真 言 見 聞

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真 言 見 聞の概要

              【文永九年七月、聖寿】 
問ふ、真言亡国とは証文何なる経論に出ずるや。答ふ、法華誹謗、正法向背の故なり。

問ふ、亡国の証文之無くば云何に信ずべきや。答ふ、謗法の段は勿論なるか。若し謗法ならば亡国堕獄疑ひ無し。
凡そ謗法とは、謗仏・謗僧なり、三宝一体なる故なり。是れ涅槃経の文なり。
爰を以て法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く。是を即ち一闡提と名づく。
涅槃経の一と十と十一とを委細に見るべきなり。罪に軽重有れば獄に浅深を構へたり。
殺生偸盗等、乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども、等活・黒縄等の上七大地獄の因として無間に堕つることは都て無し。
阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり。
但し五逆の中に一逆を犯す者は無間に堕つと雖も、一中劫を経て罪を尽して浮ぶ。
一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願ふと雖も、法華に背きぬれば無間に堕て展転無数劫と見えたり。然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり。
是を以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや。諸法は現量に如かず。承久の兵乱の時、関東には其の用意もなし。
国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる。
其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行はる。七日に満ぜし日、京方負け畢ぬ。亡国の現証に非ずや。
是は僅に今生の小事なり。権教邪法に依て悪道に堕ちん事浅猨かるべし。

問ふ、権教邪宗の証文は如何。既に真言教の大日覚王の秘法は即身成仏の奥蔵なり。故に上下一同に是の法に帰し天下悉く大法を仰ぐ。
海内を静め天下を治むる事、偏に真言の力なり。権教邪法と云ふ事如何。
答ふ、権教と云ふ事、四教含蔵、帯方便の説なる経文顕然なり。然れば四味の諸教に同じて久遠を隠し二乗を隔つ。況や尽形寿の戒等を述ぶれば小乗権教なる事疑無し。
爰を以て遣唐の疑問に、禅林寺の広修・国清寺の維蠲の決判、分明に方等部の摂と云ふなり。
蠲は天台の先徳円珍大師之を破す。
大日経の指帰に「法華すら尚及ばず、況や自余の教をや」云云。既に祖師の所判なり。誰か之に背くべきや。決に云く「道理前の如し」。依法不依人の意なり。

但し此の釈を智証の釈と云ふ事不審なり。其の故は授決集の下に云く「若し法華・華厳・涅槃等の経に望めば是れ摂引門」と云へり。
広修・維を破する時は法華尚及ばずと書き、授決集には是れ摂引門と云て、二義相違せり。
指帰が円珍の作ならば、授決集は智証の釈に非ず。授決集が実ならば、指帰は智証の釈に非じ。
今此の事を案ずるに、授決集が智証の釈と云ふ事、天下の人皆之を知る上、公家の日記にも之を載せたり。
指帰は人多く之を知らず。公家の日記にも之無し。此を以て彼を思ふに、後の人作て智証の釈と号するか。能く能く尋ぬべき事なり。授決集は正しき智証の自筆なり。
密家に四句の五蔵を設けて十住心を立て論を引き伝を三国に寄せ、家家の日記と号し、我が宗を厳るとも、皆是れ妄語胸臆の浮言にして荘厳己義の法門なり。

所詮法華経は大日経より三重の劣戯論の法にして、釈尊は無明纏縛の仏と云ふ事、慥なる如来の金言経文を尋ぬべし。
証文無くんば何と云ふとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家の肝心なり。返す返す忘失する事勿れ。
何れの宗にも正法誹謗の失之有り。対論の時は但此の一段に在り。
仏法は自他宗異ると雖も、翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽・現当二世の為なり。
謗法に成り伏して悪道に堕つべくば、文殊の智恵・富楼那の弁説一分も無益なり。
無間に堕つる程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに、将た善事を成すべきや。
顕密対判の釈は且らく之を置く。華厳に法華劣ると云ふ事。能く能く思惟すべきなり。
華厳経の十二云く〈四十華厳なり〉「又彼の所修の一切功徳六分の一常に王に属す。○是くの如く修及び造を障る不善所有の罪業六分の一還て王に属す」文。

六波羅蜜経の六に云く「若し王の境内に殺を犯す者有れば其の王便ち第六分の罪を獲ん。偸盗・邪行及び妄語も亦復是くの如し。何を以ての故に、若しは法も非法も王為れ根本なれば罪に於ても福に於ても第六の一分は皆王に属するなり」云云。
最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来り国人喪乱に遭はん」等云云。
大集経に云く「若し復諸の刹利・国王、諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖もて打折し、及び衣鉢種種の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、
我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ、及び自の国土にも亦兵起・疫病・飢饉・非時風雨・闘諍言訟せしめ、又其の王久しからずして、復当に己が国を亡失すべからしむ」云云。
大三界義に云く「爾の時に諸人共に聚て衆の内に一の有徳の人を立て名けて田主と為して、各所収の物六分の一を以て田主に貢輸す。一人を以て主と為し政法を以て之を治む。
(ここ)に因て以後、刹利種を立て大衆欽仰して恩率土に流る。復大三末多王と名ずく」〈已上倶舎に依り之を出すなり〉。
顕密の事。無量義経十功徳品に云く〈第四功徳の下〉「深く諸仏秘密の法に入り演説すべき所違無く失無し」と。
抑大日の三部を密説と云ひ、法華経を顕教と云ふ事、金言の所出を知らず。
所詮真言を密と云ふは。是の密は隠密の密なるか、微密の密なるか。
物を秘するに二種有り。一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり。二には疵片輪等を隠すは隠密なり。

然れば則ち真言を密と云ふは隠密なり。其の故は始成と説く故に長寿を隠し、二乗を隔つる故に記小無し。此の二は教法の心髄、文義の綱骨なり。
微密の密は法華なり。然れば則ち文に云く、四の巻法師品に云く「薬王、此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり」云云。
五の巻安楽行品に云く「文殊師利、此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。
寿量品(じゅりょうほん) に云く「如来秘密神通之力」云云。如来神力品に云く「如来一切秘要之蔵」云云。
しかのみならず真言の高祖竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、法華経を秘密と名づく、二乗作仏(にじょうさぶつ)有るが故にと釈せり。
次に二乗作仏(にじょうさぶつ)無きを秘密とせずば、真言は即ち秘密の法に非ず。所以は何ん、大日経に云く「仏不思議真言相道の法を説て一切の声聞縁覚を共にせず。亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず」云云。

二乗を隔つる事、前四味の諸教に同じ。随て唐決には方等部の摂と判ず。経文には四教含蔵と見えたり。
大論第百巻に云く〈第九十品を釈す〉「問て曰く、更に何れの法か甚深にして般若に勝れたる者有て、般若を以て阿難に属累し、而も余の経をば菩薩に属累するや。
答て曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説て大菩薩能く受用す。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。
玄義の六に云く「譬へば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く、二乗の根敗反た復すること能はず、之を名づけて毒と為す。
今経に記を得るは、即ち是れ毒を変じて薬と為す。故に論に云く、余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり。復本地の所説有り、諸経に無き所。後に在て当に広く明すべし」云云。

籤の六に云く「第四に引証の中、論に云く等と言ふは大論の文証なり。秘密と言ふは八教の中の秘密には非ず。但是れ前に未だ説かざる所を秘と為し開し已れば外無きを密と為す」文。
文句の八に云く「方等般若に実相の蔵を説くと雖も亦未だ五乗の作仏を説かず。亦未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は皆未だ融会せず。故に名づけて秘と為す」文。
記の八に云く「大論に云く、法華は是れ秘密諸の菩薩に付すと。今の下の文の如きは下方を召すに尚本眷属を待つ。験けし余は未だ堪へざることを」云云。
秀句の下に竜女の成仏を釈して「身口密なり」と云へり云云。此等の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定め給へるを。
経論に文証も無き妄語を吐き、法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず。豈大謗法に非ずや。
抑も唐朝の善無畏・金剛智等、法華経と大日経の両経に理同事勝(りどうじしょう)の釈を作るは梵華両国共に勝劣か。
法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙葱嶺等の険難、五万八千里十万里の路次、容易ならざる間、枝葉をば之を略せり。

此等は併ながら訳者の意楽に随ふ。広を好み略を悪む人も有り。略を好み広を悪む人も有り。
然れば則ち玄弉は広を好て四十巻の般若経を六百巻と成し、羅什三蔵は略を好て千巻の大論を百巻に縮めたり。
印契真言の勝るると云ふ事、是を以て弁へ難し。羅什所訳の法華経には是を宗とせず。不空三蔵の法華の儀軌には印真言之有り。
仁王経も羅什の所訳には印真言之無し。不空所訳の経には之を副へたり。知ぬ、是れ訳者の意楽なりと。
其の上法華経には「為説実相印」と説て合掌の印之有り。譬喩品には「我が此の法印世間を利益せんと欲するが為の故に説く」云云。此等の文如何。只広略の異あるか。
又舌相の言語、皆是れ真言なり。法華経には「治生の産業は皆実相と相違背せず」と宣べ、亦「是れ前仏経中に説く所なり」と説く。此等は如何。
真言こそ有名無実の真言、未顕真実の権教なれば、成仏得道跡形も無し。始成を談じて久遠無ければ、性徳本有の仏性も無し。
三乗が仏の出世を感ずるに、三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。
「皆令入仏道」の仏の本願満足すべからず。十界互具は思ひもよらず。まして非情の上の色心の因果争か説くべきや。
然らば、陳隋二代の天台大師が法華経の文を解て印契の上に立て給へる十界互具・百界千如・一念三千を、善無畏は盗み取て我が宗の骨目とせり。

彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来る。如来入滅より一千六百六十四年か開皇十七年より百二十余年なり。
何ぞ百二十余年已前に天台の立て給へる一念三千の法門を盗み取て我が物とするや。
而るに己が依経たる大日経には、衆生の中に機を簡ひ、前四味の諸経に同じて二乗を簡へり。まして草木成仏は思ひもよらず。されば理を云ふ時は盗人なり。
又印契真言何れの経にか之を簡へる。若し爾れば大日経に之を説くとも規模ならず。一代に簡はれ、諸経に捨てられたる二乗作仏(にじょうさぶつ)は法華に限れり。
二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契真言を行ずとも、法華経に値はずんば成仏すべからず。
印は手の用、真言は口の用なり。其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏すべきや。
一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば物とせず。事に依る時は印真言を尊む者、劣謂勝見の外道なり。
無量義経説法品に云く「四十余年 未顕真実」文。一の巻に云く「世尊は法久くして後要ず当に真実を説きたもうべし」文。又云く「一大事の因縁の故に世に出現したもう」文。

四の巻に云く「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり。而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。又云く「已に説き今説き当に説かん」文。
宝塔品に云く「我仏道を為て無量の土に於て始より今に至るまで広く諸経を説く。而も其の中に於て此の経第一なり」文。
安楽行品に云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説なり。諸経の中に於て最も為甚深なり」文。
又云く「此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」文。
薬王品に云く「此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も為其の上なり」文。又云く「此の経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も為其の尊なり」文。又云く「此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり」文。
又云く「此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最為第一なり」等云云。
玄の十に云く「又已今当の説に最も難信難解と為す、前経は是れ已説なり」文。
秀句の下に云く「謹て案ずるに法華経法師品の偈に云く、薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり。而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文。又云く「当に知るべし。已説は四時の経なり」文。

文句の八に云く「今法華は法を論ずれば」云云。記の八に云く「鋒に当る」云云。
秀句の下に云く「明かに知ぬ。他宗所依の経は是れ王中の王ならず」云云。
釈迦・多宝・十方の諸仏、天台・妙楽・伝教等は法華経は真実、華厳経は方便なり。
「未だ真実を顕さず」、「正直に方便を捨てて」、「余経の一偈をも受けざれ」、「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。
弘法大師は「法華は戯論、華厳は真実なり」云云。何れを用ふべきや。
宝鑰に云く「此くの如き乗乗は自乗に名を得れども、後に望めば戯論と作る」文。又云く「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕せん」文。
記の五に云く「故に実相の外は皆戯論と名づく」文。梵網経の疏に云く「第十に謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ。或は邪見と云ふ。謗は是れ乖背の名なり。絓て是れ解理に称はず。言は実に当らずして、異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文。
玄の三に云く「文証無き者は悉く是れ邪偽彼の外道に同じ」文。弘の十に云く「今の人他の所引の経論を信じて謂て憑み有りと為して宗の源を尋ねず。謬誤何ぞ甚しき」文。

守護章上の中に云く「若し所説の経論明文有らば権実・大小・偏円・半満を簡択すべし」文。玄の三に云く「広く経論を引て己義を荘厳す」文。
抑弘法の法華経は真言より三重の劣、戯論の法にして尚華厳にも劣ると云ふ事。
大日経六巻に供養法の巻を加へて七巻三十一品或は三十六品には何れの品何れの巻に見えたるや。
しかのみならず蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品、或は一巻に全く見えざる所なり。
又大日経並に三部の秘経には何れの巻何れの品にか十界互具之有りや。都て無きなり。
法華経には事理共に有るなり。所謂久遠実成(くおんじつじょう)は事なり。二乗作仏(にじょうさぶつ)は理なり。善無畏等の理同事勝(りどうじしょう)は臆説なり。信用すべからざる者なり。
凡そ真言の誤り多き中。一、十住心に第八法華・第九華厳・第十真言云云。何れの経論に出でたるや。
一、善無畏の四句と弘法の十住心と眼前違目なり。何ぞ師弟敵対するや。
一、五蔵を立つる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を何ぞ必ず我が家の真言と云ふや。
一、震旦の人師争て醍醐を盗むと云ふ。年紀何ぞ相違するや。其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰の歳に至るまで百九十二年なり。
何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給ふべきや。顕然の違目なり。若し爾れば謗人謗法定堕阿鼻獄というは自責なるや。
一、弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂するや。能く能く尋ぬべき事なり。
真言七重難。一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か、如何。対機説法の仏は八相作仏す。父母は誰れぞ。名字は如何に。
娑婆世界の仏と云はば、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり。涅槃経の三十五の巻を見るべきなり。
若し他土の仏なりと云はば、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして、他方疎縁の仏を崇むるや。不忠なり、不孝なり、逆路伽耶陀なり。
若し一体と云はば何ぞ別仏と云ふや。若し別仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや。唐尭(とうぎょう) 六波羅蜜経に云く「所謂過去無量殑伽沙の諸仏世尊の所説の正法、我今亦当に是の如き説を作すべし。所謂八万四千の諸の妙法蘊なり○而も阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞て皆悉く憶持せしむ」云云。

此の中の陀羅尼蔵を弘法我が真言と云へる。若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか。此の説に違す〈是二〉。
凡そ法華経は無量千万の已説今説当説に最も第一なり。諸仏の所説、菩薩の所説、声聞の所説に此の経第一なり。諸仏の中に大日漏るべきや。
法華経は正直無上道の説、大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給ふ〈是三〉。
威儀形色経に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び、定恵智拳の印法華経を証誠す」と。又五仏章の仏も法華経第一と見えたり〈是四〉。
「要を以て之を云はば、如来の一切所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説す」云云。
此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の所説の中に第一なり。
此の外一仏二仏の所説の経の中に、法華経に勝れたる経有りと云はば用ゆべからず。法華経は三世不壊の経なる故なり〈是五〉。
又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経文之無し〈是六〉。

釈尊御入滅より已後、天竺の論師二十四人の付法蔵、其の外大権の垂迹、震旦の人師、南三北七の十師、三論法相の先師の中に、天台宗より外に十界互具百界千如・一念三千と談ずる人之無し。
若し一念三千を立てざれば、性悪の義之無し。性悪の義無くば、仏菩薩の普現色身、真言両界の漫荼羅五百七百の諸尊は本無今有の外道の法に同ぜんか。
若し十界互具百界千如を立てば、本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや。
天台円宗見聞の後、邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり。才芸を誦し浮言を吐くには依るべからず。正しき経文金言を尋ぬべきなり〈是七〉。
涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説て言く、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり。一世界の中に二仏出世すといわば、是の処有ること無し」文。

大論の九に云く「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実には一りの釈迦牟尼仏なり」文。
記の一に云く「世には二仏無く国には二主無し。一仏の境界には二の尊号無し」文。
持地論に云く「世に二仏無く国に二主無く一仏の境界に二の尊号無し」文。
 七月 日                                                                   日蓮花押 

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