概要(龍泉寺の歴史)

福井県武生の地に偉観を誇る北陸第一関・太平山・龍泉寺は、南北朝時代に通幻寂霊禅師(つうげんじゃくれいぜんじ)を開祖に創建され、曹洞宗の両大本山の一つ横浜の総持寺の「三十六門中」(筆頭直末寺院)に列する古刹であります。

当寺は今を去ること約630余年前の応安1年(1368)越前守護・藤原義晴が木材を喜捨して通幻禅師を武生に招き創建されました。しかし、それ以前にもこの地には古代寺院が建てられていたようで、境内からは多くの白鳳時代の瓦や土器破片が出土し「深草廃寺」と称されており、現在も所在が不明な越前国分寺跡ではないかといわれております。

通幻禅師は龍泉寺で多くの弟子を育成され、通幻禅師亡き後は遺命によって、10人の弟子たち(これを通幻十哲といいます)およびその孫弟子たちが毎年住職を順番に勤める「輪番住職制」によって維持運営されてきました。(十哲派による輪番制は江戸時代中期・第323世まで続き、その後は独住制となり現在に至るまで第31世であり、輪番時代を含めると354世代となります) この龍泉寺の輪番制が、永平寺を復興することとなります。全国各地から輪住した通幻派の僧たちが、せっかく越前へ来たからのだと永平寺へ拝登してその荒廃ぶりを見、復興の志を興して運動を展開していったのです。

その後、龍泉寺は戦国時代に入ると一向一揆などの戦乱を免れることができず、伽藍を焼かれ衰退いたしました。しかし、江戸時代になると越前藩国老(筆頭家老)で武生の領主となった本多富正が高禄を喜捨して大檀家となり、伽藍を再建しました。以来、明治維新を迎えるまで龍泉寺の檀家は本多家ただ一軒でありました。また約330年間続いた輪番住職制を廃して独住制へと移行いたしました。

この頃になると、通幻派の根本道場として七堂伽藍を擁し50〜60人程の雲水が修行に励むようになり、「第一関」としての名を天下にとどろかせました。第一関とは、永平寺や総持寺へ入る前に必ず通らなければならない「第一の関所」という意味です。

明治時代になると武家階級の没落に伴い大檀家・本多家の立場も苦しくなります。当然龍泉寺も七堂伽藍の維持経営が困難となり、巨大な庫裏(白雲台といいます)のみを残し、本堂や他のお堂すべてを解体整理しました。本多家という唯一の有力外護者を失った龍泉寺は再び衰微の時期に入ります。

伽藍の破却以来、歴代住職及び檀信徒は復興の夢を胸に抱きつつ努力して参りましたが、約100年後の昭和48年に多くの方々の浄財とご協力によりほぼすべての建物を再建することができました。通幻禅師の道場として面目を旧に復することができた現在、時代の要請に応じて「殿様の寺」から「町衆の寺」へと脱皮すべく、新しい檀家を積極的に受け入れ、種々の人々からのご協力、ご意見を伺いながら歩みを進めております。坐禅研修会や戒壇巡り、各種イベント、国際音楽祭、寺宝の公開展覧など人々が多く集う「心の拠り所」として大いに活用されておりますことは、そのささやかな成果といえましょうか。

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