘘も籠めずにこんな台詞を紡ぎ出せるのは、貴方以外にいないのに。
 ………まあ、己の容姿になど少しも気を遣わぬ、師父らしいといえばそうなのだが。
「…………本当に、少しも変わっていらっしゃらないんだから………」
「藍?何か言ったか?」
「いいえ………どうぞ、師父」
 呟いた言葉を口端に追いやりつつ、藍は次の酒を玉鼎のそれに注ぐ。
 そして、自分も呑もうかと、盃を口元にまで移したときだ。
 不意に、サラ……と前髪に指を梳き入れられた。
 白く細い、しなやかなそれ。
 かつて、自分を何よりも慈しんでくれた……
「………師、父?」
「ああ、すまない……無性に懐かしくてな………お前の髪の色が、私はとても好きだったから」
 深く鮮やかで、海と森が融和したような……気高い、色。
 思いも寄らぬ言葉に、藍は微かに背を揺らがせる。
「師………」
「背は、少し伸びたか。顔も幾分大人びたようだな………お前のような師を持てた弟子は、幸せだ」
 仙人となり、弟子を取り、もうこの男も自分と同じ立場にいるのだとは承知していても、やはりどこかを幼く眺めてしまう」
 藍を相手にしてもこれでは、親馬鹿と親友達に諌められるのも仕方ない、と苦笑しつつ玉鼎は彼の髪から手を離した。
「こちらから会いに行かずすまなかったな………以前から才知ある子だったが、お前が立派になって嬉しいよ、藍」
「師父………」
「………それと、お前を途中で放り出すような真似をして、悪く思っている。………私が、至らなかった所為で」
 ふっと辛そうに顔をひそめて、玉鼎は藍に頭を下げた。
 彼はそれを慌てて制する。
「何を仰います、師父。貴方の所為などではありません……頭をあげてください」
 そんな風に謝られる方が私にとっては余程辛いのだと無理に説いて、何とか自分と視線が合うような位置にまで彼の顔を戻させる。
 師父に腰を折って謝られるなど、とんでもないことだった。
 それは弟子としてではなく、目上の者に対する卑屈な感情からでもなく………
 ……ただ、この心を偽ってしか語れないような卑怯者に、師のような高潔な人が跪いてなど欲しくなかっただけだ。
「お気になさらないでください、師父。……確かに貴方の弟子でいれた時間は短いものでしたが………その間に、私は多くのことを学びましたから」
 そう。それは嘘偽りない真実。
 師がいなければ、自分は今こんな立場にいることはなかっただろう。
 自惚れでも何でもなく、親の愛情を知らずに育った自分を、この人は純粋に愛してくれたから。
 …………あくまで、大切な、弟子として。
「藍………」
「さ、師父。過ぎた話は後にして、今は飲みましょう。………私も、この二百年近くの間に色々なことがあったんです。………聞いて、くださいますか?」
 酒瓶の口をつい、と差し出しながら、藍はにこやかな声をこぼす。
 竜胆にも似た色の瞳が笑みに緩んだのを見て、玉鼎もまた無意識に雰囲気を崩した。
「ああ、勿論。………そうだな、もう二百年も経つのか………」


 二百年。
 ちょうど、楊ゼンを弟子に取った頃のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 


 弓張り月は西天にかかり、闇夜に響く鳥の声さえも耳に遠い艮の刻。
 邪念を振り切るように、楊ゼンはひとり森で身体を持て余しつつ刀を振るっていた。
 その意味のない行為さえも、今は自分の心を散らすいい捌け口だ。
「………っ………」
 ハア、と荒い息を逸らした喉から漏らし、楊ゼンはどさりと木の幹に背を押しつける。
 むやみに身体を動かした所為で、思いの外消耗していた。
 芯から熱く疼く四肢。汗に濡れた頬に額。
 ………自分の吐息一つにさえ、恍惚とした情景を連想してしまう自分が酷く可笑しかった。
 そんな衝動が、腹ただしいほど頻繁に起こる。
 以前よりも堪えがたく、そして消しにくい、それ。
 必死で押し隠してきた黒い感情が、気づけば全身を覆い尽くしているように感じた。
「………どうかしてるよ、本当に」
 そう自分を小さく嘲け笑うと、楊ゼンは一度両目を抑えてその場から立ち上がる。
 そして、見える部位に師が怒るような傷をつけていないかを確認して、おもむろに洞府へ足を進めようとした。
 だが、
「やあ楊ゼン………こんなところで、何をしてるんだい?」


 闇から溶け出たように、音なく姿を現したのは、先程の見目麗しい仙人。
 その蒼の瞳は言葉を裏切り、氷にも似た冷たい光沢を放っていた。

 

 

 

 

 



「香藍……師兄………」
「藍でいいよ。一応君とは同門だしね」
 どこか吐き捨てるような口調で言って、藍は楊ゼンとの間合いを詰めていく。
 あまり嬉しいとは言えぬ台詞に、彼は自然と顔をしかめて身を引いた。
「そんな顔しないでほしいな。……そりゃ、お互い好感を持っていないのは認めるけどね」
「………師匠は?」
「眠られたよ。……ずっと僕の愚痴を聞いてくださってた。本当はもっと語り合っていたかったけど、君と話がしたかったからね」


 だから、ごく弱い眠り薬を、ほんの少しだけ用いた。
 一刻にも満たぬ夢をさまよう程度の………師の身体に負担をかけぬように。


「……それで、忠義に厚い貴方がそうまでして、何をお言いになりたいと?」
「………わざわざ言わなきゃわからないか?」
 至って平素な笑顔を浮かべる彼から、しかし楊ゼンは酷い怒気を感じ取っていた。
 初めて会った瞬間から、あからさまに叩きつけられた敵愾心。
 それは簡単に読み取れるほどの底の浅いものではなく、余計に楊ゼンとしても身構える羽目になったのだが。
「申し訳ありませんが………何のことか」
「………そう。あくまで、ただの優秀な弟子を演じるつもりか………まあ、それは構わないけど、じゃあ直入に言わせてもらうよ」
 ザッと最後の一歩を踏み出し、藍は冷めた瞳で楊ゼンを見つめる。
 怒りと、軽蔑と、そしてもう一つの燻った感情。
 そんなものが、濃くそれに塗り込められているようで、
「早く師父の元を去ってほしい。私は、君にここにいてほしくないんだ」

 

 

 

 

 

 



 楊ゼンにとっては、それはまさに断罪と同意語な言葉。
 予期していなかったわけではないが、思わず全身という全身が過剰な緊張を見せた。
「……何故、貴方にそんなことを………」
「言われなければいけないかって?………そりゃ、腹が立つからさ。君は、私をこの洞府から追い出してくれた張本人だしね」
「!」
 聞き捨てならぬ台詞に、楊ゼンはバッと眼前の仙人を振り仰ぐ。
 蒼紫の眼光が、絡み付くようにお互いを見据え合った。
「………何の、ことですか……?私が、貴方を?」
 楊ゼンはハッと息を吐いて、髪をかきあげる。
 いつのまにか、唇は夜気に晒され乾ききっていた。
「そうだよ。元始天尊様から託された内密の弟子……そうとだけしか告げられずに、私は師父の側から引き離された」
 勿論、だからといって師父に何を言いたいわけでもない。
 寧ろ、怒りの矛先が向いたのは、その顔も知らぬ弟子の方だった。
「本当にね、あの時は腸が煮えるような思いだったよ。君は知ってる?師父の弟子になれたことが、私にとってどんなに深い喜びだったか」
「え………?」
 肌を穿つような尖った糾弾に、楊ゼンは眉目をひそめて問い返した。
 彼の言葉を耳に通すたび、心に冷水を直に浴びせられるような感覚がする。
 藍はなおも続けた。
「私だけじゃない。当時の誰もがあの方の弟子になりたかった。―――少しでも側にいて、言葉を交わしたかった。どれほど多くの道士が、師父に強い憧憬を抱いていたか、君は知る筈もないんだろうね」
「……師、兄………?」
「………特別な存在というだけで、数百年も師を縛りつけて……そして仙人の資格を取って尚、修行にかこつけて洞府から離れようとしないなんて、とても信じられないよ。私だったら、そんな風にあの人の迷惑になるような真似は出来ない。君よりはずっと師父を大切に思っているから」
 息が詰まる。
 視界が霞んでくる。
 突きつけられ重い言葉を、受けとめることができない。
「そんな、こと………師父は、一度も………」
「言ったことがない?」
 嘲ら笑うような冷えた声音。
 その影に潜む、言い表せぬほど深い怒りを感じ取って、楊ゼンは堪らずに顔を伏せた。
「当たり前じゃない。師父は見ていて不安を覚えるくらい優しい人だもの。………誰かを自分から傷つけるような真似を、できる人じゃないんだ……」


 そう。あの人はいつも辛いぐらい純粋に人を見る。
 自分がそばにいた間も、全く気づくことはなかった。
 ……弟子にどんな眼で、己が見られていたのかを。


「自惚れないでくれる?君はただ大切な『預かり物』なだけだ。師父が望んで可愛がっているわけじゃない」
「……やめて……ください……!」
「本当のことだよ………耳が痛いんだろう?昔から考えないようにしてきた事実だからね」
「香藍師兄!」
 思わず耳を覆いながら叫んだ楊ゼンに、それでも彼は酷薄な笑みを浮かべたままだ。
「だから……いい加減に師父を解放して。あの人は君の卑しい欲望を満たす為にいるような……そんな軽い存在じゃないんだ……」
 きっと、師がいなくなれば太乙真人様や道徳真君様はおかしくなる。
 友人と言う言葉以上に、あの人を大事に思っている方達ばかりだから。
 ………無論、自分も例外なわけがない。


「我慢できないよ……君だけは許せなかった」


 血を吐くような鍛錬に耐え、ようやっと手に入れた居場所を不意に現れた赤子に掠め取るようにして奪われて。
 ………当たり前のように師父を独占するこの男が………


「また来るよ。師父に会いに」
「………な………」
「君がここで過ごしたときは、本当は私のものだったはずだからね」
 言って、藍は洞府へと踵を返す。
 それに、楊ゼンは乱れる胸中を抑えて抗議しようとしたが、
「 私は奪われたものを取り返そうとしているだけだよ………君に拒まれるいわれは無い、そうでしょう?」
 夜風に流れるような言を突き付けられて、彼は何も言い返せぬままに立ち尽くす。
 それを無言で一瞥すると、藍は闇の中へ消えていった。


 訪れた、一瞬の静寂。
 それさえもが、肌を裂くように冷たい。


「………っ…………」
 楊ゼンは口を覆って、前のめりにがくりと膝をつく。
 あの人の言っていることは、全て正しい。
 自分だって馬鹿ではない。彼の言いたいことは、分かっていた。
 そう、わかっていた。わかっているのに。
 それでも、自分は師に対する執着を断ち切ることが出来ない。
 この背徳の想いを、未練がましく抱き続けている。


 ………破局しかもたらさぬ末路を………嫌という程に、思い知りながらも。

 

 

 

 

 

八話へ十話へ


く、暗い……後弟子イジメですね。何も知らないのは師匠だけ。
次は思いっきり楊ゼン君が乱れてます。ええ、ある意味で(笑)
別段ひどくはないんですが、女性向け、とは言えない内容のような気が…;;

 

 

TOPに戻る罪部屋に戻る