らんせい
八話ー藍青の波紋〈上〉
ギィィィィン!!
陽光降り注ぐ白昼、強力な宝貝同士の激しい拮抗が続く。
斬仙剣から繰り出される斬撃をかいくぐり、三尖刀の風圧は辺りの岩肌を甚だしく抉り取っていった。
言葉通り、息をつく暇すらない。
そんな一見殺し合いのような攻防が、数刻は行われただろうか。
ザッ………
不意に、玉鼎の宝貝から闘気が消え去り、それは脈絡なく地面へと突き立てられた。
いつもの、終了の合図。
大岩の上で構えを取っていた楊ゼンは、ふっと力を抜くと、身軽くその場から飛び降りる。
蒼の髪と紫の眼。鮮やかな色彩が彩るのは、既に青年と呼ぶに相応しい美貌だ。
「もうすっかりお前も一人前だな………歯応えがありすぎて、困る」
そんな台詞とは裏腹に、師、玉鼎の表情は何とも弾んだものだった。
楊ゼンは、僅かに目元を細めると、
「何を仰います、師匠。………貴方に本気で責められれば、僕では到底防ぎぎれません」
「はは、お前は世辞が上手いな。………さて、と、そろそろ昼時だ。洞府に戻ろうか」
顔には常時の穏やかな微笑を浮かべつつ、玉鼎は踵を返す。
際に、涼しくなびいた黒髪の上を、光の雫が眩しく流れて、
「…………はい、師匠…………」
過ぎ去った時は今なお遠く。
楊ゼンが、その花をも欺く容姿とともに、天才と名指されるようになって久しい。
だが、それに寄り添うようにして、もう一つの噂も立った。
仙人の資格を難なく手にしながらも、未だ道士を名乗って金霞洞を去ろうとしないのは何故か。
…………弟子を取る前に、自分は道を極めたい。
まだ仙人を名乗るほど、熟達しえたとは思っていない。
そんな彼の意向が、それとなく周囲に広まった後にも、また永い時が流れ去っていた。
「どうですか?師匠」
食卓を前に、楊ゼンは毎回のことながらそう玉鼎に尋ねてくる。
昔から少しも変わらぬ、食事時の光景。
言うべきことなど決まっているのにな、と玉鼎は小さく笑いを噛み殺しながら、
「ああ、美味しいよ………とてもな」
「よかった」
ほっと心から溜め息をつく弟子を眺めつつ、玉鼎はますます微笑の色を濃くした。
何に対しても自信に満ち溢れ、天才の名に恥じぬ力量を身につけておきながら、こと師に関する雑事には神経質までに気を遣う。
玉鼎が笑ってくれるまで、肩を叩きつつ誉めてくれるまで。
………紫色の瞳に、どこか不安をたたえながら………
「ほらお前も。……まだ少しも手をつけていないじゃないか」
皿を楊ゼンの方にずらしながら、玉鼎は手元の食物に再び箸をつけ始める。
楊ゼンもそう食べるほうではなかったが、玉鼎は彼に輪をかけて食が細かった。
それを何気に心配し、つい、と目線を上げたのだが、
「………――………」
瞬間に、楊ゼンの体内を耐え難い衝撃が駆ける。
伏せられた長い睫毛。濡れた唇が、どうしようもなく強く彼の眼を縫い付けて離さない。
妖しく艶めいたそれに誘われるように、楊ゼンは無意識に指で自分の口唇をなぞっていた。
「楊ゼン?………どうした、食べないのか?」
先程から全く食事に入ろうとしない彼を、玉鼎はまた心配げに諭す。
「………ぁ………」
その時にようやく自覚が戻って、彼は今思い起こしていたことを頭から叩き出そうとした。
駄目だ。
何を考えている。
……自分の、師を相手に。
「もしかして具合でも悪いのか………?」
「いいえ、すみません師匠。ちょっと考え事をしていたもので……あ、僕洗っておきますから、もう休息なさってください」
わざと軽い調子で言葉を並べて、楊ゼンは何事もなかったかのように食事に移った。
「あ、ああ………では、そうさせてもらおうか」
それを見て、玉鼎はようやく安心したのか、食事を終えて席を立つ。
そうして、良い天気だから書物を虫干しでもしようかと思っていたところへ、
「失礼致します」
突然開かれた扉から、凛と芯の通った、丁寧な声色。
太乙のものでも、道徳のものでもない。
いささかの一驚を喫しながら、玉鼎がそちらへと振り向けば、
「藍(ラン)…………?」
「お久しゅうございます、師父」
玉鼎を師父、と読んだその美丈夫は、見れば道士ではなく仙人のよう。
楊ゼンとさほど変わらぬ背丈に、群青と新緑が混ざり合った、濃密でいて鮮やかな髪の色をしている。
涼しげなその蒼の瞳には、否応なく視線が引き付けられた。
「………師匠?」
楊ゼンの訝しげな問いに玉鼎が応えるより早く、藍と呼ばれた男は腰近くまである細髪を揺らして、スッと師の側に歩み寄る。
そのまま、静かに床にひざをついて、繊細な仕草で玉鼎の右の手を取り、
………一糸の迷いもなく、ついばむ様に控えめな口付けを、その白い手甲に落とした。
「…………っ………」
途端、楊ゼンの顔が硬い強張りを見せたことにも構わず、次は額を軽くそれに押し付ける。
師への、敬愛の挨拶。
少なくとも、玉鼎はそう感じていた。
「お会いしとうございました……幾年越しでしょうか、こうして間近で尊顔を拝するのは」
にこ、と顔を綻ばせて、男は立ち上がる。
それに、玉鼎は多少居心地が悪そうに微苦笑を浮かべると、
「藍………そのようなかしこまった態度など取らなくてよい。お前はもう道士ではないのだから」
「いえ、とんでもありません。私のような浅薄者が貴方に同等の口をきくなど………まだそこまで自惚れることはできませんよ、師父」
「……そう、言われると、こちらも身構えてしまうのだがな………まったく、お前は相変わらず慎み深い男だ」
どちらともなく笑みを零しつつ、二人は短く打ち解けた受け答えをする。その邂逅に、幾百年もの隔たりがあったことなど、まるで感じさせないような。
そんな両者を隣から呆然と眺めていた楊ゼンに気づき、玉鼎は自然な動作で彼を招き寄せると、
「ああ、すまなかったな楊ゼン。……紹介しよう。かつての私の弟子……玲 香藍(リン シェンラン)だ。今は仙人に昇格して、高麗山で洞府を開いている………藍、楊ゼンのことは、聞き知っているだろう?」
楊ゼンの肩を抱きながら、玉鼎はいつになく上機嫌な様子でそう問うた。
藍は、彼に気づかれぬほど微かに眉目をひそめつつ、
「……はい。その名は至るところで耳にします。師父もさぞや自慢の師弟なのでしょうね」
「ああ………本当に、自慢の弟子だ」
自慢の、弟子。
万事に対して謙虚な姿勢を崩さぬ師が、自分に関してだけはそれを変えるのを見て、楊ゼンはどうしようもなく深い自責にかられた。
自分は、そんな高尚な理念を抱いてるわけではないのに。
いや、それどころか………
「…………」
「楊ゼン?」
「ッ!」
ほん間近で黒曜の眼が揺らいだのを見て、楊ゼンは一瞬で我に返った。
また最低なことを考えている。
いい加減に、自制を保てている間に捨て去らねばならぬ醜い感情。
それでも暇さえあれば、ひとつの邪念に身を焦がしていた。
そう、今、こんな場面でさえも………
…………師が、隣にいる所為で。
「いえ………お目にかかれて光栄です、香藍師兄」
「こちらこそ………師父は良い弟子を持たれたようだ」
と、握手を交わしたその時に、楊ゼンは何か違和感を覚えた。
彼の唇からもれる語句とは逆に、蒼の眼光は明らかに楊ゼンに対して好感情を抱いていない。
否、好感以前に………言い知れぬ憎悪さえも。
「藍、今日はまたどうしてここに?何か用でもあったのか?」
「いえ、特には。……ただ私の弟子の修行に一段落がつきましたので、久々に師父の顔が恋しくなりましてね」
その言葉に玉鼎が疑念など抱くはずもなく、ただ素直に笑みを深めた。
「そうか?それは嬉しいことだな。……では遊山か、お前さえよければ好きなだけ休んでいくといい。部屋も残してあるから」
「………え?」
部屋が残してある。
数百年も前にとった、弟子の為に。
藍は一瞬目を開いたが、それはすぐにふっと崩されて嬉しげなものに変わる。
そして、携えていた酒瓶を、胸の前まで持ってくると、
「有難う御座います、師父。手土産にこんなものを持ってきましたら……今宵、一献いかがですか?」
「……ああ、それはいい。色々と積もる話もあるから、楽しみだな。………では藍、ゆっくりしていってくれ。昔ともに過ごした処だから、遠慮はいらない」
静かな、それでいて心から過去の弟子を歓迎する師の様子に、彼を見る二人の眼は微妙な色合いになった。
お互い、異端な存在を牽制するような………そんな感情を籠めて。
曝書を済ませ、玉鼎が全ての書物を棚に入れ終わったころには、すでに陽は山の向こうに沈んでいた。
彼は広間に出て、そこで書に眼を通していた楊ゼンに、藍はどこかと尋ねる。
「師兄ですか………多分、ご自分の部屋にいらっしゃると思いますが」
楊ゼンは書面から顔を上げぬままに、言葉だけ丁寧に応えた。
「そうか、有難う………ああ、楊ゼン。お前も一緒にどうだ?藍の手土産は、たいそう良い酒のようだから」
透った美声が、僅かに弾んでいる。
余程、立派に巣立った弟子が訪ね来たことが嬉しいのだろうか。
楊ゼンは、玉鼎に気取られぬよう、強く手を握り締めながら、
「いいえ、僕は……遠慮しておきます。修行がありますので」
「え……こんな遅くにか?」
「…………はい。試してみたい術があったんです。……それに、師匠に水いらずで楽しんでいただきたいですから」
虚言ばかり紡ぐ唇から、心とは裏腹な台詞ばかりがこぼれていく。
過去の弟子なんか見てほしくない。ずっと自分の側だけにいてほしい。
それでも、仲睦まじい二人を見せ付けられたくなんてないから。
………これが、自分に出来る、精一杯の譲歩。
「そんな……ことはないのだが………お前は優しい子だな、楊ゼン。あまり無理をしてくれるなよ。………お前は普段から自分の身体を大事にしないからな」
「………はい、師匠。気をつけます」
「約束だぞ」
扉に手をかけながら、顔だけをこちらに向けて玉鼎は優婉に微笑む。
常に楊ゼンに対して向けられる、自然で穏やかな笑顔。
今の自分には、それを正面から見返すことが出来ない。
………この濁った眼が、師のそれを黒く汚してしまいそうで、
「………………」
整った足音が、広間から離れていく。
先程から一行も読まれていない書物に、ぼんやりと身のない目線を投げた後、楊ゼンは不意に天井を仰いだ。
昔、師匠が自分以外の誰かとともに過ごした洞府。
いくら時が流れようと、弟子を慈しむ態度を変えないあの人。
「師匠………」
お前は優しい子だな、楊ゼン。
あまり無理をしないでくれ。
そんな一抹の嘘すらない師の労わりに触れる度、自分がどれほど汚れた想いを抱いているのかを痛感する。
弟子として限りなく純粋な愛情を注いでくれる恩師に対して、せめて自分は最高の弟子でありたいのに。
彼の仕草ひとつひとつに卑しく息を乱す己を、どうしても振り切る事が出来ない。
貴方を気遣うのは、優しさなんて綺麗なものじゃなく、ただの醜い情欲の裏返し。
自身を痛めつけてでもいないと、すぐにその波に呑まれてしまいそうになるから。
憧れ、羨望で片付けるにはあまりに強く、そして汚れたこの感情。
………どうすれば、こんな焦燥を胸に抱かなくて済むのか。
「…………簡単だよな………ここを、出ればいいんだから……」
楊ゼンは自嘲に唇を濡らして、そんなことを呟く。
いい加減、自分の身勝手さに嗤いが漏れるほどだ。
洞府を出る、と一言だけ師に告げればいい。
それで、全ては終わるのに。
どこかで、何もかもを裏切った応えを渇望する自分が息づいている。
大切な人を力づくでこの手に堕として、その身体を侵し尽くそうとしている自分が。
「………こんな最低の弟子だって知ったら………貴方はどんな顔をするんでしょうね」
素知らぬ振りで接しながら、頭のなかでは常に貴方を陵辱しているような………こんな男だと知ったら。
それでも、こんな狂った想いなぞ、綺麗なあの人にはきっと理解すらできないんだろう。
何かを欲する心を、欠片も持っていない人だから。
そんなわけで段々ヤバくなってまいりました。
でもこれでも楊ゼン君はまだ師匠を気遣ってるんですよ…
その内それもなくなりますけど……はは(汗)
曝書(ばくしょ)…書物を虫干しにすること