あぜみちの会ミニコミ紙

みち52号
(2009.11.7 立冬号)




シグナル52

福井市 中川 清

 六月四日を「虫歯の日」と言うらしい。
 八十二十といって八十歳で二十本の自己の歯を保持することを、理想とするという。今更のように、健康と幸せな長生きの為、歯の大切さを再認識する次第でし。歯でものを噛むことが、脳の活性化に大きな作用をするといいます。充分理解をする事を「噛むで含める」と言いますね。噛むと消化液が作用して、消化が良くなるのは、食物だけでは無いのですね。
 歯「は」も大事ですが、母「はは」も、大事にしたいものですね。歯も母から貰ったものですね。先祖、親の恩の事です。更にもうひとつ・・・「は・は・は・」の生活も、心がけたいものです。笑顔、笑いのある日常生活が、大切なのですね。
 六月、稲がすくすくと育っています。我が家の有機栽培の田の、その稲の株もとに、「たにし」が群がっています。この間、都会の児童たちが親子で「たにし」を見学にバスでやって着ました。「たにし」の実物を見るのは、児童たちは初めてかも知れませんが、一緒にきた大人が、魚取りのたも網で掬って、捕まえていました。ペットボトルに入れて、持ち帰り、水槽で飼うんだと言ってました。
 「たにし」は藻を食するので、水槽の水の浄化に作用するということを、インターネット検索で知り、またひとつ、勉強になりました。

 




          勇気・卑怯


                                       名津井 萬

 私は、中学卒業と同時に農業に従事した。その頃、農業用排水路は素堀りで、春は「江堀(えほり)」と云って水路の泥土上げ、夏は「フチ刈り」と云って水路の雑草刈り、それらを総じて「人足」と云って、年に何十日も出役した。「一服」と称して約一時間ほど、道べりや土手に坐って雑談に花が咲いた。私は最年少のペイペイなので、何時も片隅で黙って在所の先輩の話しを聞いていた。聞く楽しみがあった。その頃、ほとんどの先輩は、軍隊や戦場帰りで、人の真実を知った。
 Nさんは、フィリピンの戦場に居た時、小隊長として陸軍士官学校を卒業した若いバリバリのエリートの少尉が着任して来た。或る日、追撃砲の着弾地の計算法について、若い小隊長の説明と指導があった。しかしNさんは計算法に違いを感じ質問し、自分の計算法を述べたが受け入れられなかった。しかし翌日、若い小隊長は小隊の兵の前で、「N兵」の計算式が正しく、自分のが間違っていたと述べたそうである。Nさんは、若い小隊長の「勇気」に感動したと言う。その小隊長は「統率力のある、部下に信頼される。非常に勝れた青年であった」と言う。ちなみに、Nさんは学歴こそ無いが計数に強い頭脳を持っていた。弟さんは大阪産業大学理事長を務めた人である。
 私の義理の叔父は現在九十八才である。若い頃、脇坂部隊の中隊長として「南京政略戦」に参戦した。その頃、補充兵が中隊に入って来た。その中に一人「関西のヤクザ」で、「要注意」との引きつぎがあった。或る日、突然の敵の襲撃があり、大戦闘が繰り広げられたと云う。終わった後、戦死者、負傷者の点検を行い報告があった。行方不明が一人あった。それが「関西のヤクザ」であった。おそらくは勇敢に戦い戦死したかも知れないと思っていた。夜中に叔父の幕舎に一人の兵が入ってきた。それが行方不明の「関西のヤクザ」であった。そして「中隊長殿、戦場は怖いです」と言ったそうだ。何と「卑怯」な人間かと思ったそうだ。人間、「土壇場」に直面した時の心構えが大切だと叔父は言う。
 ちなみに叔父は、敵弾で二度負傷し、今も一弾は体の中にある。レントゲンで白く映る。「勇気」と「卑怯」に対する心構えが大切と思っている。






      自然と人の和をモットーに養鶏と食育活動

          
        ささえたまご農園 佐々江良一


 会社勤めを辞め自然養鶏業に飛び込む
 福井県敦賀市は港で栄えた人口6万8千人の町で、海と山がとてもきれいな所です。その市街地から約3キロ離れた旗護山の中腹に「ささえたまご農園」があります。岡山県で生まれ育った私は、昭和49年関西電力に入社し、サラリーマン生活の傍ら1万メートル陸上競技の選手として全国実業団大会に出場していました。選手生活の中で「トレーニングだけでは、身体のバランスが崩れる。食事の際の栄養バランスが大切」と実感し、自炊での栄養管理を目的として昭和54年に料理学校に通い始めました。3年間先生の指導を受け、各種学校家庭料理教員資格を取得することができ、今でこそ当たり前となった食育に目覚め始めた私は、定年後に料理学校で学んだことを活かしたいと思っていました。
 それから約20年後、県内の養鶏家が「ニワトリさん、ごめんね。毎日ありがとうと感謝の気持ちで卵を拾う」という雑誌記事を偶然見つけました。当時私は小学校のPTA会長などを勤め子供の健全育成に携わっており「まったくそのとおり、鶏のおかげで卵が食べられる。子供たちにも卵ひろいを体験してもらえば、きっと生き物や物を大切にする気持ちが育っていくだろう」と思いました。そこで、養鶏と食育を兼ねた仕事ができないかと考えるようになり、平成12年県内の平飼いの養鶏家を家族で訪ね、会社勤めの傍ら鶏を50羽飼い始めました。近所の人から卵を分けて欲しいと言われ販売したところ好評で自然養鶏に手ごたえを感じ、また義父から「実は鶏を平飼いするのが夢だった」と聞き、平成13年45歳のときに会社の選択定年制度を利用して退職しました。そして、”自然と人の和“をモットーに、元気な鶏を育て、卵を販売しながら料理教室を開いて、地域の皆さんの健康や食育に役立ちたいと、「ささえたまご農園」をつくりました。

自然の恵を凝縮したこだわりの卵生産
 農園は、杉林に囲まれた谷合にあります。妻の実家の棚田を借り、育苗ハウスを活用して鶏舎を作り、水は近くの谷川から引いて与えました。ストレスに弱い鶏の健康を第一に考え、鶏舎の外には広い運動場を設け、約5メートルの段差を鶏が自由に上り下りできるようにしました。餌は、『自然卵養鶏』という本を参考にくず米、米ぬか、とうもろこし、おから、カキ殻、のこくず等を混ぜ合わせ、バイカコーソ菌を加え3日間発酵させたものを与えました。発酵させた餌を与えることで、卵の臭みがなくなり、糞もそれほど臭いませんでした。また、卵は洗うと表面のクチクラ層という膜が取れ細菌が入りやすくなるため、妻の両親に手伝ってもらって一つ一つタオルで汚れを落とすことにしました。
 鶏の数の目標は450羽とし、まずは150羽から開始しました。卵は毎日約100個生まれましたが、お客さんはすぐに見つかるはずもなく、毎日知り合いに農園の紹介とPRを兼ねて卵を配っていました。ちょうどこの時、県の広報テレビ番組で農園を紹介してもらい、放送後地元の方から「卵を配達してほしい」と電話が殺到し、あわてて鶏をさらに増やしました。
 卵を配達しているとお客さんから、「卵の黄身の色がどうして薄いの」「どうして卵の大きさにバラツキがあるの」など質問を受けました。市販の卵との違いを理解してもらう必要があると思い、『風だより』とタイトルを付けた手書きの便りを作り、お客さんに配布しました。
 また、お客さんから「ぜひ烏骨鶏の卵がほしい。体に良いので」と言われました。烏骨鶏について調べてみると、中国では古くから薬膳料理や漢方薬の材料として珍重され体に良いと分かり、早速飼い始めました。烏骨鶏は、普通の鶏と違って平均として十日に1個しか卵を産まないため、販売価格を1個300円としました。初めはなかなか売れませんでしたが、お客さんの口コミで健康を気遣う人への贈り物にも重宝され徐々に売れ始めました。私自身もその頃、慣れない配達等で肩こりや頭痛で度々寝込み、農園を続けられるか大きな不安を抱えていましたが、烏骨鶏卵を毎日食べるようになって調子が良くなり、意欲をもって仕事に取り組むことができました。

自然卵の加工品が経営の柱となる
 養鶏は軌道に乗り始めましたが、卵の販売だけでは家族4人が食べていくことはとても大変でした。そこで、平成14年料理教室や卵拾いなどの体験教室を始め、さらに料理教室で好評だったチーズケーキとプリンを販売することにしました。自宅の横に小さな工房作り、注文販売から始めました。新鮮な卵をたっぷり使った濃厚なチーズケーキは、形やパッケージなどいろんな人の意見を聞き試行錯誤の結果、今では一番の人気商品です。プリンも、調理師学校の先生のアドバイスを受け、改良を重ねた甲斐あって、直売所やスーパーでの販売が定着し経営の柱となっています。さらに、平成18年には卵をたっぷり使い保存も効くカステラを作ろうと、大型のオーブンを購入し、菓子職人の方から指導を受けました。最初は、なかなか思うように膨らまず心配しましたが、試作を重ねて『烏骨鶏かすてら』と『米粉のかすてら』を作りました。『米粉のかすてら』は、できるだけ地元の材料を使いたいと思い、小麦粉の代わりに福井県産コシヒカリの米粉を使いました。また、カステラに使う蜂蜜も昨年秋から県内の養蜂家から直接分けてもらっています。

自然養鶏で資源循環に取り組む
 大事に育てた鶏も、1年経つと卵を産む量が減ってきます。このため、新しい鶏と入れ替える訳ですが、健康に育てた鶏なので廃鶏の鶏肉も安心して食べてもらえるのではと考えました。しかし、希望通り扱ってくれる業者が見つからず、当初は自分で処理し近所の人に食べてもらっていました。根気強く業者を探し続けたところ見つかり、冷凍包装食肉販売業の許可を取得して、5年目にしてようやく鶏肉の販売ができました。この結果、県内の肉卸売業者も扱ってくれ、「スープをとってもあくが出ず、鶏本来の味がする」と、ホテル等でも使ってくれるようになりました。
 また、餌の材料となるおから、くず野菜、のこくずなどは、豆腐店やスーパーなどが廃棄するものを回収して利用しています。さらに鶏糞堆肥は、市内のみかん農家や、近隣のJA女性部なども家庭菜園に使ってくれています。みかん農家からは、堆肥を3年間使用したところとてもおいしいみかんができたと喜ばれています。

鶏や自然から学ぶ食育活動
 子供たちに体験させる夢を実現するために、平成14年鶏舎の横に料理教室が出来るコッコハウスを建てました。すぐに地元小学校のPTAから、親子のつどいに使いたいと連絡がありました。役員さんと相談し、餌やりと卵拾いをした後、チーズケーキなどを作ることに決め、当日は何とか無事実施することができました。
 農園を訪れた子ども達は、「かわいい!」と歓声をあげて大根の葉などの餌をやり、鶏と一緒に農園を走り回ります。鶏を抱きかかえ鶏のぬくもりを感じて、鶏も自分達と一緒に生きていると感じます。卵を拾うと「あったかい」「ごめんね、ニワトリさん」という言葉が自然に出てきます。試食中には私から「卵の黄身の真ん中にある白い点が命の源の胚盤。20日間温めるとヒヨコになる」「鶏は栄養が足りないと他の鶏のお尻をつついたりしていじめる。だからみんなも栄養不足でイライラしていじめやけんかをしないように、しっかり朝ご飯を食べよう」と子ども達に話します。また、食前の「いただきます」は、「動物や野菜の命を私たちの命にかえさせていただきます」という感謝の気持ちを伝えるものと説明しています。
 農園での食育活動は他では体験できないものと好評で、近くの小学校や保育園、隣町の中学校でも体験学習が定着しています。年々体験者が増え、今では年間約600人の方が農園での体験をしています。子ども達が大人数で訪れるときには、近くの食育ボランティアの方に応援に来てもらっています。
 また、食育は子どもだけではなく大人にも必要と思い、大人対象の料理教室も毎月行い、長い人では5年程通っています。私自身も、農園を始めたときから再び料理学校に通っており、先生から「長く通っている生徒さんにやる気を持ってもらうために資格が取れるようにしたほうが良い」と、平成17年に料理学校の分校扱いにして頂くことができました。

地産地消の取り組みで広げたい食育の輪
 振り返ってみると、平成16年には鳥インフルエンザの影響で客足が遠のき、夢である体験農園の道が本当に厳しいものと思えました。ちょうどその頃、農園を広く知ってもらおうとホームページを作ったところ、全国放送のテレビ局の方がインターネットで見つけて連絡をくれました。そして、番組で特別な卵と紹介して頂いたことで再び来客が増え大変救われた思いでした。
 今年に入り、原油やトウモロコシの高騰で鶏のエサ代やガソリン代が上昇し、600羽の小規模養鶏には非常に厳しい状況です。先日、やむなく卵を1個10円値上げし60円にしたところ、宅配のお客さんが3割程度減りました。今後益々状況が悪化しないか心配ですが、お客さんに喜んでもらえることを第一に考え、烏骨鶏を増やし、加工品販売や体験教室を充実させていくことで、希望を持って取り組んでいけるものと信じています。
 昨年、卵拾い体験にこられた方が、拾った卵で卵かけご飯を食べられて大変好評でした。そこで、かまどでご飯を炊いて卵かけご飯を食べればもっと良い体験になるだろうと、今春農園にかまどを設置し、『かまど炊き・卵かけご飯体験』を開始しました。早速地元の小学生が体験してくれ、数日後お母さんから、「うちの子供が、卵かけご飯がとても美味しかったので毎日食べている」と、お米の消費拡大にもつながる嬉しい感想を頂きました。
 今後は、農園を「食育セミナーハウス」と名づけ、これまでに知りあった方に講師として参加してもらい食育の拠点施設になるように活動を広げていきたいと思います。菓子職人や管理栄養士、稲作農家の方などにそれぞれの得意な話をしてもらい地元でとれたものを使っての料理講習を開催し、参加された方には鶏にもふれあってもらえたらと思います。
 農業を職業に選んだことで多くの人と出会い、自然の中で精一杯働く喜びを学ぶことが出来ました。地域の方々に支えられていることに感謝しながら、これからも食や農業の大切さを伝えていきたいと思います。




    食料の安全は、家庭菜園の自給から学ぶ
                    
酒 井  恵 美 子  

  東京の真ん中にある足立区都市農業公園の取り組みのことです。「田んぼに餅米の苗を植えました。穂を出す頃になると(穂の中には乳液状の白いものがあり、すずめなど鳥の大好物)町中のすずめが一斉に舞い降りてきて、このたまらない御馳走に群がります。〔クォオラー!!〕の罵声もほんの一時しのぎ。防鳥テープを張れば、好都合の止まり木。がまんも限界に来て田んぼをすっぽりとネットで囲んでしまいました。ところが、ごこから潜り込んだのかすずめは、外敵のいない安全地帯、この世の極楽、パラダイスになりました。又、野菜の種は、播いても播いても生えません。(発芽するときアルコールの臭いがするのをかぎつける)鳥は我先にと芽を食いちぎってしまうので、御陀仏です。仕方なく苗を購入して植えれば、次は芯食い虫です。食われれば苗はひとたまりもありません。長さ5ミリ位の虫が新芽の一番大切なところを食い散らかすからです。虫眼鏡と爪楊枝で一株一株調べて退治です。薬をかければ一発ですが、(小さな虫の死骸を鳥が、その鳥を大型の動物が・・・と、植物連鎖は次々と拡がり、人間の口に入る頃には、元の何千倍の濃度になる)植物連鎖を考えて対処してようやくの実りの収穫になりました。芯食い虫は、夢の中まで出てきました・・・」と。
 東京に限らず有機栽培の一般の畑でも、大同小異。安全で美味しい作物は、こうした並々ならぬ苦労と努力のたまものではないでしょうか。過酷な労働も、手間のかかる労力も、旬の美味しさを夢見て、堪えられるのではないかと思います。『地産地消』『知産知床』の重みを思わざるを得ません。この有機栽培で作られた作物を、農薬・化学肥料だけで育てた農産物と同じ価格で提供・・・ということになれば、生産者としては当然不満が残ります。一方、消費者にすればこうした安全で美味しい農産物は、金持ちでないと買えないのか・・・との声が上がるのも又、しかるべきものがあります。このような一見矛盾した農業の状況になってしまったのは、どうしてなのでしょうか。農業を経済産業と同じように扱われてきたことに由来するからではないでしょうか。農業は経済産業でなくて、国の政治の問題です。他の産業と切り離して考えなければ、問題解決にはならないでしょう。農業を切り捨てた政治は、危機的な食糧事情に追い込んだ大きな要因です。かつての経済界の代表の一人が「日本には農業は必要なし。外国から買えばよい」と言った言葉が、現在の日本の農業事情を作ったとも言えないでしょうか。この人が後日文化勲章を授けています。(中屋敷宏さんが言っています。)「食料自給率を上げよう」と言うことは、食糧危機が迫っているという赤信号です。食べるな危険。脱牛肉。○○インフルエンザ。生活習慣病。加工食品とか、ファーストフードは世界を滅ぼすとか、数限りないほど食の問題が出ています。
  今のところ、一番安心して食べられる事が出来るのは、家庭菜園か農家との連携しかないのではないでしょうか。手間のかかる家庭料理も要らない。採算の合わない農地は要らないと言って国の農業人口が減れば、国は衰退します。
  食べ物は「買えばいい」のではなくて、最低自分の食べる分は自給できるといいのではないかと思います。世界の事情がある日突然変わっても、安心して生きていけるでしょう。
  アメリカという大国の言い分に左右されない、又、一握りの政治家の発言に惑わされない自分の哲学と言いましょうか。「信念」が一番大切なことではないかと、私は思います。




                    や ぎ 通 信
 
                                          土 保  裕 治

2009年4月11日
「出産近し」
やぎさんへの応援ありがとうございます。お陰様で元気にしています。さて、今年最初の出産は「メイちゃん」です。四月十二日(日)から数日の間と予測しています。この機会に母やぎと赤ちゃんの様子をお子様に見せてあげて下さい。というのも、全国でいくつかの小学校がやぎを飼っています。それは、こども達が出産に立ち会って、自分自身が生れて来たときのことを考えるきっかけになっています。そして、普通経験できない多くのことを感じ取るなど、素晴らしい情操教育の場になっているようです。出産の瞬間に会えれば一番良いのですが、いつになるかわからないので無理としても、産まれた後でも感動させられる光景が見られます。そこで、見に来られた方へお願いですが。「もうすぐ生まれそうだ」とか、「生まれた」とかを牧場からお電話下さいますか。連絡を頂ければ、出産ニュース速報を流し、より多くの会員の皆様が産まれ立てに出会えるだろうと思います。実は私も普段、牧場にはいなくて、産まれる時間が分からないため、まだ見たことがないのです。なお、二番目の出産は「つえぼ」で、四月二十四日頃です。

2009年4月14日
「山菜採りのご案内」2回目
 新しいファンクラブのメンバーが増えましたので、再度お誘いします。(本文)春の山菜の季節が来ました。昨年も「ヤギと里山」のイベントで山菜採りを楽しみましたが、てんぷらがとてもおいしかったことが思い出されて、今年もしようと声が挙がっています。参加ご希望の方はお知らせ下さい。四月十九日(日)午前九時半~昼頃に行ないます。なお、集合場所は東部メモリアルパーク隣のいつもの里山です。岸田建設資材置き場と霊園の看板が目印です。駐車できます。さくら通りを東進し、高速をくぐって二百メートル。「こしあぶら」などの山菜の見つけ方、食べ方、注意点などを教わりましょう。揚げたてのてんぷらが食べられると思うので、各自おにぎり、お茶飲み物など持参しましょう。敷物、手袋、あれば熊鈴、山登りの服装で。会費はおとな¥300  

2009年4月23日
「出産近し」2回目
 やぎさんへの応援ありがとうございます。さて、今年二番目の出産は「ちえぼ」で、明日四月二十四日頃です。お乳が大きくなって来たので、予定日の明日か明後日が可能性が高いと見ています。第一発見者の方にお願いですが、「もうすぐ生まれそうだ」とか、「生まれた」とかを牧場からお電話お願いします。連絡を頂ければ、出産ニュース速報を流し、より多くの会員の皆様が産まれ立てに出会えるだろうと思います。実は私も普段、牧場にはいなくて、産まれる時間が分からないため、まだ見たことがないのです。なお、最初の「メイちゃん」の出産は四月十二日(日)から四日遅れでした。オスメス一匹ずつでした。すくすく育っています。もう数日で走るようになるでしょう。

2009年4月28日
「出産近し」の案内の取り下げ
やぎさんへの応援ありがとうございます。さて、「ちえぼ」の出産が、四月二十四日頃とお知らせしましたが、何故かまだです。予定日の二十四日は、小さくうなりながら脈を打つように息をしていたので、辛そうに見え、まもなくだと感じましたが、翌日からは産気がどこか行ってしまいました。今は辛そうにしていません。産むことを忘れたかのように見えます。ひょっとすると、多くの方が見に来れるように、連休の間に産むつもりかも知れません。何しろ「智恵坊」と名付けたように賢いので、何かたくらんでいるのしょうか。でも、お乳がかなり大きくなっているので、近いうちに変わりはないとは思いますが。一方、四月十六日に産まれた「メイちゃん」の子、オスメス一匹ずつは、走ったり跳ねたりし始め、物を口に入れるようになって来ました。離乳の始まりです。生後十日の早さです。早い成長は必要に迫られたものでしょう。武器となる角もはえて来ました。ところが、DNAに書かれた時の環境とは違い、ここでは肉食動物に襲われる危険はない代わり、逆にその角が仇(あだ)となり、焼きゴテによる残酷な除角が今週、彼らを待ち受けています。本人達はまだ、そのことを知らずに遊んでいます。 

2009年4月29日
「ちえぼ」出産のお知らせ
 昨28日夜、「ちえぼ」の出産が遅れているとお知らせした後すぐ、陣痛が始まり、産まれるまで15分位のあっという間の安産だったそうです。やぎの本には明るい時間帯の出産がほとんどとあるので、夜の9時に産むよは予想もしていませんでした。珍しいことなのでしょう。やはり、賢い『智恵坊』は、多くの方が見に来れるように、祝日の前夜を選んだのかも知れませんね。お陰で多くの家族が駆けつけて、夜遅くまで立ち会ってくれました。産み落とす瞬間や、生後30分以内に繰り返し立ち上がろうとする光景もさることながら、2匹の赤ちゃんを交互に舐め続け、「へそのを」をかみちぎる「ちえぼ」の母性は見ものです。こんなに激しく舐めるのは、他の2匹の母やぎには見られません。情熱的な子育てに毎日感心します。ただ、またオスの双子とは少々がっかりしましたが。

2009年5月11日
新聞記事
 やぎさんへの応援ありがとうございます。昨日、済生会病院隣のレンゲ畑で和田地区のお祭り「和ん田-ランド」が開催されました。毎年、やぎに出演要請を頂いており、いつも人気者になっています。今日の福井新聞3ページに「ちえぼ」の写真が載っていました。取材の後、気温が上がり、29℃の暑さのために体を揺すって息をしていました。次々と訪れる多くの家族に囲まれて、疲れてイライラしていましたが、風があったのが救いで、終わりまで勤めてくれました。代わる代わる子供達が摘んで来てくれたレンゲを4時間食べ続けた挙句、牧場に戻ってからも、腹をすかした他のヤギに与えたエサを横取りする底なしの豪傑ぶりでした。途中、疲れを心配しましたが、これほどの食欲には驚きです。土保 裕治

2009年5月24日
「ニーナ」出産のお知らせ
 やぎさんへの応援ありがとうございます。さて、4月16日「メイちゃん」、4月28日「ちえぼ」に続き、今年3回目となる「ニーナ」の出産が19日の夕方ありました。予定日の5月9日から何日間も遅れており、これまで予定日の予測がこれほど大きく外れたことがなかったので、果たして妊娠しているのだろうか心配になり、今回だけは産まれるまで確信はありませんでした。と言うのも、昨秋「種付け」したつもりが、再び「発情」が来てしまい、種が付いていなかったのです。再度、オス「カツオ」に近づけ、あわててやり直しさせました。でも、これには悲恋物語がそうさせたと思わせるふしがありました。つまり、「ニーナ」が「カツオ」を受け入れなかったのだろうと思います。つづく(文字数制限携帯メール向けに分割送信します

2009年5月24日
「ニーナ」出産のお知らせ その2
 そういえば、「ニーナ」は(他所から連れて来た)もう一匹の若いオス「ブッキー」の近くで寝起きしていたため、好感を持っていたようです。一回目の「種付け」のために少し離れた「カツオ」のところに連れて行く時、「あれ?「ブッキー」のところに行くのじゃないの?」と「ニーナ」は抵抗し、その方角へ歩いてくれませんでした。また、「ブッキー」の方も、不服度100%の泣き声を連発し、「ニーナ」に『戻って来い』!と訴えているのか、『カツオのところに連れて行くのをやめろ!』と飼い主の私に抗議しているのか、のどちらかを主張しているらしいことは人間の誰が聞いても分かる位明白でした。でも、「ブッキー」がまだ若過ぎて大人のオスとして未熟なため『1年後には添わしてあげる』と約束し、私は抗議に耳を貸しませんでした。が、「ブッキー」は不本意な泣き声をずっと続け、この相思相愛の力が、「ニーナ」に拒みさせ続けたのかも知れません。ヤギは交配で確実に妊娠するそうなので、これはひょっとして異例の結果を引き起こした美しい「ラブ ストーリー」ではないかと思えてなりません。つづく

2009年5月24日
「ニーナ」出産のお知らせ その3
 ところが、二回目の「種付け」では、あの「愛の力」はどこへ行ったのやら「ニーナ」、「ブッキー」とも何故か抵抗はありません。その結果、「カツオ」の子をすんなり妊娠していたことが19日の出産で分かりました。なお、今夏「カツオ」を手放す予定です。理由はその子にはオスが多く、メスが生まれにくいこと、立派な角を武器に向かって来るので危ないことです。「ニーナ」「ブッキー」に『一年後には添わしてあげる』と約束したのはこの事情からです。
 ところで、左右の横腹が大きく膨らみ、双子が入っていた「ちえぼ」「メイちゃん」のようには、「ニーナ」の腹が大きくなかったので、産まれても1匹だろうと思っていたところ、双子だったのは意外でした。しかも、子やぎは普通の大きさで、小さい訳ではありません。でも、メスとオス1匹ずつがあっという間に産まれたそうです。
 これで今年の出産シーズンは完了です。結果はメス2匹、オス4匹。昨年はメスを残せなかったので、今年は2匹生まれ嬉しく、無事育って欲しいと願っています。つづく 




  農業経営の確立過程における経営者能力の発揮
                 (連載2)

                                玉 井  道 敏


 3)語録

 これまで見てきたようにKY氏の経営者能力は随所に発揮されているが、彼の経営哲学を彼の発言をもって語らしめたい。
 油屋水稲生産組合の設立と大区画圃場整備による稲作徹底した省力化を振り返って、
  「私らは農業でやり切るぞ!と腹をくくりました。稲作だけでは食べていけないのなら、稲作はできるだけ省力化して、できるだけコスト低減を図ろう。そして稲作以外に、畜産との複合経営の道を進んでいこう。しかし、そのような農業の仕組みを変えていくのは、個人ではどうにもならない。」
3回目の規模拡大時における反対する両親への説得、
 「百姓の跡継ぎにしたのはだれだ。」
妻への協力依頼、
 「了解したではなく協力してくれないといけない。相手は生き物である。」
経営者として、
 「経営者は100%働いてはだめである。仕事半分のつもりでいる。」
 「仕事を任せて人を育てる。」
 「経営者は、一つだけ秀でていてもだめで総合力で判断する。」
法人化したとき、
 「予想されたデメリット部分に対し、決断が容易ではなかったが、その部分は事務委託することによって解決され、予想以上のメリットをもたらしている。決断してよかった。」

4)時代の流れを取り込んだ都市近郊園芸農家の経営展開

(1)立地と経営の概況
 M農園は、福井市の近郊地帯で、市の中心部から北東へ直線距離で約4kmの位置にある。立地条件は、先の大規模稲作経営のA農園と類似し、大型ショッピングセンターなどによる商業地域とそれを取り巻く水田を主とした農村地帯からなる。本農園は大型ショッピングセンターに隣接する水田地帯に位置する。
 M農園は有限会社で、経営の柱は種苗生産(花苗、野菜苗)と造園(花壇)請負事業で、昨年(平成14年)の総売上高は1億2千万円で種苗生産と造園請負が半々であった。会社の役員は経営者夫妻と後継者としての長男夫婦が占め、家族を主体とした有限会社である。社員は9名、他にパート6名を雇用し、研修生1名が加わる。農地は水田1.5ha、施設用地と畑で1.1ha、ハウスなどでの施設は11棟を数える。
 経営主のMK氏は痩身で寡黙、温和な風貌であるが、機械好きの職人気質の持ち主で、園芸技術においては常に県の先陣を切ってきた貴重な存在である。妻のMHさんは明るく社交的、行動的で、常に夢を持ち続け、その実現に努力している。MK氏とNHさんはその絶妙のコンビで今日の経営を築いてきた。

(2)経営の変遷

 M農園が立地する地域は昔から福井市の都市部へナスやウリなどの野菜を振り売りで供給する近郊野菜地帯であり、水稲と野菜の10a程度の経営で、結構収入があった。M農園の両親もこのような農業を営んでいた。跡継ぎであった現在の経営主MK氏は、農林高校に進学、卒業した昭和42年に就農した。振り売りと同時に福井の市場へも野菜を出荷したり、2年後には、この地方では珍しいパイプハウスを導入して野菜栽培を行い注目された。昭和48年にMHさんと結婚、以来二人三脚でM農園を発展させてきた。MHさんは農家の出身であるが、結婚時には看護婦として県立病院に勤務していた。この看護婦としての経験がその後の経営に生かされてくるのである。
 昭和48年に、第二次構造改善事業がM農園のある新保地区に導入され、露地野菜栽培中心であったところへH鋼ハウスが導入された。MHさんも含めて新保地区の5名で組合を作り、主にキュウリ~トマトの作型で合わせて1.7haの施設栽培を行った。H鋼ハウスは組合員それぞれの個人管理、育苗、選果、出荷は共同で行った。
 3年後の昭和51年に父親から経営を移譲され、MHさんも看護師を辞めて農業専業となり、家計も含めて経営主夫妻にすべてが任された。ただ、育児と家事は母親が担当してくれた。
 5~6年、キュウリ~トマトを作り続けたが、連作障害があらわれ、土壌消毒にクロルピクリンを散布したところ、体に変調をきたし、以後、土壌消毒はやめた。田畑転換を行ったり堆肥を投入したり、休作をしたり、軟弱野菜やメロン、ミニトマトを作付けるなどの果菜類の連作障害対策を行ったが、結局昭和63年でもって野菜生産から撤退した。この間、昭和48年に一緒に組合を形成した4戸の組合員も56豪雪や高齢化、事故などにより野菜生産をやめていった。経営内容を転換して生き残ったのはM農園のみである。
 野菜苗については自家用で昭和48年から生産していたこともあり苗生産の技術を身につけていたが、出荷用の自根の野菜苗の生産を昭和55年から、接木苗を昭和57年から生産を始め、花苗や切花としてのアスターの生産も昭和55年から始めた。昭和61年からはパンジーなどの花壇用花苗などの本格的な出荷を始めた。
 昭和56年と58年には新たにH鋼とパイプハウスを整備して施設の充実を図り、野菜生産から野菜苗、花き生産への転換を図っていった。
 野菜生産から撤退した昭和63年より経営内容のほとんどを野菜と花苗の生産に切り替えた。苗の販売はこれまでも取引のあった種苗会社や、農協が引き受けてくれ、細かい手間の要る育苗労働の確保は集落内の婦人労働を活用することで対応し、苗生産を主体とする経営への転換を図った。平成2年の花の博覧会の開催や、近年のガーデニングブームが追い風となって花苗の生産は拡大している。この経営内容の転換により今日のM農園の経営基盤が確立されたといえる。
 一方では、昭和62年に福井駅前の花壇の植栽と管理を初めて請け負った。以後、県内に造園業者は多いが、花壇の請負のできる業者は極めて少ないことを知る。平成3年には会社組織でないと入札時に不利のため有限会社化し、あわせて造園業などに必要な各種の資格を取得するなどして造園部門の事業拡大のための体制を整えた。その結果、県や市町村の発注する花壇施工の受注も増加し、種苗生産部門と肩を並べるまでに実績を上げている。この部門についてはMHさんの果たす役割が大きい。
 平成8年には長男が就農し、後継者の確保がなされ、さらに長男の結婚によって、家族経営の基盤が強化された。平成14年には隣接の土地を購入し、花の研修や直売用のハウスを設置したり、150種に及ぶ園芸作物の見本園を整備して、ガーデニングに関心をもつ人々との交流を目指している。またMHさんは各地で開催される花壇などの講習に講師として出かけ、地域や家庭における「緑花」の啓発、普及に取り組むなどの社会活動に積極的に取り組んでいる。このような活動の枠の拡大は、上記の経営基盤の強化によって生み出された余裕によってもたらされたものである。

(3)経営者能力の発揮

 M農園は、経営主夫妻それぞれがもつ個性の相乗作用によって、今日の経営がある。育苗部門におけるMK氏の高い技術と経営転換のポイントごとに見られる先見性の発揮と的確な判断、決断と実行力、MHさんの常に夢を追いそれを具体的に提示していく能力と新しい分野に挑んでいく姿勢、資質としての社交性と豊かな感性が組み合わされている。
 経営初期の節目は、経営主の就農後9年、結婚後3年で全面的な経営移譲である。若い時期での経営移譲は何かと苦労も多かったようであるが、そのことによって彼らの農業への想いと覚悟はより強化されたのではないか。MHさんの、天職とも考えていた看護婦の仕事をやめての農業への転換にも、強い意志力を感ずる。
 忌地現象が発生してからの10年間は、経営転換への模索時期である。いろんな試みがなされているが、土壌消毒剤による体調の変化に直面して、以後土壌消毒をきっぱりやめた対応は、MHさんの看護師時代に培われた生命への想いと感性に導かれているようである。以後の経営にもその感性は生かされている。
 野菜生産から野菜や花の苗作りへの転換は、就農時から蓄積されてきたMK氏の高い育苗技術、とくに接木技術の発揮によって可能となった。当時、接木技術にすぐれた普及員の指導もあり、経営内容の転換が図られ、そのことによって仲間が次々と脱落していくなかで、M農園は連作障害による危機を克服し経営を継続していく。
 次のポイントは、福井の駅前花壇の受注と有限会社化である。このことが、経営に新たに造園部門が加わり、その後の飛躍的な事業量拡大をもたらす。さらに後継者としての長男の就農や雇用者の増加によって、経営の基盤がいっそう強化され、労働条件の改善によって、快適な職場環境の実現が可能となった。またその余裕の創出が、ガーデニングブームへの対応となって現れている。これらの新しい展開の背景にはMHさんの永年持ち続けてきた夢の実現への願望と、彼女のもつ感性や命への想いが息づいている。想い続けること、M農園の調査を通してそのことの大切さを感じている。




          牡 丹 の 話

                            細 川 嘉 徳

 立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん) 歩く姿は百合(ゆり)の花

 このような言葉を使うのは、私のような高齢者に決まっています。男性から見た女性の立ち居振る舞いの理想像ですが、大きく時代が変わった今では、もう死語になっているとしても、戦前生まれの人間には懐かしい言葉です。
 私の家は住宅団地の中にあり、毎日通勤時間になると車や人の通りが激しく、時には危ない思いもします。それでも決まった時間に決まった人に会えば、自然に道行く人と挨拶を交わし、お互いに親しくなり、そこに花が咲いていれば、美人が立ち寄って話しかけてくることもあります。こんな年寄りに言葉をかけてくれるのは、花のお陰だと思います。
 今年も鉢植えの牡丹が咲いてくれました。二鉢しかありませんが、今年は十日ほど早く四月下旬に咲きはじめ、例年になく長く咲いていて楽しませてくれました。近所のご主人も時々立ち寄り「お宅のも随分草丈が伸びたね。うちのも露地植えなのでもっと高いよ、うちの牡丹も見に来ないか」との言葉にその気になって尋ねました。ご主人の庭は車庫を通り抜けて裏側にある竹垣が入り口になっていて、庭は小さな枯山水を思わせる風情に作られています。池の背面に牡丹が赤・白・黄・ピンクと5・6株が叢がるように咲いてそれは見事なものでした。ご主人と牡丹談義をしていると、いつの間にか奥様も話しに加わられ、帰りに自家産のサクランボまで土産に戴いてしまいました。牡丹のお陰で急に親交が深まった感じです。

白牡丹というといえども紅ほのか 高浜虚子

さてその昔、唐の玄宗皇帝の頃、長安の人たちがこの牡丹に狂った時があったと言います。各地で牡丹の品評会が行われ、人々は家業も忘れ、途方もない高値で売買されたというのです。「洛陽牡丹記」と言う書物には「姚黄」「魏花」など黄色や、桃、紅、白、赤、碧、紫等など、名花が百種類も二百種類も創出され、一大牡丹文化が栄えた事が書かれています。その様子は当時を生きた詩人達が残した詩によって知ることが出来ます。
劉禹(りゅうう)錫(しゃく)は「牡丹を賞す」と言う詩で次のように言っています。
庭前(ていぜん)の芍薬妖(しゃくやくよう)なれど格(かく)無(な)し/ 池上(ちじょう)の芙蓉(ふよう) 浄(きよ)けれど情(じょう)少(すく)なし/ ただ牡丹(ぼたん)のみ真(しん)の国(こく)色(しょく)あり/ 花開(はなひら)く時京(けい)城(じょう)を動(うご)かす。
また白楽天は「買花」という詩の終わりに、次のように詠っています。
一人の田舎のおじいさんが、たまたま人が牡丹を買うところにやってきた/ おじいさんはうつむいて、一人長いため息をついたが、そのため息のわけを人は誰もわからない/ ひとかたまりの濃い色の牡丹の値段は、中産階級の家の十軒分の税金に匹敵するのだ。この詩は牡丹の花にうつつを抜かし、馬鹿げた値段で売買される現実を皮肉っています。
牡丹の妖艶人心を乱し/ 一国狂うが如く金を惜しまず。
牡丹の魅力にとりつかれた人びとの様子がよく解ります。また当時科挙の試験に合格した若者は、富貴の家に咲く見事な牡丹を、無礼講で見て回る権利が与えられたと言うのです。
今でも洛陽の街は牡丹がシンボルです。何処に行っても牡丹・牡丹で店先に並ぶ土産品の、菓子やハンカチから掛け軸、唐三彩(唐の時代に焼かれた軟質磁器)に至るまで牡丹一色で当時の面影の一端をしのぶことが出来ます。
私にとって牡丹の魅力はその艶やかさの一言に尽きます。そこで拙詩を一つ

 牡丹発
 艶叢開占翠霞
 餞春牆角洛陽花
 大輪絢爛芳香散
 拈句相親興更嘉

牡丹(ぼたん)発(ひら)く
妖艶(ようえん)叢(むらが)り開(ひら)き翠(すい)霞(か)を占(し)め
牆(しょう)角(かく)に春(はる)を餞(おく)る洛陽(らくよう)の花(はな)大輪(たいりん)絢爛(けんらん)として芳香(ほうこう)散(さん)じ
句(く)を拈(ひね)り相(あい)親(したし)めば興(きょう)更(さら)に嘉(よ)し
嘉水

あれだけ色香を振りまいた牡丹も、今は主役を振りバラがあちこちで佳い香りを漂わせています。もう夏ですね。




早春    小林としを


美(は)しきもの目にとどめたしと詠み給うホスピスの君に折る紙の雛

遠つ代の人ら汗して耕しし河川敷の畑は失くなると言う

豌豆の幼き蔓が宙さぐる作れずなりし河川敷の畑に

早春の光を返す川に沿い最後となりし薯の畝曳く

暖かき春の陽射しに誘われてスコップ握り土手を塗りみる

スコップで薄く土切り土手を塗るこれも最後となるやも知れぬ

「あの」「あの」と言うのみに言葉出でてこず通じぬ会話は子を苛立たす

夫の命日には勤帰りの夜の墓に二十年かかさず息子は詔りくれしと




波の華   風尚子


正月の留守居の我の夢の中を母はにこやか横に座りぬ

歌詠みて三十余年の師の授賞式に参加し泪あふるる

香き日にクローバー咲ける路の辺の草に坐りて何語るらん

ボタンだけ押せば出て来るスシメニュー若き等と行く三国港寿し

寒き日はエビチリギョザ卵丼海鳴り聞きつつ話ははずむ

ブレーキを踏みつつの坂45度犬さり気なく上りゆきたり

呼鳥門まわれば見ゆる日本海岩にくだけて波の華散る

木々の影移ろう狭庭に白妙のささ百合咲けり我の背をこし

陽の射して青豆黒豆干す庭にユズの香りがあたり立ち来る

雷鳴に目覚めし眞夜はねつかれず閉ずるまなこに走る稲妻



足羽山     馬来田寿子

藩公を偲ぶ古刹にかはず鳴く

老鶯や参道の段続くなり

緑陰にひとかたまりの園児かな

障子を開け放たれて夏はじめ

竹やぶの皮音たてて落ちにけり



風薫る      鉾の会


下社より上社へ続く著莪の怪      田中芳実

僚船の祝福の銅鑼卯波立つ      勝山純二

独活の芽に掛く籾殻の温みかな    嘉藤幸子

肴には独活の酢のもの料理通     小林重俊

何はさて筍飯のおもてなし       斉藤由紀子

卒寿過ぐ島の歌姫日焼顔       榊原英子

風薫る阿蘇に一望草千里 志々    場純子

巣燕に留守を預けて旅に出る     高氏砂子

雀の子溝より助く佳き日かな      高屋三恵子

禅寺に菅笠一つ著莪の花       坪田哲夫

青苔の衣水掛け地蔵様        中川ヒロ子

ゆらゆらと川面に映る初夏の風   西本きく

坊守は聞き上手なり桐の花     橋詰美禰子

道草のランドセル往く青田風     前田幸一

燕来て古巣の傍に増築す       松永和子

異国にてアンネの形見庭の薔薇    村田優子



 


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