エコプランふくい

第1回粗朶沈床セミナー

「川との付き合いを伝統工法から考える」 2005年11月20日

大熊 孝 新潟大学工学部教授

 

T.はじめに

今日は粗朶工法というものを考えていくというセミナーですけれど、福井高専の学生さんたちを始めたくさんの方においでいただきありがとうございます。また、今日は新潟から「北陸粗朶業振興組合」の中川武夫さんがおいでになっておられますが、技術的なことは中川さんが詳しいので中川さんに聞いていただけたらと思います。実は私は新潟で「NPO法人新潟水辺の会」というのをやっているのですが、そこで中川さんとお酒を飲んだり山に登ったりしており、時々講演先でも一緒になったりしております。

 学生さんは「粗朶」という言葉を今まで聞いたこともないかも知れませんが、江戸時代からある言葉です。粗朶の工法というのは江戸時代からあるのですが、簡単に分かりやすくいえば、木の枝を組んで川の中に沈めるのです。この工法を大がかりに組むようになったのは明治以降です。日本は近代化するために明治の初めに外国からたくさん外国人技師を雇いました。川に関してはオランダからたくさんの人を呼びました。そのオランダの人が伝えたのが「粗朶沈床」と言われている工法です。

例えば、資料4ページにあるように離岸堤の下に粗朶沈床が入っています。粗朶沈床がなかった場合、上のテトラポットなどはどんどん沈んでしまうのです。波が行ったり来たりしている間に砂が動きます、それで上の重たいのがどんどん沈んでいって、次から次にテトラポットを足してもどんどん沈んでいくのですが、ここに粗朶沈床を入れておくと、沈まないということなのです。

これがオランダの干拓大堤防の下にも入っています。福井の皆さんがよく知っているのでは、三国の突堤、ここの下に粗朶沈床が入っているのです。これを作った人、設計した人がエッセルという人で、あるいは“エッシャー”とも言うのですが、実際に施工したのがデ・レイケという人です。この二人ともオランダから明治の初めにやって来てデ・レイケなどは36年間も日本にいて指導してくれた人なのですが、その人たちがこの三国の突堤を作りました。これは今重要文化財になっています。土木構造物で重要文化財というのはまだあまりたくさんはないのです。全国で50ぐらいですが、そのうちのひとつがこの福井県の三国にあるというのはぜひ覚えておいて、見に行って下さい。

120130年も前に入れた粗朶沈床が腐らないのです。普通は木などというのはすぐに腐ってしまうと思われるかもしれませんが、水の中にあると腐らないのです。ですから縄文時代の木材が出てきたりしますね。

 

(図1)伝統的技術の良さ・近代技術の問題点

 

特に最近新潟では加治川の近くの青田遺跡というところで、湿地性縄文遺跡というものが出たのです。細かい枝で編んだ壁が出てきて、縄文時代にどんな建物を造っていたかというのがよく分かるようになっているのですが、100年ぐらい前でしたら何ともなくて、そのまま存在しているということで、木材だと思ってばかにはできません。鉄筋コンクリートの方がもっと弱いのです。今の建物ですと、30年〜40年で造り替えて、この講演場所の建物もそんなに長く保つでしょうか。省エネできちんと作ってるので保つかも知れませんが、福井高専の校舎もそう長く保つものではありません。いつ耐久年数が切れて造り直すのか考えてみて下さい。そういうものから比べて、木材は空中にあれば法隆寺のように千年経っても使えるわけです。粗朶沈床でも水の中にあったら100年やそこらは何ともないのです。ですから木材だからといってバカにしないほうがいいということです。

ついでですが、今、中川さんはラオスまでこの粗朶沈床を輸出しているのです。粗朶工法というのは日本全国でやっていた工法ですが、コンクリートが安く手に入るようになって、特に第二次世界大戦後コンクリートが自由に使えるようになってきて、だんだん粗朶沈床というものが使われなくなったのですが、新潟だけはこの「北陸粗朶業振興組合」と「新潟県粗朶業協同組合」という2つの粗朶組合というのがあって、この2つが競うようにしてずっと粗朶工法を伝えてきて、今ラオスまで輸出しているのですが、日本国内、九州、山形とか、宮城とか、岐阜とか、茨城の霞ヶ浦でも使われています。

粗朶工法の重要なことは、川だけでなく山の維持管理にも役立っていることです。そこがミソなのです。山をきちんと維持管理していくことと川の問題とがうまく絡み合っている。

もっと大事なことは粗朶というのは空間がたくさんあるのです。穴がボコボコ空いていて、川の中に入れておくとそこに魚が卵を産んだり、そこで稚魚が孵って育つ。ですから粗朶沈床が入っているところで釣りをすれば絶対に釣れる。そういうことで、生物にも優しいということで、今見直されてきたということです。

粗朶の話は私がするよりも中川さんがした方がいいのですが、私は今日、伝統的な工法がどうあるべきかということを、木はバカにしてはいけないということも含めて、全体的にちょっとお話ししようと思います。

U.土木技術の三段階T(技術の展開過程における分類)

私が土木技術をどう考えているか、2種類3段階に分けているのですが、まずそれをちょっとお話させていただきます。「土木技術の三段階」T(技術の展開過程における分類)とありますが、技術が適用されて実際に使われていく時に、@思想的段階、A普遍的認識の段階とB手段的段階の3つに分類して考えると、今どこが足りないのかということがよく分かるという話です。

 

(図2)土木技術の三段階T

 

武田信玄が釜無川の治水をやったということで有名な話があるのですが、もともと御勅使川というのが流れていました。それが釜無川の堤防に直角にぶつかって、しょつちゅう破堤するのです。ここに釜無川の扇状地があって、武田信玄にとっては重要な農業生産地で、自分の国を豊かにしたいのですが、この御勅使川がぶつかりしょっちゅう破堤していて、それで被害が出た。彼は何を考えたかというと、この御勅使川を2川に分けて、一方を高岩という岩にぶっつけて、それで反転してきたところを元々あった川にぶつけて、水と水をぶつけてエネルギーを殺すというとをやったのです。

川を分けるというのは非常に難しいのです。将棋頭というものを置いて、川を分けたのです。分けて、高岩の上に住んでいた人たちを下に下ろして、ここに神社を造った。このへんに農家の人たちを住まわせて、この神社のお参りをさせたり、御神輿を担ぐ時には、この堤防の上で御神輿を担がせて、堤防を踏み固めさせるということをやるのです。

 

(写真1)甲府・釜無川 信玄堤の聖牛(大熊撮影)

 

この写真は信玄がつくったといわれる「聖牛」というもので、水を堤防に直接ぶつからないようにするというものなのです。こんな簡単なもので大丈夫なのかということですが、大体、流速が毎秒2mを超えると、堤防表面の土が削れていきます。ですからこの中を通ることによって大体流速が2〜3割落ちます。ですから、2m/sぐらいあったところを少し落としてやるだけでここの洗掘がなくなるのです。あと聖牛を組んだところに流速が落ちて土砂で埋めていってくれるということです。こういう将棋頭とか聖牛とか、高岩の上に住んでいた人を下に下ろして、その人たちの税金を免除して堤防を管理させたり、神社を管理させたりするというのは、まさに手段的なところになるのかなと思います。

それから普遍的というのは、高岩にぶつかった洪水が跳ね返って、御勅使川のもう一派の出口にちょうどぶつかると、どうして信玄は見つけたのかということです。多分おそらく、州の付き方などから考えたのではないかと思います。これを決めるのは難しいと思います。州の付き方などを見てその水の流れ、普遍的な科学的な認識とができたからこそ、こういう手法を考えたのだと思います。

元々この全体に見て、こういうふうにしたらいいねというのは、なかなか簡単に発想としては出てこない。そこがまさに発想の思想的段階、あるいはアイデアの段階です。ですからこの3つがうまく組み合わされないと、技術というのはきちんと展開していかない。正直いってこの水を分けるという技術はたいへん難しいのです。これが多分1550年代頃にやられたのでしょうけれど、最終的にやはりきちんと分けきれなくなって、明治になって1川にしてしまいます。今は高岩にぶつかる方の川しか残っていません。それでも武田信玄が造って、300年とか400年間はこういうものが機能していたということであれば、それはすごいことです。

やはり川を分離するというのはなかなか難しい技術なのです。今はどうしているかというと、必ず川を分けるところには「堰」と「水門」があります。水門と堰の違い、構造的にはほとんど同じです。ただ水門というのは普段は解放していることが多いけれど、洪水時にはゲートを閉めて堤防の代わりとなり得るというものです。堰の方は、普段は流水を堰分けているが洪水時には、ゲートを開けるなどして、洪水をできるだけスムーズに流下させるものです。これが堰と水門の違いです。ですから分派させる時には二つの構造物がないとうまく分派できません。

 

(写真2)中ノ口水門と蒲原大堰 (国土交通省提供)

(写真3)信濃川水門      (大熊撮影)

 

新潟の事例ですが、実はこの信濃川水門の下流に粗朶沈床が三段ぐらい全面に入っています。それはここの水門を造った時に、少し川幅を狭めてしまったので、流速が速くなって川底が掘れてしまうようになった。それで、この下に全面的に粗朶沈床を敷き並べてあります。それで河床低下が止まっているということで、こういうところにも粗朶沈床が使われているということです。

これはこんな雲とカモメの絵があるのですが、こういう芸術的なセンスのない絵は描くなという意味でここに置いてあるのです。こんなのをマネしてはだめですよ。土木屋はやはり芸術的センスがあるのだということを見せてほしいと思います。

ともかく川を分派するのは大変難しい技術です。現在は分派するところに必ず構造物を造って、コントロールするということが行われていて、それは絶対に江戸時代はできなかったことです。それが将棋頭というもので何とかやっていたのだけど、やはり何百年という歴史の中では将棋頭だけでは分派しきれなくなって、明治になって一方だけの川にしたということです。

V.土木技術の三段階U(技術の担い手による分類)

もうひとつの土木技術の三段階U(技術の担い手による分類)ですが、誰がその技術を担っていくかという分類で、@私的段階、A共同体的段階、B公共的段階という3つがあります。大・中・小技術というと分かりやすいので、そういう言い方もしています。私的段階というのは、例えば水害対策で考えれば、床上浸水に遭うと大変で、床下浸水なら大したことはないので、自分の家を高くして水害に遭わないようにしようということです。

 

(図3)土木技術の三段階U

 

共同体的段階は堤防を守ろうということで水防活動をやったり、あるいは水害防備林というものを維持管理したり、そういう共同体で維持していこうという段階です。

それから大技術というのは行政側が膨大な何千億円というお金を使って堤防を造ったりダムを造ったりする。この3つに分けて、この3つがうまく絡み合うと大変良い水害対策ができるのですが、江戸時代だとこの大技術の手段的段階がなかったからうまくいかなかった。小・中技術に頼っていたのです。

明治になってから手段的段階の技術がどんどん良いのが入ってきて、小技術などはやっていられないというので、大技術だけに頼ってしまって、今はすっかりそちらに頼って、他を忘れているのです。そして、しょっちゅう水害に遭うという構造に今なってきている。

これは土木技術だけではなくて、教育もそうです。家庭教育、地域教育、学校教育とあるのですが、結局学校教育ばかりに頼っているというのが現状ではないかと思います。

こういう3つに分けて考えるといろいろなことが考えやすくなるということで、こういう分類は大事かなと考えます。

伝統的な技術というのは大変良いところがあると思います。地域固有の自然素材を使って人との関わりが深い技術です。それは適正規模でもあるということです。個性的、時間の蓄積がある。時間の蓄積があるというのは、そこに人が関わって、それによって、エッセルが三国の堤防を造ったとか、いろいろな物語ができてくるのです。物語というのは歴史です。歴史があると人間というのはそこの土地に愛着を持ったり生き甲斐を感じたり、いろいろなことをするわけで、そういうことがすごく大事なのです。それを時間の蓄積ということで表現をしています。まさに、人間的なところがある。

土、石、木材は単体として強度が高く、腐りにくい、石は千年経っても風化しません。土は風化したものですから一万年経っても土は土です。そういう意味ではすごく優れた材料です。

それに対して近代技術の問題は何なのかということですが、巨大化して、素人が関われない、それから素材が人工化して専門化し、素人が関われない。専門化して画一的になって、大規模になり過ぎて自然を壊すということです。中でも一番問題なのは、素人が関われなくなってきていることです。そこに物語が作られない。一方的に行政的に、ダムならダム、あるいは橋ができてしまって、関わりがないので与えられたものになってしまう。それで時間蓄積のない非人間的空間というものになってしまいます。

鉄とかコンクリートは永久的に使えるものと思っていたら大間違いです。今、大正から昭和の初めに造った構造物はほとんど造り替えなければならない時代になってきました。今どんどん造り替えていますけれど、高度経済成長時代に造ったものはあと3040年もしたら全部造り直さなければなりません。その時は大変です。学生たちが成長して一番働き盛りの時は、回りの構造物がどんどん老朽化して、それのメンテナンスに追われているかも知れません。今は造れるだけつくってしまって、これからお金がない中で、正直大変だと思います。

W.伝統的工法の特徴

今日は伝統的治水技術の主に手段的段階のところをお話ししていこうと思います。素材は土、石とか木材、粗朶、樹木で、人間が何十万年も慣れ親しんできた素材なのです。鉄やガラスとかコンクリートはせいぜい100年ちょっとなのです。鉄は刃物としては古いのですが、構造物としては世界的には200年ぐらいになるかも知れないけれど、やはりあまり慣れ親しんでいない。他の自然素材と言われるものは、我々はもう何十万年も慣れ親しんでいるから親しみを覚えるのです。そこが非常に重要なところだと思います。

方法として「石積み」とか、「水制」、「粗朶工法」、「水家」、「堤防」、「水害防備林」、「水防」、「堰」というようなところでざっとその伝統的工法の特徴を見て行きたいと思います。

 

(図4)伝統的治水技術・手段的段階

 

1.石積み

まず、この川原の石の写真でどちらが上流でしょう。右が上流です。石を見ると、何とな重なった感じになっています。洪水が石を運んできて、徐々に流量が減ってきて、もうこれ以上石を流せないと、そこに落として行くわけです。ですからこのように比較的揃った石の配列になるのです。

(1)筑後川の山田堰

この写真は九州の筑後川の山田堰というのですが、1600年の中ごろに造られた堰で、石の自然な配列を真似てつくられています。これがずっと伝わってきていたのですが、10年ぐらい前に、この間に全部コンクリートを流し込んで練り石で固めてしまったのです。残念だと思いました。昔のこういう石の配列の仕方を工夫して、何百年間も保ってきたものは大事にしていけばいいと思うのです。これも十分重要文化財になり得るのですが、コンクリートを流してしまったら重要文化財にはなりません。

 

(写真4)川原の石の並び方・筑後川山田堰(大熊撮影)

 

(2)穴太積み(あのうづみ)

日本の国は木の文化であって、石の文化はないと思っているかも知れませんが、そんなことはありません。日本人は大変石積みがうまいのです。この棚田の写真は長野県の飯山というところですが、田んぼのところはみんな石垣が組まれています。これは誰がしたかというとみんな農家の人たちがみんなやったのです。何代も掛けてやってきたと思うのですが、石積みに関しては日本人の誰もができた技術だったのです。木の文化だけでなく石の文化も十分に持っていたのです。段々畑から棚田とか、その中でも非常に優れたのが、「穴太積み(あのうづみ)」というのです。穴太というのは琵琶湖のそばの大津に坂本という地名があります。比叡山から琵琶湖の方に下りてきた所です。坂本の日吉神社には石橋の重要文化財がたくさんあります。その坂本に穴太衆というのがいたのです。織田信長が安土城を造る時に、穴太衆に石垣を積ませたわけです。その石積みの最高の技術を持っているのが穴太衆ということなのです。

 

(写真5)穴太積みの典型(大熊撮影)

 

穴太積みの一番の大きな特徴は大小の自然石をどんなものでもうまく組み合わせてしまう。もう亡くなられましたが、穴太衆十三代目が粟田万喜三さんという方でした。この人が積んでいるところを横で見ていたのですが、自然石をポンポンと指図してそれを組むのですが、上がピタッと一直線にまっすぐ並ぶのです、これは凄いと思いました。いろいろな大きさ石が入っていると、何が違うかということです。会場へ来る時に、福井のお城を見てきましたが、あれは比較的みんな石が揃っています。石が揃っているのと揃っていないのと何が違うか、地震がきた時に同じ石ばかりだと固有振動が一致して共振すると壊れてしまいます。福井地震の時にこのお城の石垣は壊れましたね。いろいろな石が入っていると固有振動がばらばらなので共振しにくいのです。つまり、穴太積みは地震にも強いということです。

(3)練り石積み

練り石積みが全部悪いということでではありません。練り石積みでも勾配が急だと自然に優しくない感じなのですが、少し緩い斜面に砂や土が溜まるのです。それでここに植物が生え、それなりに生物が棲んでくれるということで、練り石積みの場合でも堤防に少し勾配をゆるくして、それでずいぶん違います。洪水の時はこれが剥がされるかも知れないけれど、剥がされてもいいのです。又いずれ、草が生えてくれます。2割勾配だとなかなか難しいのですが、それよりちょっと緩くしてやると土が付くので、練り石積みも決して悪いものではないと考えています。

 

(写真6)練り石積み護岸(大熊撮影)

2.水制

(1)聖牛

 

 (写真7)甲府・釜無川信玄堤の聖牛(大熊撮影)

 

「水制」にもいろいろな形があります。武田信玄が考案したというのが「聖牛」です。こうした三角錐の形のものはいろんな大きいものもあるのですが、それぞれ土地でいろいろな呼び方があるのです。ですから武田信玄だけが考えたものではないと思います。千曲川では「越中三叉」とか、「鳥足」とも呼ばれています。この写真の聖牛はうまく機能して、流速が落ちたから埋もれているわけです。埋もれているというとは良いことなのです。川の上流に向けて三角の面が向かうようにしてあります。堤防沿いに聖牛を一列にならべたものがあり、この配置が良いかどうかですが、これは多分だめです。というのは水が聖牛の列と堤防の間にある空間を走ってしまい、堤防に負担をかけます。

要するにどういうふうに水制を入れていくのかというところがポイントなのです。ですから、ただ置けばいいというものではないと思います。次の水制は近代的なものになって、常願寺川では「シリンダー水制」とか、ピストルの形に似ているから「ピストル水制」と呼ばれています。こんなもので堤防に洪水が当たらないように川の中の方に跳ね返してやるというような構造物です。これは前後に土が付いてきて成功しているということなのです。それで機能を果たしているということです。次の写真は前後まだ土がついていないということです。時間が経てばこの前後に土が付いて、堤防を守ってくれるということになるわけです。

 

(写真8)黒部川のピストル水制(大熊撮影)

 

水制というのは非常に難しいのです。どういう長さで、どういう間隔で入れたらいいのか、これはずっと川を見ていないと場所によって違うのです。ですから川の技術者として4〜5年では分からないのです。やはり何十年と、できれば洪水のたびに見て、「ああこれはちょっとまずかったね」ということで直していったりして、適正にやるには10年、20年掛かる技術で、どんどん廃れていったのですが、今もう一度こういうものを復活していこうというところが出てきています。

(2)菊池川の水制

これが九州の菊池川でやられたもので、背の高い水制が所々ありますけれど、これは清正が造ったといわれている水制です。低く出ているのが平成に入れられた水制です。水制技術がないと、結局堤防を守るために全部護岸してしまうわけです。そうするとコンクリートの壁がばっとできてしまう。それだと景観的・生態学的におもしろくないわけです。ですから、こういう水制で水を跳ね返してやって、堤防を守るということで、水制を使っているわけです。

 

(写真9)菊地川の水制・清正水制(写真右手)と平成の水制(写真中央部)(大熊撮影)

 

これはどういうふうにしてやったかというと、坂田光一さんという方です。彼が責任者になってどういうふうな間隔で、どういうふうに水制を入れたら良いのかというので、たった30万円で車庫の中に小さな模型を作って、これでこの配列と配置の方法を決めています。模型を作っていろいろ状況を見て、それで実物に応用していくわけですが、模型は例えば川を1/00にしたら幾何学的には1/00にできるのですが、重力は変えられない。水を流す時に水の比重も変えられない。ですから模型と言っても変えられるのは幾何学的縮尺だけで、変えられないものはいっぱいあるわけです。その時にどうするのか、というと、それを科学的にきちんと模型と実物と1対1に対応させるための法則が相似則という法則なのです。これは水理学で習うと思います。

 

(写真10)菊地川水制の模型(大熊撮影)

 

大学出だと相似則のことばかり考えて、こんな模型でやって本当の実物がうまく表現できるかと考えてしまい、相似則が合わないからやめた、といってこんなことはやらないのです。ただ、坂田さんは、相似則として何を合わせれば模型と実物を一致させられるのかということを考えて、この一番水が流れているところを流身と言うのですが、流身を合わせればいいというとで、航空写真から見て一番洪水が流れている流身線が合うようにしたのです。模型の四方にジャッキを入れ、そのジャッキを上げ下げして、ちょうど航空写真で撮った流身と、模型の流身と合うようにして、それでこの水制の配置と長さの位置を決めたのです。それでこれを造った。できたのが平成11年でしたが、その後ずっとうまく機能しているのです。

水制を入れるというのは大変難しい技術ですが、うまく模型を使って状況を判断して、それで造るということも可能なのです。写真の水制は1基5千万円ぐらいしていたのですが、8基入っていて、これで4億円使っています。べったり護岸されるよりはずっとこれの方が良いのです。

(3)ケレップ水制

ケレップ水制というものもあります。これは粗朶を使って蛇篭を使っています。このケレップ水制もオランダ人が明治の初めに伝えてくれたものです。これが造られて100年以上経ったものがいまだに残っています。

ケレップというのは水を跳ねるという意味です。クリッペンというのが跳ねるという意味でそのクリッペンからケレップという言葉が出てきています。人の名前ではありません。

(4)杭出し水制

今までの聖牛だとか、ピストル水制とか見てきましたが、それらは石がごろごろしていて杭が打てないところなのです。杭が打てるところであれば、「杭出し水制」というのが使われています。この写真はコンクリートの杭ですが、こういう杭を伸ばして堤防への激突を防ぐというものです。

3.蛇篭

竹の篭で編んだ中に石を入れているものを「蛇篭」と言っていたのですが、これも江戸時代からあります。写真のようにこんなに大きいと、江戸時代ではとても担げませんでした。その場所に置いて、石を入れていくというのであればこういう作り方でできますが、移動させるとなったら大きいものでは無理です。写真は阿賀野川にあったのですが、直径が1mぐらいで、長さが20mぐらいあって、重たくて江戸時代では無理です。今はどうしているかというと、これはクレーンに積んで持っていきます。

これも空隙がたくさんあって、魚が卵を産んだり、稚魚がいたりするのですが、我々は今クレーンというすごいハイテクを持っています。自然素材というローテクとハイテクの施工機械をうまく組み合わせて行ったら新しい技術がどんどん作られていくということだろうと思います。

4.沈床

(1)木工沈床

木で組んで中に石を入れているものが「木工沈床」です。橋脚の回りがどんどん掘れていくのをこれで防ごうというものです。あまり掘れてしまうと橋脚が倒れてしまうといけないということです。去年の水害の時に足羽川上流では橋脚が大分倒れました。鉄筋も入っていなかったりして、あれは戦時中の工事ですが完全な手抜き工事だったのかなと思ったりもします。

(2)粗朶沈床

 

 (写真11)粗朶沈床(大熊撮影)

 

「粗朶沈床」です。粗朶をもう一度復習しますと、広葉樹であれば大体何でも良いということです。今まではあまり杉などは使っていません。カツラでもマンサクでも何でもいいということです。屈とう性がある、しなやかである、例えば流水が当たって掘れたとします。掘れてもすぐにしなやかだから掘れたところにくっついて行ってくれる。それ以上洗掘が拡大しない、これがコンクリート盤だったら掘れていくと下がどんどん掘られていつかバキッと折れてしまう。折れてしまうと今度は逆に悪さをしてしまうということがある。河床を固めるには粗朶沈床というのが役立ちます。しかも、空隙が多く生物に優しい。森林の維持管理にも役立つということでこの粗朶沈床が最近見直されてきた。

例えば、この写真は新潟の市内にある万代橋という有名な橋です。この橋は昨年重要文化財になりました。新潟のど真ん中で、信濃川ではやはり河床を固めるには粗朶沈床を使っているわけです。しかし、このような大きなものは江戸時代や明治の初めには造れなかったと思います。今は陸上で組んで川の中にクレーンで持って行ってクレーンで石を入れていきます。中川さんに言わせると伝統的工法ではないと言うのです。まさに近代的なハイテクを使って大規模にやっている新しい技術だと言ってもいい。ただ、素材として古くからある伝統的な自然素材を使っているというだけです。ですからこれを本当に伝統的工法か、とよく言われているけれど、21世紀型の新しい技術だという言い方をしても良いかも知れません。ローテクとハイテクをうまく組み合わせるということはなかなか良いことです。

5.水屋

個人的段階で自分の家を救おうという、床の高い「水屋」の写真です。これは濃尾平野の水屋です。木曽川と長良川の間でしたか。次の写真は去年水害のあった新潟県の五十嵐川の堤防沿いのビルと旧家です。このビルは、大手メーカーの工場で、一階はほぼ水に浸かってしまいました。その脇にあった旧は盛土で高くなっており水害に遭わなかった。去年五十嵐川で水害に遭ったところをずっと調査してみると、明治末までに造られていた家はみんなに高床にしていて、床上浸水になっていないのです。しかし、新興住宅街がみんな水没した。この工場も何十億円という被害を出してしまった。この工場を建てる時に、近くにこういう高床の家があるのだから、この高さを参考にして土台を高く造っておいたら被害に遭わずに済みました。その土地が、氾濫が起こった時に、どんなふうな被害を受けるのかということを知っていて対応したらずいぶん違っただろうと思います。

 

(写真12)水屋(寺村淳撮影)

 

次の写真は私が定年後に通うための「大熊河川研究室」と、「NPO新潟水辺の会」の事務局を入れているために造った建物です。高床にしました。1.48mだと税金が掛からないということでぎりぎりの高さにしました。この下は倉庫代わりに使っていますが、なぜこんなことをしたかというと、高床にするとどれぐらいのお金が掛かるのかと思って造りましたら、約2%高くなりました、材木代だけですね。ですからやろうと思えばできないことはない。自分の家が氾濫の可能性があるのであれば、孫やひ孫が100年間に1回か2回氾濫があるかもしれない、ならばこういう対応をしておくのもいいかも知れません。

 

(写真13)高床式大熊研究室(大熊撮影)

 

6.堤防

(1)船形屋敷

高床だけでは守れないという場合、石垣を築きます。流速の速い扇状地のところでは、家の回りを囲うのです。水が来た時に高床にしてあっても扇状地だと流速が速くて家が流されたりすることがあります。扇状地であれば、石ころが回りにゴロゴロあるわけですから、田んぼや畑を作るために石をどかさなければならないのですが、そのどかした石を家の回りに持ってきて、上流に氾濫があった時に、水を分けて、自分の家が被害に遭わないようにする。こういうものを「船形屋敷」というのです。

 

(図5)堤防船形屋敷(寺村淳作成)

 

(2)囲堤・輪中堤

それがだんだん大きくなったものが囲堤とか、「輪中堤」という集落を囲うようになってきます。

まず上流側から来る激しい流れだけを防ぐ。下流から来るものはゆっくり氾濫してくるから被害は大したことはないのです。だんだんと下流側も塞いだ方が良い。下流も塞ぐと「囲堤」とか、「輪中堤」というものになるのです。

(3)雁行堤・雁堤(かりがねてい)

「雁行堤」というのもあります。農業用水を取水しています。農業用水に沿って洪水が溢れてくるのです。ですからそれを防がなければいけないということで、2段、3段と防いでいます。堤防の下に石で農業用水だけ取れるような形にしたのですが、こういうのがだんだんと発達して徐々につながっていくのです。つながっているけれど、空いている。「鈎堤」とかいろいろなものができています。

(4)霞堤・不連続堤

「霞堤」というのはもう少し発達したもので、不連続の堤防で重なっているところがたくさんあるわけです。なぜ重なっているかというと、前面の堤防が壊れても次の堤防で防いですぐに氾濫した水を川に戻してやる。霞堤の一番大きな目的はこういう氾濫還元が主体です。「不連続堤」というのはなぜ不連続なのかということに注意してほしいのですが、霞堤という言葉は江戸時代にはありませんでした。明治になって霞堤という言葉を作りました。不連続なものを全部霞堤と言ってしまったのです。扇状地の急流河川にある不連続堤と緩流河川の不連続堤がごっちゃになってみんな霞堤と言われています。洪水調節機能があるとかないとかいろいろなことを言われているのですが、混乱があります。

扇状地の霞堤というのは急流の勾配のきつい所で逆流したって逆流に限度があるから洪水調節効果がないのです。豊川(愛知県)とか雲出川(三重県)とか、河床勾配が1/1000よりずっと緩くて、何千分の1というところにも不連続堤がある。そこには逆流して洪水が入ってきます。これは完全に洪水調節効果があります。

 

(写真14)霞提(寺村淳撮影)

(写真15)手取川の航空写真(国土交通省パンフレットより)

 

北陸扇状地河川群にある霞堤というのは急勾配で1/100とかそれより急なところもたくさんあるわけです。ここは逆流してもぜんぜん洪水調節効果はありません。それを一緒くたに今は霞堤と言っているのですが、区別して言うべきだと私は言ってきました。最近やっと、教科書に扇状地河川の霞堤は氾濫還元が主目的であるということが書かれるようになってきています。

7.水害防備林

「水害防備林」というのは堤防の脇に林があるものです。林があるのとないのとどう違うかというと、洪水がきた時に、林がなかったら堤防を越えた流速が毎秒数メートルにもなるのです。毎秒10メートル近くなって、堤防の肩ががどんどん洗掘されていってあっという間に破堤してしまう。

水害防備林があると流速が抑えられて少しは削れるけれどがんばってくれて、破堤すると全量流れていくけれど、少々欠けたぐらいのオーバーフローなら溢れる量に限界があるので、被害は少ない。破堤した時でも土砂がこの林の中で止められるのです。勢いを殺す水制作用と土砂をろ濾過していくろ過作用がある。これは新潟にある水害防備林ですが、林の中に入ると石ころがゴロゴロあって、この石をここでろ過してくれたわけです。この石が流れていって家に当たれば家は壊れてしまう。石が流れてこなければ、壊れないで済むということです。

 

(図6)水害防備林とは

 

(1)愛媛県肱川の水害防備林

 

 (写真16)愛媛県の水害防備林(大熊撮影)

 

写真は愛媛県の肱川というところですが、水害防備林がずっとあるのですね。しかし、この上に今山鳥坂ダムというのをどうしても造ろうと言ってがんばっています。次の写真(写真省略)は琵琶湖にそそぐ安曇川の水害防備林です。堤防の上がすっかり覆われています。

新潟でもどんどん水害防備林がなくなっていく中、かろうじて部分的に残っています。

(2)昭和50年8月の石狩川の破堤

次の写真は北海道の昭和50年の石狩川の氾濫の状況です。この場所が切れたので、ここから上流は溢れたけれど下流は溢れていないということなのですが、これは3qぐらいにわたってオーバーフローしていたのですが、破堤したのはこの1個所約30mだけです。考え方によっては3q全部オーバーフローしていたのに、切れたのは1個所だけ、それも30mぐらいということであれば、逆に考えると、堤防は土でできているけれど、意外と丈夫じゃないかという気がするのです。ここに水害防備林がずらっとあったとしたら、切れなかったかも知れないし、切れたとしてもそこに土砂などを全部置いていって、流速も抑えられて被害は大分違っていたかも知れない。ここがどうして切れたのかということを調べたら、ここに坂路があって地肌が出ていたのです。で掘られてしまった。前後は全部草がびっしり生えていたのです。ですから草が生えていれば少々オーバーフローしても比較的安全かなというふうに思います。ですからそれで水害防備林があれば、ずいぶん強いものになるだろうと思います。

 

(写真17)石狩川の破堤(「朝日新聞」1975年8月25日記事)

 

(3)桂離宮

究極の治水体系は約400年前にあるというのが私の主張です。ブルーノータウトという建築家が戦前日本に来て、「桂離宮」というのは西のベルサイユ宮殿に対して永遠性のあり方が違う形で美が結晶しているといっていますが、彼の書いた「日本美の再発見」という岩波新書の本があります。この本は、戦前に出された本ですが、桂離宮だとか、「凍れる音楽」と表現された薬師寺の東塔についても書かれ、世界に薬師寺の素晴らしさ、桂離宮の素晴らしさを伝えてくれています。彼が、桂離宮の回りの垣根の「笹垣」を見事だと褒めた。

 

(写真18)桂離宮書院(鈴木哲撮影)

(写真19)桂離宮笹垣(大熊撮影)

 

写真は桂川の堤防です。堤防の斜面のところに竹を密植してあります。その竹を生きたまま折り曲げたものが笹垣です。これで洪水になったとして、ここで溢れるとしたら、完全に流速が抑えられます。この竹林の中に土砂もみんな置いていってしまう。本当に田圃や畑に良い養分となるものしか流れていかない。この中に書院があるわけですが、書院は高床式になっていて、過去10回以上氾濫があるのですが、書院は一度も床上浸水を受けていない。これができたのが1650年ぐらいですから、もう350360年経っているわけです。

ここに桂橋というのがありますが、この橋のたもとに中村軒という和菓子屋さんがあるのです。このおじいさんは80歳になるのですが、お話を聞いて大変おもしろかったのですが、水防活動をする時にはこの笹垣の竹を切っていいのだそうです。桂離宮の笹垣の木を切って水防活動に使ってもそれは許可されている。戦前のことですが、軍の演習中に、馬がこの竹を食べたところ軍は宮内庁からしかられたということで、普段はだめだが、水防活動には使っていいということです。

こういう体系を組んであれば、少々の氾濫だって恐くないのです。世界の宝というべき桂離宮がちゃんと安全で存在している。書院の床下には桟が入っていますが、建築屋に言わせると夏涼しくするために桟にしてあると言うのですが、私はそうではない、これは水屋だから桟を入れてあると考えています。これが全部白壁で塗り込められていたら、ここに水が来た時にどうしても浮力が掛かってしまう、ちょっと動くかも知れない。ちょっとでも動くとひびが入るということで、これは氾濫対策としてわざとここを竹の桟にしたのではないか、水が床下に入ってくれるようにしているというように考えます。

8.越流堤

(1)城原川の野越

成富兵庫茂安という人が約400年前にいました。彼が筑後川の佐賀平野などの治水をやっているのですが、見事な治水をやっています。これはどういう治水かというと、堤防の一部が低くなっています。これを「野越」と言っています。洪水が流れてきて、ここまで来たら溢れていきます。野越の背後には水害防備林があります。

 

(写真20) 城原川(筑後川右支川)の野越(大熊撮影)

 

 

堤防のどこから溢れるか分からない、どこが切れるか分からないというのが一番困るのです。成富兵庫茂安はここから溢れさせるのだと明確にしてあるのです。溢させたあと、そのまま下流に流してしまうとだんだん流速がついていって、洗掘が起こったり、家を流すかも知れない。これは水害防備林をびしっと作って溢れたものを上流へ上流へと氾濫させるのです。上流へとゆっくりと溢れさせて、別の川でその氾濫水を受け持つという方法です。

この横断する道路の下は今でも溢れた水が上流に行くように穴が開いているのです。近くに吉野ヶ里遺跡があります。このへんは弥生時代からこういう開発が進んできたところだと思います。左岸に7カ所、右岸に2カ所全部で9カ所の野越があります。上から洪水がどんどん溢れてきたら途中から溢れるようにして被害をできるだけ分散するようになっています。ところが今この上流にも城原川ダムが計画されていて、この野越を全部やめようという計画が進んできています。その城原川ダムを強行しようということで、地元ではだいぶガタガタやっています。

(2)加藤清正「轡塘」(くつわとも)

 

 (図7)加藤清正の轡とも

 

堤防が破堤してしまうと困るのです。溢れるだけなら被害は大したことはない。これは加藤清正がやったと言われる「轡塘」(くつわとも)と言われる方法なのですが、洪水が直接堤防に当たると堤防が壊れやすくなるのですが、これは逆流させてゆっくり溢れさせるということを考えているのです。これだとなかなか堤防は切れない。オーバーフローするけれど切れない。ここからオーバーフローさせて全体の被害を救おうということです。

(3)昭和53年頃の水防活動

そういうようなことは江戸時代から、必ずしもそんな有名な人たちだけでなくて、地域の人はよく考えていろいろ工夫して、誰もがやっていたのです。

 

(写真21)渋海川における水防活動(新潟県越路町提供)

 

誰もがやっていた証拠のひとつで新潟の渋海川という川の場合です。写真では下から上に流れています。ここのところが不連続堤になっています。霞堤になっています。下流側の堤防は山にくっついています。これは昭和53年6月の洪水の時なのですが、一体何をやっているのかというと堤防表面に筵を張っているのです。筵を張ればここからオーバーフローしても破堤しないということなのです。彼らは要するに勝手なところでオーバーフローさせて破堤してしまうと被害が大きくなるので、場所決めてオーバーフローはさせるけれど、堤防は破堤させないということをやっているのです。ここだけ前後より少し低いのです。ですからここまで洪水が来たら、ここから溢れて家のないところにあふれさせ、霞堤のところから川にまたもどす。いわばここが遊水池になるのです。こういうことを上から言われてやったわけではないのです。地域の人たちが考えて、水防活動としてこういうことをやっている。

堤防が勝手なところで壊れてしまうと、どうなるか分からない。だから、我々が制御しているわけです。ここから溢れてくれということで、成富兵庫も加藤清正もそういうことをした。つい最近まで地域の人たちがきっちり話し合って、自分たちで決めて川の治水をやっていた。これが本当の意味での伝統的な知恵の治水だと思います。

(4)田中遊水地(利根川)

利根川の遊水池で田中遊水池(写真なし)ですが、ここに越流堤があって、オーバーフローしてここに遊水させる。これは治水計画に取り込んでやられている遊水池です。さっきの渋海川の事例は治水計画に入っていません。自分たちがやる。残念ながら今の新潟ではこれをやろうとしてもできません。これをやれる人間は誰もいません。こういうことをやっていたというのも忘れている。私は27年前にこれを見たのですが、もう地域ではこれは引き継がれていません。

こういう越流堤というのはあちこちにあるのです。岐阜県大垣の大谷川の越流堤(写真無し)です。これは本来の遊水地が宅地化されてしまっているのに、何にも手当てがされていないのです。これは2〜3年前です。ここから溢れてここが全部水没して被害が出ました。

X.縦割行政(河川行政と開発行政がバラバラ)

昔はこの範囲が溢れることになっていたから何にもなかったのです。ところが土地の区画整理事業とか、都市計画の新興住宅地を造ったりすることと、河川行政とが縦割行政で話し合いいがぜんぜんないから、どんどんこちらが開発されていって家が建ってしまって、それで被害が出てしまった。今これは裁判になっています。

河川行政の方は「我々は川しか分かりません」、土地開発する方は「開発しか分かりません」ということで、誰が責任を本当に取るのかと問われたとき、誰も取れないよ、という話になっているのです。そこがやはり今の日本の悪いところだと思うのです。そこをきちんと統一して、元々のこういう越流堤があるのだから簡単に開発させてはいけないのですが、それを開発させて被害が出ることになってしまっている。

渋海川のように昔はそれぞれのところでそれなりに治水計画があって、ここは溢れさせるよというようなことがされていたのですが、そのことをすっかり忘れて、勝手にどんどん開発したりしているわけです。それをきちんと統率する人間がいない。ですから江戸時代から見て、今が進んでいると思ったら大間違いと思うのです。昔はああいうことがちゃんとできた。つい最近まで地域住民に任せておけばどこで溢れさせるか決められていたのです。今はまったくそれでは決められなくなってきた。これは退化でしかないと思うのです。我々がだめになっているということだと思います。この大谷川も越流堤がちゃんとあってうまくやれば被害は起こらなかったのですが、被害が起こる構造にしてしまった。

Y.今の治水計画の問題点?(100年たっても完成しない)

1.信濃川治水計画は、いつ完成するのか?

今の治水計画の問題点は何なのか挙げてみました。これは信濃川の事例です。信濃川だけではなくて他の川でも、九頭竜川でも似たようなことがあると思います。信濃川治水計画は、小千谷という平野に出たところが基準地点で、ここが基本高水が13,5003/sです。そのうち2,5003/s分を上流ダム群でカットして、残り11,0003/sだけ川に流しますという計画です。この2,5003/s分を貯留するためには約3億2,000万m3のダムが必要だと言われているのですが、今できているダムはこの3つしかありません。全部で約5,000万m3ぐらいしかない。3億m3にはとても届かない。ところで、計画されていた清津川ダムというのは中止になりました。上の千曲川上流ダムというのも中止になりました。これで5,000万m3ですから、これらができてもとても間に合わないという状況です。ですから信濃川の治水計画はもうダムを造ろうと思ってもダムはできません。「どうするの」ということに対しても回答がないのです。利根川でも吉野川、石狩川でもそうです。今の日本の多くの川が計画はあるのだけれど、その計画の実現性がぜんぜんない、それならどうするのかということなのです。

(図7)信濃川の治水計画

 

2.治水システムとしては昔の方が優れていた

ですからそれなら400年前にあるようなシステムをうまく使っていけばいい。治水システムとしては昔の方が優れていた。現在の治水システムは、計画対象の洪水規模は大きいけれど、計画を超える洪水に対して無防備であり、どこが破堤するか分からず、破堤で壊滅的被害を蒙ることがある。昨年新潟の刈谷田川では堤防が壊れて脇にある400年前のお寺が吹っ飛んでしまい、何十軒もの家が壊されて、その壊れた家の中で人が死んでいるのです。そんな壊滅的な被害を起こさせてはいけないのです。けれど現実的にそれが起きている。ですから私は溢れるところを限定した治水システムにすべきではないか、それができないならしょうがない、「溢れても破堤しない堤防にしなさい」と言っているのです。

 

3.計画高水位と堤防余裕高

堤防には余裕高というのがあり、余裕高に食い込んで洪水を流せば、例えば信濃川の長岡付近では余裕高2mだから表面流速3m/sぐらいと考えれば、川幅が約800mありますから、4,8003/sも流せる。さっきダムで2,5003/s分が解消できないでどうするのかという問題があったわけですが、余裕高まで食い込んで流せば、その分治水計画として取り込めるよという話なのです。

 

(図8)計画高水位と堤防余裕高

 

それで、その余裕高はこういうふうに一応決められているのですが、この余裕高も写真のように(写真なし)畳を入れて防ぐという堤防もあるのです。ここに隙間があって、畳を入れるのです。畳を入れて洪水が溢れるのを防ごうという「畳堤」、これは五ヶ瀬川のものです。計画高水位を1pでも超えたら堤防の安全性は保証しないということを国土交通省河川局は言っていますが、いろいろな堤防があって、こういうものもあるのだからもっと柔軟に考えていったらいいのではないかと私は思っています。

 

(図9)堤防の余裕高

(図10)余裕高の定義

 

4.越流しても破堤しない堤防強化法

堤防を越えても破堤しない堤防の強化方法はいろいろなことがあります。鋼管杭を入れたり、これは連続地中壁工法というもので、こういう壁を堤防の中に造ったり、あるいは水害防備林による方法もあるということです。この連続地中壁工法というのは、機械で堤防の中に、幅50pぐらい・深さ30m〜40mでも可能ですが、セメントを入れながら引いていくと、周囲の土よりはちょっと硬いものが作れて、それで透水係数はずっと小さくできて、オーバーフローした時でも浸食に耐えられるというものです。今はその壁を斜め施工することもできます。

 

(図11)堤防強化法はあるか

 

5.堤防を越えて溢れた水への対処の仕方

 

(図12)堤防を超えて溢れた水の対処の仕方

 

堤防は強化できたけれど、やはり堤防を越えて溢れた水で被害が出ることがあるということで、それはできるだけ床上浸水にならないように建物を高床式にすればいいということになります。高床式にするにするには固定資産税減免とか補助金を出してやれば、普通の家は30年で建て替えられますので、床上浸水に遭いそうなところは30年程度で確実に床上浸水をなくすことはできるでしょう。

雪国では、固定資産税が安くなるということで、ほとんどが高床式の建物になっています。ちょうどこれは新潟の中越地震があった地域ですが、高床式にしてがっちり造ってあったので、こういう家はほとんど被害がでませんでした。ですから地震対策にもなっている。これは雪対策で、浸水対策ではないのですが、やろうと思ったらすぐできるだろうということです。

 

(写真22)雪国の高床式建物群(大熊撮影)

6.水防活動の重要性

それでもすぐにそんなことはできないので、やはり水防活動というのは大変重要だと思います。ちょっとがんばって防ぐことによって、堤防の壊れるのを防ぐことができます。これは「木流し工法」というものです。これは「月ノ輪工法」。ここから漏水があるのを少し抑えようということです。これは「土嚢積み工法」、きちんとした土嚢が積んであって、間に土を入れて見事な土嚢積みだと思います。去年あたり見た水防活動はせいぜい1列が精一杯なのです。もう水防活動ができなくなってきていますね。この三角錐の枠は川倉といいますが、10分で作って10分で川の中に入れるのです。昔の人はすごいです。これを入れて流速を、さっきの2m3/sを超えるようなものを落としてやれば、その堤防が守れるということで、洪水時にこんなものを作って入れることができるという、そういう能力があったのですが、今はまったくだめです。

 

(写真23)水防活動・木流し・月ノ輪(寺村淳撮影)

Z.堰について考える

最後は堰について考えてみましょう。これは魚を捕るヤナです。ヤナはすごい河川構造物だと思います。というのはこうやって子供を裸にすることができる構造物というのは他にないからです。これはつい最近の写真です。こっちの写真は私の息子です。もう30年ぐらい前のものですが、私が昔連れて行った時、やはり見ているうちのどんどん裸になっていくのです。ですからヤナという木でできている構造物というのは子供を裸にする、そういう力がある。だけど長良川河口堰にそういう力があるだろうか。

結局こういう近代的構造物を造ってしまうとやはり専門家が扱わなければならなくて、専門家が何十人もかかって、年間約15億円という管理費が掛かるわけです。こうした堰のお陰で生態系が壊れたとか、いろいろなことがあるのですが、一番問題なのは結局専門家しか関われない川にしてしまう。素人を排除してしまうところにこういう構造物の問題点があるのだろうと思います。

1.矢部川・松原堰

これは矢部川の松原堰ですが、この先に水郷で有名な柳川があります。「柳川掘割物語」という映画を高畑勲などが創ったのですね。この堰を1989年に見たのですが、建設省の人に話を聞いて、これをもうすぐ近代的可動堰にすると言われたのです。私はこれはこのまま置いておいた方が良いと言ったのですが、その当時私の言うことを分かってもらえませんで、今はゴム引布袋製起伏堰(通称ラバー堰)というものになってしまいました。この昔の石を積んだだけの堰は、実は「可動堰」なのです。洪水の時に水が流れてくると、この石ころがごろんと落ちて、スムーズに洪水を流します。洪水が終わったのち、この石を又堰上げてやらないと柳川に水が行かない。だから、川の中に入って石を持ち上げなければならず、大変面倒なのです。柳川の堀を復活したことで有名な広松さんも、ここに来て石を持ち上げたことがあると言っていましたけれど、それが面倒なので、ボタンひとつで洪水の時には、ラバー堰がぺしゃんとなって、又空気を入れると膨らむいうものにしてしまったのです。

 

(写真24)矢部川松原堰の改築前(大熊撮影)

(写真25)矢部川松原堰改築後(大熊撮影)

 

確かに経済の高度成長時代は効率を良くする必要があったかも知れません。けれど今はある程度時間があり、もうひとつ省力が出来るハイテクもある。89年の頃には小型のパワーシャベルなどが出てきていいましたから、洪水の後、パワーシャベルで入ってきて石を持ち上げれば1時間ぐらいで済む仕事になっていました。そういう簡単な作業になりつつあったので、このままでいいじゃないないかと提案したのですが聞き入れられなかった。石は千年経っても腐らないし、景色も良いし、何よりも堰の下に伏流水が通るのです。このへんの生態系がかなり良い生態系ができていたのですが、こういうかたちにすると堰の下に矢板を打ち込む。そうすると伏流水が通らなくなる。前後の川の様相がすっかり変わってしまった。

この「ラバー堰」は行ってみると、乗っかってぴょんぴょん飛び跳ねてみたくなるのです。私もついついぴょんぴょんやるのですが、だけど子供が行って落っこちたらケガをするかも知れない。ですからこういう構造にしたら絶対に子供は近づいてはいけないよということになるのです。やはり子供を排除してしまうということです。石でできているものは耐久性があって、今我々が持っているハイテクの機械技術と組み合わせればこれでも十分いいわけです。それを子供を排除する可動堰にしてしまったということです。

2.肝属川支流串良川・川原園井堰(鹿児島県)

この写真は現存している堰の一つです。山から粗朶を取ってきて敷き詰め、粗朶の隙間から水がすいすい流れてしまい堰上げができないので、莚をかぶせて、堰を上げて両側から農業用水を取るようにしてあります。こんなことをやっていたら高度経済成長時代に間尺に合わない、可動堰にしてくれというので日本全国ほとんどのところで可動堰になったのです。これは奇跡的に残った事例です。

 

(写真26)肝属川支流串良川川原園井堰(英伸三撮影)

 

これも洪水の時は粗朶がふわっと浮いて流れてくれて、洪水はスムーズに流れる。そういう意味では可動堰です。ただ、終わった後に粗朶をまた組むのは時間が掛かる。だから維持管理が大変だということなのですが、今は定年後で60歳を過ぎてみんな元気でぴんぴんしている、私も63になったけれど、これぐらいの作業ならまだできる。写真ではみんな楽しそうにやっています。何よりこの後みんな又、どこかの集会所で、今日の作業はどうだったと一杯やるのです。それが又楽しいのです。仲間と一緒に楽しい時間が持てるか持てないかというのはやはり人生の中で非常に大切なことだと思います。

それを今までは無駄なことだというので、1円でも余計に稼ぎなさいということで高度経済成長という時代はこれを近代的可動堰にしてきたわけです。ですから、こういう昔からある伝統的なものというのはそういう意味で非常に人間の一生の人生の中に組み込まれて生きていく、そういうことを含んだ技術なのです。そういうものをやはり大切にしていかなければならないということです。ちょうど時間になりましたので、私の話を終わりたいと思います。御成長ありがとうございました。

 

質問

A 堤防の余裕高とか、壊れない堤防というのを計画の中に含めるというのは、技術者としては誠実さに欠けるのでは。

大熊

計画の中に入れるというのは難しいが、結果として被害を少なくできるのであれば、実質的にやっていくべきです。ダムとのからみで、ダムを作れないでほっとくということもできない。その様なときにどうするかですが、考え方として余裕高に食い込んで流すことも一つの考えではないかということで提案しているわけです。トータルにはいざというときに、どこかオーバーフローさせるところを作っておくしかないと思っています。

A 地区の住民が納得しないのではと思います。粗朶沈床ですが、実際に川に施工するという話になると、それは怖いということもある。その時に、河川管理者としてはどうすべきなのでしょうか。

大熊

地域の住民からどのように納得を得たらいいのかというお話だと思うのですが、今の体制の中で、地域の人間は納得しないと思います。国土交通省自身がどう考えるかを明確にうちだす必要があると思います。粗朶沈床の場合は、過去にもこれだけの実績があるという事実を示していけば理解は得られると思います。計画論では、一番お金も権力もあるものが右の方を向いていて、住民に左を向けといってもだめです。具体的にここの治水をどうするかを腹を割って徹底的に話し合えば不可能ではない。現在の治水計画が宙ぶらりんなのをどうするかということを腹を持って話し合うことです。それぞれの場所場所で様々な問題がある。それを河川砂防技術基準に乗っ取ってやるとしかいっていないので、そこからはずれるものは全部ダメというのでは話し合う余地がない。それぞれの地先の具体的問題をどう解決していくかを、自由裁量権を持っている人達の方が歩み寄り議論すべきです。国土交通省は住民の意見を聞くといいますが、住民側はお金もないし権力もないわけですから、歩み寄ってもらうのは国土交通省側しかありません。その中で住民がやれるのは何か、やれないことは何なのか、それを納得するのかしないのかです。江戸時代にできたことが、なぜ現代でできないのかです。

B 今回の福井水害では、私としては破堤しなければ床下浸水で済んだと思います。しかし、住民の方は床下浸水でも困るというわけです。水害防備林も痴漢が出るということをいう。しかし、国もお金がない中で、住民も技術者も発想の転換が必要です。

大熊

 新潟では、床上浸水は守るが床下浸水は守れないといってしまって、ポンプ容量を決めた事例もあります。今の日本国民ほど従順な国民はいません。上がこうしろといえば納得するわけです。そのようなことを何も説明しないで、「床下浸水もいやだから絶対守ってくれ」といわせたいから、住民もそういっているだけです。

 

三国港突堤フアンクラブ会長 木村昌弘氏

 粗朶組合の資料に三国港が取り上げられています。昨年12月に国の重要文化財に指定されました。私たちはこれを守っていこうということで、三国港突堤フアンクラブを立ち上げました。

 明治時代にオランダのエッシャーとデ・レイケが三国突堤を作ったということですが、エッシャーの息子がだまし絵(トリックアート)のマウリッツ・エッシャー(Maurits Cornelis Escher)(エッセル)です。今年の4月にオランダへ行き、エッシャーの孫、デ・レイケのお孫さん(マリアさん)と接触し交流をしてきました。なぜ、オランダかというとやはり行ってみてよくわかりました。現在、オランダは水利技術がすごく近代化されて巨大な規模の堤防や橋・水門などを造っています。デ・レイケの生まれた、コリンスプラートという町は1958年の大洪水があり、粗朶でできた堤防もかなりに被害を受けるわけですが、その資料館には昔の技術と現代の技術を対比した展示物などもありました。北の方では北海を締め切った延長35キロメートルの大堤防があります。その下は何層かの粗朶でできているということです。工事中の写真も見せてもらいました。現在、堤防の上は高速道路になっています。エッシャーは日本からオランダに帰り、大堤防の建設に携わったということです。そこに昔の伝統的工法として粗朶沈床が紹介されています。三国の突堤から12年後に大突堤が着工されるわけですが、エッシャーはコールネリアスリというエッシャーの後輩の技術者とともに携わっています。そのオランダの技術を持ってきて三国の突堤がつくられたわけですが、粗朶沈床がその突堤の基礎にあるわけですが、それを発掘調査などをして、見える形にしてほしいという活動もしています。

三国町温泉施設の「ゆあぽーと」のところまで堤防があるのですが、そこのところの1/3は埋まっています。突堤ができて海水浴場ができました。三国の突堤とオランダの大堤防が「粗朶」で姉妹にならないかという運動も提案していきたいと考えています。昨年はろうそくを並べたり、釣りの親子体験などもしました。伝統工法は自然に優しく、また我々にいろんなことを教えてくれます。突堤の先にコンクリートで作った突堤が延長されていますが、そこを我々は清掃をすると、いろんなごみがあります。人間の鏡だともいえます。船の底引きでは自転車や冷蔵庫など様々なものが網にかかります。しかし、それを引き上げて陸に持ってくるなということで、また、そのまま海に捨ててしまいます。

 突堤は港湾施設ですが、粗朶の堤防の技術が河港としての三国の発展を支えた・あるいは最後の河港の三国を「見届けた」といっていいと思います。その後は鉄道や新港に地位を譲ったといえます。

 

北陸粗朶業振興組合 中川武夫氏

オランダという国は堤防を築いて国土を広めていったわけで、その堤防の技術が粗朶だったわけですが、その技術を福井県の三国港にももってきたわけです。建設して約130年たっているわけですが、現役でがんばっているというのは何よりすばらしいことです。九頭竜川の堤防には二次製品が多いわけですが、下に粗朶を入れてあれば洗堀されることはないのですが、二次製品だけだと洗堀されて、その上にまたブロックを入れるということになります。

三国突堤のすぐ近くに、粗朶沈床の模型を展示しています。実物の3/4の大きさです。格子と格子を1m間隔でつくるのですが、展示スペースの関係で縮小しました。粗朶は流域の全体に大きな効果があります。大熊先生の石積み水制の話がありましたが、この下には粗朶沈床をいれてあります。そして石の洗堀防いでいるわけです。新潟の信濃川を見に来られる機会がありましたら、頭はブロックしか見えなくても、その下に粗朶沈床が入れてあるということです。会場に展示したエッセル堤の模型を今日は見ていただいて、実際に作っている所を、今後見ていただければと思っています。

 

 

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