六話ー壺中の天〈中〉
「………ん、これでよしっと」
ぽん、と玉鼎の肩を叩いて、太乙は満足げな声を漏らす。
あれから一刻。ようやっと玉鼎の着付けが完了したようだ。
華やかに、それでいて動きに支障が出ないようにと、御使の着付けというのはかなり気を使う。
しかし結果、その苦労が顕著に表れてくるのだから、大いに腕の振るいがいがあった。
何より、美しい者を装わせるのは楽しいのだ。
「どう?玉鼎。どこか都合の悪いところある?」
なるべく玉鼎の姿を直視しないように、太乙は不自然に眼を逸らしながら言った。
今、彼の麗姿を目の当たりにして、見惚れてしまわない自信がない。
なにせ、見飽きる、ということのない友人だ。楽しみはできることなら後に取っておきたかった。
「いや……流石だな太乙。ありがとう」
しかしそんな太乙の気持ちなど露知らず、玉鼎は振りかえってにっこりと笑みを浮かべる。
揶揄でなく眩暈がした。
「あ、ちょっと待ってよ玉鼎、こっち見ないで………」
などと太乙が焦って眼を隠そうとするところへ、
「失礼する、玉鼎」
コン、と扉が一度鳴り、声を返す前にそれが開かれる。
そうして現れたのは、品良く紫の衣装を身に纏った竜吉公主だった。
化粧も雅で、いつもより尚その美貌が輝いている。
「竜吉?」
「最中に悪いな。太乙がここに来なかっ………」
たった二人の奏者のうちの一人。そんな彼女が、まだ着付けの途中だろうと無警戒に部屋に足を踏み入れて、
「…………玉鼎?」
思わず、少々間が抜けた言葉を漏らしてしまう。
常時から、彼の花も羨む美貌は十分に承知していたはずなのに。
あれから更に磨くことが出来るのか、とその容姿をしっかりと正面から見てしまっただけに、公主は顔が赤らむのを抑えられなかった。
はしたない考えだとわかっていても、衝動のままに抱きつきたくなったほどだ。
「竜吉?どうした、太乙に用事か?」
不思議そうに問われて、公主はハッと甘美な酔いから我に返る。
「あ、ああ。そろそろ準備をしなければいけないと思って……もう玉鼎の方は済んだ様だな」
「うん、我ながら上出来だよ。その成果は……今君が教えてくれたしねぇ。満足満足」
「太乙!」
「?」
くすくすと笑う太乙と焦る公主を、玉鼎は暫しわからない顔つきで眺めていたが、
「では私も……元始天尊様に祭事の流れだけ聞いてこようか。……ああ、そういえば太乙、扇渡しの巫女は誰に決まったのだ?」
扇渡しの巫女。
御使が舞を披露する際に、それに使う扇を献上する役目のことである。
参宮してきた仙道達のなかから、祭礼の当日に祭主が決める……ささやかな女人の憧れのようなものだ。
だからこそ元始天尊の眼に止まろうと、皆一様に着飾ってくるのだが。
その人物をまだ聞いていなかった玉鼎は、傍らにいた太乙に何気なくそう尋ねて、
…………次には何だか変な顔をされた。
「太乙……?どうした、何が可笑しい?」
「え、いや………玉鼎、誰だかまだ知らなかったんだ?」
「ああ……だから誰だと…………」
聞いている、と言う前にとうとう太乙は小さく笑い出して、公主と眼を合わせる。
彼女も知っているのか、悪戯そうな微笑を浮かべていた。
それに焦れて、再度玉鼎が問おうとすると、
「君が一番可愛がっている子だよ、玉鼎」
それより先に、太乙が間接的な助言をしてくる。
玉鼎は、そのすぐに汲み取れた言葉に、大きく眼を見張って、
「…………え?まさか…………」
「そう。元始天尊様は型破りな余興がお好きだから、さ」
そうして、陽は完全に闇に溶け去った。
それとともに、あちらこちらに備えられた花灯籠にぽつぽつと灯が入り始め、昼とはまた異なった表情の花の園が映し出される。
楚々としつつも、どこか優艶。
人の心にも、仄かな色香が灯り出す………そんな刻限に。
ようやく、祭礼の開始を告げる透った笛の音が広大な庭園中に響き渡った。
それまでざわざわとしていた辺りが、途端水打ったように静まり返る。
更にざわめきの余韻が過ぎ去った頃合に、水桜霊樹へと続く花畳に、ぱらりと緋色の長い絨毯が敷かれた。
…………ピィー……………
どこからともなく流れ来る、細く涼やかな笛の音。
それにいっそう、場の雰囲気が高められる。
やがて従者を従えた祭主が厳かに現れ、まだ花咲かぬ霊樹を目の前に据えた祭壇に立った。
開いた巻物をつらつらと読み語り、清められた剣で虚空を薙ぎ、祭礼の儀式をとどこおりなく進めてゆく。
そんな風に厳粛な静寂が過ぎ去り、そろそろ皆の目当ての項目となった頃合い。
そのときに、近辺から儀式の進行する様子をぼんやりと眺めていた楊ゼンに、一つの異変が起きていた。
「楊ゼン君」
いきなり背後からそう声をかけられて、流されるままになっていた注意力をぱっとそちらに向ける。
「え?………って、太乙真人様?こんなところで何を……もうすぐ出番でいらっしゃるのでは?」
「うん、そうだよ。でもその前に……ねぇ。ともかく楊ゼン君、一緒に来てくれる?」
言って、有無を言わさず太乙は楊ゼンの腕を引き、花灯籠の光のあたらぬ道を通って、ひとつの庵の手前まで彼を引っ張ってきた。
「ここは………?」
「祭礼の準備物を置いてある、まあ物置みたいなところかな。さて、と大急ぎで支度しなきゃいけないね」
そう呟いて、太乙は艶やかな衣装をあちこちから掻き集め始めた。
楊ゼンをしばらく憮然とした顔つきで、それを眺めていたのだが、
「太乙真人様………あの、僕は一体何の為に………」
控えめでいて尤もな疑問に、太乙の忙しなく回転する手がぴたりと止まる。
そして、くるっとおもむろに振り返り、にこりと悪戯っぽく笑うと、
「いいからいいから。………最高に綺麗な君の師匠を、一番間近で見せてあげるよ」
「…………え?」
「だから、はい、これ着てくれる?楊ゼン君」
何だか楽しげな声で言われ、軽く渡されたのは、正式な『お役目』の衣装だ。
そしてちょうどその頃、祭礼の儀式に一旦の間が置かれていた。
勿論形式に沿った、息抜きの時間である。
「ああ、次はいよいよ御使の錦舞披露だわ。水桜霊樹の開花する時間帯にあわせているのね、きっと」
「随分とはしゃいでいるじゃないの、そんなに楽しみ?」
「当たり前でしょう。………そういうあなただって、肩がそわそわしているじゃない。我慢は良くないわよ」
「悪かったわね。………でも今回の扇渡しの巫女って誰に決まったのかしら?元始天尊様って案外気紛れでいらっしゃるみたいだから………って、あら…………」
「しぃっ」
ひそひそと小声で交し合っていた女人達の声が、不意に弱まって途切れる。
彼女達の会話を遮ったのは、最初とはまた風情の異なった笛の音。
それにあわせて、水桜霊樹の近くから一対の弦歌が奏でられ始めた。
いつその場に座していたのか、二人の奏者の顔が傍で明らむ灯篭に朧く映し出される。
「太乙真人様と……竜吉公主、様………?」
あまりに妙なる音色に、皆が感嘆の溜め息をつく側から、それは瞬く間に風に溶けていった。
祭主の上座が据えられている御殿から、水桜霊樹の生える池までの、緋絨毯が敷かれた道。
奏者の音に導かれるように、優雅にその上を歩む者がひとり。
僅かにあった喧騒が、場から完全に消え去ってゆく。
吐息を漏らす者、歓声をあげる者も一人もいない。
皆、ただ見惚れていた。
静まり返った琥珀色の道をするすると厳かに進み、やがて水桜霊樹の目の前……池に浮かべられた蓮の台座へと御使は足を踏み入れる。
多くの灯籠がそなえられたその場では、よりいっそう彼の容貌が鮮やかになった。
瑠璃と藤の色の下地に、細やかな金糸の縫い取りのなされた綾羅錦繍。
薄く化粧の施された美顔はいうまでもなく、鬢を残して結い上げられた黒髪は純粋な光沢を放つほど。
浮世離れしたその艶姿に、口を挟める者が居る筈もない。
しゃら…と翠玉の飾りを揺らしつつ、玉鼎は袖をあわせてまず奏者に辞儀を返し、改めてもう一度御殿の方を向く。
そうして、待った。
扇渡しの巫女が、華扇を携えてくるのを。
しかし、今回は正しい「巫女」ではなく………
「………全く、元始天尊様もご酔狂なことをなさる………」
「……ねえ白鶴童子、本当に僕が行くのかい?」
御殿の影から、楊ゼンは未だ歯切れの良くない声をこぼす。
その側で、色々と裏方をつとめていた白鶴童子は、急いた様子でそんな楊ゼンを促した。
「今更何を言ってるんですか。ほら、玉鼎真人様が待ってらっしゃいますよ。………ただ扇を渡してくればいいだけなんですから、何を気後れなさってるんです?」
「……別に、気後れなんか………」
「だったら早くしてくださいよ。貴方が出て行かないことには始まらないんですから」
ほらほらと白鶴同時に背を押され、楊ゼンは仕方なく覚悟を決めた。
それにしても、太乙真人様の言う用事がこんな役目だったとは。
確かに師匠を一瞬だろうと間近で拝めるのは嬉しかったが、だからと言っていきなり頼まれても結構困るものがある。
楊ゼンが羽織っているのは、髪と眼の色に似合った蒼色の衣装。
御使を喰わぬようにと多少控えめではあるものの、その容貌とあいまって十分に見栄えのする格好だ。
着慣れぬ装いに少し手間取りながら、楊ゼンは御使の元へと続く毛氈の道に立って、
「…………」
僅かに逡巡した後、思いきって足を進めた。
途端、明るくなった視界と、それにともなって僅かにざわめく周囲の気配だ。
もう本当に話の一部です、つまらない上、訳分からなくてごめんなさい;;
あ、あと少しでまともな内容(?)になりますので……はい。
もう次もとばしてくださって結構かもしれません……うう、ダメだこりゃ(TT)
綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)…ここではゴーカな衣装のことです。