あぜみちの会ミニコミ紙

みち53号
(2010.7.1 初夏号)

撮影 松田宗一氏



シグナル53

福井市 中川 清

 石の上にも三年という諺があるが、早いもので、あぜみちの会が出来てから、二十年を過ぎようとしている。
 過ぎ去った年月は早いもので、あっという間であった気もするが、二十年という歳月はずいぶんな歳月である。
 あぜみちの会は、その間、機関紙「みち」を発行し(五十三号)収穫感謝祭(十六回)を催して来ました。併せて、あぜみちの会の顕彰も(十回)して来ました。
 確実に歩んで来た過去の年月と違って、これから先の二十年に思いをはす気が遠くなるほどの期間であると感じられます。例えば、五十歳の人は七十歳になる事である。七十歳の人は九十歳になる歳月を刻む事である。この歳月はまだ誰も見たことのない「未来」の世界である。二十回年を迎えるにあたり、今後の展望を私なりに夢見てみました。
 あぜみちの会は、今回も機関誌みち=未知=を発行し続けてこれからの二十年を見続けられたらと思います。毎年、収穫感謝祭を催し、あぜみち賞も顕彰したいものです。
 継続は力なり・・・その  を・・・とそう願っています。

 


          やりたい事、山ほど

                                       名津井 萬

  私は、稲作と酪農と乳製品加工と併設した農産物直売所を経営している。直売所は、まず販売高を上げなければとの思いで、三・四ヶ所外販出店をしている。其の一つ、風呂屋さん「G湯」の一隅で、農産物や加工品を並べていたら、一人の老婦人が来て、「いい野菜だね。あんたが作ったんかね。」「いや、野菜は園芸農家の生産された物を委託販売しています。」「あんたも農家かね。」「はい、私も一農家で米作りと乳しぼりをやっています。」「私も農家生まれで、大野のY地区の生まれで、昭和一桁の最初の年の生まれです。あんたは・・・。」「僕は昭和一桁最後の年の生まれで、今七十五です。」「えらい、あんたは今が働き盛りで、世の中の甘いも酢いも色々体験している筈だ。あんたの様な人、農家、が今の日本に一番大切なんだ。このままの日本だと、今に中国になってしまう。」と今の日本の政治と世相を憂うつと共に、七十五の私を「今が働き盛り」と励まされ褒められたのは初めてである。驚いた。老婦人は、今の日本は幼な過ぎると熱弁を振う。圧倒されてしまった。そして最後に今の世の中、横糸が強く、縦糸が弱すぎる。昔は縦糸がしっかりしていて、それを横糸が支えた。そんな国でなければならない。「あんたは、未だ、未だ、これからだ。」と励まして立ち去った。
 私は今日まで、年齢の事は、あんまり考えた事も無い、今もそれほど考えていない。他人様から時に、年齢の事を云われる。先日、獣医のYさんが「あんたが、福井県の酪農家で最高齢者だ」と言われた。アッ、そうかも知れないなあと思っている。こうなったら「ギネスブック」に記録されるまで、酪農家として、農業経営者として勤めたいと密やかな私の最後の目標と希望が出て来た。私の自慢は唯一つ、骨密度は二十歳台の平均の上である。それは、米、野菜、魚の最高の日本食に、牛乳と肉の最高の洋食を食し、毎日、毎日、汗を流しているからだと思っている。そして、やりたい事は山ほどある。
 ある言葉に「若さとは人生の、ある時期を言うのでなく、手常の心の持ち方を言うのである。人は歳月を重ねたから老いるのではなく、理想を失った時、老いるのである。」




      百姓にかける思い

                       エコファーム  三ツ井一央


 私は今年五十才になりました。野菜農家を始めるあたり、早いのか遅いのか、自分ではせめてあと五年早く始められたらと思っています。しかし、過去にやってきたさまざまな仕事が有るから現在が有るのも事実です。
 JA職員でスーパーを経験した事で、流通・販売・市場調査等を学びました。当時の流通には多くの手がかかりコスト高になる事を知り、農家から直接野菜を購入して販売も行ないました。商品によっては原価を割って安く販売したり、原価の3倍・4倍で販売する事もしました。時には、ただで仕入れた野菜で十万円の売上を上げた事もありました。こんな事が出来た裏にはどんなに忙しい時も市場調査を欠かさなかった事があります。週に3回は地元の競合するスーパーへ出向き販売価格はもちろん、販売方法・アイテム数・店の作りまで調査しました。
 又、私は水稲専業農家の経験もあります。丸岡町で、12、3年行なっていました。当時は条件の悪い圃場が多かったので、1人で10町しか出来ませんでした。多い年で、70枚近くの圃場を管理していました。1反を切る圃場は20枚近く有り草刈りが仕事の中心でした。当時の私は、理由はいろいろ有りましたが、有機農業・減農薬農業に力を入れていました。特に農薬に関しては強い抵抗があり、使用に当たっては、何度もためらいをおぼえて使用していました。この件では、現在も将来も同様だと思います。
 現在、私は、あわら市に拠点を置き、野菜農家として活動を始めました。新規就農という事で、農地の確保からの出発になり約2ヶ月調査し、結果的に耕作放棄地に決まりました。主な作付野菜としては、来年の施設完成後は、軟弱野菜を栽培し、露地では人参が主力野菜の計画をしていますが、今年は、露地だけでなので、黄色と赤色の人参とブロッコリを中心に、キャベツ類・大根類・にんにく・玉ネギなどその他いろいろと作付しています。9月中旬現在、多量の草と数多くの虫との格闘になっています。開墾地という事もあったので、ある程度は覚悟していましたが、毎日の草取り作業と虫潰し作業はかなり腰に来ています。又、近くには多くの休耕地もあり、ハクビシンという野の物も出て来ます。仕事としては、水稲農家には無かった別の大変さと、それにも増して多くの楽しさがあります。現在では秋分の日も過ぎたので朝5時では暗いのですが、楽しくて5時頃から畑に行って明るくなるのをまっています。
 私の行なう農業は、農薬・化学肥料を減らし、あわよくば、無農薬での作物栽培が中心になって行くと思いますが、大変さ以上の楽しさがそこにはある事を私は知っています。
 最後に、私が百姓として再出発出来た裏には、数多くの協力者がおられました。その方々に感謝しながら、今後も百姓として、頑張っていきます。





    雑感(近頃思うこと)
                    
酒 井  恵 美 子  

   今年は、天候不順で何が温暖化なのと言いたくなるような日が続きました。私の場合、少々の雨が降っても手がかじかむような寒い中でも外に出ざるを得なかったような気がします。晴耕雨読なんて言っていたら、毎日雨読ばかりで学者になってしまいます。と言ったら、いかにも働き者のように聞こえるかも知れませんが、終日、家の中で暮らすことが苦痛な体になってしまっているようです。
 野菜が高騰し、収入が冷え切っている折、家庭はたいへんだろうな…と思います。私は、昨年より中藤島女性部のグループ活動の一環として「おいしい野菜の作り方」のノウハウを研究(といっても大したことではありません)しながら、良心的な野菜を直売所に少し出荷してきました。
 この春は黒河マナとのらぼう菜も少し持っていきました。黒河マナは敦賀の特産で、マナ祭も開かれていることや、のらぼう菜は、関東地方の伝統野菜の一つでビタミンCは法蓮草の何倍も多いとか等々一つずつ説明をつけて張りつけておくのです。家族や近隣、知人等に分けて余分な分だけの出荷ですから量にすれば僅かなものですが、いつも、何を出しても殆んどその日の内に完売です。
 ある日、消費者の一人が「この間のここに置いてあったあの折り菜はもうありませんか」と言うのです。野菜には旬があるので期間が過ぎれば無くなることを消費者の方は知らないのだとは思いますが、覚えていて下さっただけでもうれしいものです。近頃は、生産者の名前を見て買い物をする方も増えたようで、「この間の○○はおいしかったので又持ってきてくださいね」と声を掛けられることも何度かありました。
伝統野菜の何たるかは、手に取って食べてみて評価されるものだと思いますが、加えて、生産者は、作ってみることで、一時廃れたものが復活してきた理由を検証してみるのも大切なことかなと思います。
 そこで私も伝統野菜を少し作ってみようかと思い始めています。
 昨年の夏、るるぶの会で伝統野菜を作っている畑を視察する会がありました。その中で、田谷さんが丹精された吉川なすは本当に見事なものでした。多分料亭などで田楽等に調理されているのでしょう。流通ルートには乗っていないようです。予約があるので分けてもらうことは出来ませんでした。来春、苗を分けてもらえないかと思ったのですが、断られました。数年前に種取り交流会の時に戴いた種を思い出して今年蒔いてみたのですが、他のなすは芽生えたのに吉川なすは二~三本発芽しただけで、それも未だ本葉が一枚展開したばかりです。この分では、いつ実りになるやらと展望が開けません。
 四月末日、田谷農園に春野菜の苗を求めに参りました。九頭竜川の堤防を十分程走ります途中カラシ菜の七分咲きがずっと続いていました。流れをよくするためか自然に生えた河中の雑木を伐採し所々山に積み上げられていました。対岸の方は市民農園が続き自然の営みに程よく人の手が加えられた堤防は見事な景観を呈していました。田谷農園で真先に目についたのはあの吉川なすの苗でした。思いがけない出合いに浮き立ちます。十本限定のところ、他の人のことも思い早速五本買い求め、私のささやかな夢ですが、育ててみようと思います。ピカピカのソフトボール大の吉川なすが脳裏に焼きついています。
 農産物に限らず、経済性があり、労少なくて実り多いものへと突っ走ってきた今、多くの問題が残り、人々はとまどっています。伝統的野菜もだんだん陰をひそめて参りましたが、伝統的な文化を、野菜を通して考えてみるのも意義があるのではないかと思うこの頃です。
 参考までに、渡辺京二著の『逝きし世の面影』の中に「幕末に日本を訪れた欧米人の見聞記」が紹介されているそうです。「日本という国は、とても美しく、日本人は平和で穏やかで、礼儀正しくて、日々を充実して生きている。やがてこの国に資本主義社会の競争原理が持ち込まれるようになれば、不幸が訪れるだろう」…と。(家の光の中に山田洋次さんの記事より)




   農業経営の確立過程における経営者能力の発揮(連載3)
 
                                          代表  玉 井 道 敏

5)山間地における農林業複合多角経営の継承

(1)立地と経営の概況

 F農場のある福井市足谷町は、福井市街地より車で40分、標高250mの山あいにある。集落戸数は2戸、以前は8戸あったが、昭和38年の豪雪時に1戸が離村、その後、昭和58年前後に離村が続き、大きく戸数が減少した。
 現在、炭焼き(2トン/月)を経営の柱とし、水田72a、森林26ha(人工林16ha、天然林10ha)、しいたけ原木1万本、花木50a(8種類)、桑畑50a、このほかギンナン、山菜、ホウレンソウ、木酢液などを生産し、養蚕も行っている、いわゆる多角経営、少量多品目生産を営む農林複合経営である。
 継承者のSH氏は、妻と子供4人、両親の8人で、築後130年の家屋に暮らす。SH氏は中肉中背、温和な性格でゆっくりと丁寧に話す。学生時代から剣道をやり、体力と精神力には自信がある。

(2)経営の継承

 昭和60年に結婚(S家に婿入り)し、福井市街地で2人で暮らす。当時SH氏はサラリーマンであった。週末を利用して妻の実家の手伝いに行くうち、次第に山の暮らしに関心をもつようになる。平成5年会社を辞め、長男の小学校入学を機に、妻の実家に入り、本格的に里山暮らしをはじめる。
 SH氏の就農に対し、妻の父、SO氏(71歳)は、最初反対した。しかし反面で脈があると見ていた。というのも、SH氏がサラリーマンで都会を知っていたし、また娘であるSH氏の妻も大阪に住んでいた経験があったからである。「田舎暮らしだけしか経験したことのない人は、どうしても田舎の悪いところばかり目に付く傾向にある。田舎も都会も両方経験していることが大事。ふたりとも、それを知っていたから」とSO氏は語る。
 SH氏は最初の3年ぐらいは仕事や環境に慣れるまでは、苦痛を感じることが多かったようだ。炭焼きや森林管理の経験は全くなかったが、それでも義父と一緒に仕事をしながら、自然と田舎暮らしになじみ、また、森の技を習得していった。当時は蚕もかなり飼っており、桑を食べるものすごい音にも感動したという。
 義父は義父で、後継者育成に関し一つの考えをもっていた。それは、「あとを継げといって首に縄をつけて引っ張ってきてもだめ、強制しても後が続かない」、という信念があった。あくまで自分で職業を選択させ、その意思を見守る姿勢を第一としていた。ただし、経営の基盤づくりには応援を惜しまない。妻は「やはり経済的な面で一番心配だったので、実は反対しました。辞めておこうといったのですけど、主人が『やってみないとわからないだろう』の一言で決断しました」と言う。SH氏は彼なりに、就農するにあたって義父が築き上げてきた経営の基盤をしっかり見ていたという。
 義父、SO氏は、福井県の指導林業士第1号の認定を受けた森の名人である。また『もりのくににっぽん運動』で、全国のなかで『森の名手、名人100人』に選ばれた。そのSO氏も、炭焼きや水田作業をSH氏に任せるようにしているという。任せることで寂しくないですかと聞いたところ、「あけわたす寂しさよりも、受け取ってくれる喜びのほうが大きい」という。SH氏に、誰を一番尊敬しますかと尋ねたところ、「義父です」ときっぱり言う。2世代間で、山間地での多角経営は、確実に引き継がれていくことであろう。
 村からみんなが去っていくのに、どうしてここにとどまれたのですか、とSO氏にお聞きしたら、小さい時に父を亡くされたことをポツリと話された。これまで病気ひとつしたことのない気丈なひと、気骨のあるひとである。亡くした父のためにも、村にとどまり、父の意志を継ごうとされたのであろうか。炭焼きの煙たなびく山里で思った。

(3)経営の基盤

 現在、炭焼き釜を三つ保有する。釜と小屋はいずれもSO氏の手づくりの作である。クリ材で作った小屋は、積雪や風にも強く、少なくとも50年はもつという。
 多角経営は労働分散にもなるし、危険分散にもなる。林業は50年以上の生産サイクルとなることから、その期間を経営的につないでいく上でも、この多角経営は、まさにSO氏のいう「経営の基盤」となるものである。月々の一定の現金収入をもたらしてくれるものである。
 水田は枚数30枚、1枚当たり区画2.4aと中山間地特有の小区画圃場である。収穫はバインダ利用がほとんどで、一輪車を利用して運搬する場合もある。
 炭焼きは、煙の匂いや色でできあがりを見極める。冬と夏とで、また釜に入れる木の大きさでも違ってくる。一度として同じ仕上がりはないという。15年ぐらいの経験でやっと納得のいく釜揚げができるという。夏場は2回/月、冬場は2回半/月の割合で釜焼をする。昔は天然林のあるところで釜を作り(1haに1釜の割合、1釜作るのに20日程度かかる)、そこで原木がなくなるまで炭焼きをした。通常3~4年過ぎると、また別のところに移動し、新しい釜を作ってきた。SO氏はこれまで10釜程度作ってきたという。今は、自宅近くの道路沿いに固定釜を作り、そこに原木を運んできている。
 近年、50年ぐらい経過した天然林(クヌギ、ナラなど)が枯れはじめている。ある程度の年数のところで伐採(ぼう芽更新)しないとだめなようだ。炭焼きが盛んなころは、一定年数で伐採していたのでこういうことはなかった。枯死の原因は、山が管理されなくなってきていることと、環境汚染があるのではと、SO氏は語る。

(4)交流の上に築く農場へ

 SH氏は農産物の履歴を公開する、いわゆるトレーサビリティということを耳にするにつれ、さみしさを感じると言う。いろいろとあれこれ証明しないと相手に理解されないのは、本来の人間関係ではないのではないか、そのためにも農場にきて、直接見てもらって、また農業、林業の作業体験をして知ってもらいたいという。
 もうひとつ、売れるものを作るということにもひっかかるという。消費者におもねるのがさみしいという。消費者と生産者との関係はフィフティ・フィフティであり、加えて収穫する喜び、町にないものを作って町に還元し、食べてもらう喜びを大切にしている。このことは顧客満足度を高める。消費者に軸足を置いた生産ということと、SH氏の思いには、根本的になにか違いがあるように思われる。
 農場は「えふ・えい・らんど」という名称をつけている。「えふ(F)」はフォーレスト(森)、「えい(A)」はアグリカルチャー(農業)、「らんど」は大人から子供まで楽しめる場所を意味している。氏は、これまで農場に人を招きいれて、炭焼き体験やしいたけ収穫体験、バーベキューなどをしてもらっている。また農業者仲間で毎年行っている収穫祭を、平成14年11月23日に当農場に誘致し、500人以上の来場者があった。来場者に対しては、あくまでおしつけでなく遊びながらの感覚で、楽しんでもらおうというSH氏の想いがある。またそれを通じて「緑の大切さ」を感じとっていただけたらと言う。
 SH氏には、将来多角経営をむすびつけながら、山をまるごと利用した体験型のオーナー農園、オートキャンプ場を作りたいという夢がある。花木や果樹に囲まれ、遠く日本海を見下ろせる場所にログハウスを建設する予定がある、ひとつの拠点づくりである。





   蕗の薹       小林としを


宝物失いし心地して消しゆく名簿にその名を惜しむ

眠られぬ夜半を灯して書く手紙聞く耳持たぬ人救うべく

凍て土を押し上げ萌え初むさみどりの蕗の薹摘む堤のなだり

火照り止まぬ頬を冷やしぬ自己嫌悪鎮まらぬ夜は消え入りたくて

尊がる誦経の声に夫の霊暗きみ堂のおくどに顕たむ

出勤前の子らはハウスに苗運ぶライスセンターは車蠢めく

こわれものの如き齢を撒く水に生(あ)れくる虹にときめきにつつ



里に春・山に春    鉾の会


走り根を砦(とりで)としたる蕗の薹        田中芳実

畦を塗る掌(てのひら)厚き老農婦        阿部寿栄子

ちゃんちゃんこ着せて兎の作り雛        宇佐美恭子

飛花落花蝶の如くに門潜る            黒岩喜代子

ぶーぶーに機嫌(きげん)良き子や日の永き  小玉久美子

公園の小さき流れに花筏(いかだ)        月輪満

どの道を行くも桜の花盛り            畑下信子

野仏の供花となりたる折れ桜          嘉藤幸子

黄水仙群れて咲きたる暖かさ          小林重俊

恋雀御堂の裏に落ち行けり           榊原英子

春疾風(はやて)過ぎて馬の尾すんなりと   中川ヒロ子

木瓜(ぼけ)の花手折りてうかと指を刺す    西本きく

囁(ささや)きてうなづき合うて鳥帰る      橋詰美禰子

山里や墨絵暈(ぼか)しに黄沙降る       前田孝一

芹を摘む畦道行きつ返しつつ          松永和子







             馬来田寿子


花の庭禰宜(ねぎ)の袴のよく似合ふ

初花に出合える旅の待たれたる

北潟湖声を残して雁帰る

パーティーとなれば好みの春袷

大前の花に願ひを結びたり





 


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