一、現在の紛争について
 
【質】宗門と学会はなぜ争っているのですか?
 
【答】昨年暮れに、池田名誉会長が宗門から「法華講総講頭」を解任されました。これに対して学会は、功績のある池田先生を解任するのはケシカランと宗門を非難しました。これが原因で争いになっているのです。
 
【質】「法華講総講頭」とは何ですか?
 
【答】日蓮正宗には、日蓮正宗の寺院に所属した信者がいます。この信者組織を法華講と言います。一ヵ寺ごとに組織の長がいます。したがって、日蓮正宗信者の頂点が「総講頭」です。
 
【質】池田先生は、どうして「法華講総講頭」を解任されたのですか?
 
【答】平成二年十一月十六日、「第三十五回本部幹部会」の席上で、宗門を軽視する発言をしたというのが、その理由です。
 
【質】どんな発言をされたのですか?
 
【答】池田先生の発言を少し挙げてみましょう。
*猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません。
 
*難しい教義、聞いたって解んないんだ。ドイツ語聞いているみたいにね。それで『俺は偉いんだ。お前ども、信者、信者、』って。そんなのありませんよ、この時代に。
 
*「信者、信者」言って、みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけ、他拝んでんのかよ。
 
*今はですよ、。出家もね、あのー、ちゃんと奥さんもらって、赤ちゃんつくってさ。
 
*あくまで御書です。御本尊です。法は。これが解ればいいんです。
 
*五十周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から馬鹿にされ。そいで、その上、北条さんが『もうお先まっ暗ですね』『何を言うか、六十周年を見ろ、もう絢爛たる最高の実が、六十周年が来るから元気出せ』、会長だから、これがよー。私は名誉会長だ。「そうでしょうか』。馬鹿かー。本当にもう、誰をか頼りに戦わんですよ、本当に。
 
*七百年間、折伏がそんなに出来なかったんですよ。よーく知っていらっしゃるんです。今はもう当たり前と思ってね、威張っている人がいる。とんでもない。
 
*みんな一生懸命考えながら、工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗でいなかったんですよ。それを学会で、やっているから、学会は絶対に素晴らしい、ということであります。
 
*教条的な画一的な、時代にも相反した、そんなんで、今日のね、大宗教の発展があるわけがない。その苦労がわからないんです。どれほど学会がすごいか・・・
 
*世界の仏法流布という平和文化運動の実践運動をですよ、おかしいじゃないか。それがいけないと言うんですよ。折伏だけで、全部ね、教条的にね、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに。
 
*平和運動、正しいんです。文化運動、正しいんです、大いにやりましょう、それがなかったならば、何やってきゃ、どうしたら折伏できるか。そうでしょう。ただ真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。
 
まぁ、ざっとこんな具合の発言をとりとめもなくしています。
 
【質】確かにトゲのある宗門批判だと思います。が、権威や布教などについての指摘は、宗門側にも大いに反省すべき点があるのではないでしょうか?
 
【答】おっしゃる通りでしょう・・・・しかし、表面的事実だけに目を奪われてはならないと思います。その裏にひそむ「真実」に目を向けるべきではないでしょうか。つまり、なぜ池田先生はこんな事を言ったのか、なぜ日顕上人は池田先生を解任するほどに怒ったのかを、深く考えてみるべきだと思います。
 
【質】では、池田先生は、なぜこんな発言に及んだのでしょうか?
【答】池田先生は二つの理由からこうした発言をされたのです。
 
一は、次のような感情が池田先生にあったからです。
「今まで日顕上人は学会の味方だったのに、最近になってどうもそうではなくなってきた。あれほど宗門を養ってやってのに感謝の念がまるでない。血脈相承も認めてやり、正信会の悪僧も裁判でやっつけてやっているのに・・・私を馬鹿にして!威張りやがって!裏切りやがって!」
という恨みです。要するに慢心から来る瞋恚です。
二は、創価思想という本質に根ざしているのです。
 
【質】では日顕上人は、なぜ池田先生を解任するほど怒ったのでしょうか?
 
【答】これにも二つの理由があります。
一には、次のような感情が日顕上人にあったからです。
「誰のおかげで総講頭に再任されたと思っているんだ!お前が仏気取りで犯した、御本尊模刻や、謗法の数々を、正信会が攻撃している時、俺は正信会僧侶二百数十名の首まで切ってお前をかばってやったんだ。
 
 お前は『悪い所は直します、猊下の為に働きます』というから信用して許してやったのに、何だ!
全然直してないじゃないか!相変わらず、俺や宗門を馬鹿にしている。自分が仏のような振りをして威張っている。学会員を自分の所有物にしている。俺を裏切りやがって!
 だから、お灸をすえてやろうと思って、総講頭を解任したんだ。
早く謝ってくればいいのに・・・居直りやがって、もう勘弁ならん!
 そういえば、考えて見ると、ずっと以前からお前は慢心者で、教義違犯をしていたな」
 という怒りです。
 
二は、日顕上人は、自分こそが現代の新仏だと錯覚していますから、信徒の分際で自分の権威を犯す者が許せないのです。
 
【質】では池田先生が謗法を犯し、それを日顕上人がかばった。その後、二人が仲間割れして紛争になっているという事ですか?
 
【答】その通りです。
 「裏切ったな!」VS「騙される方が悪い」、「生意気だ」VS「威張るな」、という大将どうしの感情的な喧嘩です。全く信者を無視した喧嘩に、さも立派な理由をつけているだけです。
 
【質】では池田先生も「自分が仏」と慢心し、日顕上人も「自分が仏」と錯覚され、互いに衝突しているということですか?
 
【答】その通りです。
権威と慢心がぶつかり合い、「仏」の専売特許争いをしているのです。そして双方ともに信者獲得に躍起になっている点です。学会は「池田本仏」、宗門は「阿部本仏」の思想基盤に立っています。
 正信会は「日蓮本仏」の信心基盤に立っています。
 
【質】池田先生が総講頭を解任されたことで、学会側が、それは功績ある先生に対して、ひどい仕打ちではないかと怒り、紛争になっているのではないですか?
 
【答】それは紛争の事実面における直接的動機ではありますが、その底には前述のような「真実」がひそんでいます。
 
【質】池田先生が総講頭を解任された直後、宗門の証拠物にミスがあり、これを見直すように学会が求めたところ、宗門は木で鼻をくくったような返事をした、これが原因となり、互いに応酬しあっているのではないのですか?
 
【答】経過はそのようです。それも事実面の一端ではあっても、「真実」ではありません。
 
【質】学会は学会で「宗門支配」や「池田独立」や「阿部追い落とし」を画策した。宗門は宗門で「学会支配」や「学会員引っこ抜き」や「池田追い落とし」を画策した。これが原因で紛争になっているのではないですか?
 
【答】よいところを衝いています。今一歩踏み込んで、なぜ互いに画策するようなったのかを考えてみてください。それは相互不信が原因なのです。ではその相互不信は何によってもたらされたのでしょう?
その答は前述した「真実」があるからです。
 
【質】池田先生が、宗門僧侶の権威主義を正し、民主的な教団にしようとして、紛争になっているのではないですか?
 
【答】確かに、現宗門が硬直化した権威主義に堕しているという指摘は当っているでしょう。民主的な改革が望まれることは言うまでもありません。しかし、こうした理由は紛争の過程の中で、あとからくっつけた屁理屈に過ぎません。また、「真実」から見れば、表面的な枝葉論争です。
 せっかくのご質問ですから、ひとつ反問しておきましょう。
 
 学会は宗門のことを『権威主義だ』と非難していますが、では学会は上意下達の権威主義ではないのでしょうか?
 末端は自由に幹部批判が出来るのですか?
世の中、『あんたに言われちゃ、おしまいよ』ってことがあるのを忘れてはいけません。
 
【質】「出家が上で在家が下」という宗門の考えに対し、池田先生は仏法の真の精神に立って、在家も出家も平等である、在家も僧であると指導された、これが宗門の逆鱗に触れたということではないのですか?
 
【答】これも紛争の過程で生まれてきた発展議論です。こうした問題の問いかけが、純粋動機であれば共に語るにやぶさかではありませんが、前述した、「真実」に根ざす不純動機ですから、何を言っても無駄でしょう。もとより作為に満ちた難癖であり、自分こそが正しいという独善に凝り固まっていますから、聞く耳はありますまい。したがって今は、家中の亀毛兎角の論を拾おうとは思いません。
 だいたい、こういう問題が出てくるには二つの理由があります。
 
一には相互不信の対立感情があるから出てくるのです。僧俗の間に信頼関係が築かれておればこんな問題は出てきません。
 
二には、在家が僧侶を押さえて、取って代わろうとする意図があるから出てくるのです。
 
そもそも学会は二つの顔をうまく使い分けて生きてきました。
 
一は「日蓮正宗創価学会」という顔であり、
二は「在家教団創価学会」という顔です。
一は化粧顔であり、二は素顔です。
 
 外部からの矛先をかわす時には「日蓮正宗創価学会」のお面をかぶって、宗門を「隠れ蓑」に利用します。しかし矛先がおさまれば、いつでもお面を脱いだ素顔が出てきます。
『出家何する者ぞ』『俺達が信者を指導する』『俺達は俺達のやりたいようにやる』『俺達だって御供養を取っていいんだ』
という在家主義の顔をヌーっと出してくるのです。
 
 この在家主義は出家を排除しなくては成立しない宿命にあります。これが「出家平等論」を主張させるのです。この平等論を踏まえて、「出家僧侶」の否定に至り、ついには新たな「在家僧侶」の出家に到達するのです。
 在家主義はストレートに在家教団主義に転化します。これが「創価主・宗門従」という支配論に結合し、ついには「宗門否定」にまで昇華するのです。
 
宗門はこうした本質に疎く、愚かにも真剣に『創価学会は日蓮正宗の信者のはずだ、学会よ、この鶴丸が目に入らぬか、下がれ下がれ!」とやっています。その対応の錯誤には思わず苦笑させられます。
 
 正信会は『住職さん』『何だい?』という無作の僧俗関係を体得していますから、尊敬と尊敬の礼節を自然裡に実行しています。どっちが上だの下だのという不自然な戯論はありません。
 さし当たり、宗門には『威張るより、尊敬される徳を積んだら』とエールを送るとしましょう。
 学会には、『あんたら、いいかげんにしたら』とたしなめるとしましょうか。
 
【質】僧侶の堕落や贅沢に池田先生が怒って紛争が起こっているのではないのですか?
 
【答】それは「真実」から目を反らすために、あとからくっつけた陽動論議です。
 
 紛争の経過を鑑みるとき、学会も池田先生が総講頭を解任された当初は、威嚇と懐柔で何とか宗門を丸め込めると思っていました、しかし案に反して日顕上人は激怒して、これをはねつけました。池田先生はそこで腹を決めました。『そっちがそう出るのなら、俺もヨリを戻そうとは思わない、これを好機到来と考え、前々から考えていた創価教団の旗揚げをやる』・・・・と。
 
 しかし、自分から日蓮正宗を出ていったのでは、いかにも腹の底がバレて不利である、宗門から破門されたという被害者を装えば、信者は、『先生を破門にするなんて!』と同情的憤りで自分についてくるに違いないと計算しました。そこで宗門から破門されるように敢えて仕掛けたのが、宗門僧侶の堕落暴露作戦なのです。
 
 同時にこれは、学会員に僧侶不信感を植えつけて、「宗門離れを促進させ、学会離れを防ぐ」には打ってつけです。そればかりではありません、宗門と戦争する大義名分として信者の共感を呼びやすいという値打ちもあるのです。
 
学会の本心を言えば、僧侶が堕落している方がありがたいのです、なぜならば、それを理由にして、『だから学会じゃなければ駄目だ』という僧侶排除の理由ができ、在家教団の正当化が計れるからです。
 
また、堕落した僧侶の弱みを握って恫喝し、学会批判を封じ、学会擁護をさせられるからです。したがって、事実、学会は今までそうしてきました。ですから、「これは!?」と思う僧侶を、金で堕落させて『立派な御僧侶』と持ち上げてきました。
 
 堕落しない芯のある僧侶が、学会にとっては一番困るのです。なぜならば、学会員が僧侶を尊敬してしまい、自分達の言うことを聞かなくなり、在家教団の存続が危うくなるからです。したがって、堕落しない僧侶を色々といじめ、デマを流して『クソ坊主!』と非難させたりしました。
 
 今にして、「池田独立」のためか、それとも学会に逆らう僧侶の恫喝のためか、それとも『みろ、おかげで俺の非行がバラされたじゃないか!』と、日顕上人を恨ませて、宗門を分断させたいがためか、かっての『立派な御僧侶様』の堕落を盛んに暴露しています。
そうした僧侶の堕落なんてものは、とっくの昔に秘密諜報員を使って、調べ尽くしているくせにです。
 
 もし仮にも信者としての誠実があるのならば、堕落した僧侶に対し、その時点で、良識的に注意すればいいのであって、今になって、何も仰々しく機関誌や一般雑誌まで総動員して、わざわざ、昔の悪行を暴露する必要はありません。そうするには、何らかの策略があるのです。以前は、堕落した僧侶を見逃し、おだて、利用しておきながら、今さら『堕落している』はありますまい。
 
 僧侶が『悪さした』だの『贅沢だ』だの『威張っている』だのと、暴露するのも結構でしょう。確かに暴露された方がいいような僧侶もいるのですから・・・。しかし、それは、自分も宗教者としての品位を疑われるのだという点は承知しておかなくてはなりません。
 「聖職者にあるまじき事!」と僧侶を聖職者のタガにはめて攻撃さえすれば、それで池田先生や幹部が正しくなるわけでもありません。
 
悪い僧侶を庇う気持ちはさらさらありませんが、
僧侶に対して『威張るな!』と言うのならば、敢えて反問しましょう。
池田先生は学会幹部の掌を灰皿がわりにしてタバコをもみ消してみたり、自分の食べ残しのカレーライスを人に食べろと押しつけたりして、威張ってませんか?
 
 僧侶に対して『堕落している!』と言うならば、反問しましょう。
池田先生や学会幹部は、金や男女の事件を何も起こしていませんか?
 僧侶に対して『贅沢だ!』と言うのならば、反問しましょう。
池田先生は全国各地の会館や研修所に豪華な専用施設を作り、そこで優雅に避寒や避暑をしていますね。
 また、専用コックまで連れて世界各国を旅行しますが、これは贅沢ではないのですか?
 それが良いとか悪いとか批評するつもりは毛頭ありませんが、作為的に人を難ずる前に我が身を省みなさいと申し上げたい。我々、正信会からみればどっちもどっちなのです。
 
 加て、一言しておきたいのは、僧侶を攻撃する根性の卑しさについてです。それは自分達僧侶に取って変わり、新たな「在家僧侶」になりたいが為でしょう。なぜ、そんなことをしたがるのでしょうか?それは「威張りがたいがため」ではありませんか。
 
【質】日顕上人は、正本堂が「事の戒壇」であるという意義を変更されました。この不誠実を池田先生がなじって紛争が起きているのではないのですか?
【答】これは紛争の「真実」があまりにも低次元なので、さすがに、「これでは・・・」と思った日顕上人が、あとからさがしてくっついけた理屈にすぎません。
 
 正本堂の問題は「宗門が学会に媚びへつらった経緯」だけを見れば、宗門側の方が不利であり、学会側の方が有利です。そこで、学会側は「紛争の『真実』を糊塗するに好都合なことを、日顕上人が言い出したぞ!!」と喜び、これに飛びついたのです。
 
 学会が、日顕上人の突飛な発言に食らいついて、紛争の「真実」をすり替えようとする態度は策謀的ですし、何としても正本堂を「事の戒壇」にしておかなくてはならいと固執する態度にも無慙を覚えます。
 日顕上人が、会通された正本堂の意義の明確化の英断は是とするも、責任回避の態度や言及の動機には不純なものを感じます。
 
【質】学会が学会独自の在家だけによる葬式を行っています。「学会葬」とか「同士葬」とか「友人葬」とか言うらしいのですが、これに象徴されるように、学会が僧侶抜きで葬式を行っていることに対して、宗門が怒っているということではないですか?
 
【答】それは紛争の泥沼化にともなって出てきた現象です。
 学会は、『宗門が葬式をしてくれないから自分達が独自で行うのだ』とか、『宗門が直るまで凝らしめる意味で自分達が行うのだ』とか、屁理屈をつけているようです。
 
 しかし学会の本音はそんなところにあるのではありません。学会は在家教団として独立したいのです。学会幹部が在家僧侶になりたいのです。池田先生は宗門を離れて自由に飛びたいのです。
 ただ、いきなりそんなことをすると、あまりにも見え見えで、池田先生の魂胆がバレてしまいますから、だんだんとそういう方向へと運んでいこうと考えているのです。
 
 その第一段階が、宗門に食らいついて、宗門のイメージダウンを計る作戦です。
『宗門がやってくれない』『宗門が悪いから』と一切宗門のせいにしておいて、次には裏を返して『だから学会でしましょうよ』とくるわけです。
 学会の本音を言えば、本当は宗門がやってくれない方がいいのです、宗門にやってもらっては困るのです。学会員や金を宗門に取られて、学会の取り分が減るからです。こうした本音を隠しつつ「学会葬」の既成事実を積み重ね、人々の心の中で宗門が風化するのを待って、いよいよ「池田教」の旗揚げとなります。
 
 『これだけしたからすごい!』と自讃し、『だから感謝しろ!』と恩を強制し、「それなのにいじめる!」と被害者を装い、『法難だ!』と居直るのが、すべてにわたる創価パターンなのです。
 
【質】「学会葬」が進むにつれ各地で色々な問題が起きています。「学会葬」は理論的に正しいのでしょうか?「学会葬」で成仏できますか?また、「学会葬」を破折している宗門側の理論は正しいのでしょうか?
 
【答】結論から申し上げましょう。「学会葬」では成仏できません。宗門の論理もあまりいただけません。
 
 こうした問題は心と形の両面から考える必要があります。僧侶が導師をするとかは形の問題です。いかなる信心で行うかは心の問題です。
 どうも宗門と学会の葬式論争を見てますと、心をないがしろにして、形だけの喧嘩をしているように見えてなりません。
 形も大切でしょうが、それにもまして大切なのは心の問題です。いかに形を調えようとも信心が曲がっていては何にもならないからです。
 
 学会は『自分達も僧侶だから葬式できる』とか「葬式を僧侶がやりだしたのは後世のことだ』とか『葬式はもともと仏教と関係ない』といった屁理屈をならべ、だから『学会葬でいい』と結論づけているようです。これは要するに形の問題です。
 
 そんなに葬式がしたければやって下さい。そんなに学会でして欲しければやってもらって下さい、とまずは言っておきましょう。
 その上で、『仏教と葬式は関係ない』と言うのであれば、仏教教団たる創価学会がお経をあげることも矛盾でしょう?と問を投げておきましょう。
 
 『仏教と葬式は関係ある・無い』とか、『学会に導師をする資格がある・無い』とか、そんなくだらない論議をする気はありません。
 昔から、日蓮正宗ではそうしているのです、それでいいではありませんか。何の議論がいりましょう。それを納得したからこそ、この信心をしたのでしょう。納得できなければ日蓮正宗の信心をやめるべきです。
 
 『僧侶か、それとも信者か』などとゴタクを並べて、議論をふっかけること自体がナンセンスなのです。ご立派な理屈を羅列されておられるようですが、要は『坊主はいらない!』という怒りが、屁理屈の皮をかぶっているだけのことです。そんな論争を仕掛けるのは、在家が出家に取って変わろうとする、卑しい心があるからでしょう。
 
 もう少しまじめに物事を考えて下さい。僧侶と在家、どちらの方が人々の納得が得られ、仏法の利益広大が計られましょうや?世の人情に逆らったとて、仏法の利益広大を及ぼすことはできません。どっちが上だの下だのって、アンタ達、一体なに言ってんだい!と申し上げておきましょう。
 心の問題から言えば、「池田先生を仏のように信ずる謗法」で葬式を挙げても成仏はできません。いかほど題目を唱えようとも、いかほど「人間革命」や「母の歌」の歌声を響かせようともです。
 
 学会に対する宗門の御返事は、滑稽なほど高飛車で、恐ろしく権威的です。お気持ちは分からんでもありませんが、もう少し言い様がありましょうに・・・。袈裟衣の権威をひけらかして『恐れ入れ』『成仏させてつかわす』というのでは・・・どうもよろしくありません。それが現宗門の悪い癖です。
 
覇道を歩んで威張るのではなく、もっと大らかな徳を磨くべきでしょう。そうすれば、権威ごかして「葬式やりたぁーい!」なんて論陣を張らずとも、人々は競って葬式を願うものです。
 葬式のような副次的な事柄だけは、目の色を変えるというのでは、痛くない腹?を探られましょう。もっともっと、仏法のために真剣にやらなくてはならないことが、山ほどありましょうに。
 
 だいたい、現在、宗門は学会の過ちを正そうとしているのでしょう?
 でしたら、まずは毅然と学会の謗施を断ち、死ぬ覚悟を持たなくてはなりません。それが・・・上では学会というモグラを叩き。下では学会の葬式だけは俺達にさせろというのでは・・・そしてそれが慈悲だというのでは、恐れ入ってしまいます。
 
 これだから、いくら権威を押しつけても威信は地に墜ちるのです。こう言われてくやしかったら、やってご覧なさい。『立派な御僧侶におなりなさい』なんて、お説教を垂れるつもりはありませんが、少しは道念に恥じない生き方くらいしたらどうでしょうか、と塩を送っておきます。
 
 形の面では学会よりは宗門の方がマシでしょう。しかし、心の面では宗門とて謗法の濁りに染まった信心であることに変わりはありません。
 
 宗門の謗法とは、
一、学会の謗法に与同した罪に対する無反省
二、日顕上人を新「本仏」と仰いで宗門の御徳を奪う邪義
 
 宗祖は裟婆の大地に居して「聖人の唱える題目の功徳と、我等が唱える題目の功徳に勝劣はない。ただし、この経の心に背いて唱える題目には差別がある(松野殿御返事)」と仰せられました。
 日顕上人は雲の高みに位して『私の心に背いて唱える題目には功徳はありません・・・談じて言っておきます・・・総じて謗法と断じます』と宣言されました。
はてさて、いずれを選ぶべきか?
 
 現宗門は『阿部新仏』に従う信心を取っているようです。正信会は宗祖に従う信心を取りたいと思います。恐くは、現宗門は日顕上人が定められた夢国に往生し、正信会は宗祖が定められた寂光土へ成仏するでありましょう。
 
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