□■□■ よしなしごと6 (隠岐の旅3…中ノ島) ■□■□
▼△▼△ 菱浦港 △▼△▼
中ノ島へはジェットフォイルで行きました。しかし島前には内航船(フェリーどうぜん、いそかぜ2)が運行しており、これを知っていればもっと別の日程が組めたかも知れません。結果的にはうまくいったので良かったのですが(船賃もひょっとすると安かったかも知れません)。
菱浦が玄関口となっていて、立派なターミナルビルが建っていました。その名も「キンニャモニャセンター」。キンニャモニャというのは隠岐の民謡で、民謡といってもそう古いものではなく、西南の役から戻ってきた菱浦の松太郎爺さんがおもしろおかしく踊ったのが由来と伝えられています。実際の踊りを見ていませんが、しゃもじを持って踊るのがよろしいようです。
観光案内所でガイドマップをもらって出発。ここは、島内の交通事情とか「○○は写真で見るほど△△ではないですよ」とか正直に教えてくれるので、立ち寄ると良いでしょう。
▼△▼△ 隠岐神社 △▼△▼
菱浦を過ぎて中里へ向かいます。この辺りに役場があり、島の中心といった趣です。そして隠岐神社、後鳥羽上皇火葬跡といった主要観光地もあります。非常に立派な神社で、本土の大きな神社と比べても遜色ありません。ただ逆に言えばそれだけのことで、特別な感慨はありません。隠岐といえば流罪の島で、そういったことをきちんと調べていけば、もっと色々な発見があったのかも知れません。
なお、社殿は比較的新しく、ここで火葬された後鳥羽上皇の御霊は明治天皇の思し召しで明治6年に大阪まで御幸還されており、翌年にかつての祠殿は取り壊されています。現在の社殿は昭和14年に再建されたものです。
因みに隠岐に流された後鳥羽上皇は、あとに流された後醍醐天皇と比べると供の数も少なく、寂しいものだったようです。そうはいっても着くなり「我こそは新島守よ」と詠ってしまうのですから大したもので、流罪とはいっても幽閉されている訳ではなかったのでしょう。
そんなことより大きな発見は、この神社の前に舟を繋いだと言われる古木があったこと。明治の頃までは海だったとの案内にびっくりしました。振り返って諏訪湾の方を見るのですが、遠く、また水田も段状になっており、この土地が低いという感じはしません。あとで観光案内所で本当に海だったのか確認したところ「そうですよ」と自信満々にお答えをいただきました。
▼△▼△ 宇受賀命(うつかみこと)神社 △▼△▼
中ノ島の主要幹線というと、菱浦から中里を経て豊田に向かう道だろうと思います。主な観光地も大抵この道沿いにあるのですが、隠岐神社から先が工事中で迂回をしなくてはなりませんでした。なお、この島では工事案内が「△△地係先」ではなく「○○氏住宅先」になっていました。人口3千人足らずの島ですが、お互いの顔をみんな知り合っているようで、好ましくもあり、驚きでもありました。しかし本当にこれで違う集落の人も分かるのでしょうか?
この島の北部の宇受賀命神社にも行きたいと思っていた矢先でしたので、迂回ついでに次の訪問地と定めました。この辺りは台地状の土地で、道が曲がりくねっており、なかなか思いのとおりには道が続きません。ただ知らない道で迷うというのも旅の楽しみの一つではあるわけで、土の襞に自分を刻みつけるような快感があります。
行くと宇受賀の集落より先にぽつんと独り社がありました。付近の農道に止めて参詣をしました。立派な社殿でした。
しかしここで疑問が一つ。どうしてこのお宮さんは海の方を向いていないのかな、ということ。それ以前に、宇受賀の集落がどうしてこんなに海から離れているのか、という点も気になります(浜にも少しはあったと思いますが)。私の先入観では、漁師の集落というのはもっと水辺にあるべきものです。また神社の元々の縁起が何であれ、そこに住む人が漁師であれば海の神としての性格も持ち、海の方を向くものかと思うのですが、集落は陸丘にあり神様もまた陸丘を向いています。この解決として、(1)この集落は昔から漁師が少ない(田畑の実りが豊かであった)、(2)近年になって海が埋め立てられた(以前は海辺の集落でお宮さんも海を向いていた)……といった仮説を勝手に立ててみたのですが、そもそも私の先入観がおかしいとも考えられ、答えは分かりません。なお、先ほどの観光案内所でも聞いてみたのですが、こんな質問を受けたのは初めてといった感じで答えに窮しておられました。
なお、この神社の由緒は古く、また格の高いものであったようです。宇受賀命はこの島土着の神で、随分勢力があったのでしょう。言い伝えでは、宇受賀命が海を隔てた西ノ島のヒナマチヒメ神(比奈麻治比売命神社)に求婚をしたところ、大山(焼火山?)の神様と力比べをして勝った方に従うと言われ、二人で岩の投げ合いをし、宇受賀の神が勝ったとされています。そして宇受賀の神と結ばれたヒナマチヒメ神がお産をしたのがここより東方の明屋海岸で、生まれたナギラヒメ(=柳井姫?)はその近く豊田集落に祀られています。
▼△▼△ 明屋海岸、豊田 △▼△▼
赤い崖が海辺に迫り出している明屋海岸は、中ノ島の見所の一つです。しかし隠岐に来て多く断崖を見慣れてしまっていて、特に心動かされるものはありませんでした。赤いからアキヤなのかなという程度の疑問は沸きましたが、ヒナマチヒメ神の産処が明けたことから明屋になったと伝えられているようです。その産屋である「盥岩」「屏風岩」があるそうなのですが、舟で行かないと見れません。
生まれた子どもが祀られている奈伎良比売神社は豊田集落の一番奥にありました。
▼△▼△ 金光寺山 △▼△▼
金光寺は小野篁が建てた寺です。しかしこの際それはどうでも良く、特筆すべきはその展望でしょう。標高194mと決して高くはないのですが、眺めは最高です。中ノ島に来たならば一度立ち寄るべきです。
中ノ島に渡って一番感じたのは広々としているということ。西ノ島は美田の辺りが少し開けているものの、全体に山が海に迫っていて狭く窮屈な思いをします。中ノ島は特に中里から東にかけてが、平野や台地が広がっており、よく耕され、西ノ島にはない開放感を味わえます。
ではどういう具合に広がっていて、どういう具合に山があるのか、また何処に海があるのか、それらを一望にできます。里の営みと島の緑と海の青がお互いを称えているようで、豊かな景色です。
▼△▼△ 崎 △▼△▼
中ノ島の南の方に崎という集落があります。この島での滞在時間が短かったため、行けるかどうか心配だったのですが、行ってみて正解でした。集落自体はただの鄙びた漁村なのですが、その道中が内海を見下ろすように走っていて、焼火山をまた違った角度から眺めることができます。文覚窟が見えるかと目を凝らしたのですが、これは分かりませんでした。
国引き神話というのをこの旅で初めて知ったのですが、崎(佐伎)はこの神話の里なのだそうです。神話は、出雲の神様が国が狭いことを嘆いて、能登や朝鮮半島、そしてこの崎から土地を引っ張っていったという筋書きです。崎は土地をとられた側で、いわば被害者なのですが、神話の雄大さを記念して公園がありました。
遠く出雲の方を眺めると、雲が綺麗でした。