十一話ー罪夜の慟哭
星はなく、月の光も嫋々とした深い夜。
そんな魔魅宿る宵闇に、人の狂気は誘われる。
「何、を……する、楊ゼン!戯れにも程があるぞ!」
解かれた唇で空気を求めて胸を上下させ、公主は惑乱を抑えることが出来ぬまま、眼前の男に罵声を飛ばした。
あまりに急激な暴挙に、ほとんど思考がついていかない。
手の甲で紅くなるほど唇を擦れば、それはすぐに頭上に掲げられて戒められた。
「何を、ですか……?わざわざ言わなくてもおわかりでしょう?男を知らぬ生娘でもあるまいし」
「ッ!」
くくっと可笑しそうに嘲られて、公主は怒りに身体を震わせる。
この男に、こんな屈辱を受けるいわれなどない。
自分に触れていいのは、愛する者唯一人だけだ。
「離せ……!一体何が目的でこんな………!」
「ええ……目的ですか。それは勿論、貴女を師匠から遠ざける為ですよ
その抑揚のない台詞に、激しい抵抗を見せていた公主の身体が不自然に止まる。
そして、信じられないというように楊ゼンに目線を重ねた。
「………何、だと?」
「師匠と貴女を引き離すためです。……驚きました?僕が師匠に情愛を抱いているなんて」
淡々と無邪気に語る男を、公主は半ば自失して凝視していた。
何を言っているのだ、この男は。
あの聡明な高仙に対して。
「そんな、こと……玉鼎は………」
「ええ、無論気づいてなんていらっしゃいませんよ。……師匠がこういう感情とは疎遠なことぐらい、貴女も重々ご承知のはずでしょう?」
言って、するりと公主の夜着の中に楊ゼンの指が滑る。
直接肌に冷えた体温を感じ、現実感とともに強い嫌悪感が一気に浮上してきた。
「やめろ……っ!離さぬか、楊ゼン!」
「逃れたいのならば、ご自由に。……貴女が本気になれば、僕を退けることなど簡単かもしれませんよ?」
「……………っ………!」
きっと、わかって口にしている。
自分では、この力の拘束から逃れることは出来ない。
……そして仮に、宝貝に頼ろうとも、
「………ああ、でも無理ですよね………僕が傷つけば、師匠が悲しむから……」
あの人を苦しめるようなことを、あなたは一番望まないはず。
そう耳朶を噛みつつ囁いてくる楊ゼンに、公主は行き場のない憤りを覚えた。
「……っ、もう……よせっ………!玉鼎の代わりにされたくなどない!」
涙の混じったような、どこか潤んだ声に、それでも楊ゼンは冷たく笑うだけだ。
「そんなことありません………欲情してますよ、貴女の、その美貌にね」
行為に愛を求めるなら、いくらでも貴女を愛することが出来る。
黒く長い美髪と、それによく映える真白い肌。
高潔で気高い………師に、誰よりも近い貴女を。
「師匠は渡しませんよ……貴女にも、誰にも………」
虚ろな笑みと冷めた眼で公主を見落としながら、楊ゼンは巧みな指先で彼女を導いていく。
それに流されそうになる身体を必死に押し留めつつ、公主は無意識に楊ゼンの肩に縋りついていた。
「違、う………!玉鼎は、私を………!」
何とも思ってなどいない。
ただ、妹として大切に扱ってくれているだけで。
「ええ、そうですね……でも、師匠はそういう方なんですよ。愛すれば愛した分だけ、その愛情は純粋になる。僕のように、相手を力づくで自分のものにしようとしたりなんて考えもしない………」
傷つけないように、悲しませないように。
そうして、限りなく優しくなるだけ。
人を愛して、その次に相手に望むことを、あの人はきっと理解できない。
そうした欲求を、根本から持ち合わせてはいないのだから。
「どうしてあんな綺麗な人に育てられて、こんな弟子になってしまうのか………ねえ、可笑しいと思いませんか?貴女の愛する人とは正反対で……驚くでしょう?」
「楊、ゼン………!」
「黙って。……その内に貴女も溺れますから。嫌だと嘯く割に、身体の方は結構好き者らしい」
「…………っ!」
耐え難い侮辱に、公主は顔を染める。が、それを歯牙にかけた様子もなく、楊ゼンは尚も行為を進めていった。
「ぅ……ん、ぁ…ぁっ………!」
自由にならぬ身体で必死な抵抗を続け、拒絶を吐き出していた唇も、いつしかは泣き声と深い喘ぎとに濡れていた。
断続的な息遣いが、褥を支配する濃厚な夜気を震わせている。
泣き声にもにた、それ。
竜吉公主は自失したような表情で、乱れた掛布の上に横たわっていた。
用途を果たさぬ程度に覆った肌着の下に、汗で濡れた肢体が隠されている。
「…………ッ…………」
信じたくなかった、こんなこと。
今この身に起こった出来事を悪い夢と笑い飛ばせたなら、どれだけ。
だがこの重い四肢に、認めたくもない事実を突きつけられる。
もう、どうしていいのかわからなかった。
「随分とお嘆きのようですね………まあ、当たり前ですか」
顔を手で押さえて涙を流す公主に、何でもないように楊ゼンは声をかける。
それには、明らかな愉悦と嘲笑の色が窺えた。
「……………!」
突如こみ上げてきた激情に、ばっと公主が身を起こす。
衝動に動かされるまま、悲鳴のような怒声を吐き出した。
「こんな、ことをして………!お前には、玉鼎の弟子としての誇りはないのか!」
その憎悪の籠もった咎めに、しかし楊ゼンは軽く肩を竦めて、
「さあ、何とでも。いくら貴女が思い悩んでも無駄でしょう………?その誇りない男に汚され喘いだ身体で………何も知らぬ師匠に優しい抱擁を求めることが出来ますか?」
「ッ!」
「できませんよね……できる筈がない。あの人を裏切るようなものだから。その身に刻まれた密通の証を知られるぐらいなら、あなたは死んだ方がましだと仰るに違いない」
淡々と心の臓を貫くような凶言を浴びせられて、公主は蒼白になった唇をぶるぶると震わせる。
その顔はもはや、断罪を控えた罪人に近いものだった。
「お前……最初、から………」
最初から、私を。
あの男から、遠退けるつもりで………
「ええ。だから言ったでしょう?師匠の一番側にいる貴女が、本当に目障りだったんです」
邪魔な麗仙。
少しでも早く消えて欲しかった。
殺されるより辛い、確実な方法を用いたなら、貴女はどんな顔をするだろう、と。
「もう……二度と来るな!出て行け!」
「言われずとも……長い間側にいれば、貴女を殺しかねませんからね……ああ、でも………」
あなたの肌から刻印が消える頃、またお邪魔しましょうか。
汚されたその身を、忘れることなどできないように。
ぱしゃ………
微かな水音を立て、楊ゼンは泉に身体を沈める。
どことも知れぬ山の奥。細い月光以外に闇を照らすものは何もない。
「……………」
バシャリと楊ゼンは無言で水を被り、肌を擦った。
欲しくもない移り香が、全身を包み込んでいる。
さすがに、この竜涎香を纏わせて洞府に帰る気にはなれなかった。
別に公主の為などではなく、寧ろあの人を苦しめるために。
「でもまあ、これでしばらくは保つかな………」
大した満足感を得られたわけでもなかったが、とりあえず軽い捌け口にはなった。
どうにか、洞府での数夜を平生に過ごすことが出来るだろう。
「…………竜吉公主、か」
指先で水の欠片を弄びつつ、ふるりと楊ゼンは首を振って水滴を弾く。
あの美しい仙女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
いつしか師と共に過ごすことを夢見ていた閨房を、汚れた土足で踏み躙られて。
心には、きっと手におえぬほどの深い亀裂が刻まれたに違いない。
放っておけば、それは徐々に砕け落ちてゆくだろうか。
「ま、別にどうでもいい………」
楊ゼンは、先程のことを露ほども気に留めてはいなかった。
本当にどうだっていいのだ。師に関すること以外は。
どんなに道に外れた行いをしても、最低の罪に手を染めても、不思議なほどにもう心は痛まない。
その前に、既に心なんてないのかもな、と薄く自嘲して、楊ゼンは衣服を手に取った。
洞府には、師匠が待っている。
きっと、自分を心配していることだろう。
「ああ、お帰り楊ゼン………私はもう床につくが、お前は?」
無表情を装って楊ゼンが洞府に入れば、既に夜着に身を包んだ師に迎えられる。
それに目元を僅かに細めながらも、彼は黙って首を振った。
「いいえ、僕ももう寝ます……遅い帰りで、申し訳ありませんでした」
「なに、お前もとうに一人前だ。私などに気をつかわなくてもいい………ああ、湯は湧かしてあるから、よければ好きに入ってくれ」
カタ、と書物を閉じて、玉鼎は何気なく寝椅子から立ち上がる。
「…………―――………」
清音を奏でて首筋から零れ落ちる黒髪。
普段は隠された部位の、月光を彷彿とさせる肌の色。
楊ゼンは自我薄いままに玉鼎に歩み寄り、その細首に手を差し入れていた。
繊細な髪の感覚が指を擦りぬける。
吸い付くようにしなやかな指が、少しだけ身じろぎして、
「楊ゼン?」
不思議そうなその声に、楊ゼンはハッと息を呑みこむ。
それでも、師の肌から指が離せない。
小刻みに震える指先は、耳朶の下から肩口、そして鎖骨へと滑り降りていって、
「楊……ゼン?どうした、何かついているのか?」
その指筋の本意を掴めぬ玉鼎は、弟子の不可解な動作にただ首を傾げるだけだ。
見れば、どこか思い詰めたような表情。
それでも、何が言いたいのかわからない。
「楊………」
「師匠……少し、痩せました?」
そして、僅かに間を置いて、聞かれたのはそんなことだった。
一瞬きょとんとなった玉鼎だが、ああだからかとひとり納得して、自分で頬に触れてみる。
「そう……だろうか……あまり意識はしていないが………」
「ちゃんと食べてらっしゃいますか?僕が洞府を空けると、師匠は不摂生になるから心配です」
「はは、それは耳が痛いな。しかし別段変調はない、お前に気にかけてもらうほどでもないさ」
弟子に気を遣わせて駄目な師匠だ、と微苦笑しつつ、玉鼎はスッと楊ゼンの指から身を離した。
「では、な。また明日」
邪気ない表情で、日の終わりの挨拶が告げられる。
本当は、もっとその容姿を眺めていたいのに。
それでも、
「………はい、師匠。良い夢を」
嘘が上手になった唇は、欲に背く言葉ばかりを返した。
いつまでこうしていられるだろう。
いつまで師匠は僕に笑いかけてくれるだろう。
穏やかな日常の崩壊する光景を思い浮かべて、それに対する戦慄とともに、何故か楊ゼンの背には抗いがたい悦びが駆け抜けていた。
………ひ〜、やってしまった……
ちょっと公主が可哀相すぎですね……はい、楊ゼン君ったらかなり煮詰まり方が
末期まできています。そろそろ師匠ヤバいですね。
そんなわけで(どんなわけだ?)次からはちょっと展開が変わります。
嫋々(じょうじょう)…弱々しいこと