十話ー堕ちゆく紫玉




 



 部屋に戻った藍は、足音を殺しながら、そっと闇に抱かれた寝台へと歩み寄った。
 薄い天幕の内に、ほとんど寝息を立てずに眠る師が横たわっている。
 冴々とした月光が、仄蒼く彼の肌を照らし出して、いっそこの世のものとは思えぬほどの高潔な色香が漂っていた。
「………師父…………」
 辛さを呑んだような声で、玉鼎の名を呼び、震える指先でその頬に触れる。
 熱保たぬ白磁色のそれ。
 どう誤魔化そうと、彼に惹かれる情は高まるばかりだった。
「……貴方のように綺麗な人って、他にいるんでしょうかね………」
 そんな台詞を反応のない玉鼎の耳朶に囁くと、藍は彼の手に頬に軽く唇を触れさせる。
 だが、けしてそれ以上のことをしようとはしない。
 己が師の身体に刻むことを許されるのは、せいぜいそのくらいまでで。
「………愛してます、師父………本当に、誰よりも………」


 …………だから、貴方を俗な感情に汚されたくはない。
 それだけが、師に望む唯ひとつのことだった。

 

 

 

 

 


「もう、行くのか?」
 藍が洞府に来てから二度目の夜。
 身支度を整え出した彼に、玉鼎は名残惜しそうな声をかけた。
「ええ、仙人が何日も自分の洞府を空けるなど、あまり誉められたことではありませんからね」
「………正論だ」
 自分で自分を諌めるように呟き返し、玉鼎は藍を見送ろうと洞府の外に足を出す。
 零れそうな夜空には、しかし暗い雲霞が立ち籠めていた。
「藍、今宵は月がない………気をつけてな」
「はい、師父。………貴方もどうぞご息災で」
「ああ。………しかし、楊ゼンはどこへ行ったのだろうな。今日の朝から、姿を見ないが」
 そういえば、昨夜はお前の寝台で寝入ってしまってすまなかった、とどこか気恥ずかしそうに言う彼に、藍は曖昧な笑みを浮かべて、
「さあ……熱心な彼のことですから、どこかで修行に励んでいるのでは」
「………そう、だろうか」
「ええ、だって師父のご薫陶の賜物でいらっしゃいますからね」
 影ある物言いを疑わず受けとめて、玉鼎は思わず嬉しそうに顔を綻ばせた。
 あの弟子を他者から誉められると、つい抑えきれないほどに感情が先走ってしまう。
 それこそ師として誉められたことではないな、と自省しつつ、玉鼎は素直に藍に礼を言った。
「ありがとう、藍。お前に会えて、本当に嬉しかったよ」
「とんでもない……それは私の方です………」
 返しつつ、藍は静かに眼を伏せた。


 綺麗な師父。
 貴方の側に。彼を置いておきたくはない。
 いくらおためごかしをしようと、それがただの嫉妬なのはわかっていたけれど。
 だが………それでも、あの男は…………


「……白壁の微瑕………か」
「…………藍?」
「いえ、それでは失礼致します………また、師父」
 そう言って深く辞儀をし去っていく仙を、玉鼎は手を振りつつ見守りながら、


「白壁の……微瑕………」


 どれほど美しく輝く珠玉であっても、どこかに傷はひそむものだという意味合いの。
 それを何の為に、と問う相手は、既に闇のしじまのなかだ。

 

 

 

 

 

 

 



「………楊ゼン?」
 洞府に入り、辺りに呼び声を響かせるが、やはり弟子の気配はない。
 別に今更過度な干渉をするつもりはないが、自分に一言も断らぬまま客の見送りにも出ない、となると多少は気にかかった。
 一体どこへ行ってしまったのかと嘆息して、肩掛けをするりとおろした時だ。
 不意に外へと続く扉が開き、楊ゼンが無言で入室してきた。
「楊ゼン?」
 驚きの所為か、微かに上擦った声を放ち、玉鼎は彼の方に二、三歩近づく。
 が、楊ゼンはそれと同じだけ身体を引くと、酷く暗い表情のまま、今帰りました、とだけ告げた。
 それに、玉鼎も知らず気後れしながら、
「あ、ああ……お帰り。藍は今帰ったよ………暫くは洞府を空けていたようだが……どこかに用事でもあったのか?」
 屈託無くそんなことを聞いてくる師に、楊ゼンは袖の中で拳を握って顔を背けた。
「いえ……少し………申し訳ありませんが、今日は休ませていただきます」
 その素っ気のない言葉に、玉鼎が何かを返す間もなく、楊ゼンは彼の脇を擦り抜けて奥の回廊へと向かう。
 彼の態度の理由が今一つ掴めなかったが、横を通られた際に香った、楊ゼンとは違う香の匂いに、玉鼎はああ成程、と遅まきながら納得した。
 彼とてもう立派な青年なのだから、そういう夜があっても何ら不思議ではない。
 自分にはあまりよくわからぬ感情だが、今までの弟子も皆そうだったから、きっと年頃というやつなのだろう。
 むしろ、自分は何を無粋なことを尋ねているのだと頭を叩いて、玉鼎は少し黙り込んだ。
 弟子の成長が嬉しい反面、やはり自分の手元から離れていく寂しさは否めない。
 だがそれもまた仕方のないことと内省しつつ、彼も回廊へと足を進めたのだった。

 

 

 

 

 

 


「もう……お帰りになるのですか?」
 どこか熱の籠もった、遠慮がちな声が、服装を整えている楊ゼンにかけられる。
 それは、彼の背後の褥の上から。
 黒い髪、黒い瞳の、間違いなく美女と呼ぶに相応しい容貌をした女仙だった。
 絹の衣はあられもなくはだけ、滑らかな雪肌を申し訳程度に覆っている。
 常人ならば、再びその色香に誘われるものなのだが、
「用は済みましたからね………では、失礼致しました」
 先程までの情事の余韻の欠片もない、冷えた声音で言って捨て、楊ゼンはさっさとその部屋を後にしようとした。
「お、お待ちください楊………いえ、道士様」
 それに慌てて女仙は寝台を飛び降り、楊ゼンの腕に縋るようにして彼を引き止める。
 品の良い香と、豊麗な肢体を惜しげもなく晒され、それでも彼は煩わしそうに眉をひそめただけだ。
「もう暫し……私にお眼を留めては下さいませぬか?お願いですから………」
 この道士の美貌と、鮮やかな手練手管にすっかり骨抜きにされてしまった。
 出来ることならば、私だけにその眼を引き付けておきたい。
 これでも、自分の容姿に焦がれるものは大勢いるのだから。
 だが、
「お断りします。………早く洞府に帰らなくては、師がお心を痛めますから」
「あ………」
 スッと冷淡に女仙の腕を振り解き、もう興味など全く失せたように扉の方へと向かう。
「ま、待ってください楊ゼン様………!」
 と、とっさに口を突いた台詞を言い終えて、女仙はハッと唇を抑えた。
 楊ゼンは険しい表情で、そんな彼女を睨みつけると、
「僕をそうお呼びにならないで下さい、と申し上げたはずですが」
「あ、も、申し訳ありません……あの、では次はいつお会いできますか……?」
 ふためいたように顔をあちこち触りつつも、女仙はどこか期待したような表情で楊ゼンの返事を待つ。
 しかし、彼は相手を面倒臭そうに一瞥しただけで、
「さあ。………僕はもう、来るつもりはありませんが」


 また甘い夜を過ごしたいなら、適当な相手を探せばいい。
 貴方ほどの美仙だ………きっと、いくらでも見つかるでしょうよ。

 

 

 

 

 

 

 


「……………」 
 パキ、と足元に転がっていた小枝を踏み折りつつ、楊ゼンは玉泉山の林道を歩いていた。
 ほとんど自棄に近い乱行。
 品行方正で通っている道士がいい様だ、と低く嗤いながら彼は額を抑える。
 自分は一体何をしているのだろう。
 こんなことを繰り返せば、否応無く師にとって有難くない噂が生じるだろうに。
 だが、もう自分では抑制の仕様がなかった。
 師兄との諍いで、必死にとどめていた濁流が一気に傾れ込んできたようで、
「………こんなんじゃ、師匠の側にいれない………」


 少しでも溢れてくる欲を紛らわさなければ。
 あの人の傍らで、笑って過ごせる自信がない。
 なのに。
 師匠は何も言ってくれない。
 これみよがしに香の匂いを纏わせて洞府に帰っても、ただお帰りと静かな言葉をかけてくるだけ。
 まるで、自分の素行などには関心も抱いていないような………


 そんな態度を取られる度、酷く凶暴な感情が突き上がる。
 その澄んだ黒眼を、自分だけに縫い付けたい。
 手を足を戒めて、闇深くに閉じ込めてしまいたい……と。
 欲に忠実な妖怪であるが故の、あまりに醜い衝動。
 楊ゼンは耐え難い胸の疼きに唇を噛み、がく、と地に膝をつくと、
「………どうしろって、いうんだ………」
 これ以上、この激情を偽ることなど出来そうになかった。。
 誰を代用にしようと、そんなものは殊更自分を煽る餌になるだけ。
 そう、あの人はけして手の届かない存在だと思い知らされる………
「……………」
 そこで、楊ゼンはふと眼から指を外した。
「………ああ、そうだ…………」
 手の届かない存在。
 そういえば、もうひとりそんな仙人がいたと思い至る。
 師によく似た、自分が最も疎ましく思う麗人。
 ………あの方なら、この欲心を少しは鎮めてくれるだろうか。
 楊ゼンは虚ろな動作で、スッと立ち上がり、哮天犬に腰掛けた。
 彼を作るために尽力してくれたのも師匠だったな、と今更のように思い起こし、僅かに胸を痛めたが、そのまま優雅に夜空を駆る。


「鳳凰山……確か、西方にあった筈だな………」

 

 


 星は見えない。
 月も雲間から僅かに覗くのみ。
 だが、それでいい。
 この醜い自身が、闇に紛れて隠れてしまえばいい。
 ……今暫し、師匠に気づかれることのないように。

 

 

 

 

 



 朧い灯火が一つだけ、閨のうちを薄く照らしている。
 公主はその中で夜着に身を包み、髪をゆっくりと梳っていた。
 光宿る黒髪が、サラサラと絹布の上に零れて落ちていく。
「ああ、もう月が高いか………」
 帳を通して、微かに垣間見える月光に眼をとめ、公主は櫛を脇に置いた。
 そうして、今しも枕に頭を沈めようとした時、
「…………!」
 眼前の帳が、するりとたくし上げられる。
 弟子の他、ここに近づけるのは玉鼎だけ。
 そして、弟子達とは先程別れの挨拶を告げたばかりだ。
「玉鼎………!」
 こんな夜分にと咎める心は消え失せ、嬉しそうな表情でその人物を急ぎ招き入れようとして、


「………え…………?」


 そこで、表情が固まった。
 蒼い髪。
 紫の眼。
 想う者とは似て似つかぬ、それでもどこか彼の面影が残る鮮烈な容貌。


「……お前、は………」
 強張った声音で、誰何を言い終える前に、
「はい、玉鼎真人師匠の弟子………楊ゼンです」

 


 その静かな応えとは裏腹に、楊ゼンの手は公主を荒々しく寝台へと押しつける。
 それに驚いて発しようとした拒絶は、彼の口唇へと吸い込まれていた。

 

 

 

 

 

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そんなわけで何だか凄い展開です。
藍の所為でタカが外れてしまったよう。
しかし師匠の代わりに公主を、とは楊ゼン君もなかなか鬼畜ですね(こら)
次回は公主が苛められてるので、苦手な方はお気をつけください。
でも内容は大したことありません。精神的に苛めてるだけ…かな(笑)

 

白壁の微瑕(はくへきのびか)…白壁は貴重なもの。微瑕とは傷のことです。完全に見えるものにでも、やはり欠点があることの例え。
閨(ねや)…寝室のこと。
褥(しとね)…寝るときの敷物のこと。

 

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