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海は人をつなぐ 母の如し

 

 

 

 

 真冬の日本海で遭難した一隻の韓国船が、私の村「泊」に漂着しました。村人の救護によって93人の韓国人全員が無事に故国へ帰りました。1900年1月、日清戦争から日露戦争の渦中でおこった実話です。

 言葉も通じない韓国人と村人は、8日間の滞在を通じて心を通わせていきます。別れの浜で、親子のように泣き分かれました。国家の間では悲しい争いをしていた時期に、民衆同士はこうした偶然の出会いにすら心と心をつないだのです。

 今日は、この話に出会って広がった私の体験を少しお話します。どうか最後までおつきあいください。

 私の住んでいる泊村は、若狭湾に張り出した内外海半島の先端近くにあります。

 外部からは陸の孤島などと言われましたが、村には海に生かされ、山に生かされるのどかで豊かな生活がありました。今は道路が整備され、生活が一変しました。

 小浜から岬に向かい道を車で15分。堅海トンネルを抜けると、目の前に新しい海が広がり、私の住む村が見えます。いつも通って見ている風景ですが、初めて来た海のようにいつも新鮮です。私は、そんな気持ちを歌にしてみました。

 

歌「初めて来た海」

 トンネルを抜けると 広がる海の青さが まばゆいほどに 瞳に映る

 初めて来た海なのに 風がやさしいね

 寄り添ってるこの村の 屋根瓦が光る

 君と出会った この時を大切に

 

 岬に続く 日だまりの道で 小さな野菊が風に揺れている

 初めて来た海なのに 風がやさしいね

 寄り添ってる花たちにの ささやきが聞こえる

 君と出会った この時を大切に

 君と出会った この時を大切に

 

 「泊の歴史を知る会」という会を発足したのは、平成8年のことです。

 村の伝統行事や歴史を記録し伝えていくという目的で集まったのです。

 どうしてこんなことをやり始めたかというと、実は、ある出会いがきっかけになっています。

 7年前のことです。村出身で大阪に住んでいらした老婦人から、突然、多額の寄付をいただきました。村のために使って欲しいと言って、手紙で申し出がありました。小さな村にとって大変な出来事でした。村で何度も協議して、このご寄付を資金の一部として、古くなったお寺を建て替えることにしました。

 

 早速、代表の者が報告とお礼に大阪へ行った日、この老婦人は、ちょうど息をひきとられました。ドラマのようなこの展開、このことが私のその後の活動を方向づけることになるとは、この時、夢にも思いませんでした。

 

 そして、私は、弔辞作成を担当することになりました。このお方は、ご自分の年金を少しずつためていたお金をふるさとのためにご寄付してくださったことも分かりました。

「あなた様のの泊を想われる心は、ふるさとの風になって永遠にこの村に吹き続けるでしょう。私たちは、力を合わせて平安で美しい村を守っていきたいと思います。」

そんな内容の弔辞をしたため、代表の者が持って葬儀に参列致しました。

 

 その年から、私は、お寺の建設委員ととしてお世話をさせていただくことになりました。19軒しかない檀家で新しい寺を建てるのは大変なことです。年間70回を越える話し合いや集まりをしました。

話し合いは、資金や運営について困難を極め何度も座礁しました。その度に、「寺は船、みんなで乗って行く大きな船を作ろう。」ということで一致団結しました。

 寺は建ちましたが、さて今度は中身、精神です。

 歴史を知る会の活動が始まって半年後、私たちは、韓国船遭難救護の記録と出会いました。村の土蔵から当時の貴重な文書がでてきたのです。その文書を書いてあった事件のあらましは次のような内容です。

 1900年(明治33年)1月12日、北西の風が狂ったように荒れまくった翌日のことです。村の前の海に漂う一隻の外国船を発見しました。帆柱が折れ、帆も破れて無惨な状態になっています。難破船に近づくと、多くの人たちが船縁で、手をふって何やら叫びながら救助を求めています。村の衆は伝馬船をこぎ出して船に横付けし、韓国人を難破船から船小屋の前の浜に上陸させました。村中の飯や湯茶を集め、わらをたいて体を温めさせ、何軒かの家に分宿させ、村中の風呂を沸かしました。 

 船の名前は「四仁伴載」といい、およそ八百石程積める2本マストの木造船。鄭在官船主を始め、商人、乗組員、荷役など何と93人の韓国人が乗船していました。

筆談で話を聞くと、その内容は悲惨さを極めました。

 「私たちは商用のため出かけて来ていた露国海三威を出発し、ふるさと大韓国咸鏡道明川沙浦に向かっていました。

 その日の夕方、急に嵐になり、船は真冬の日本海を漂流、大海原の中を木の葉のように流されました。船は破損し、船内には海水が入ってきました。いつ転覆するか分からない状態です。必死の思いで積荷を海中に投げ捨てました。

 東へ西へどこへ流されるか分からない船の中で、私たちは不安な昼と夜を繰り返し、凍り付く寒さに震え体を寄せ合いながらも、懸命に生きようとする意志を確かめ合いました。暖をとる薪も食料も水も無くなり、飢えと寒さの極限の中で死を覚悟しました。僅かになった乾米を分け合って食べ、しまいには自分の尿を飲んで生きる望みをつなぎました。

 夢のような光景でした。私たちの船は、あなたの国の泊村についたのです。」

韓国人の保護はそれから1週間続きました。

韓国人と区民の間では言葉は一言も通じません。しかし、8日間の対応の中で慈しみの情も深くなっていき、好奇の感情から親しみの感情へと変わっていきました。

  1月19日、午前11時、船小屋下の浜へ、区民一同、老若男女、子供に至るまでみんな集まりました。

 言葉はもう必要ではありません。気持ちがあふれていきました。

 村人は、韓国人達に別れを告げるのですが、その様子は実に親子の別れと同じです。韓国人らが眼に涙をためて別れを言うと、村人も涙を流し、袖を絞るほどに泣きながら別 れを告げました。

 私は文書からこの記録の全容を知ると胸が熱くなりました。特に、別れの浜の場面は、映画のクライマックスのシーンのように感動しました。この話を伝えたいという一心で、「韓国船遭難救護の記録」という冊子を2年がかりで平成9年に出版しました。

 それから2年後の平成11年1月、韓国のソウルから1本の電話がかかってきました。

相手は、韓国の全北大学教授の鄭在吉さんからでした。

「私は、日本の友人からいただいたこの本を読んでとても感動しました。このような美しい話が日韓の間にあったということを知りませんでした。私の父は徹底した反日でした。そして、私も学校で反日教育を受けました。戦争の歴史認識は重要です。しかし、憎しみだけでは21世紀は始まりません。私は、このような美しい話を、韓国の教科書に載せて子供達に伝えていくのが夢です。」と熱く語られました。

 

その後、電話と手紙とファックスでやりとりが続き、私たちの夢はどんどんふくれあがりました。

鄭さんは次のような提案をしました。

「1900年1月、あれから、ちょうど百年を迎える2000年1月、先祖たちが別れたその浜で、子孫たちが再会しましょう。別れは再会の約束です。百年前の偶然の出来事が、百年後の再会という必然の運命になり、新しい歴史をつくります。2000年1月を中心に“韓国船遭難救護百周年記念事業”を行いましょう。」と。

 

鄭教授と村の歴史の会のメンバーで実行委員会をつくり、2000年の記念イベントに取り組むことになりました。

 

 1月8日、日韓の参加者がたくさん集い、遭難救護の歴史の現場である泊村で記念式典をい行いました。当時、遭難救護事務所となった寺、海照院を会場にしました。小さな村にとって100年来の大きな出来事でした。「百年目の再会、小さな村の大きな歴史」と題して、鄭在吉教授が講演をしました。

 記念植樹として、韓国の木「ムクゲ」と日本のサクラを植えました。花が咲いたら、この木の下で交流をしましょう。そう約束しました。

 歴史の現場にささやかな記念碑も建立しました。2メートル程の自然石に「海は人をつなぐ 母の如し」と刻みました。

 記念出版として「風の吹いてきた村」という絵本も作成しました。遭難救護のドキュメンタリーを子供達にも分かり易い読み物にしたものです。日本語とハングルで記載し、両国の子供達が肩を並べて読めるようにしました。韓国と日本で配布を開始しました。

 

 あの式典から1年が経過しました。4月には、式典で植樹したサクラの木に3つほど花が咲きました。また、9月には韓国の木「ムクゲ」も花をつけました。

 記念碑を訪ねる人も増えてきて、村の老人会が自主的に掃除をしたりしてくれます。記念碑公園のそばには共同墓地があって、私たちの祖先が眠っています。

 

 21世紀という新しい時代がきました。

 今、伝えないと、もう忘れ去られていくのではないかという話があります。子供の頃に祖父から聞いた韓国船遭難救護の話まさにそのような話だったのだと改めて思います。

 

 村の海岸にはハングル文字でかかれた漂着物が多く流れてきますが、いつか、サッカーボールが流れてきました。そのボールに、「2002年サッカーワールドカップ」と書かれていました。私は、未来が一足さきに海から流れてきたと思いました。

 2002年サッカーのワールドカップ、日韓共同開催、そして、この小さなで始まった民衆同士の小さい交流。ひとつひとつのの蓄積から新しい時代が開けてゆくという予感がしています。

 それにしても人の出会いというのは、ほんとうに不思議でうれしいものです。すべて「ふるさと」という大きなふところの中での出会いです。

 ふるさとの美しい風景の中に子供たちは遊び、祖先の魂も遊ぶのだと私は思います。そして私たちも祖先になりこの美しい風景の中に遊ぶのだと思います。この風景、いつまでも美しくしておきたい、平安にしておきたい、そう願います。

 風景の力が大きいと感じることがあります。ある日、海に太陽の光が射し込めていました。光のカーテンのようでした。その時、沖の方から歌が聞こえてきました。作るというより、海の大いなる風景に出会って自然にできた歌です。

「大いなるいのち おおいなるふるさと」という歌をお時間までお聞きください。

歌「大いなるいのち おおいなるふるさと」

大いなるこの海よ

大いなるこの山よ

大いなるこの土よ

大いなるふるさと

手を合わせ 祈りこめる 今日あるこの歴史

手を合わせ 祈りこめる 今日あるこのいのち

 

大いなるこの河よ

大いなるこの空よ

大いなるこの緑よ

大いなる大地よ

手を合わせ 祈りこめる 今日あるこの歴史

手を合わせ 祈りこめる 今日あるこのいのち

 

 以上で私の話を終わります。今日はどうもありがとうございました。新しい今日の一日がこころ溢れる一日であることをお祈り申し上げます。それではさようなら。

  ※平成13年1月21日(日)AM 6:30 〜放送 FBCラジオ  


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