七話ー壺中の天〈下〉







「………ねえ、あの方ってどなた?」
「お見掛けしたことはないけれど………すごく綺麗な人ね」
「でも………女仙、なのかしら?」
「それはそうよ。だって巫女なんですもの」
 そんな声を遠耳にしながら、楊ゼンはなるべく平静を装って道を歩んでいた。
 眼前にある両の手には、紋様見事な華扇がおさまっている。
 師の姿が近づくにつれ、楊ゼンの視線は彼を避けるよう段々と下がっていった。
 それがどうしてなのか、自分でも掴めぬ内に、
「…………、……」
 ふわり、と慣れた木蓮の香りが身体を包んでくる。
 そうして、思わず目線をあげれば、
「―――――――」
 耳に飛び込んできた、陶酔さえもたらすような楽の音。
 それを受けて尚艶めく、凄絶な麗姿は今目の前だった。
 切れ長の三白眼に、流れるように衣装を伝う漆黒の髪。
 元来の容姿を引き立てるようにほどこされた薄化粧は、中性的とさえ言える雰囲気を漂わせている。
 その許容を超えた甘美な衝撃に、楊ゼンは扇を手渡すのも忘れて魅入っていた。
『楊ゼン?』
 不思議そうな顔つきで、玉鼎の口元が動いたのを見て、ようやく僅かだけ我に返る。
 まるで夢うつつのような状態で、華扇を御使に献上し、拝礼をして着た道を戻っていく。
 そうして、ようやくのことで最初まごついていた御殿の裏にまで辿りついた。
 が、
「良かったですよ、楊ゼン。ほっとしました………楊ゼン?」
 そこで待機していた白鶴童子の賛辞の言葉も、今の楊ゼンには全く届いていない。
 どころか、師を見てからの記憶がほとんど残っていなかった。
 ………息触れ合うほどの距離で見た美貌が、あまりにも鮮烈すぎて。


 それから錦舞が本格的に始まるまで、楊ゼンははっきりとした感覚を取り戻すことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 




 扇を弟子から無事受け取った後、玉鼎はそれを閉じたままに、短い前座舞を披露した。
 夜気に花弁が舞い散るように、夢心地のときがつらつらと流れてゆく。
 そうして、時は満ちた。
 ザァ………と枝葉をさざめかせて蕾は産声をあげ、沈黙を守っていた水桜霊樹が一斉に華心を開く。
 ともすれば白とも映る、淡紅な花弁の色。
 咲いた側から、ゆるやかにそれは散り始める。
 薄い薄い花びらに、御使の浮かぶ池の蒼色が透けて、それは玄妙この上ない光景だった。
 …………そうして、夢か現かの境界すら掴めぬほど、皆の思考が朧く霞んできた頃。



 スッと無駄ない動作で扇を開き、御使は類い稀な美声をもって舞を踏み始める。


 雅楽と、祝詞。そして錦と謳われた舞をその眼にした瞬間から………仙道達は完全に幻惑の世界へと誘われていた。

 

 

 

 

 


花は 我が愛に応える
 柔らかな多々の彩をたずさえ、
 艶やかに、また楚々と、
 そのはかない一世を、粛々と吟じて嬉き過ごす
 煌めく陽の散光を、たおやかな花弁一身に浴び、
 暮夜の時分には、真砂のような夜露をそれにしとりと含む
 蒼紫黎明 潤った蕾は薫風に揺られ、その華心を物憂げに涼気にさらす
 鴇色のつつがなき浮世にその麗姿を佇ませ、
 去り往く静かな刻が、慟哭とともに其の身にせつせつと染み渡る
 それがいかほどに哀しく神聖な営みであることか
 須臾に皆は踊り舞い、一筋 銀色の涙痕を若葉へとどめて
 そして花は地へと還る




鳥は 我が安らぎに応える
 象牙色の梢に身を寄せ 様な紋様で木々を彩り、
 澄んだ声音がつらつらと語る、他愛ない睦言は、人を幻遠の地へと誘う
 透いた羽根を泳がせ、翠嵐の香りの中で戯れる様は、
 緑に覆われた大自然に、小さな、けれどあたたかい灯りをもたらす
 天より落つる流水が大岩を穿ち、そこではいっそ素晴らしく、
 瑞々しい歌声が清閑なる山川草木に響きこだまする
 それがいかほどに尊大なる情景であることか
 蒼天に皆は翔び、人に空へのこよなき夢と情熱を与えて、
 そして鳥は木々に眠る




風は 我が芯に応える
 気の赴くまま、無頼に身を委ねて、奔放にこの世を駆け巡る
 勇ましくも雄々しい、形成なき猛者達よ
 それらは人に、術ない脅威とはかりなき恵みを授けた
 時には冷たく、時には温情に富み、
 太古の彼方より、常に人と共に在った
 解けぬ絆を我らに残し、また流転の境地へとその存在を投じる
 それがいかほどに惜しく拙い邂逅であることか
 皆は万物の子孫を色なき流れに包み、大地へ静かに全てをまかせて、
 そして風は空に溶けゆく




月は 我が心に応える
 昏き夜空を支配する、冴々と美しい円かな光明
 幾千の深き時代より、その風貌は衰えることを知らず尊ばれてきた
 芒に愛でる中秋も然り、
 深雪に映える嫦娥は言うまでもないほど
 怜悧に思えて、母の微笑みのようにあたたかい、その月光は、
 人々の多様な琴線に、形は違えど、哀切なほどの感銘を刻み込む
 それがいかほどに希少な、自然のもたらす感動であることか
 神秘にとどまらぬ営みを繰り返し、詩に歌に、永きに渡り親しまれ、
 そして今 月は闇の腕に抱かれる


 陰りない宵闇   花はさざめく風に戯れ 鳥は月の幻に歌を捧げる



 ああ なんと愛しむべき情景であることか

 

 

 

 

 

 

 



「お疲れ様、玉鼎。しかし今回も凄かったねぇ。おかげで何度も音を間違えそうになっちゃったよ」
「何を言ってる………それより太乙、着替えくらい一人で………」
「ダメ」
「…………」
 深夜。
 先程と同じ室内で。
 錦舞が相も変わらずの成功を収めた後、額や首飾りを取り落とし、くつろぐ二人の十二仙の姿があった。
 窓の外では、あちらこちらでいまだたけなわの宴が繰り広げられている。
「ねえ、玉鼎は外に出ないの?女仙達が首を伸ばして待ってるよ、きっと」
「………わかっているくせに意地が悪いぞ。私はそういったことは苦手だ」
「ふふ、だよねぇ………まったく生真面目なんだから。ま、そこがいいんだけど……と、はい髪飾りは取り終わったよ。服脱いで、楽になったら?」
「………ああ」
 太乙の促しの声に、玉鼎は羽織っていた幾重もの衣装を肩から落とす。
 そして最後には、薄く白い襦袢一枚になり、ようやっと彼は深く息を吐いた。
 暫し後、濡れた布を手にした太乙が控えめに玉鼎の頬に触れ、仄かな化粧の色を消してゆく。
 ひんやりした感触が思いのほか心地よくて、玉鼎は不意に襲ってきた睡魔にそっと眼を伏せた。
 それに、太乙の指が気づかないほど微かに強張る。
「………疲れた?」
「…………少し、な」
 その言葉とは裏腹に、彼の口調はすでに微睡んでいる者のそれだ。
 嘘ばっかり、と太乙が軽口を叩いて、布を玉鼎の頬から離す。
 そうして、まともな服を彼に渡そうとした時、
「師匠」
 カチャリ、と唐突に扉が外から開かれた。
 慣れた声に傾けていた面を上げれば、いつもの服装に戻った弟子が立っている。
「楊ゼン?………どうした」
 彼は玉鼎の姿に一瞬顔を引き締めたが、それはすぐに平静な表情へと戻って、
「どうした、じゃありませんよ。……元始天尊様や十二仙の方々がお待ちです、早く宴に出てこないかと」
「ああ………」
 やはりか、と玉鼎は頭を抑えたが、何とか思い直すと、
「そうだ、楊ゼン。先程はすまなかったな。………元始天尊様は何かと型破りなことがお好きな方だから……さぞ驚いただろう」
「はい……でも………」
 ………感謝も、してはいますが………
「?」
「いえ、何でもありません。……それより師匠、急いで………」
「玉鼎!」
 ください、と楊ゼンが言い終えるより早く、再び扉が鳴った。
「え?」
 現れたのは、その彼の記憶にはないひとりの仙女。
 師とよく似た髪と紫の眼の……眼を見張る程に鮮やかな美仙だった。
 彼女は、目当ての者以外に人がいることに驚いたのか、途端勢いを削ぐと、
「あ、とまだ取り込み中だったか………これは失礼を………」
「いや、気にするな竜吉。もう終わった」
「………え?」  
 砕けた様子の玉鼎の声に、楊ゼンは大きく瞠目した。
 竜吉公主。
 ではこの仙女が、と楊ゼンが正体のつかめぬ焦燥を胸に抱くところへ、
「おや、こちらは………」
 竜吉公主の注意が、楊ゼンの方へと向けられる。
 それに玉鼎は、どことなく誇らしそうな表情を作ると、
「ああ、私の自慢の弟子だ。楊ゼン、竜吉のことは………知っているな?」
「…………」
「楊ゼン?」
「ッ………ぁ、はい、存じております。………お初にお目にかかります、竜吉公主様。以後お見知り置きを」
「いや、こちらこそ。成る程、利発そうでいらっしゃる………さぞや玉鼎も将来が楽しみだろう」
「ああ、そうだな…………それで、何か用でも?竜吉」
 思い出したように問う玉鼎に、公主は何を言っている、と多少怒ったような顔つきになって、
「用は、ではない。お前に賛辞を送ろうと思って来ただけだ」
「え?」
「………っ、だ、だから……いつものことだが、素晴らしかった、と………」
 聞き手が多い所為か、僅かに顔を赤く染めつつも、公主は玉鼎の側に寄ろうと足を進める。
 だが、
「…………!」
 楊ゼンの表情が凍りついたのはその時だった。
 彼女の歩みに呼応して、流れるように動いた高貴な香り。
 それは、いつか楊ゼンが師の衣から感じた………


「………その為にわざわざ私を探していたのか?」
「…………そうだ」
「……全く、あまり無理をしてくれるな、竜吉。お前は身体が弱いのだから………いつでも私の方から赴くと言っているだろう?」
「十二仙のお前を呼びつけるような真似ができる筈がないだろう。………そうそう人を虚弱扱いするな。私を甘やかしすぎるぞ」
「いけないか?」
「……っ……そうでは、ないが………」


 玉鼎も竜吉の頬に触れながら、この上なく優しげな声で彼女を気遣う。
 竜吉もまた、普段まとっている威厳を取り去って、実に楽しそうに玉鼎との会話に興じていた。
 それは、他者が入り込めぬような、ごく自然な親密さで。
 ………楊ゼンのひそやかな優越を踏み砕くには充分な………
「まったく、琴瑟相和す、とはあのことだね。仲がいいったら」
 隣から、太乙の呆れたような声。
 師から目線を外せぬままに、楊ゼンの枯れた唇は平静な声だけを紡ぐ。
「………お二人は、昔から?」
「ん?んー、そうだね。結構前からかな。まあ、玉鼎は病弱な公主を妹みたいに思ってるんだけどさ……公主の方は、なかなか本気らしいんだよね、これが」
 あの眼は玉鼎しか見ていないから、他の仙人なんて寄せ付けもしない。
 ともすれば冷淡なほどの潔癖さも………彼の前だけではすぐに綻んで。
「ま、見てるだけであてられそうだよね、この二人ときたら………ねえ、玉鼎、公主。私は先に行ってるから……ほどほどにしときなよね。楊ゼン君もいるんだし」
 ひやかすようなその声に、しかし赤面して反応したのは公主一人だ。


 

 

 

 


 やがて玉鼎は公主と楊ゼンを引きつれ、すっかり出来あがっている宴に顔を出した。
 皆酒をあおり、他愛ない会話にふけり…………

 …………そうして数刻ほどが経ち、連なる山々の端の空気が蒼く滲み始めた頃、玉鼎は弟子と共に玉虚宮を後にした。

 

 

 

 

 

 



「ふぅ………ご苦労だったな、楊ゼン。疲れただろう」
 金霞洞。
 バサリと領布を取り捨て、玉鼎は僅かに疲労をたたえた顔で弟子を振りかえった。
 先程から、どことなく彼は元気がない。
 だがおそらく慣れないことを強いられたせいだろう。
 悪いことをしたな、と玉鼎は小さな罪悪を感じつつも、湯殿へ向かおうとした。汗をかいたので、流石に気分がよいとは言えなかったのだ。
 だが、
「いいえ………あの、師匠………」
 そっと手首に触れてきた弟子の掌に、軽く歩みを遮られる。
「ん?」
「あの……こんな台詞、聞き飽きたかもしれませんが……でも、本当に綺麗でした………」
 綺麗だった、本当に。
 それ以外に言うべき賛辞が見つからない。
 言葉なんかで言い表せるほど、それは簡単な衝撃ではなかった。
 楊ゼンが遠慮がちに囁いてきたそれに、玉鼎は一瞬眼を見張ったが、すぐに気恥ずかしそうな表情になって、
「面と向かって言われるとどうにも居心地が悪いな………だけど、お前にそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ、有難う楊ゼン………お前の艶姿も、皆に自慢したくなるほどだった」
 にこ、と本当に嬉しそうに一度笑むと、スッと楊ゼンの髪に指を添えてきた。
 そのまま、硝子を扱うような仕草で、彼の頭を柔らかく胸に抱く。
 零れ落ちた黒髪からは、仄かな木蓮の香りがした。
「師匠………」
「さ、おかしな時間帯になってしまったが、今日はもう休もうか。……私も、少し疲れたから」  
 そして楊ゼンの頭を二、三撫でると、玉鼎は肩口から上衣を落としながら、湯殿へ続く回廊へと姿を消していった。
「……………」
 それを食い入るように見つめながら、楊ゼンも無言で自室へと歩み出す。

 


 美しい雅楽と舞とが紡ぎ出した、一夜限りの幻想。
 まだ………玉鼎は気づいていない。
 楊ゼンの言葉に含まれていた感情が、もはや純粋な憧れだけではなかったことに。

 

 

 

 

 

六話へ八話へ


ああやっと終わりました。本当にご苦労様でした(死)
一度玉鼎サマを女装させて踊らせてみたかったんです……はい;;
ここまでひいたら、何か舞っている内容いれなくちゃなー、と考えて、
数年前に作った詩を入れてみました。浮きまくりでぎゃふんと言った感じです。
造語が多いので、読めない場所がたくさんあるかと思われます。
ホント申し訳ありません。無視してやってください(泣)
でもこれでようやく前半が終わりましたので、これから中盤です。
見事に暗くなっていきますねー、ふふふ(何?)

 

琴瑟相和す(きんしつあいわす)…夫婦仲が非常に良いことの例えなのですが、夫婦じゃありませんねこの二人(こら)

 

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