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 海道をゆく

「海道をゆく」に関する私的エッセイです。1997〜2000福井新聞「BAY WAKASA」に書いたものです。

函館へ


海道をゆく 海の夢と課題を乗せて北前航路を雲龍丸がゆく  1997(上)
 小浜湾を望みながら雲龍丸は沖へと向かう。双子島が見送ってくれる。内外海半島が美しい。「小浜湾はナポリ湾のようだ。」と韓国麗水出身のロジン・パーク氏が何度も言った。「『海道をゆく』というテーマを聞いただけで、夢があって、私は人生のロマンを感じて参加を希望しました。」ロジン氏の指さす方向を案内「あそこが私の村です」船はやがて蘇洞門の沖へと向かってゆく。白い花崗岩の岩肌が美しく光っている。

 小浜港から函館に向かう船旅が始まる。福井ライフ・アカデミー講座「海道をゆく」の受講生40名を乗せていく。台風9号が迷走し予定を2日間伸ばし。幸いにも台風が日本海に抜けた。不安ではなく安心と希望を乗せての出航となった。

 船酔いを心配していた人も多かったが、それより雲龍丸に乗船して函館に行けるという魅力から、元気で勢いのある旅になった。

 5月25日から始まった15回連続の講座、「日本に初めて象が渡ってきた港町小浜」「港湾都市小浜の交易」「北前船と小浜湊」等テーマで歴史を学び、このまちを、地域を、自分自身を再発見しようと試みた。講座の後半は雲龍丸に乗船、北前船の航路を函館に向かう。座講だけでなく、船に乗って潮風に吹かれる中で、新しい発想や想いもふくらみ、それまで学んできた知識が一束の学びの風となればと期待した。

 雲龍丸(499t)は、福井県立小浜水産高等学校の漁業実習船である。海洋漁業科の生徒を乗せハワイ沖までマグロとりに出かける。今回、講座関係者40名、船員が20名、計60名の航海である。漁業実習船といっても、船内の装備は素晴らしく、客船感覚であり、船室も快適空間である。

 若狭湾沖に出た頃、船内では、小浜水産高校の一瀬哮彦校長が、「水産教育の現状と課題」と題して話、ハワイ沖にマグロとりに行ったときの生徒の航海日誌、海に生きることの夢と厳しさ、日本で一番古い歴史を持つ水産高校の存在意義と役割を話す。ユーモアたっぷりの話に受講者はうなずき、また爆笑しながら、なごやかな雰囲気のなかで船内講座は進んでゆく。「船長航海日誌」と題して荒木正道雲龍丸船長の登場。船長になってからの苦労話、マグロとりの仕掛けなどについての話。受講者から盛んに質問も出て、時間があっと言う間に過ぎてく。船長が「みなさんを函館まで無事に運びます」というと「船長大丈夫ですか」とお茶目な参加者が聞くと「まかせなさい」と船長。船の中でまた爆笑。参加者は昨夜の台風の事などすっかり忘れ、船はおだやかな日本海を北に向かっていく。

 夜は「北前船と民謡」と題して、民謡歌手恩地美佳さん(福井県の民謡を研究、今回参加者として乗船)。民謡が日本海交易によって各港に伝わり、その地域に馴染んだ民謡となっていった経過をの歌で紹介。思わぬ船上ライブに参加者は大喜び。「越前船方節」を船長に捧げる。船長も御機嫌。「ソーラン節」が始まると手拍子と歌で船内食堂は熱気あふれるステージになった。

 船の時間はゆったりと流れてゆく。日常あくせくと急いでいる人生を遠望できる。潮風に吹かれ、星を仰ぎながら進んでいく。この旅は、単に講座というだけではなく、人生を探す旅となる。船の中でネットワークもできてゆく。


海道をゆく 海の夢と課題を乗せて北前航路を雲龍丸がゆく 2 1997(下)
 船の朝は早く明ける。もう4時頃からデッキに出て海を見ている人もいる。操舵室では夜勤の船員さんが舵をしっかりにぎっている。舵を握っているといっても自動操舵で船は進んでいく。監視を続けながら船が進んでいくのである。

 潮風を受けながらさわやかラジオ体操。朝食をすませてからは自主研修、参加者の中から長谷勇さんが「ミクロネシア体験記」と題して太平洋の美しく素朴な島の話。

 昼食後、「海を越えて」と題してロジン・パーク氏の話。イタリアに歌の勉強に船で渡る時のエピソードを交え、彼の波瀾万丈の人生を語る。「海道をゆく」今回のテーマにぴったりの話。話の中で「帰れソレントへ」他2曲歌ってくれた。みなさんの感動が伝わってくる。いつまでも拍手がなりやまない。

 午後、イカ釣りの仕掛け準備。イカ釣り体験は初めてという人が多い。いきなり名漁場の秋田沖とあって豪華版。夕食が終わるや否や、みんなそわそわし出して、日没を待たぬ内に釣り具をたらしている人もいる。日本海に真っ赤に燃えて落ちてゆく夕陽をバックに写真をとっている人もいる。

 夕方7時、イカ釣り大会開始。一番大きな獲物をつり上げた組みには大賞が当たるとあってみんな力が入る。最初につり上げたのは福田チーム。そして次々と釣れる。

「はい!350グラム」「400グラム」計量係も忙しい。夢中になっていると時間はあっという間に9時をすぎている。この時間から入れ食い状態、どんどん釣れていく。デッキでは船長と校長がイカを料理、参加者の長谷さんが持参したイカそーめん機の大活躍。

 大物大賞は、倉谷・ロジンチーム。何と540グラムの大きなイカを釣った。校長先生から大賞が贈られる。「私の人生の中で最高の栄誉です」そう言うとロジンさんが歌う。船上は素敵なパーティー。船で出会った仲間が一つのファミリーになって歓声と笑顔が溢れる。

 7月29日、朝、函館山が見えていよいよ入港である。全員、アッパーデッキに上って入港を待つ。中央埠頭に手を振る人有り。藤井さんである。小浜出身で北海道大学水産学部のおしょろ丸船長として北洋に生きた人。函館にて雲龍丸の入港を心待ちにしていてくださった。

 藤井教授の案内で北大水産学部の水産資料館を見学、ニタリクジラの骨格などめずらしものばかり。白樺の木陰に座って藤井教授の話を聞く。北にこの人有り。海道をゆく旅は藤井さんに出会うことでまた大きく広がってゆく。

北大で解散式、今回の雲龍丸の旅はここまで。最初、現地解散をお知らせしたとき、みなさん躊躇いがあった。しかし、初めて自分で旅行計画をした人や、旅行計画を通して仲間ができた人などいい展開をしていった。。最近の旅はセットされていて楽だけど、人生は帰着点まで分かっているとつまらないかも知れない。わくわくどきどきしながら旅をするのもいいものだ。「みなさんの旅はこれから始まります」今度であったときは。お互いの旅の話を交換しましょう」そう言って分かれた。

 

隠岐へ


海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 1    1998(上)
 ゆったりと胸に風を吸い込んでデッキに立つと、若狭湾の半島たちが出迎えてくれる。冠島、鋸岬、松ヶ崎を眺めながら海道の旅は終着。両手を広げるように包容力をもって受け入れてくれる小浜湾。光る海を風が撫で、雲龍丸はその上を滑るように進んでゆく。

 講座「海道をゆく」隠岐への航海に参加。若狭からは遠いと思っていた隠岐が以外に近いことを体感した。小浜港から西郷港まで一気に行けば8時間。沖でイカ釣り実習をし、朝焼けの海を西へ走って隠岐に入港する。西郷港は天然の良港。北前船の時代も風待ち港として船乗りたちの安堵の港であった。

 隠岐での現地講師、歴史民俗研究家の藤田茂正さんの話は興味深い。「対馬海流は隠岐を通って、若狭湾に達する。昔から隠岐で遭難した漁師が若狭に漂着することが多くあった。隠岐では葬式をすませて悲しみに沈んでいると若狭から連絡があり、生きている知らせ。隠岐で死んだ人が若狭で生き返る。」と。

 朝鮮半島から出航した人たちが、遭難し隠岐に漂着救護されたという話も聞いた。他国から流れてきた者を助けてやりたい、海上安全を祈願したい一心で、隠岐に渡って寺を建てた道澄という僧侶もいる。この愛弟子が柿本人麿の息子の躬都良(みずら)。隠岐に流され、島の娘と恋仲になる。二人の熱愛もつかの間、躬都良が病死。娘は黒髪を切って都にある生家に彼の母を訪ね、終始を語り泣きながらに遺骨を渡す。この美談が都から広まり、彼女が隠岐に帰るため立ち寄った小浜港では話を乞う者が後をたたず。娘は小浜に残る。これが、隠岐に伝わる八百比丘尼の一説である。

 西郷にある玉若酢命神社の境内には樹齢二千年で幹周り20メートルもある杉がある。「八百杉と呼ばれ、若狭の八百比丘尼が植えたと伝えられています。」億岐正彦宮司が丁寧に説明してくださった。小浜の空印寺から預かってきた八百比丘尼縁の「白玉椿」を参加者の一人で八百姫神社の沢田辰雄氏から手渡した。「800年たったらまた来ますよ。」そんな冗談をいいながら、対馬海流と八百比丘尼伝説で若狭とつながっている人情の島を後にした。


海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 2    1998(中)
 若狭湾の漂着物はハングル文字で書かれたものが多い。速い潮に乗ると3〜4日で朝鮮半島から到着するという話も聞いた。韓国で遭難し死んだと諦めていたら若狭で生還した話が身近にある。明治33年小浜市泊に漂着した韓国船「四仁伴載」の乗船者である。今から97年前、ウラジオストクから大韓国咸鏡道明川沙浦に向かって帰る途中の大韓帝国籍の船が暴風に遭い、真冬の日本海を2週間漂流して漂着したのである。船には鄭在官船長以下93人の韓国人乗船していた。水も火もなく餓死寸前のところであった。泊の村人は総出で救出し、湯を沸かし村中の飯を集めて食事をさせ、懸命に救護し、1週間の滞在の後、全員無事で故国に帰ることができたのである。韓国人と区民は言葉は一言も通じなかったが、慈しみの情も深くなり、浜で分かれる時には、「別れを告げるがその様子は実に親子の別れと同じであった。韓国人が目に涙すると区民も共に涙を流し、袖を絞るほどに泣きながら別れを告げた。」と、当時の区長が書き残している。救護を通して心を結んだ民衆。韓国併合の10年前の出来事であった。当時、水難救護法等も出来ていたが、国はこの遭難救護に対して何ら積極的な援助を示さなかった。海は人を隔てることはないのに、国が海を隔てていた。海は人の出会いをつくってきた。同じ海を抱き会う民と民が手をつなぐ時代が来ている。2002年日韓の共催でワールドサッカーが開かれる。小さな村でも、そんな時代のために風になりたい。そんな思いで、村の入り口にハングル文字で表記した看板を立てた。

「若狭」という発音に近い言葉が朝鮮語にある。それは「ワッサカッサ」=「行ったり来たり」という意味の朝鮮語だと韓国出身のロジンパーク氏が教えてくれた。古代から行き来した海道。海は人を隔てない、海は人をつなぐ。97年前の祖先たちが、国境を越えて心通わせた歴史をもとに21世紀の民同士もまた交流できるはずだ。

 


海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 3     1998(下)
 海、むしょうに心惹かれる海。筏をつくって遊んだ少年時代。あの日の海の色も臭いも全部覚えているのは不思議だ。昨今、うまし小浜の浜はテトラポットや埋め立てでその美しい海岸線を失ってきている。海がそこにあっても、海で遊ばなくなった子供達のこと。15年前の冒険の海が記憶に新しい。

「ぼくらの出航」と題して6年生の学級41名で三ヶ月がかりで取り組み、いかだを作って出航した日のこと。国語の時間は「コンチキ号の漂流」「ジョン万次郎漂流記」など40冊読破を目指し、算数は測量、図工、海の絵を描き、木を削ってオールを作る。音楽は出航の音楽を練習し、給食は海で食べた。学級会では、いかだづくりの目的についてとことん話し合う。「もし遭難したらどうする?」と女の子達。「僕らが助ける」と男の子。「頼りない男子やと不安や。」と女の子達が反論。納得させるために模型制作、浮力実験を真剣に始める男の子たち。自分の命を守れるように「全員500メートルを泳げるようになろう」を合い言葉に猛練習も開始した。

 8月3日、台風の去った後の海岸に学級全員が集まり、竹、木、ロープなどを材料に筏の組立を開始。5メートルもある帆も作り「熱風」と書き込んだ。マストの滑車にロープを通して帆を上げると歓声が上がる。うねりの残る海に、手作り筏で出航することは、大冒険である。いろんなピンチも脱出して無事このプログラムを実行しきった子供達の横顔がたくましかった。

 各教科の学習を総合する目標が「ぼくらの出航」であった。最近、生活科や総合学習の重要性が叫ばれ、生きる力を育てる教育が緊急課題になっているが、そんな風もない当時は子供達と覚悟を決めての挑戦だった。子供達と海を取り戻したかった。「我は海の子、小浜の子」海の歌を高らかに歌える子にしたかった。卒業の時、あの日の航海グッズや記録を後瀬山にタイムカプセルに入れて埋めた。「2000年がきたら、掘り出して再会しよう。その日に後瀬山がみどりで、小浜の海が青い海のままでありますように。このオールで人生をのりきろう。」そう誓い合って旅立った。もうじき2000年、彼らは、あの時の僕の年。父親からナポレオンをもらってきてタイムカプセルの中に埋めたお茶目な子もいた。酒は山の中で、彼らの人生と同じようにいい味になっているだろう。再会し、車座になってこの酒を酌み交わし人生を語りあう日が楽しみだ。

 

佐渡へ


 若狭から佐渡へ---雲龍丸で北前船の海道をゆく--- 1999 (上)

 音海から若狭湾が一望できる。晴れた日には残雪の白山も眺められる。海からの発想でこの国を遠望できる場所である。この海を北に向かえば能登半島、 禄剛崎を越せばやがて佐渡が見える。海道はゆったり、のったりと続く。空まかせ、風まかせ、山を見、星に祈る。

 小浜から直江津まで車で5時間、フェリーに乗って小木港まで2時間、合わせて7時間。陸路から佐渡は遠い。雲龍丸に乗って、一昼夜はあっという間の時間だった。若狭図書学習センター主催の講座「海道をゆく」での船旅。小浜から佐渡まで海上の道を行くのが魅力である。

 大佐渡の高台に立つと、西に能登半島、北に男鹿半島が見える。佐渡は、日本海が見渡せる位置にあって海道の要所だと実感。江差、松前など北の湊を出船した船乗りたちは、佐渡に着いて半ばに来たと、ほっと一息ついたのだろう。隆盛期に小木の湊に四百艘のも舟が停泊し、小木の町には一晩中三味の音が響いていたそうだ。そして、風を待って出船、能登を越せば若狭はもう近いのである。

 宿根木の佐渡国小木民俗博物館を訪問。当時の板絵を元に、優秀な船大工を全国から集めて実物大の千石船「白山丸」を実物大に復元したものがあった。圧巻である。海の歴史を大事にしている佐渡の人の情熱が伝わってくる。白山丸を目前に佐藤利夫先生のお話を聞く。小浜の丹後屋、木綿屋、塩屋などの商人との取引の記録も紹介、小浜と佐渡のつながりを知る。

「今こそ、古いものを残し、記録しておきなさいよ。今、私たちの時代にやらないと、何もかも消えてしまう。この国が、何なのかも分からなくなってしまう。みんなが競争してリトル東京をつくろうとしている。滑稽ですね。こんなにすばらしい日本海文化があるのに。がんばんなさいよ。」と私の手を握り励ましてくださった。「みちよお!」(いい旅をという佐渡の方言)と言って見送ってくださった。佐渡にこの人あり。

 海上交通が、鉄道と飛行機に奪われ、同時に海が運んだ芸能、言葉、習慣、風俗も消えていく。「日本海にいる人が自信をなくして、太平洋側に取られている。日本海文化を再生し、元気を取り戻して!」佐藤先生の言葉が今も頭の中を回っている。

 「海道をゆく」このテーマは、若狭の歴史や文化を再発見するにとどまらず、日本海文化の再発見、この国の生き方、アイデンティティーを探すキーワードである。

 このまちに素晴らしい歴史や文化あり、美しい港あり、北前船時代の倉庫あり、この町にしかない風景と生活と人情がある。見せ方によって、もっともっとすてきな町になる。このまちを文化発信の港にしたいものです。


狭から佐渡へ---雲龍丸で北前船の海道をゆく--- 1999(下)
 能登からの海上の道は、まっすぐに佐渡に続く。暖流の影響を受けた海岸線は、タブノキ、トベラ、ツバキなど照葉樹が生い茂り若狭湾の植生とよく似ている。夏前の佐渡にカンゾウの花が咲き誇る。島の人は、海辺のこの花を「漁告花」(ヨーラメ)と呼ぶ。魚(ヨー)孕み(ハラミ)花の略で、この花の咲く頃には産卵の魚たちが浜にやって海は生き返り、魚が生き返り、村が生き返るらしい。「魚は季節の花で釣る」というのは、咲き出す草花を見て漁期を知ることだそうだ。何と海の臭いがする話であろう。海の暮らしは厳しいけど、何て美しい生活文化なのだろう。

 海に生き、海に生かされる村が日本海側に多くある。私の住む村もその村である。蘇洞門の断崖の下の岩場は磯見漁の豊かな漁場である。小舟に乗って、ねり櫂を巧みに操りながら、箱眼鏡を覗き込み、長い竿を刺してサザエ、アワビをとる。二百メートルも高く切り立つ岩壁、落石に気をつけ、特に危ないところでは般若心経を唱えながらの漁である。 昭和40年の前半までは、村の漁師の多くが磯見漁をしていた。民宿ブームを経てレジャー産業が入り込んでからは、海で磯見をして生活する者はどんどん少なくなり、ついに専業で磯見をするのは村でただ一人になってしまった。五十年間この暮らしをしてきた父は、密漁などでほとんど獲物のいなくなった海の底を今日も眺めにいく。

 佐渡にも、磯見漁があると聞いて、 見てみたいと雲龍丸で共に佐渡に渡った。尖閣湾の漁村の浜を歩く。船揚げ場の漁具を見れば、海で何をとっているのかが分かる。そこで、イソネギ漁師、浜辺さんに出会った。イソネギ専門はこの村で浜辺さんただ一人という。漁から帰ってきた浜辺さんの船を曳くのを手伝いながら声をかける。ひたすらに海の底を見続けてきた男同士の嬉しい会話が弾む。

 サザエとりの三また、ケエカギ(アワビかけ)、たもなど、漁具に至るまで興味あることばかりだ。海の地形や、潮の流れなどの違いか漁具も若干違う。浜辺さんののケエカギは、なんと十ヒロ(10メートル)以上もあって、佐渡は若狭の海に比べて透明度が深いのだと分かった。船から半身を乗り出して貝をとる技術は長い経験によって身に付く伝統漁法だ。同じ日本海で同じ漁法で生活する海民の漁業文化だ。「頑張って」別れ際、若狭の磯見漁師が、自分より少し年若い佐渡のイソネギ漁師にそう声をかけている光景を写真に納めた。

 

 

韓国へ


海は人をつなぐ (上) 日韓の海道          2000(上)
 それにしても大時化(しけ)であった。台風並の低気圧。舳先(へさき)からかぶった波しぶきが操舵室の窓に激しく当たる。艫(とも)でスクリューがガラガラと空をかく。海の洗礼。さすがの生徒たちも顔面蒼白で、ほとんどが船酔い。逆巻く波を越えて来た。

 丹後の経ヶ岬を回り、西へ真っ直ぐ航路をとれば韓国の浦項に向かう。夢に見た韓への海道に同行。7月22日、小浜港を出航してから三百三十海里、一昼夜半の航海。小浜水産高校のテクノコース、バイオコースの2年生25名が乗船しての沿岸航海実習。

   土限りあり 海限りなし 限りなき海こそ 我らが庭なれ

   限りなき海の幸 限りなきこの業 風をつき 波をけり 励めよやわが友〜

 校歌が船内に響く。

 7月23日、雨も上がり、浦項港がくっきりと見えてくる。12時、雲龍丸は、浦項港17番バースへ歴史的な着岸。小浜水産高校の英断によって初めて小浜と韓国の海道がつながった。 

 浦項水産高校は、ムクゲの花咲く坂を上っていった海を見下ろす高台にあった。歓迎式典で張炳哲校長と山内雅夫校長が固い握手。21世紀の共存と親善交流を誓い合う。生徒代表の山下良介君が「海の学習を通して、世界が仲良くなるようにしたい。来月8月に日本へ来られるのを待っています。」とあいさつ。

 8月9日、浦項水産高校のハエマジ号が生徒43名を乗せて小浜港に入港。市をあげて心からの歓迎。新しい歴史が小浜からつながる。ハエマジ号は小浜港に三日間停泊。船名のハングル文字が小浜の風景にあっていた。初めて見る大型の韓国船を市民がカメラに収めていた。ハングル語の「ワッサカッサ」(行ったよ来たよの意)が「若狭」の由来とも言われる。両水産高校の交流はまさに「ワカサ」。この町の存在が大きく見えてくる。

 小浜水産高校での歓迎式で、生徒代表の伊藤晃子さんが「日本では韓国映画も人気。韓国の文化に興味があります。お互いの文化交流もしましょう。」とあいさつ。

 浦項水産高校生徒代表の李 真君が「21世紀は地球村の時代、同じ海に学ぶ若者同士が交流し、国境を越え手を携え合い若者の夢がかなうよう努力しましょう。」とあいさつ。若者たちの新しい時代が来た。

 近くて遠かった隣の国。今、海道がつながって近くて近い国になった。古来より朝鮮半島から多くの歴史や文化が渡ってきたこの町の存在を改めて実感。思えば、このまちの道路標識にハングルの標記ぐらいあってもいい。陸の発想に閉じこめられて、嘆きばかりが多い昨今、このまちを海から再度見つめたい。小浜からつながる海の道がある。海を学べる水産高校がある。海はこのまちの未来をつなぐ。海を失えばこのまちを失う。


海は人をつなぐ(中)感動がつなぐ海道           2000(中)
 風速2,7メートル、霧はれて視界もよし。「スローアヘッド」「スローアヘッド、サー」韓国のパイラーと荒木船長のかけ声で雲龍丸は麗水港に歴史的な入港。麗水港は、朝鮮半島南岸の主要商港、漁港。「二代目の校長が麗水を訪問し、まちの美観に感動して、同窓会名を『麗水会』としました。美しい風景、先輩の校長が感動されたのと全く同じ感動をしています。」と小浜水産高校の山内雅夫校長が訪問のあいさつ。

 美しい風景や人との出会い、感動が、次の出会いを生み、新しい交流を創造する。「雲龍丸が麗水に入港できたらいいな。」小浜水産高校の「麗水会」の文字を見て感動した知人で麗水出身の声楽家朴路眞さん。彼が夢見ていた小浜と麗水への海道がつながった。

 麗水の風景は懐かしい感じがする。入り江に囲まれた小浜湾とよく似ているからか。包容力がある。

 人口90万を越える麗水と小浜と数字で比較できないが、交流や人の出会いは数字ではなく、感動しあう人の心のつながりで続いてゆく。麗水大学の高速船にて湾内見学。オドンドー(悟桐島)、将軍島、突山大橋、美しい風景が迎えてくれる。

 麗水大学を訪問。「小浜は水の美しいところ。魚のおししいところ。小浜と麗水は姉妹です。」と金教授。壱五三水産でハモ料理をごちそうになる。

 生徒達も麗水大学の学生に町を案内してもらい、有意義な交流ができたようだ。すっかりご機嫌。船に戻ればもう会えない。別れの切なさを味わっている。

「海の男は人を好きにならなあかんでよ。」興奮気味に会話がはずんでいる。7月26日、生徒たちもデッキで別れを惜しみながら8時半麗水を出航。

 麗水の港に、豊臣秀吉の水軍を撃退した亀甲船が係留され観光名所になっている。総指揮をとった李舜臣将軍の銅像は韓国の至る所で今も日本の方に向かって立ちはだかる。韓国では、秀吉の朝鮮侵略は「倭乱」と呼ばれている。京都の耳塚、鼻塚にまつわる話が小浜にある。殺戮の証として塩漬けの耳、鼻を積んだ船は小浜に入港したという。そんな遠い話ではない。

 ソウルに残っていた日帝時代のシンボルの朝鮮総督府は数年前に取り壊された。麗水で唯一の日本家屋である朴路眞さんの生家もいつか取り壊される運命にあると彼がが語っていた。しかし今回訪ねたらまだ壊されずに残っていた。反日感情は依然として強い。歴史の共通認識をするまで真の善隣友好の道は開けないのだろう。同時に若者の交流が新しい時代を開いてゆく。

 7月27日、一週間ぶりの若狭湾。韓への海道の旅も終わる。朝鮮半島から遠望すればこの形が見える。日本は大海に浮かぶ島。小松から飛行機でわずか1時間20分でソウルに着く。雲龍丸で麗水まで40時間かかる。波の間を行ったり来たりした海民の時間があったのを忘れていたことに気がづく。海の時間はあわてずゆったりと流れて行く。心ある道だけをひたすらに行けば、そこにあなたの国が見える。戻れば、私の国が見える。

 

 

 


海は人をつなぐ(下)風の吹いてきた村           2000(下)

 船酔いすると気力まで落ちてくる。100年前の韓国船遭難救護の時の93名は、強靱な生への意志と助け合い励まし合いで生き延びたのだろう。そんなことを想いながら浦項に入港した。

 釜山の協成海運代表理事王太殿氏がファックスで、「百年前、水産講習所(東京水産大学前身)の練習船が迎日湾で遭難して、教官はじめ多くの学生が遭難死亡、その慰霊碑が浦項にある。」と教えてくださった。バスは遭難慰霊碑へ向かった。碑は浦項から南へ30分の岬にあった。白い記念碑が建っていた。建立年月日の「明治」という字がコンクリートで塗られていて、反日感情を印象づけていた。碑は東の海を遠望して建っていた。すぐ近く軍事監視小屋、銃をもった若い兵士が警戒にあたっていた。すぐ近くで合歓(ねむ)の花が海を見て咲いていた。

 記念碑のある漁村の民家の玄関に腰掛けている老婆。「アンニヨンハセヨ」と挨拶。「日本から来た」と言うと、老婆は、目の前の海の彼方を指さした。東の方角だ。老婆は玄関で海を見ている。いつも日本の方を向いて座っている。日焼けした顔に刻まれたしわに、くぐり抜けてきた幾多の歴史を感じた。老婆の住む村は小浜の漁村と同じ風景だった。

 8月9日、浦項水産高校の船が小浜に入港。「泊村の韓国船遭難救護の記録「風の吹いてきた村」を読んで感銘しながら船で来ました。どんな状況にあっても民衆は助け合って来た。このことを大切にして今後の交流を進めていきたい。」と浦項水産高の張炳哲校長が入港一番に挨拶。

 8月11日、一行は内外海半島の岬の村まで碑を見学に来てくれた。海の美しい午前。「海は人をつなぐ母の如し」記念碑は光を浴びている。碑にまつわる日韓交流のドラマを紹介。熱心に聞き入る生徒たち。「感動して涙がでました。」と李宗哲先生。今年1月の韓国船遭難救護百周年記念事業で記念碑が出来て以来、初めての韓国からの団体の来訪者。両国の国旗が海風に心地よくはためいていた。

「それにしても、よう来てくれたなあ、こんな遠いところまで船で。」村の古老が感心する。この小さな漁村は盆を迎える、当時、遭難救護で活躍した祖先たちは土に眠る。美しい平安の風景の中に記念碑はある。1月に植樹した韓国の木ムクゲと日本の桜は公園で緑の枝を広げ始めた。21世紀を迎える来年には花が咲き誇るだろう。100年前の民衆の出会いがこうして人をつなぎ、新しい時代をつなぐ。海は人をつなぐ母の如し。今年になって急に進展してきた日韓、日朝の関係、南北の関係。この小さな漁村に吹く風は、同じ海を抱き合う民と同じ気持ちを歌っている。


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