Section 1  バリへ

結婚した翌年,最初の夏休みである.当時妻と私は同じ会社に勤めており,同時に1週間の夏休みがとれた.

 最初は,中国旅行(北京・西安)を予定していた.しかし,学生たちによる民主化要求が起り,それは6月4日の天安門事件に発展した.民主化要求運動の初期のうちは”どうなるかな?”という感じだったが,外部からみるかぎりには唐突にあの事件が起こり,そして情勢はますます悪くなっていった.

 中国行きのキャンセルは少なからず失望した.しかし,海外旅行へ行けるチャンスなんてそうあるわけではない.それに代る旅行先を物色することにした.改めてパンフレットを集め直し,台湾,ニュ−ジ−ランド,海のリゾ−トなどを考えた.以前,妻の友人が新婚旅行で訪れたバリを絶賛していたのを思いだし,バリ島を訪ねる事にした. 何か予備知識を,ということで,インドネシアの歴史に関する本を2冊ほど,旅行のガイドブックを3冊ほど買った.インドネシアの歴史は,いわゆる”白人の側の歴史”であって,東南アジアも”地理的発見”の世界なんだな,という事を改めて知った.妻は大きなむぎわらぼうしを新調した.

 出発日は夏休みの初日.空気のひややかな真夜中にJRに乗り,早朝に大阪駅に着いた.タクシ−で大阪空港に移動すると,まだ開門前のため玄関前でしばらく待たされた.開門されると,大阪空港の各旅行社のカウンタ−は,すぐに行列になる.やはり,夏休みである.大阪から成田までは国内線で移動し,成田ではJTBのカウンタ−で”現地搭乗員がお待ちしています.いってらしゃいませ”とあっさりと見送られて,出国審査に降りた.免税店をのぞき,待合室で時間をつぶした後,午後のガル−ダ・インドネシア航空でバリに向かった.

 バリまでは8時間半,狭いジャンボの座席で退屈に過ごした.本を読もうとするのだが,いまひとつ気が散ってしょうがない.妻はずっと不機嫌な顔で寝ている.窓の下はずっと雲で覆われている.夕方,ようやく経由地のジャガルタに着陸した.外をみると,日本より丈の長い水田がひろがっているような風景だ.飛行機を降りると,待合室というよりは公園のバルコニ−のような所で1時間弱待たされる.トイレは掃除夫にチップを渡して使う.ちょっとしたカルチャ−ショックだ.

 ジャガルタからバリまでは,さらに1時間強のフライトである.着いた時はもう暗く,生暖かい風にヤシの葉が泳いでいる.さすがに”来たな−”の感があった.

 入国手続きは,パスポ−トの審査はすでに飛行機内で終わっており,空港では簡単な手荷物のチェックのみである.駅の改札のような所に一列に並んで検査を受ける.検査官は,ぱんぱを見つけ,手を入れて”パンダー?”とおどけて見せた.

 入国審査からロビーに出ると,現地ガイド氏たちが旅行者が胸につけた各旅行社のバッジめざして群がってくる.うすぐらい照明のあまりきれいとはいえないロビーに出た途端,十数人のガイド氏たちがよってくる様子には身じろぎした.各ガイド氏が早く自分の担当の客を捕まえようというわけだ.私たちの”JTB”のバッジを見て何人もが”〇〇か?”と名前を尋ねる.あるガイド氏が,”ああ,あなたたちはボクじゃない”といって別のガイド氏を引っ張ってきてくれた.長身の青年とやや背の低い青年が現れ,現地の旅行会社”ナトラブ”の社員だと自己紹介した.長身の青年が日本語をやや早口に話し,もう一人は日本語は理解せず運転手らしい.挨拶もそこそこに,日本でいうと中古車のようなコロナでホテルに向かう.ホテルではやや年長の女性が私たちを待っており,ソフトドリンク(welcome drinkといっていた)を飲みながら旅行全体の案内をされた.

クタにあるプルタミナコテ−ジというホテルは,やや大げさな造りの玄関から,向こう側のプ−ルまでふきぬけになっている.寒いなんて心配ないんだな.暗いせいもあってか,やたら人がうようよしているように感じた.フロント・レストラン等でひとつの建物,その向こうの海岸までの間にプ−ルと庭園(おもに芝生と椰子の木)その中にコテ−ジが点在している.私たちのコテ−ジは,1棟が2階建で客室が4室.部屋の中は普通のホテルと同じ程度だろう.部屋の中が少し砂っぽく感じられたが,まあ,いい部屋だ.その日は,疲れてすぐに休んだ.

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