五話ー壺中の天〈上〉







 それから、二日後。
 玉鼎の渋りもむなしく、永天の祭礼はつつがなく幕を開けようとしていた。
 まだ日も早い内から、続々と仙道達が玉虚宮に集結してくる。
 元始天尊にひとりひとり辞儀をしては祝辞を述べ、奥の庭園に足を踏み入れ、皆こぞって良い場所を取り合った。
 いい年をした者達が、と軽口を叩く者は一人もいない。
 誰しも、快くこの夢想の景色に酔いたいものだから。


「ねえねえ、今回も御使はあの十二仙様なんですって?」
「そうよ、玉鼎真人様よ。今度こそは間近で御顔を拝見したいものだわ」
「あら、私は拝謁できたわよ。本当にお美しい方だったわ」
「なによ美鈴(メイリン)。あなたは扇渡しの巫女だったからじゃない」
「あら妬いてるの月蘭(ユエラン)?そういえばあなた、玉鼎真人様のことを昔からお慕いしていたのよね」
「もう、美鈴ったら!秘密だって言ったじゃないの!」
「きゃあ怖い。そんなに怒らないで頂戴よ」


 ここぞとばかりに着飾った娘達が、きゃらきゃらと他愛ない会話に興じている。
 ………その平和な光景を、玉鼎は控え室から複雑な表情で眺めていた。
 普段の、ともすれば堅苦しいほどに整った外装を脱ぎ捨て、今は薄手な肌着一枚になっている。
「ちょっと玉鼎、そんなにぼけーっと何時間も庭園ばかり見つめてないでよ。私だってまだ支度があるんだからね」
 そんな少し怒ったような太乙の声に、玉鼎は肘をついたまま緩慢に振り返った。
 その表情は、やはりどことなく疲れている。
 何故なら、
「早く着替えてったら。飾りも化粧もあるんだから、もう時間に余裕なんてないんだよ?」
 部屋の中央で華美な衣装を持って立っている太乙を中心に、所狭しと並べられた御使の装飾品の数々。
 双龍と瑞雲が彫られ、翡翠や硬玉のちりばめられた象嵌細工の冠。
 髪を結う為の、様様な綾紐と珠紐。
 耳朶を装う高価な宝玉や首の飾りと、小さな物から数え上げていけばキリがない。その上、幾重にもあわせた衣装を着込むのだから、確かに太乙の言う通り時間がない………のだが。
 どうしても、この女人のものとしか思えない装飾の諸々には気後れしてしまう。
 何度同じ格好をしようと、こればかりは慣れることが出来なかった。
 そして、更に辛いことには、
「………だから太乙。ひとりで着れると言っているだろう?お前はお前の支度を………」
「ダーメ。こんな複雑な代物、君一人に任せられるわけないよ。大体、本当なら他にも手伝う人がいたのに、君が嫌だって言うから僕ひとりになったんじゃないか」
 次々にそうして正論で責められて、玉鼎としてはただ黙るほかない。
 幼子ではあるまいし、人に着脱を手伝ってもらうと言うのは何か耐え難いものがあったが、これ以上駄々をこねるのはあまり得策ではなかった。
 本気で太乙を怒らせる前に、と彼は深い溜め息をつきながらも席を立つ。
 部屋内に置かれている装飾品を踏まぬよう、そのまま太乙の近くにまで歩み寄っていくと、
「はい、やっと覚悟ができた?じゃあまずこれからね」
 多少の嫌味を込めた台詞と共に、最初の単衣が渡された。
「……………」
 玉鼎はそれを受け取り、ふぅっと諦めたような表情を作ると、潔く袖に腕を通し始めたのだった。

 

 

 

 

 



「やあ楊ゼン」
 多数の仙道も、大庭園の一角に場所を取って落ち着き始めた、夕過ぎの刻。
 気まぐれな涼風にひらひらと花弁が舞散ってゆく………別天地のような風情のなかで。
 御使である仙人の弟子という特典を受けて、楊ゼンは非常に見晴らしのよい場に腰を据えていた。
 ちょうど、あのまだ蕾のままの水桜が正面に来るような位置合い。
「道徳真君さま………」
 ありとあらゆる花の咲き乱れるさまをぼんやりと眺めていた楊ゼンは、眼を見開いて姿勢を正そうとした。
 それを笑いながら手で制し、道徳は彼の横に腰を下ろしてくる。
「久しぶりだなぁ。息災でやっているかい?」
「はい、道徳真君さまもお変わりなく」
「ありがとう、本当に君は礼儀正しいな………っと、そういえば楊ゼンはこの祭礼は初めてだったっけ」
「はい」
「そっか………じゃあ玉鼎の御使の姿も知らないのか………なら、きっと驚くな」
 意味深げな道徳の呟きに、楊ゼンは無言で首を傾げる。
「何がです?………その姿が、師匠には似合わないとか?」
「はは、その逆だよ。あんまりにあいつが奇麗なんで、きっと驚く」
 あまりに、奇麗だから。
 おおよそこの仙人には似つかわしくないと思っていた麗句に、楊ゼンは微かに眼を見張った。
 それに気づいて、道徳は小さく苦笑する。
「オレには似合わない台詞か……?まあ確かに、そーいう類の言葉は苦手なんだけどな、玉鼎が相手じゃ使いたくもなるさ」
 あの男とは、同期で仙人界に入った頃からの仲だった。
 彼はまだ青年と呼ぶには少し早い、まるで夜月の様に水際立った風貌をしていて。
 寡黙で生真面目で、自分から話を振ることなぞほとんどなかったように思う。
 類い稀なその剣の腕をけして誇示することもなく………昇格や地位に対してのあまりに無欲な態度を、他人事ながら歯痒く感じたこともあった。
 そうして、実力と清廉な人柄だけで、十二仙にまで昇り詰めた男。
 当時は異彩な仙人として、その美貌と共に結構な噂が飛び交ったものだ。
 それが尾を引いてか、未だに玉鼎を慕うものは数え切れぬほどいる。
 ………まあ、当の本人が全く気づいていないのが、頭の痛むところではあるが。
「……あの、道徳真君、さま………?」
 遥か昔の懐かしい回想に、目を閉じてしみじみと耽っていれば、楊ゼンからおずおずとした声がかけられた。
「ん?何だ?」
「ええ……その、師匠……って、そんなに皆さんから慕われているのですか?」
 その唐突な疑問に、道徳は一瞬だけ面食らったような顔つきになったが、
「ああ、そりゃあもちろん、あれだけの天然記念物はそういないからなぁ。何たって、あの元始天尊様が惚れた奴だし」
「え?」
「冗談だよ、真剣に取るなって。………でもまあ、あながち嘘でもないんだ。それまでは御使は女仙の行うもので、しかも続けて行わないっていう形式があったんだけどさ、一度ある饗宴で玉鼎が食客に望まれて舞った時から、それを見た元始天尊様が、祭主の権限濫用して形式を変えてしまわれた、ってこともあったほどからな」
「そんなことをしていいものなんですか……?」
「さあ、祭主がすべてを決める立場にあられるからな。……きっとそれほどあいつの舞が鮮烈だったんだろうさ。あ、ちなみに奏者は太乙と公主だから、今回もきっと凄いと思うぞ」
 そう言って舌鼓を打つ道徳の言葉に、楊ゼンは一つ聞きなれない響きを感じた。
「………公主?女仙ですか?」
「あれ、公主のこと知らないか?………竜吉公主、一応オレらと同格の、純潔の仙女のことだけど」
「………ああ、それなら御名だけ耳にしたことがあります」
 純潔の仙女。
 自分の師と共にたたえられた、たいそうな美仙姫だとか。
 しかしその容貌とは裏腹に、浮いた噂一つ耳に挟んだことがなかった。何でも言い寄ってくる仙人達には見向きすらしないらしい。
 自覚の有無はともかく、その辺は師匠と同じだな、と何となく面白くない気分になるところへ、
「さて、と………じゃあオレも規定の場所に戻ろうかな」
 ぱん、と膝を叩いて道徳が立ち上がる。
 つられて、楊ゼンも頭上を仰いで、
「道徳真君さま」
 薄紅の花びらが舞う薄暮、今一度、彼の名を口にした。
「ん?」
「貴方は、師匠のどこに惹かれたんですか?」


 どこに、惹かれた。
 あの、自分が唯一敬愛する人の。


「………楊ゼン?」
「師匠はご自分のことをほとんど話してくださらないから………少しは知っておきたくて」
 その何とはなしに虚を突かれた言葉に、道徳はん〜、と悩みながら頬を掻くと、
「そう、だなぁ………なんて言うのか………姿形も十二分に凄いんだけどさ、やっぱあの雰囲気だろうな。オレは、だけど」
「………雰囲気………」
「そ。雰囲気っていうか性格か。あいつは自分より他人の事を真っ先に思いやる………本当に誰よりも優しい奴だから、そこにオレだけじゃなく、皆が惹かれるんだろう」
 当然と言えば、当然な返答。
 そんなこと、自分が一番良くわかっていた筈なのに、と楊ゼンは少し俯きかけた時、道徳は気づいたようにぽんっと掌を叩いた。
「あっと、こんなこと弟子の君には愚問だったな。どうだ?玉鼎は優しい奴だろう?」


 優しいだろう、あの男は。
 いつかきっと、その慈悲深さが災いを招かないかと……そんな危惧を覚えずにはいられないほどに。
 優しい……男だろう………?


「………はい………本当に。………誰よりも、尊敬しています」
 その応えに、道徳は満足げに微笑んで、ぽんぽんと楊ゼンの後頭を叩くと、
「いい弟子だ。それじゃあ楊ゼン、とっくりと玉鼎の艶姿を拝むといい。後々あいつを困らせるネタにしてやれ」
 そんな茶化した台詞を残して、舞い散る花の向こうに彼は姿を消していった。
「…………」
 その余韻を眼に映しながら、楊ゼンは鮮やかな夕日の紅色に染まった庭園をぼんやりと見渡す。
 数多の仙道が足を踏み入れようと、神聖さを失わない幻の園。
 ………誰かに、とてもよく似ている………
「…………師匠………」


 優しい、人。


 貴方を誰よりも敬愛しているつもりなのに。
 胸にしこる黒い感情が、その全てを否定してゆく。
 ………何一つ不満などない、満ち足りた日常を過ごしていながら、一体自分は師に何を望んでいるのか。


 手を伸ばせばすぐに届きそうな、その自問の応えに、楊ゼンは強く首を振って眼を閉じた。

 

 

 

 

 

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もうお気づきかと思われますが、ここでの師匠は何も知らない人です(笑)
というか興味がまるでない人です。
だから後半の修羅場はそりゃもうただのイジメになってしまったり(意味不明)

 

壺中の天(こちゅうのてん)…または壺中の天地。仙境や別天地のことです。

 

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