あぜみちの会ミニコミ紙

みち56号
(2011.10.10 寒露号)




シグナル56

福井市 中川 清

 お盆の季節です。七月をお盆と言う事もあるが、私は、やっぱり八月がお盆だと思っている。盂蘭(うら)盆とか言って、先祖の供養を旨とする。今日あるのを、陰で支えてきてくれたものへの、感謝を、再確認するお盆は好い機会だと思います。主役は表舞台で華やかですが、陰で支えている者の価値は大きいものなのです。
例えばなでしこジャパンの活躍は記憶に新しいですが、沢キャプテンの得点王もMVPも、そこへ、ボールをサポートした脇役の人のお陰なのですね。
「あぜみち」の会も、20周年を迎え、「みち」も56号を数えますが、今日まで、「あぜみち」の会を、陰で支えて呉れた、歴代事務局長や、購読料で、温かく支援し続けて下さっている 多くの熱心な読者の支えは、偉大でした。
その事を、お盆を期に、思いを新たにしたいと思っています。
来春は、記念行事も、企画中です。
是非、趣旨を理解の、多くの方に積極的に参画して戴いて、盛り上げたいものだと思っています。若い農業青年の方々にも、是非、お集まりを戴きたいと願っています。
そして、この記念行事が、福井農業今後の10年、20年の「あゆみ」の礎に したいものです。



  少しでも役に立てたら

                         名津井 萬

  昭和二十五年、中学を卒業と同時に農業に従事し、二十九年に二十歳で農業経営者として独立した。
 由に、どの会合、研修会、講習会に出席しても最年少組であった。それで、先輩から色々な指導、助言、注意、忠告をうけて歩んだ。
 日本の高度経済成長に伴い、農業も機械化による近代化が進み、トラクター、コンバイン、乾燥機の導入で多くの恩恵を受けた。
 稲籾の乾燥は、当時、屋敷の中の農作業場前の畑で、天日による自然乾燥場であったが、乾燥機の導入と経済成長に伴い、屋敷内の畑は壮大な「庭」造りが誕生しはじめた。私も木など植えて、前庭でも造ろうかなと思っていた頃、私の父と同年の在所の大先輩は、家の前に庭木は植えるな、と注意してくれた。家の前の庭は、「金」がかかり、手間がかかる。それよりも農家だから、「畑」として野菜作りが大事だと言われた。今も百坪ほど自家農園として使っている。
 先日、関東地区の畜産指導機関の若い指導者が、私の牛舎に来場し、家の方に案内した時、屋敷の畑を眺めて「あれはナスですね。トマト、キュウリ、トウモロコシ、ウリもありますね。イイなあ、イイなあ」と「イイなあ」を連発し感動していた。在所の大先輩の注意を改めてかみしめた。
 先日、例年の「夏祭り」が町内の神社境内で、夜ひらかれた。少し盛り上って来た頃、町内の青年が、ビールとコップを二つ持って来て、「今度、僕は農業をやりたいし、やりますので相談に寄せてもらって良いですか、お願いします。」とビールを注いでくれた。ビニールハウスで野菜をする決心だと言う。彼は地元の国立大学卒で、ギターも弾く青年で、現在、ハウス栽培農場で研修していて、二年後を目標に独立したいと言う。祭り気分とビールと酒で農業論が盛り上がった。「酒は人生の最高の良薬」だ。
 私は今七十七歳、まだ発展途上中であるが、色々な相談を確約した。
 私は農業経営の最年少時代から、色々な人から受けた恩恵と知識を少しでも役に立てたら良いと願っている。




      石塚左玄に学ぶ
全国有機農業の集いin福井県越前市 記念講演会
 2011年3月12日(土)

 
食育研究家・前JA厚生連代表理事長 岩佐勢市


  有機農業関係者、そして有機農業に関心のある消費者の皆様こんにちは。私は、食育という言葉を初めて本に書き著し、子どもにとって一番大事な教育は、家庭で親が行う食育てあると言った食育の祖、石塚左玄を研究している岩佐勢市と申します。

有機農業と石塚左玄の共通点
 有機農業を実践されている方は、失礼ですが、ついこの前まで奇人変人怪人の類で見られていたのも事実です。じつは、今日ご紹介する石塚左玄も皆さま以上に、奇人変人怪人、さらに山師とも大根医者とも呼ばれた人でした。
 有機農業が、ツルネン・マルテイさんをはじめとして多くの方の努力で2006年に有機農業推進法で、また石塚左玄はその1年前の2005年の食育基本法で、両者とも法律で認知されましたが、私はねてから、これからの難しい時代を切り関いていくキーワードがこの二つの法律であると思っていましたので、今日二つを関連付けて話が出来ることを大変に嬉しく思います。

恵まれ過ぎた食
 戦後生まれの私でありますが、昨今の食生活が恵まれ過ぎているというのを、実感をいたしております。でも本当に、好きなものをたらふく食べられることが幸せなのでしょうか。何か無くしたものはないか。私はいま一度考えるべきだと思っております。
 最近は食品の種類も本当にたくさんあります。でも、大事なのは種類でなくて食品の質です。私は、昨今の食品の質が毎年毎年、悪化している、悪くなっていると思っています。次から次と報道されます食品偽装の問題、それから家庭の食生活を見れば一目りょう然です。
 なぜ、そうなのか。そこには大変残念なことでありますが、食も安ければいいという風潮がはびこっていることです。つくる人も買う人もそうです。食は私たちの体を動かす、いわゆる身体のガソリンになるものなのです。でも、それだけではありません。私たちの体そのものを、食はつくっているのです。絶対それを忘れてはだめだと思います。
 ただ単にガソリンならば、体を勤かすだけでありますから、安いに越したことはないと思います。でも、体をつくるのですから、単に安いだけでなくて、それなりの栄養素がしっかり入った食品でないとだめだということなのです。
 それから食は文化です。文明には国境はありませんが食文化は限られた地域のものですから、そこのおいしいものを、いつでもどこでも食べようとするから、本来、食に必要のないものをたくさん入れなければならないのです。私はそれが間違っていると思います。
 食べることに難儀をした時代は、まず栄養をとることが大事でした。次には身体の調整をするビタミン、ミネラルが重要となってきましたが、それが今は飽食と言われるように、おいしいものだけが食であると勘違いをするようになりました。つまり医食同源、薬食同源の言葉のように、本来、日々の健康を作るはずの食が、過食と飽食が病気をつくるようになりました。ご存知のとおり、大人の5人に一人が糖尿病と糖尿病の予備軍という数字です。
 大人より子どもが心配です。子どもたちは毎日好きなものだけ食べて、そして運動不足です。私は危惧します。この子どもたちが、今後20年、30年、大人になったときに、どうなるのでしょうか?

左玄から学ぶのは食の訓えのみでない
 明治元年9月オランダ語の『天文書』ということで、「越前福井市皿毛村においてこれを写す チフス病出張中なり 石塚左玄」とあります。左玄はこの時17歳で、福井藩の医学校で勉強したり教えたりしています。
 上司からの指示で現地に行き、日中は診察をして、校に、借りてきたオランダ語の『天文書』を読みながら、書き写しました。200ページあります。1日に6、7ページずつ、彼は読んでは写すのです。オランダ語とドイツ語を習得していました。17歳といえば今の高校2年生です。現代の高校2年生に同じようなことをやれといっても、30日間で、絶対できないと思います。また大学を出ても英語一ヶ国語さえもマスターできないのが現実です。 今は参考書もあふれており、非常に恵まれた環境ですが、当時、オランダ語やドイツ語の参考書は皆無です。つまり恵まれているから成功者になるとは限らないということです。
 過ぎたるは及ばざるが如し。食にもあてはまることです。左玄からは食の副えを学ぶべきですが、彼の勉強家・努力家ぶりも、ぜひとも知っていただきたいです。

石塚左玄の生涯
 左玄は今から160年前に福井市で生まれまして、医師となり、薬剤師の仕事をしております。
 その後上京、明治7年、彼は陸軍の軍医になります。そして西南の役、あるいは日清戦争に従軍します。ところが明治29年に陸軍の少将薬剤監で陸軍を退職いたします。陸軍の軍医、薬剤師では少将が一番士の職位です。
 それから石塚食療所というのをオープンさせて、診察を行ないますが、彼は処方せんに食事内容、食事方法を書きあらわしたのです。ですから患者さんは、彼のことを食の医師、良医と呼んだということです。
 明治49一年、残念ながら彼は58歳で尿毒症で世を去ります。
 「食を大事にしていた人がどうしてそんなに若死にしたのですか」と、よく聞かれます。彼は生まれながらにしてヘブラ病という、大人になっても治らない頑固なアトピーでした。そのことを誘因として腎孟炎も発病します。しかし、若い時からの長きにわたり、透析もせずに生きられたのは左玄の食養の効果と思えます。
 彼は病気であったからこそ、食を大事にしなければならないということで、食についていろいろ提案をして、「食育の祖」になったわけです。
 彼は多くの著作をしていますが、一番有名なのは『食物養生法』と『化学的皮養長寿論』で、この中で食育という言葉を初めて彼は書き著しました。
 明治40年に出来た化学的食養会の機関誌第壱号であります。この機関誌は今は名前が変わっていますが、104年と連綿と続いているのです。

石塚左玄の功績
 さて、左玄の功績ですが、何といっても「皮育」という言葉を初めて本に書いたことです。それから2番目は、文明開化で食生活までも洋風化されていくのを見て「そんなことをしていったら日本人はみんな病気になる。日本人には日本人に合った食生活がある」と、左玄は警鐘を鳴らしました。
 こうしてしっかりとした食育・食養論を確立し、その後、左玄の弟子たちがさらに発展させてマクロビオティックという運動で全世界に広めました。
 スローフード運動よりずっと以前に世界に広まっていった食の運動は、左玄を源流としたマクロビオティック運動です。
 (日本有機農業研究会機関誌『土と健康』二〇一一年六月号より転載)

(続き)
左玄の六つの訓え
左玄の訓えは六つとも、どれも簡単なものばかりであります。
皆さんは充分お分かりで、少なくとも初めて聞く内容は一つもないと私は思います。

①食育は家庭教育なり
 「学童を有する民は・:鉢育、智育、才育は即ち食育なりと観念せざるべけんや」。
 子供にとって親が行なう食育が万岳大事な教育で、あらゆる教育の中で食育はすべての根幹であると言ったのです。
 ところが現代では親は学歴の重要性だけは教えましたが、食育はまったく忘れられてしまったのです。

②食が人を作る 食養道
 要するに食が心と体をつくる。食が健康と命をつくり、人をつくると言うのです。またこれは道(みち)ですから、武士道、華道、茶道と同様に、心構えと礼儀作法が大事なのです。
 「欽羨」とは食物修養の略で、自然に則った欽の実践が健全な心と身体を作るということです。

③人は穀物食動物
 「臼歯持つ人は粒食う動物よ」。私たちはいわゆる穀物を食べる臼歯(きゅうし) の歯が20本あり、生まれながらにして62・5%は穀物を食べる動物であるということです。野菜、果物を食べる歯、門歯が8本あります。私たちは生まれながらにして25%は野菜や果物を食べるようになっているのです。魚、肉を食べる犬歯は4本あります。生まれながらにして12.5%は魚と肉を食べるようになっているということなのです。
 だから人間は何でも食べる雑食でなくて62.5%を穀物を主食とする穀物食動物だと言いました。

④入郷従郷 地産地消
 地域によって、いわゆる風土が違いますから、当然、農業も違います。収穫される農産物も変わってきます。その地域で住んでいる人たちは、その地域で採れるものを食としてきました。そして、その地域の食が、その地域に住んでいる人たちの心と体をつくってきたのです。ですから、その地域に住んでいる人たちは、その地域で採れるものを食べるのが一番自然で、体に優しく、栄養があり健康的であるというふうに左玄は言いました。
 「身土不二」という言葉がありますが、人間の身体と上は分けることができない。人間と自然は一体のものであるという仏教用語で、左玄の教えを弟子たちが、身土不二と言ったほうが分かりやすいと広めていきました。
 今は地産地消がブームですが、実際は達産達治です。日本の食料自給率は40%ですが、アメリカは127%と日本の3倍です。これが国力の差です。世界の先進国の中で日本の食料自給率は最低です。この低い数字は先進国とはとても言い難いことを示しています。

⑤全体食
 「なるべく菜類の皮肌を 脱除せざるを良しとす」。なるべくそのまま丸ごと食べなさいと、穀物食でもあるお米を、栄養豊富な全体食として玄米を勧めました。
 外側の円が玄米の栄養表示で、中が白いご飯の栄養量です。白いご飯は栄養素が25%ぐらいに激減します。ビタミンBIは脚気の予防に必須ですが、日清戦争で戦病者より脚気で亡くなった人が多い事実は良く知られています。原因は栄養を落とした白米食の結果です。

⑥食はバランスが大事
 左玄は、夫婦アルカリ論という特殊な栄養吸収論を考えました。
 カリウムとナトリウムのバランスがあって初めて栄養が吸収されるという意味ですが、今の現代科学の中では当然、異論でありますが、現代と違って、当時の大変未熟なお粗末な科学の中で、しかし、ミネラルのカリウムとナトリウムの重要性を訴え、そしてバランスが大事だと訴えたことは、すばらしいことだと私は思います。左玄の食の陰陽論と合わせて現代ではバランスと解釈をすべきと思います。

味噌は身礎・糠はやすらぎ・白くした精米は粕
 左玄は、味噌を身の礎と言っています。味噌は発酵食品であり、味噌大豆は畑のお肉と言われるほど、牛肉並みの高たんぱく質です。味噌汁はそういう意味では肉汁です。福井県は長寿県で、大豆加工品である揚げ豆腐の消費金額は全国1位です。そのタンパク質は10%ぐらいあります。だから肉のかけらなのです。みそ汁に揚げ豆腐を入れたのは、まさしく肉汁に肉のかけらを入れた大変植物性タンパク質が豊富なものです。

もはや肉食動物になった
 1年間にI入当たりのお米消費量は、わずか60恥なりました。かつての半分以下です。一日に直すと、わずか165gです。1食に直すと55gの消費量であり
ます。55gのお値段といいますと、10kg3500円ぐらいのお米なら、20円になります。
 では、その1食のお米とポッキーチョコー箱との価格を比較するとどうでしょう。ポッキーチョコー箱に32本のポッキーが入っていますが、計算をすると5本のポッキーとお米1食のお金が同じなのです。ポッキー1箱でお米6食分買えます。お母さん達がお米は高いと言いますが、ポッキーが高いとは聞いたことかありません。お母さんたちは、お米の価格を勘違いしているようです。
 お米の消費量も下がりました。そして値段も下がりました。でも増えたのは、生活習慣病です。
 肉のI人年間消費量が33晦です。すでに魚より肉が逆転しました。魚と肉を二つ足すとお米消費量より多くなります。つまり米より肉類が多いのです。
 石塚左玄は言いました。「私たち日本人は穀物食動物である」。それがもう肉食動物になろうとしています。肉が好きな子どもたちはほぼ完全肉食動物になりました。
 福井市の家計調査で、お米は年間3万3000円、買われるそうです。パンと麺を足すと4万8000円です。お菓子は9万3000円も買われています。主食は消費全額から言いますと、お菓子です。パン、麹がその次の主食で、お米は第3位であります。
 でも、お米、ご飯ほど淡白な昧でありながら、おいしくて、安くて、栄養があって、ヘルシーである。こんな食べ物は、ほかには本当にないと私は思います。

環境問題は健康問題と繋がっている。
 左玄が言うように、私たちは穀物食を食べ、そしてなるべく全体食をして、バランスの良い食生活と、地元で取れる新鮮なものを食べて、より健康になり、そして地域の地産地消のものを食べれば地域の農業、漁業も発展し、地域経済も活性化し、地域も健康・元気になる。
 わざわざ遠くから輸入しなくなれば、温暖化という生活習慣病に患っている地球にもいい影響を与えます。自分の健康を考えることは地球の環境を思うことに繋がります。地球の環境を考えることは自分の健康を思うことにもなります。
 人間は伝統を大事にして自然を守らなければと言いますが、人間も自然の中の一つにしかすぎません。逆なのです。自然と伝統が人間の健康を守ってくれると思うべきです。環境を大事にする有機農業と、自分の健康を考える石塚左玄の訓えが、これからの生活の指針になる時が来たと感じる毎日です。
 私は毎日生活している中で、衣食住の生活があります。衣はすでにもう背広にネクタイに、まさしく洋風化100%です。それから住まいも、瓦ふきで一見、外から見ると和風でありますが、中に入りますと洋式トイレ・洋式風呂・洋式テーブルとみんな洋式です。
 でも私は、食生活だけは、いま世界から注目されている、この日本型食生活だけは、そしておそらく世界一ヘルシーであるお米食を、左玄の訓えとともに、頑固なまでに大事に守って生きていきたいと思います。

 (日本有機農業研究会機関誌『土と健康』二〇一一年七月号より転載)



  アフリカ青年研修を受け入れて思うこと
               あぜみちの会   玉 井 道 敏

1 研修受け入れの経緯
それは偶然の機会から始まりました。2008年3月に福井市議会議員後藤勇一氏から
突然JICAアフリカ青年研修受け入れ協力の話があり、彼との日頃の付き合いもあり、「面白そうだな」と思ったのと、アフリカに対する興味もあってすんなりと引き受けたのが始まりです。
具体化をはかる過程で、事務的な事はコラボ福井の牧野安雄さんと後藤勇一さんがやってくれたので、私は研修計画の作成に没頭することができました。牧野、後藤、玉井3人の組み合わせは絶妙で、気持ちよく、また楽しく作業ができます。それは、それぞれが信頼して、自分の領分以外のことには口を出さないという暗黙の了解があったことにあります。管理されることや指図されることが大きらいな私にとっては幸いでした。

2 研修計画立案
 最初に考えたのは研修時期です。従来この種の研修では、農家の農繁期をはずすことが常識になっていますが、私はあえて、福井県農業が一番輝く時期であり、猫の手も借りたい稲刈りの時期(8月下旬から9月中旬)に設定しました。
そのためには研修先を決めるに当たって農繁期であっても無理を聴いてもらえる農場や農家の確保が必要でしたので、あぜみちの会の農家メンバーなど、私がこれまで仕事など約45年間を通して築いてきた人脈をフルに生かしながら研修計画を立てました。
それと、現場主義を貫きました。座学中心よりもまず目で見る、体験する、農業・農村の風景とにおいを感じるなど。そして農家には末端の実践単位として、国の農政も含めていろんなことが集約されていますので、農家の説明から、またそこを見せることによって色んなことを感じ、理解し、考えてもらえると思ったのです。一方で、たくさんの事例を見て欲しいという思いもあって、こちらのペースであちこち引っ張りまわすことになり、時間配分が濃密となって研修生はゆっくり英気を養う日もないのが実態です。改善点です。
ところで、研修計画作りは舞台作りに通じるところがあります。主役は研修生、彼らが上手く演じられるような舞台を作ることができれば最高です。毎年度この研修に関わる人はJICA,JICE,研修受け入れ農家、運転手さん、われわれ、関係者含めると100人は超えると思います。いろんな人たちの協力があって、アフリカ青年研修が成り立っているのです。みんなで作り上げる、そこのところがアフリカ青年研修の醍醐味の一つです。

3 3年間の受け入れを通して感じたこと
2008年から3年間で延べ19カ国、39人の研修生が来福しました。今年はそれに新規参加の国4カ国を含めて8カ国から延べ14人が新たに加わります。これまでの状況と研修を通して彼らから感じたことを述べます。
 なんといってもアフリカは人類発祥の地、その体格の立派なこと、またしなやかさ、リズム感のある身のこなし、原色の似合うファッションなどに圧倒されました。一方で、日常の態度や親しみのある笑顔からは、世界、人間みな同じだな、と感じることも多々です。
 彼らは、それぞれの国の農林省などに所属する官僚が多く、国を背負ってきていることもあって研修態度は真摯で、熱心で積極的、本質を突いた質問攻めに受け入れ機関がたじたじになるような場面もしばしばです。また、研修後のあいさつも外交辞令を入れながら堂に入ったもので、将来国の農政を担っていく覇気が感じられます。
 ただ、その意見、考え方は日本の官僚と共通したところが多く見られ、まとめなどでその内容がどうしても抽象的な表現にならざるをえないきらいがあります。立場が同じであれば思考や表現方法も似てくるものだなと理解しています。

4 印象に残った質問、指摘、反応な
2008年度、ある普及所を会場として、普及員10人ほどと意見交換の場を設定した時に、「何故10人の中で女性が一人しか参加していないのか」と指摘があり、社会的に表に出る場における男性中心の世界を見抜かれたようで、いい指摘をしてもらったと思いました。
研修生においても2008年度は男性ばかりだったので、JICAにお願いして研修募集時に女性の参加を促してもらったところ、2009年度から女性の研修員も参加するようになり、雰囲気が変わりましたし、受け入れるほうとしても加工分野など研修対象の範囲が広がりました。
 2009年度、コンゴ民主共和国の一番若い女性の研修員が、「日本ではどこへ行っても子供の姿が見られない」との発言がありました。なるほど、日本にいては日頃そういう風景に慣れてしまっていて、特にそのような事は感じないものですが、中々鋭い指摘です。子ども数が絶対的に減少し、さらに日本の子ども達は囲い込まれ、管理されているのです。小学生は小学校、幼児は保育所、幼稚園など、家に帰っても車社会の道路で遊ぶ事は危険で外へでて遊ぶこともめっきり少なくなり、家の中でゲーム器で遊んだりしています。そういう環境下では子どもが見られないのも仕方ありませんね。
 2010年度、アジチファームへ行った時、「アジチファームやあぜみちの会のようないい取り組みをしているのに、なぜそれをもっと宣伝、主張し運動して国などを動かそうとしないのか」という発言がありました。確かに今までそういう努力はしたことがなく、どちらかというと自己満足の世界にとどまっているのかもしれません。われわれの課題だな、と思いました。
 2009年度、小学生と一緒に稲刈りをした時の研修生のいきいきした表情、東尋坊での開放感の表現、実った稲の田んぼを始めて見た時の感動の声、レインボーラインへ出かけた折、果てしなく広がる日本海の海の風景への感嘆の声などが印象に残っています.

5 いくつかの課題
 私としては英語、フランス語がまったくできないことが最大の障害です。もっと話しかけて親しくなりたい、色んなことを聴きたいと思ってもそれができないのです。さらに研修後の交流ができないことにもつながります。
 アフリカに行ったことがないので、アフリカの農業・農村が感覚的につかめないのがもどかしい。座学でも少しは補えるかもしれませんが、それは限界があるでしょう。われわれの作る研修計画が果たして彼らにとって役立つのか、意味があるのか、毎年悩むところです。そろそろ、研修に関わってきた関係者で『アフリカ農業・農村訪問団』を結成してアフリカの地へ出かける時が来たのかもしれません。
 アフリカの農民がこの研修に参加できないか、最初からの受け入れ側としての願望です。
手続き、予算、言語など色んな課題があると思いますが、一名でも二名でも是非実現して欲しいものです。
先日研修で福井市卸売市場へ行った時、早朝からたくさんの人たちが市場の仕事をしていたのですが、研修生が見学に廻るとほとんどの人が好奇心を持って眺め、ある人は話しかけたり、手をふったり、随行のわれわれにどこの国から来たのかと聞いたりしている光景を見て、市民レベルでこそ、率直な交流は可能だな、という思いを持ちました。江戸後期から明治初期にかけて来日した外国人に、日本人が大変興味を持ち、好奇心丸出しで、中には怖じけることなく直接身体に触りにいった、というような記録を読んだことがありますが、この好奇心は失われていないな、となんとなく感じました。グローバル化が進んだことを逆手にとってこの好奇心を満たすような機会がつくれれば面白いのではないでしょうか。



 
  安心安全な社会は未だ遠い
                    酒 井 美 恵 子

 この度の東日本大震災は、日本中ひいては世界中の人々の命を脅かす災難となりました。
 土も水も空気も放射線に汚染されました。当然ですが、食材は汚染されているので、現地から遠く離れている私達も魚一尾買う時も、果物一つ手に取っても、不安をぬぐい去ることは出来ません。ましてや、小さい子どもを持つ若い世代の人々や、福島周辺に住む人達はどんな思いをしているのでしょう。こんな時宗教のことを持ち出すのは不謹慎かとも思いますが、少しだけ持ち出すことにします。
 それは浄土真宗の開祖である親鸞が生きていた頃と現在がよく似ているという人がいることです。根本の問題は違いますが、世の中が非常に不安で、それを解消するのに、自分の努力ではどうにもならないという点で、共通性があるのではないでしょうか。
 昔は、世の中が混沌としていて、人々は暗中模索の中、飢えと病に苦しんでいました。人々は、神仏に祈り、仏教に救いを求め、信じることで苦境から逃れることができると思ったのでしょう。救われた人も悟った人も(生、病、老死を人生の中でいかに受け止めていくか)いて、人間らしい生涯を送れた人もいた筈です。しかし、僧も人間、私利私欲がつきまとって、だんだん邪教になっていくんのを嘆いた蓮如は、お文の中でその戒めのような文も残しています。近年は経済優先の社会が悪のように言われ、原発問題にまで及んでいますが、経済優先の社会は、今に始まったことではないようです。
おもしろいと思ったのは、死後の世界にもあるようです。「地獄の沙汰も金次第」と。これは代表的な言葉だと思います。死後の世界へ行くには三途の川があってその川を越えなければならないそうです。川越えには七宝の橋がかかっていて、善人だけがその橋を渡れるというのですが、ほんとうでしょうか。私は、身分が高くて、お金持ちの人だけが渡れるのではないかと思うのですが、その理由として平安時代には橋だけあるのですが、室町時代になると三途の川に渡し船が登場するのです。その渡し賃が6文要るというので亡者に6文持たせるそうですが、船賃のない人は急流で深い川を渡らないければ…ということになりますね。何とか川を越えるとそこには7つの法廷があり、そこで裁判を受けるのです。
裁判を受ける前には、亡者は全員身ぐるみはぎとられ、その衣を木の枝にかけられるそうです。枝の垂れ具合で先ず罪が決まるのですが、垂れ方が大きい程罪が重いそうで、金持ちは良い衣を貧しい者はぼろをまとっているので重さが違うというのでしょうか。平安時代には、7つの裁判官がいますが、室町時代に入ると裁判官は閻魔様だけになります。その閻魔様に袖の下を出すと罪が少し軽くなるのでしょうか?地獄の沙汰も金次第…というのですから。
次に罪には怒りと餓鬼と畜生の世界があり、怒りの中には正義の怒りというのもあり、正義のためなら地獄ではなく修羅の世界に留まれるのですが、度を越すと炎の地獄行きとなります。欲望の罪は、針の山へと追いやられますが、その中でも罪が重いのはビアだるみたいに太っている人で、生前にはおいしいものをたらふく食べて、御殿に住んで、働かなかったからなのでしょう。
畜生の罪は、血の池です。自分だけよければよいと思っている人、自分が一番えらいと思っている人で自分の愚かさに気づかない人を指すそうですが、そうなると深重はともかく、人は皆血の池行きですね。
情状酌量の社会は、死後の世界にもあるそうですから、現実の世界で経済優先の横行がそう簡単にはなくならないでしょう。日本中の農家が安心安全な農産物を有機農業で生産するのは理想の中の理想だと私は思います。原発を全部止め、農薬、化学肥料の生産をやめ、外国からの食糧輸入を控えたら、この膨れ上がった日本の人達を誰がどのように救うことが出来るのでしょう?
健全な食料を食べて、健康な命をつなぐためには自作自給が原則になります。安心安全な食の供給は、上からでなく、家庭菜園から発信しなければなりません。国や行政は、その農家を支える義務があると思います。今の制度を根本的に見直さなければ、原発も含めて、安心安全な社会を手に入れることは難しいと思います。何から始めるか、先ず実行に移すことが出発点ではないでしょうか。





 史跡「新田塚」と私  2
  新田義貞生誕地 群馬県太田市を訪ねて 
                     福井市 細川嘉徳

 平成二十三年八月四日(木)五日(金)と二日間に渡り、明新まちづくり委員会主催による、歴史と文化の交流事業に、地元一般人として参加することが出来た。新田義貞公の生誕地と戦没地の縁で、毎年群馬県太田市と福井市明新地区の少年が、相互に両県の新田義貞公に関係する史跡を訪ねて、歴史を学びながら文化交流を行っている。今回その訪問団に参加出来た。ことに感謝している。
 四日朝六時、一行はバスで出発、丸岡IC、小矢部川SA、長岡JTC塩沢石打SA、太田薮塚IC、生品行政センターに午後一時前に到着した。当日台風九号の接近で天候が心配されたが、途中渋滞もなく、バスの中では子供たちの集団行動上の注意事項や、「新田義貞公を讃える歌」の練習をしながら、予定通り無事到着した。
 生品行政センターで行われた歓迎式には、太田市市長が出席され、新田義貞公を中心とした福井市と太田市の交流事業は今回が八回目となること、これを機会に子供たちに歴史と文化の認識を深めて欲しいと挨拶された。続いて双方の役員紹介、児童の名刺交換等を行い、最後に福井はハーモニカ伴奏で昔から地元に伝わる「新田義貞公を讃える歌」を披露して歓迎式は終わった。
 このあと一行はバスで国指定史跡 生品神社境内に到着した。こんもりと繁る森の前の赤い大きな鳥居を潜り南朝時代からのものと思われる、古木が参道を覆い、途中二つの鳥居をくぐり拝殿に着いた。先ずは無事着いたことに感謝の念でお参りをする。多くの古木が密生しているので、それだけで威厳と歴史を感じてしまう。
 案内板によると、義貞は醍醐天皇の綸旨(りんし)を受けて、元弘三年(一三三三)五月八日、新田家の先祖を祀る、この生品神社で鎌倉幕府(北条氏)倒幕の旗挙げと戦勝祈願を行った所だと言う。その時集まった兵士は僅か一五○騎だったのが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、わずか十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたと言う。
 綸旨とは天子のおことば。おさとしと辞書に書いてある。清和源氏の流れを汲む新田家の頭領義貞に錦の御旗が渡されたも同然、三十三歳の義貞は苦渋の決断で、この神社で旗挙げをしたのである。拝殿の前には、その時大中黒の軍旗を立てかけたという、直径三メータもある巨大な椚(くぬぎ)の古株が保存されている。更に神社の南方二キロの所に矢止めの松があり、戦勝祈願の時神社で一斉に放った矢が、ここまで飛んで松の木に当ったと言う。義貞公にまつわる史跡が数多く保存され、その分地元の人々の熱意が感じられる。いま義貞公が、ここから出陣したと言う現場に私は立っている。それに対して、新田塚は義貞公の兜が出た所と言っても、場所は灯明寺畷(なわて)と言うことで戦死の場所は特定出来ていない。
 何れにしても今回はロマンに満ちた、太平記の世界にふれる中で義貞公の挙兵の現場に行けたことに感謝している。今回この他、金山城と新田神社、金龍寺など義貞公の史跡名勝も観光出来た。終わりに生品神社内に掲示されている歌を撮して来たので興味のある部分を紹介します。

新田義貞公の歌
         松田毛鶴作詞
一 赤城山風は速し
  生品の青葉の森に
  中黒の旗飜し
  天皇の倫司に應へ
  鎌倉を伐たでや置かん
  大丈夫の首途は雄々し

ニ 相模灘 潮は高し
  稲村が岬に立つや
  大刀投げて荒海干しめ
  皇軍の行く手を開き
  敵は皆攻滅しぬ
  大丈夫の功は著し

四 越の空野分けは寒し
  藤島の畷を征けば
  痛矢串頭を貫けり
  武夫の死せんは此所と
  我首自ら刎ねつ
大丈夫の最後は猛し

 帰りのバスの中で、このような歌が歴史を伝える文化的役割は大きいと思う。
 今後両県の少年が交流する中で、お互い地元に伝わる歌を歌い継いでくれることを期待します。


   夕霧       小林としを


原発を解雇されたる告発の歌集「紫つゆくさ」おろそかならず

放射能を消す薬欲し汚染されし広き農地は原野と化さん

放射能はまぎれていずや蒼天に輪を画きつつ鳶は舞いおり

バスに揺られ遠く来たりてひなびたる多田寺の森に鐘の音を聴く

ふたたびを訪えばなつかし根の国の登美子のかざしに明治が匂う

夕霧に包まれ進む車窓より見ゆる杉の秀墨絵のごとし

象牙色に暮れゆく空を突き差して影絵となりぬ河原のクレーン

おきぬけに下りゆく堤に楚楚と咲く宵待草は吾を攖いぬ

水色のタオル蹴りつつ泣き止まぬ曾孫と言ういとしき命




             北風尚子

新緑をまとう山路の木の間より今昇りゆく眞赤なる大陽

晴れわたる庭のひと隅くれないの散るは紅梅花びらしきり

しばらくは聞くこともなきカッ公の鳴く声聞きて古里しのぶ

きさらぎの庭に残れる山茶花の花白くして保つしずもり

まみゆる日再びあるや病む人の笑顔淋しく別れ来にけり

わが庭に幾年瀬前に植えたるかカタクリ咲きて春の訪れ

雲引きてくっきり見ゆる北斗星ひるの西風いづこに渡る

取りとめて買物もなきスーパーに孫と歩きぬカゴひとつ持ち

三時間の昼寝よりさめつぶらな目に泪して手を伸ばす孫

名を呼べば疾風の如渡る 車途絶えし夜の街道

特等のテレビを当てたる夏まつり一瞬どよめく宮の境台

いつの日もカーテンくれば中にいしちゃん(ネコ)逝きて永久((トワ))にかえらじ




お盆                   福井市五岳俳句会


炊き等がお能を演ず盆芝居   田中 芳実

終戦日還らぬ兄の書庫古び   阿部寿栄子 

盆の月明り誘ふ仏壇へ     伊藤 房枝

影武者が乗りて点滅花火舟   宇佐美恭子

我が里の山の真上に盆の月   黒岩喜代子

十六夜や眠れぬ儘に白みたる  小玉久美子

盂蘭盆会僧の撫で肩怒り肩   榊原 英子 

葛の花咲く花の無き杉叢に   坂下 政宣

ウインクを返す華甲の盆踊   近間喜久子

盆休み夜明の村は未だ醒めず  月輪  満

一人居の家にも明り盆の月   坪田 哲夫

茅の穂を舳先としたる精霊舟  橋詰美彌子

西瓜種飛ばす競争自吸うて   長谷川智子

祈り鶴稲穂揃ひし千枚田    畑下 信子

曾孫等と土手にて拝む盆の月  森本 絹子



   馬来田寿子

英霊のみたま安らかに終戦日

客送り我にかえれば法師蝉

あるなしの風にさ揺れる走り萩

十薬の匂ひいつまでも指先に

秋うちわ御師の一句描かれし

 


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