二、創価思想と紛争の流れ
 
【質】紛争の発端が池田先生の「総講頭」解任にあり、その底には「真実」がひそみ、紛争の過程の中で様々な問題が噴出してきた事は理解しました。私には紛争が突発的に起こったように思われるんですが、この点はいかがでしょうか?
 
【答】創価学会の初代会長・牧口先生は「創価教育学会」を発足させ、創価思想を鼓吹しました。この思想は戸田先生の熟成時代を経て、池田先生の時代に結実しました。池田先生は創価思想を忠実に実践され創価仏法を広宣流布されました。
 
 創価学会の立場に立って見れば、池田先生は立派な人なのです。しかし、宗門の立場からこれを見た場合、それは、謗法逸脱でしかないのです。何故、こんな矛盾を生ずるかと言えば、宗門と学会とでは、もともと、”根っこ”の本質が違っているからなのです。
 
 池田先生時代の初期までは、この本質は潜伏していました。しかし、池田先生の後年になってから、これが顕著になってきました。
 昭和五十二年頃、池田先生は確信に燃えて、「創価仏法」「創価思想」「創価思想」を強調し始めました。いわゆる「五十二年路線」です。
 これは「池田先生を仏のように信ずる思想」「創価学会が独立する思想」「創価学会が宗門を支配する思想」を内容とするものでした。
 
 創価学会にしてみれば、創価思想の帰結は当然こうなるのですが、これを宗門側から見れば、それは「仏法利用」「池田先生の慢心」「仏法破壊・謗法逸脱」にしかならないのです。
 ここにおいて、本質的には、「創価思想」と「日蓮仏法」が、信仰的には「池田本仏」と「日蓮本仏」が、心情的には「在家主義」と「出家主義」が衝突しました。
 
 創価学会は「日蓮正宗」の本尊・教義・僧侶などの権威を借りて、独立的に在家教団を運営しています。しかし、一皮むけば「在家教団」です。「日蓮正宗」の皮を来ていますから。人々は「創価学会は日蓮正宗」と見まがい錯覚します。
 
 こうした錯覚の効果を創価学会は、十二分に計算していますから、ある時は、「日蓮正宗」を利用するときです。皮を脱ぐのは「日蓮正宗」を叩く時です。皮の脱着を限りなく繰り返して成長してきました。
 
そして、昭和五十二年、いよいよ創価学会は「日蓮正宗」の皮をかなぐり捨てて、素顔の「創価学会」を正面に押し出し、宗門攻撃を開始したのです。
 
こんな時、問題の本質にうとく、御本尊さえ拝み、御供養さえ持ってくれば宗門の信者だと考えた、おやさしい日顕上人は『池田先生の教学は完璧です』とへつらいました。しかしこう露骨では、さすがに「まずい」と思ったのか、「学会にも逸脱はあったが、それは小さいものだ」と眉をしかめて見せました。
 
が、やはり、へつらいの本性は隠せず、「学会も改めている、これ以上、学会を攻めるのは謗法だ!」と学会を擁護しました。
 加えて、『ワシが責任をもって学会を直す!』と怒鳴り、学会と「仲良しグループの僧侶」を「学会を直す役職」につけました。(こうした僧侶は今になってあたかも自分達が学会の非を正したかのような顔をしていますが・・・・)
 
しかし、怒鳴ってはみたものの、一体、学会の何を直させたらいいのか、も一つよく分からなかった日顕上人は、『悪人に騙されたものが、学会攻撃をしているのです』と、とんだ、お門違いをされました。
 そして、『学会が悪いと言うが、分かってみれば何という事もない、正しいことをしている学会に、悪口を言っている僧侶がいるのです、ケシカラン!」『学会を謗法と言う者こそ謗法だ!』と、トバッチリを、正信会に向けました。
 
 一方、創価学会に対しては、『皆さん方の悪口を言っている正信会の者共の首を切りました、もう安心してください』とリップサービスに努めました。
 
 創価学会の謗法から、宗門を護ろうとしていた正信会僧俗を、紙切れ一枚で宗外に追放したのです。
 池田先生は、腹の底から日顕上人を笑いました。『アホだな、所詮、坊主は金だ』『正信会め、ざまをみろ』『日顕はかわいいやつだ』と満悦に浸りました。そして、ますます日蓮正宗を利用しようとして、日顕上人にタンマリとお金を差し出しました。
 しかし、さすがに池田先生です。ちゃぁんと、すべてを”お見通し”でした。
 本当に日蓮正宗を思っている「本物の僧侶」が、正信会だということも・・・そして、日顕上人や現宗門僧侶達が「腐った僧侶」であることも・・・。
 池田先生にとって、「本物の僧侶」が、一番、困りました。なぜなら、そうした僧侶は、命がけで、日蓮正宗を守り、大聖人の仏法を守ったからです。いくら金を積み上げても、おどかしても、日顕上人をそそのかして、”首”を切らせても、コロびません、全くやっい至極でした。
 
 これは「創価教団」の旗揚げに、最大の邪魔になりました。
 池田先生にとって、「腐った僧侶」が、一番、可愛く思えました。なぜなら、金さえ積めば、何でも言う事を聞き、日蓮正宗を売り渡してくれたからです。『どうか、池田先生の、お好きなように、仏法を使ってください』と”モミ手”をしてくれたからです。
これは、『創価教団』の旗揚げには、最大の味方になりました。
 だから、池田先生は日顕上人を。可愛いがったのです。
 
 池田先生は、日蓮正宗など、どうでもよかったのです。そんなものは、ハナっから信じていません。創価学会の”ハクづけ”に利用でき、信者をダマせるから、信じたフリをしただけでした。
 池田先生の狙いは、”広宣流布”という仏法理念を盗んで、”日本を支配し、独裁者になろう”とするところにありました。また、日蓮正宗の利用して学会員をダマし、創価学会で”ひともうけ”しようとするところにありました。
 
 そんな証拠は山ほどあります。世の識者は、皆んな知っています、知らないのは、いや、知ろうともしないのは、学会員さんあなただけなのです。
 ”魔”だの”罰”だのと、おどかされて、心を閉ざし、目を塞いでいます。そして、閉鎖社会の中で情報操作されて、「演出された、池田先生の虚像」だけを、鵜呑みにさせられています。
 大衆煽動者にとっては、こういう人々が、一番のエジキなのです。
 
 しかし、考えてください。仏法はしっかりと目を開けて、一切の世界を、冷静に客観的に直視するところから始まるのです。閉鎖社会の中で、陶酔し、独善にふけることは、邪道に他なりません。
 
仏法は、『絶対者を作り上げ、縛られたり、支配されたりしては、なりません』と、道を教えるものです。一切の束縛を離れた”解脱”こそが仏法の目指す理想郷なのです。
 にもかかわらず、学会員さんは、仏法を学びながら、池田先生に縛られる事に、言いしれぬ快感を覚えているようです。池田先生の巧妙なトリックにだまされ、タレントにあこがれる、ミーちゃん・ハーちゃんよろしく、会った事もない”池田先生”に血道を上げ、嬌声をあげています。
 
 どうも、仏法を、仏道修行としてではなく、”ファンクラブ”と誤解しているようです。踊り、歌い、”虜”になって、娯楽する世界と、仏法は無縁のものです。
 
 少しは歴史をながめてごらんなさい。そうした愚かな、”個人崇拝”が、いかに悲惨な歴史結果を招いていたかを・・・。スターリンやヒットラーを例に挙げるまでもないでしょう。
学会員は仏法を信仰しながら、”池田崇拝”によって、”いつか来た道”を再現しようとしています。
 目をさましなさい!不幸は、あなたの、”愚かさ”が招くのです。」
 
 そして、日顕上人は、栄達と引き替えに、こんな池田先生の野望に、手を貸したのです。
宗教は、権力者にとって利用価値が高いだけに、宗教者は、孤高の道を、歩むべきであるにもかかわらず・・・。
 
 正信会僧侶は、僧侶である前に、一人間として、一国民として、何としてでも、狂人の”独裁の野望”を摧きたいと思っています。しかも、そうした”創価学会”を容認してきたのは、他ならぬ我々自身でした。痛切な責任を感じています。
ゲシュタポや、秘密警察などが、暗躍する社会を招きたくないのです、そのために『独裁者の扇動に乗って、暗黒時代を招いてはいけない』と警鐘を鳴らしているのです。
 
 池田先生は、全体主義の世を築き、ヒットラーになりたがっています。そして、学会員は、池田先生に陶酔している間に嫌悪すべき、”ゲシュタポ”に改造されてしまっています・が、気づいていません。
 ですから、日本に不幸を招こうとしているのは蒙昧な学会員さん、あなたなのです!
 いささか、お説教に過ぎたようです、話しを、もとにもどしましょう。
 
 池田先生は、日顕上人の学会擁護の機を逃さず、幹部を使って宣伝させました、
 『池田先生は、やっぱり正しかった。』『学会は、法難に勝った』と・・・。
 その結果、何も知らされない学会員は、池田先生の謗法に巻き込まれて、重罪を背負うことになりました。
 それはひとえに、日顕上人が池田先生に媚びへつらった責任なのです。
 
 今にして、日顕上人は『やっぱり学会は謗法だ』『やっぱり、学会は直らなかった』とボヤイています、そして、宗門僧侶に対し『戦え!』『池田は慢心の塊だ!』『このままでは日蓮正宗が潰れてしまう!』『貴様らには、学会が謗法だとわからないのか!?ワシは前から知っとたぞ』と当たり散らしています。(何がどこまで分かっているんだか・・・と心配にもなりますが)
 そして、池田先生に対して、『お前を”謗法だ”と責めていた正信会僧侶二百人の首まで切って、お前をかばってやったのに、恩知らず!』とののしっています。
 
一方、池田先生の方は「”坊主の首”切ってくれなんて頼んだ覚えはない、それはアンタの都合で勝手にやったことだ、アンタには、あれほど”金”をやったじゃないか、裏切りやがって!」と、けんもほろろな、お返しをされています。
 
 宗門と学会の二者間系は、よくある話しで、政治家と企業の癒着・崩壊と同じ構図なのです。
政治家は権力で企業を守ってやり、企業は金で政治家を買う。互いに金と権力を利用しあって、甘い汁をすする。邪魔者を金と権力で排除する。うまくいっている間はいいが、関係が崩壊した途端に、『自分はだまされた、相手が悪い!』と、罪をなすり合う・・・、それです、
 
 宗門・学会・正信会の三者関係を、譬え話で、申し上げてみましょう。
池田という、したたかな「人食い虎」を、日達上人と正信会が、やっとの思いで、檻の中に閉じこめました。これで、平和になるだろうと、胸をなで下ろしました。
 
すると、いつの間にか”親分の座”をかすめ取った、日顕上人がやって来て、言いました、
 『ああっ、虎が泣いている!きっと反省しているんだ、虎だって、頭のナデ具合で猫にもなるんだゾ、ワシなら出来る」と扉を開けようとしました。
 
正信会は、
『それは、危ない、いけません!死んだ父さんの遺言を破ることにもなります。』と、止めました。
 日顕上人は怒りました。
 『生意気言うな!!子供の分済で!今は、ワシが大将だ!』
日顕上人は、檻の扉を半分あけて、虎に言いました。
『お前の反省が、分からんやつは!”ウォッ!”と吠えてやれ、正信会を追っ払うんだ!』
日顕上人は、「パンドラの箱」をとうとう、開けてしまいました。
 
 外に出た虎は、尻尾をふって、ゴロニャーンをしましたが、腹がへった途端に、日顕上人を喰い殺そうとしました。
 日顕上人は、びっくりしてしまいました。危機一髪、すんでの所で難を逃れました。そして言いました。
 『こりゃ、だめだ・・・やっぱしなぁ、ワシは、始めッから分かっとったんだ』
 虎は、野山をかけめぐり、前よりもなお一層、牙をむいて、人を食い殺してしまいます。
虎は言いました。
『俺は、日顕に、ちゃんと、ゴロニャーンしてやったんだ』
『俺は、日顕に逆らう正信会を追っぱらい、日顕を助けてやったんだ』
『日顕は悪いやつだ、この日顕に噛みついているから、俺は正しいのだ』
山のテッペンに登って吠えました、
『人間どもよ、神の声を聞け!神は、”虎”の楽園を作れと命令されている』
『人間を殺して、どこが悪い?!動物どもを利用して、どこが悪い?!』
『だから、俺は、前から正しかったんだ』
『人間は、神の声が、”人間や、動物ども、のためだ”と言うが、それが間違えている』
 
そして、虎は夜になると、日顕上人の足を、カジリに来るのです。
日顕上人は、毎日々々、『”足”が痛いヨ!』と、泣きました。
 これらの話しから、悟ってください。
だから、正信会は、この紛争は、謗法を犯した池田先生と、謗法に与同した日顕上人に、仏罰が下ったと言うのです。
 先師日達上人は、「詫びては約束を破り、また詫びては破る」という池田先生の不誠実を、四回もがまんされました。五度目に池田先生が詫びた時、
日達上人は、
「学会が直る、という条件の上で」
「池田先生が二度と復権しない、という条件の上で」
学会を許されました。
 しかし、学会は何も直しませんでした。それどころか、池田先生がどんな謗法をしたかも、会員には知らせなかったのです。こうした体質ですから、もとより直りようがないのです。
 
日顕上人は、日達上人に背いて、和解の「二条件」を破りました。
その証拠が、
 池田先生を、再び「法華講総講頭」に復権させたこと
 現在、学会を、無反省に居直らせてしまった事
です。
 
「五十二年路線」の結末は、池田先生の偽りの懺悔と、日顕上人の学会擁護の強行突破で、つけられました。
 それから十数年、宗門と学会は、互いに、「利益」という蜜月を貪ぼりあいました。
 
 しかし、この蜜月も、昨春に、破綻の兆しを見せ始めたのです。
池田先生は、広宣流布の名誉を得て、一切を専横せんがために、宗門に対して、
 『大石寺の名前を、”本門寺”と改称せよ!』
と迫りました。
もしも、池田先生の要求を飲めば、日蓮正宗の教義は全壊してしまいます。
正信会を始めとした、仏法を憂う人々は、『何としても、これを阻止しよう!』と立ち上がりました。
 
 これに驚いた日顕上人は、池田の傲慢な願いを断りました。その証拠が、日顕上人の最近の発言に見られます。
 『池田氏は、正本堂を、”事の戒壇”と勝手に確定しようとした、そこに慢心の根本がある』
というのがそれです。これは日顕上人と池田先生との間に、「本門寺改称問題」があった事を、語るに落ちているのです。
 
 宗門が、『本門寺という名前にはしない』と突っぱねた結果、池田先生は、これ以降、何かと宗門にイチャモンをつけるようになりました。その極めつけが平成二年十一月十六日の「池田スピーチ」なのです。これを皮切りにして、宗門と学会は、紛争の泥沼に突入していくのです。
 
【質】「創価思想の本質」とは、一体何なのですか?
 
【答】これは初代・牧口会長の「価値創造説」に由来しています。
 「人間は幸福生活をすべきである」
 「幸福とは利益である。」
 「この利益を得る為に、宗教を行うのである」
という思想本質です。
 この思想には、「利益が目的」であり、「宗教は手段」に過ぎない、という考え方がうかがえます。
 
果して、
「『利益』の獲得が真の幸福」なのだろうか?
という疑念と同時に、
「宗教は手段に過ぎない」のだろうか?
という疑念が涌いてきます。
 実は、この疑念こそが、「日蓮正宗の本質」と「創価思想の本質」の違いなのです。
 
 日蓮正宗は、「真理」を体得し、「真理」に冥合することを「目的」としています。この「目的」のために、三大秘法を受持するところを「善」と立てます。
 
 この「善」のためには、「利」されようが・されまいが、そんなことは、どうでもいいのです。
 御利益があろうと・なかろうと、法難があろうとなかろうと・業魔の害があろうと・なかろうと・一切を仏におまかせするのです。苦があったなら、あったで、それは法悦なのです。楽があったなら、あったで、それもまた法悦なのです。苦楽を厭わず、流されず、淡々と生きていくのです。一切は仏天が与えられた試練ととらえて、あらゆる経験を完爾と受け入れ、捨つべきものも、取るべきものもありません。
 
 日蓮正宗は、この「法悦」を、「幸福」と立てるのです。
 こざかしい理屈や、卑しい根性をふりかざして、やれ『利』だの、やれ『御利益』だの、やれ『幸福』だのと、一喜一憂する事はありません。
 日蓮正宗にとっては、宗教自体が「幸福」であり「目的」なのです。
したがって、「利」こそ「目的」と立て、宗教を手段化するような思想・信仰は、微塵もありません。
 
 利益や名誉のために宗教を行うのでもなければ、一切を支配するために宗教を行うのでもなければ、教団のために宗教を行うのでもありません。
 「善」を徹して「真理」に融ずるために宗教を行うのです。そして、修行の道程で味わう一切に「法悦」するのです。
 
 「手段」というものは、別の物にいくらでも交換できます。それがことさら宗教でなくてもいいのです。政治であろうと、経済であろうと、教育であろうと構わないのです。
 
 創価思想によるならば、要は、「利益」という「幸福」なる「目的」が達成されさえすれば、それでいいのですから。
 したがって、実際、創価学会はそうしました。
創価学会にあっては、宗教も政治も教育も、同じ比重の「手段」でしかありません。宗教などは、いつでも捨てることができます。そうしないわけは、まだ利用価値があるからに過ぎません。宗教に対し、尊貴の念を覚えたり、感謝の念を涌かせるなど、とうてい、望み得べくもないのです。 
 
 名誉や利益のために宗教を利用し、手段化し、骨の髄までシャブリ尽くすのが、創価思想の本質なのです。
 「手段の論理」を正当化する者は、次から次に、無眼に一切を手段化し続けます。
本尊であろうが、教義であろうが、信仰であろうが、僧侶であろうが、信者であろうが、組織であろうが、片っ端から手段化し、利用します。
 
 創価学会は、こうした思想本質に、日蓮正宗という衣をかぶせて、仏法用語を盗み、仏法に似せて、民衆操作をしているのです。
 なぜ「仏法」のフリをするのかといえば、「仏法」の権威を笠に着れば、いとも簡単に、人々をロボット化できるからです。権力者が野望を遂げようとする時、宗教を利用するのは歴史の常です。
 したがって、正信会は、創価学会を「法盗人」であると断ずるのです。
 
【質】創価思想の本質が、「『利』の獲得を幸福と立てる」所にあり、そのためには、「宗教を手段化し、利用してもよい」と、正当化するものであるということは分かりました。そしてそれが日蓮正宗の本質と異なることも理解しました。
 では、創価学会は思想面で、どのような形で宗教利用しているのか、具体的に教えてください。
 
【答】実態面での宗教利用は、目に見えますから、端的に指摘できます。たくさん挙げることができるでしょう。思想面での宗教利用は、目に見えませせんから、なかなか気づきにくいのです。しかし、目に見える「実体」は、必ず、何らかの「思想」の裏付けがあって、表出しているのですから、思想こそ一切の根底であると、意を注ぐべきでしょう。
 
種々、指摘できますが、今は、創価学会の根本思想とも言うべき「池田本仏論」について述べておきましょう。「池田本仏化」に至る思想過程を、一視点からとらえつつ、宗教利用のなされ方をながめてみます。
 
 創価学会では、当初、「幸福」とは「利」であり、その「利」をもたらすのは「御本尊」でありました。牧口会長の時代が、そうです。
 しかし、これがだんだんと変化してきました。
 
 「創価学会」に入る事で、「利益」が得られる、したがって、「創価学会」に入る事が「幸福」であると変化してきました。「御本尊」が、「創価学会」という組織に、すり替わってしまったのです。「御本尊」と「創価学会」を二重映しにさせながら、いつの間にか、幸・不幸の決定権を「創価学会」が握ってしまいました。戸田会長の時代がそうです。
 
 これが、池田会長の時代になると、一層、著しい、変貌を遂げました。
 「創価学会」を統率しているのが「池田先生」であるところから、知らぬ間に、「創価学会」と「池田先生」が合体し、そのまま「御本尊」の上に重ねられるようになりました。「御本尊」と「創価学会」と「池田先生」を、三重映しにダブらせて、一体化をイメージさせたのです。
 
 こうしておいて、側面からは『戸田会長の悟達が学会の原点』『大聖人直結の血脈が歴代会長に流れている』『会長は久遠の師」などと、「盗人法門」をこさえ、「池田先生」が『師弟不二』で『血脈』を受け継がれたと、思想づけ、池田会長の本仏化を演出しました。
 その結果、「池田先生」と『師弟不二』で『直結』し、「池田先生」に『帰命』しなければ、「利益」が無い、「幸福」になれないと、「池田先生」が幸・不幸の決定権を、握るようになりました。
 ここに「池田本仏思想」が完結しました。
 
 これは、池田先生がシナリオを書き、側近幹部がこれを演出したのです。
その証拠が「小説・人間革命」にあります。「人間革命・第三巻・結実の章」に、こう描写されています。
 「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師への帰命、即ち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである」
とあるのがそうです。 ここには、仏法を盗み・利用する意図から、巧みな「すり替え」と、「暗黙の教唆」がなされています。
 
 『妙法』すなわち『御本尊』と、『戸田城聖』がすり替わり、『帰命』という仏法用語によって、宗教性が付与されているのです。会長の宗教的絶対化を構築しようとする意図が見え見えです。そして、『若い革命家』すなわち「山本伸一」こと、池田大作が、戸田城聖に命を捧げて『帰命』したように、学会員は「池田先生」に『帰命』しなくてはならないと、暗黙の教唆を強いているのです。
 人々は、「幸福」とか「利益」という言葉に、目がくらんだ結果、知らずのうちに、ついに、ここまで誘導されてしまいました。
 
 こうした思想変遷の中から、思想面での宗教利用を知ってください。
 
末端会員は、「池田先生は絶対だ」と単純に信じていますが、上層幹部は少しも信じていません。信じたフリをしているだけです。池田先生を讃めて、会員を洗脳しさえいれば、それで地位も上がり、給料も増えるから、そうしているのです。つまり、池田先生を利用し、組織を利用し、会員を利用しているのです。
 
 池田先生の方も、そんなことは先刻承知していますから、幹部を「利益」というエサで飼い慣らし、幹部の生殺与奪権を握って、絶対に裏切れないように、あらゆる手段を駆使しています。ですから、池田先生は、権力を独裁する権謀術数に一生懸命です。
 
 要するに、組織ぐるみで、宗教や人間や、その他一切を利用しあう、「利用構造」こそ、学会の実態なのです。こうした底流は、創価思想の本質に求められなければなりません。
 
 こんな世界に首を突っ込んだのが、宗門の不幸です。それによって宗門は、知らずのうちに、教義・信仰を、濁らせる結果を招きました。
 実は、紛争の”根っこ”は宗門が、創価思想の本質を、許容できるか、否かにあるのです。
 
【質】宗門は紛争過程で、創価学会の体質を、嫌というほど味わっているようですが、その体質について説明して下さい。
 
【答】当然の事ながら、「体質」は「本質」から生まれてくる性向です。
 創価学会は「独善的体質」と「功利主義」を持っています。これも又、突然に生まれてきたものではありません。牧口会長、その人にあるのです。
 
 牧口会長は、
 『そんなに宗教が好きならば、僧侶になって、布教すればいいではないか?』
という質問に対し、
 
 『僧侶になれば、日蓮正宗の教義を、弘めなければならなくなる。自分は、自分の哲学である価値創造説を弘めたいのである。これによって大善生活という幸福が得られる。これを実現するには、宗教が必要である。そこで日蓮正宗を信心するのだ。』
との意向を漏らしております。
ここには、見事なまでに「独善」と「功利」の精神が見られます。
 
 自分の「価値論」こそ主体であるとする「独善」、その布教のために、日蓮正宗を利用するという「功利」がそれです。
 「独善」とは、『自分が一番偉い・一番正しい』と考えることです。
この「独善」は必ず「無謬」と「排他」をともないます。
「無謬」とは、『自分に絶対、間違いはない』と思うことです。
「排他」とは、『自分に不都合なものは、すべて排除しよう』とすることです。
 
 「無謬」論者は、『自分に絶対、間違いはない』と、と思い込んでいますから、一切の責任を、全部、他人のせいにします。いつでも、自分だけは完全無欠であろうとします。ですから、宗教者として最も大切な「反省」の精神などは、介在する余地がありません。
 
 宗門が、池田先生に対して、どれほど反省懺悔を促しても、無駄なのは、この無謬性に由来しているのです。『全部、宗門が悪い』と、被害者を決め込む、池田流儀も、この無謬性に由来しているのです。
 「無謬」論者は、自分の尊厳を犯すものは『全部、悪だ!』と言って、排除しようとします。
学会に逆らう者を、すべて『悪い!』と言って、烙印する態度がそれです。
 
 「無謬」と「排他」を本性とする「独善主義者」とは、真摯な話し合いは出来ません。相手を小バカにし、睥睨するだけだからです。慢心と我見のカタマリみたいな手合いですから、相手に頭を下げながら、腹の底では、復讐の炎が燃えたぎっています。『今にみていろ、必ず、仕返ししてやる!』と怨念を抱き続けるのです。
 
 池田先生が、『私をいじめたやつを、やっつけるのが弟子た!』『必ず、仇をうて!』『勝てばいいんだ、何をしたって!勝つのが仏法だ!』と、指導しているのがそれです。
要するに、独善主義者とは、修羅界の生命を生きているのです。
 「功利」とは、『自分さえ得をすれば、それでいい』と考えることです。
 池田先生が、『誰が死のうと関係ない・・・私さえ生きていれば、それでいい』と、のたまう傲慢無比な態度がこれです。
 
 この手合いは、人の迷惑など、おかまいなしです。
 池田先生が、『やられたら、やりかえせ!世間などなんだ、強気でいけ!どこまでも、しぶとくいくんだ!何でもいいから言い返すんだ!怒鳴っていけばいいんだ!この野郎、バカ野郎、でいいんだ!』と、指導する態度がこれです。
 
 この手合いは、一切を打算ずくで、生きています。頭を下げるのも打算、威張るのも打算、猫なで声を出すのも打算・・・、得することなら何でもやります。
池田先生が、『嘘も百ぺん言えば、本当になる』『・・・うまいことをした』と、陰で舌を出す態度がこれです。
 
 この手合いは、一切を利用しようとしています。すべてを手段化し、無眼に手段化し続けます。本尊であれ、教義であれ、信仰であれ、利用して、利用し尽くします。
池田先生が、裏では『坊主はドロボウだ、天才的にうまいんだ』と、バカにしながら、
表では『御宗門の御僧侶』と、”御”の字を連発して、おだてすかし、表裏を使い分ける態度がこれです。
こうした「功利」者とは、いくら話し合いをしても、無駄なのは、言うまでもありません。
 
 したがって、反省を重ねながら、無作のまま、正直に生きようとする、日蓮正宗『本来』の体質と、策略と慢心に生きる、創価学会の体質は全く違います。
 
 思えば、創価学会の発足当初から現在に至るまで、宗門と学会のとの間で、争いが絶えなかったのは宿命なのでしょう。そしてまた現在、このような紛争を呈しているのは、必然と言わざるをえません。
 
 日顕上人は「池田の慢心」が、紛争の原因のように言われますが、それは、近視眼で見る皮相なのであって、決して真因ではありません。真因は、創価学会の本質・体質に由来しているのです。
 加えて一言すれば、「池田の慢心」という表現は、宗門の立場から見た非難なのであって、それは正鵠を得てはおりません。創価学会の立場に立てば、池田先生は、創価思想を忠実に実践されていらっしゃるエキスパートなのです。ここに早く気づかなければ、根本的解決には至らないでありましょう。
 
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