□■□■ よしなしごと4(隠岐の旅1…島後) ■□■□
▼△▼△ 旅立ち △▼△▼
隠岐に行って来たのは、今年(平成15年)の3月でした。もう1週間遅いと、隠岐随一の名勝「国賀海岸」を海の上から眺める観光船があったのですが、あまりに観光地としての体裁を整えているのでは面白くなく、観光船や観光時期などお構いなしに行って来ました。
ところで、隠岐というのはなかなか口で伝えにくい地名です。「『おき』に行って来た」ではなかなか分かってくれません。「おきのしま」で分かる人もいるのですが、沖の島と間違えてしまいます。「おきのくに」ではいつの時代の人かと疑われてしまいます。少なくとも私は東京に行くのに「武蔵の国に行く」と言ったことはありません。結局「島根県の上の方にある」という枕詞が必要になってしまいます。以上余談でした。
隠岐は大きく分けて「島前(どうぜん)」「島後(どうご)」に分けられます。東側の丸くて大きい方が島後です。島前は3つ(とその周りの諸々)の島から成っていて、「西ノ島(西ノ島町)」「中ノ島(海士町)」「知夫里島(知夫村)」に分かれます。島前は島の形が複雑で、私はゲーム機のコントローラーを想像してしまうのですが、これらは焼火山(西ノ島)とその外輪山なのだそうで、なるほどそれを知るとイメージしやすくなります。今回はそのうちの知夫里島を除く島々を訪ねてきました。
今回は予備知識が殆ど無く、ただ離島に行きたい、行けば何かあるだろうという感じでした。しかしそうは言っても本当に何も無しだと行ってもしょうがないので、神社めぐりを中心にすることにしました。ありがたいことにインターネットを検索すると玄松子さんの玄松子の記憶というホームページに隠岐の式内社めぐりについて書いてあります。式内社というのは延喜式(神名帳)に載せられている神社のことで、早い話が古い神社ということです。つまり遥か昔からそこに人の営みがあったということで、色々と想像を掻き立てられます。
▼△▼△ 島後まで △▼△▼
松江からバスに乗って七類へ向かいます。道中、屋根瓦が赤いのが目に付きました。
七類の港からフェリーに乗って、最初に向かうのは島後です。下調べの時点で、近くに境港という大きな街があるのだから船便もそこからが便利なのだろうと当たりをつけたのですが、多く七類から出ているようでした。境港は鳥取県だから島根県としての港が欲しいとのことで、フェリーが発着できるように開発したと聞きました。したがって七類は町と呼ぶには小さいのですが、岬に囲まれた入江は、フェリーの大きさにあっているのかは知りませんが、港としては良いところなのだと思います。
ちょうど隠岐高校が甲子園出場を決めており、島に着くと、島じゅうがその喜びを分かち合っているのがわかりました。
▼△▼△ 玉若酢命(たまわかすのみこと)神社、水若酢(みずわかす)神社 △▼△▼
神社として大きいのは恐らく玉若酢命神社と水若酢神社ではないかと思います。祀られているのはそれぞれ玉若酢命と水若酢命で、記紀には記述が無く、隠岐開拓の祖神だと言われています。「わかす」ってどういう意味かなぁ、兄弟の神様かなぁなどと考えていたのですが結局今も分かりません。どちらも隠岐造と呼ばれる建築様式で荘厳な社殿を構えておられました。が、私は建築のことは良く分かりません。建築を言うなら、隠岐にはわりと小さな神社にまで門(?)があって、左右きちんと武家(公家?)の人形が内側を向いて座っておられるのに感心しました。また、玉若酢命神社の前には宮司の億岐家があり、宝物殿には有名な駅鈴があるようでしたが、これも見てきませんでした。
神社はどちらも老木に囲まれてはいるのですが、拓けた土地にあり、明るい感じがしました。拓けた土地とは言っても、海縁ではなく平野部の奥まったところにあり、古代の生活というのはこういうところにあったのかと思いを馳せることができます。ここより下だと低潤な湿地帯で住んだり耕したりしづらかったのかもしれません(勝手な推測ですが)。
そういえば、玉若酢命神社に参ったときに裏山(古墳)に登ったのですが、そのとき断続的にボーボーという不思議な音がしました。どこかの小屋の扉が風で開閉しているか或いは大きな蛙かとも思ったのですが分からず、すわ隠岐の神様か!などと考えてしまいました。結局何だったのでしょう?
▼△▼△ 壇鏡の滝 △▼△▼
ここにも神社があります。神鏡があったとか、小野篁が滝に打たれたとか由緒は色々あるようですが、恐らく昔の人はこの滝を見て素直に感じ入り、崇めるようになったのだと思います。したがってこの滝そのものがご神体だと思われます。
随分山奥へと入らなければならないのですが、一見の価値はあります。雄滝と雌滝があり最初に目に入るのは雌滝です。こちらも綺麗なのですが、特筆すべきはその次に現れる雄滝です。再建中の社殿脇を抜けると、滝の裏側に入り込むことができます。
なお、順序が逆になりましたが、鳥居の前に二本の杉の大木が立っています。これには面白い逸話が残されています。昔どこかの工事で材木が必要になり、当社にも拠出命令が出されたのですが、よそのために大事な神木を切る必要はないと考えた当社は、鳥居を少し内に建て直したのです。これで巨杉は境内の外となり、拠出しなくて済んだとのことです。詳細は忘れましたので、些か間違いがあるかも知れませんが、非常に印象に残っています。
▼△▼△ 久見と黒曜石 △▼△▼
伊勢命神社という神社があります。正しくは久見(五箇村)という集落にあるのですが、私は旅行地図にのっている伊後集落(西郷町)の伊後神社に違いないと決めつけ、ここを訪れました。行ったり来たり迷いながら行った先は本当に鎮守の神様といった趣で、これはこれで良かったのですが、どうやら観光客が来るようなところではないようで、付近の方に訝(いぶか)しく思われたかも知れません。
後から行けば良かったと思ったのは、久見集落が黒曜石の原産地だったからです。黒曜石とはガラス質の火成岩で、叩くと貝殻状に割れ鋭い刃ができます。このため打製石器として重宝されてきた石です。伊勢命神社は黒曜石の神様かとも思いましたが、そうではないようで、渡来人或いは海部の民の祖神のようですが、歴史の一頁を見忘れた気がしてちょっと悔やまれます。
▼△▼△ 中村 △▼△▼
西郷町の行政区域というのは、足し算をしてできたようないびつな形をしているのですが、その北側の首邑は中村という集落だと思われます。伊後の方から国道を通ってくるとこの辺りで拓けてきて広々とした開放的な気分になります。だから何だと言われると特に物珍しい観光地があるわけでもなく返答に窮するのですが、下校中の小学生を追い抜いたときの日差しが心地よく、村はずれのお宮さんで休んでいると遠くで人の声がして喧噪の巷から半歩抜け出したような気持ちがしました。
▼△▼△ 白島海岸・浄土ヶ浦 △▼△▼
「島前の国賀、島後の白島」と言われているらしく、水面に散りばめられた岩礁やそれを覆う緑の、起伏に富んだ美しい海岸線です。以上。……って白島海岸には行きませんでした。いや、行ったかな……?印象に残ってないので多分行っていないのでしょう。
浄土ヶ浦には行きました。駐車場から打ち捨てられたような管理所とおぼしき建物の横を過ぎると、限られた視界の中に岩と海と松の対照が飛び込んできます。下に降りる遊歩道もあるのですが、一番最初に見える広がりのない世界の方が、浄土を垣間みた気がして好きです。
▼△▼△ 西郷 △▼△▼
島後のみならず隠岐で一番大きな町が西郷です。島後の円弧の東南に二俣の亀裂が入っていますが、その俣の部分にあります。これほど絶妙に湾曲していればさぞや凪いで便利だろうと思いましたが、正しくその通りで、かつては北前船の風待ち港ともなっていたようです。因みに西郷があれば東郷もあるわけで北の方の入り江の奥まったところがそうです(行政区域上は西郷町です)。
八尾川河口に拓けたこの町で一夜宿を借りたのですが、町を歩いた印象では飲食店が多いようでした。飲食店の数で町の大きさが決まるわけではないのですが、人口1万8千(島後)の背後人口しか抱えない割には随分華やかに見えました。司馬遼太郎が「街道をゆく」の壱岐・対馬の道の稿で、対馬は貧しいのに厳原(対馬随一の町)には7,80軒もバーがあるという壱岐の女中さんの悪口を披露し、その基底にある農村文化と漁村文化の違いを書いていましたが、隠岐もまた同じ漁労社会なのかとこれを思い出しながら夜の帳を眺めていました。もっとも今は漁労社会とか何とかではなく、島内あちこちで槌音を響かせていた土建工事の方々が多く利用しているのかも知れません。
▼△▼△ 国府尾(こうのお)城・国府尾神社 △▼△▼
西郷港から玉若酢命神社へと向かうと、ちょうど町(市街地)が果てた辺りの道沿いに背後に山を控えさせた大きな鳥居が目に付きます。この山は城山と言って、中世の隠岐氏が居城としていたようです。尤もそれ以前からお宮さんあるいはお城として機能していたようで、やはり国府の一部としての機能があったのかも知れません。因みに、国府の所在地は玉若酢命神社前の台地、西郷町下西字甲野原に推定されているようで、ちょうどこの山の西麓にあたります。
鳥居をくぐって山頂まではちょっとしたハイキングです。結構鬱蒼としているうえに、沿道に小さな石像が並べられ、厳粛な気分にもなります。石像は大正何年と書いてあったかと思うのですが、仏像にしてはあまり見慣れない形のものもあります。
山頂は開けているのですが見晴らしは良くありません。社殿はそう古くなくいかにも普通で、ある意味拍子抜けなのですが、私としては社殿の奥にあった一角が気になりました。樹木の中のちょっと平らになったところに石の祠(?)が数個立てられているのですが、中身は入っていません。祠も並べられているとも言えるし、無造作にうち捨てられているとも見えます。これはいったい何なのでしょう?
帰り道、西郷湾を見下ろすと海の青に陸の緑が映えて綺麗でした。
なお、今になって調べると、私の行ったのが城山の山頂だったのかどうか怪しいものです。国土地理院の地図によれば明らかに山頂とは異なる場所に神社の記号が置いてあります。また「日本歴史地名大系第33巻 島根県の地名(平凡社)」でも、山頂部分の主郭には佐々木氏の祖霊社を祀ってあり、国府尾八幡宮が祀られている郭はまた別としています。