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あぜみちの会ミニコミ紙

みち51
(2009.2.4 立春号)

アジチファームの若集 前川英範氏撮影



シグナル51

福井市 中川 清  

   新しい年が明けました。年の始めにあたって、今年の幸せを祈りました。ところで、人はみな、生れた時に、自分の一生の幸せを背中に背負って生れてくるものだという。それは、自分の背中に在るものだから自分の幸せは目に見え難くて、また、両手でしっかりと掴んで確認することも能わず、自己努力しないとなかなか気がつかない事が多いもので、逆に人の背中はよく見えて、人を羨ましく思う事が多いものだとも言う。「子は親の背中を見て育つ」という諺もこれと照らし合わせてみると、また、一味違った意味の納得の解釈が生れる。かゆい処に手の届く「孫の手」と言うのも、単に竹べらの先が指の形をした自分で届かぬ背中を掻く道具の事でなく、孫と寛ぐ生活が、日頃気付かぬ自分の背中の幸せを孫が触れて呉れることへの比喩だと解釈したらどうだろう。
 昨年一年を表す漢字は「変」でした。「変」は、「変わる」事でもあり「変える」という事でもあります。ただ、じっとしていて受動的に周りから「変わる」のを待っているのと、「変える」のとでは、意味が違います。何とか少しでも前向きになって積極的に「変えて行く」生活を目指したいものです。
 新しい年「うし」の年です。年の始めに自分を見つめ直し、今年も「モウ」少し、頑張りましょう。





          感    謝

                                北  幸雄

 ことしの秋の取り入れが終り、ほっとしています。八百俵余りのお米が穫れたのだと思う。あまり収量にはこだわる方ではないので正確な収穫量は解りませんが、使用した紙袋の枚数でおおよそ読める。よそ様の作業(部分請負)が終わってから自作の田圃の刈り取りなので最後の方は十月になってしまう。随分猪害が目立ちました。この年令(七十一歳)になりますとあまり腹立つこともなく、猪くんも生きるのに必死なんだな!と同情しきりです。
 私の経営方針は流れにゆだねると云うか、つくって下さいと頼まれれば引き受けし、作物を下さいと頼まれれば買ってもらい、あまり力まず今日までやっています。みかねて私を助けて下さる方々に感謝しながら、五十年余り稲作農業を続けて来ました。こんな生き方も山間地農業のあり方の一つかなあ!とこのごろ思えてきました。
 六年程前皆様から「あぜみちの会」の世話人に、との話があり、請われるままお引き受け致し、特別、会の運営方針も持たず、我々の機関紙「あぜみち」の原稿も、玉井先生から何回頼まれたことか、それも出さず、唯ずるずると今日まで来てしまった気がします。十一月二十三日のあぜみち収穫祭の会場を引き受け下さった方々は鮎川の松井様を皮切りに昨年の坂井市、田川様まで、ようこそ、どの方も地域の特徴をよく生かし、すばらしい祭りに盛り上げて下さった事、感謝します。その時、お寄りいただいた方々の微笑みが、何とも云えない私の人生のよろこびです。今回は越前町宮崎地区の武藤吉明様のご厚意でお引き受けいただき、楽しみにしているところです。
 今回、会をお世話下さる代表も篤氏がお引き受け下さいました。農業経営者として最も尊敬している方で、今後の楽しみの一つです。
 栄えある中川賞受賞された皆様、「あぜみちの会」を通じて出合った方々。私の宝が随分増えました。長い間のご支援、ご協力ありがとうございました。今後益々の盛り上がりを願ってやみません。





          豚 を 飼 い た い

                                       名津井 萬

日本は毎日「三千万人分の食品を捨てている」と云う記事を週刊誌で読んだ。
 石川県立大学の高月教授は「食品ゴミの一つに、調理の時出る過剰除去と食べ残し、それに賞味期限切れで捨てる物など、食品廃棄物の四二%が捨てられている。」そうだ。他にコンビニ、レストランから出る食品廃棄物は五百六十万トンを占め、それを科学技術庁が試算すると、年間に廃棄される食品は、十一兆円で、日本の農林水産業の生産額とほぼ同じ額と云う。極論すると日本の自給分を、そのまま捨てている事になるそうだ。
 モッタイナイ
 私は前々から食品廃棄物での養豚を考えていたし、やってみたいと思っている。やった事もある。
 現在、私は酪農を営んでいるが、養豚をしていた時期もあった。
 その時の飼料は食品残渣で「残飯」であった。
 昭和三十年初めに、農協の営農指導員のM君が、ある農家から子豚の購買を求まれ、坂井郡から導入したが、牝子豚一頭余ってしまったが、飼ってくれないかと求まれ、急遽、牛舎の一隅に豚の飼育室を作り、四千円で購入した。餌は近くの自動車学校の食堂の残飯を毎日とりに行った。残飯による養豚である。
 また、その頃に県の農林部が発刊していた「農業技術」と題する、月刊誌に連載されていた「豚の飼い方」を、むさぼる様に読んで豚の飼育に熱中した。楽しかった。牝豚だったので人工授精した。一回で受胎した。
 豚の在胎日数は「三月三週三日」すなわち百十四日間である。ゆえに豚は年間ニ・五回のお産が可能である。豚は一回のお産で十数頭分娩する。私の場合十三頭分娩した。朝から分娩が始まり、また出た。また出たと楽しかった。その頃、運よく子豚が高騰し、一頭八千円で売った。
 繁殖用に牝子豚三頭を残し、本格的に繁殖養豚を始めた。餌は基本的に残飯(食品残渣)で、労力はかかるが、餌は無料である。自動車学校、県庁、福井大学の食堂を単車で毎日まわり残飯集めをした。格好の悪い事この上なしである。
 その頃、残飯(無料)での豚飼いは福井市で五戸ほどあったと思う。ある日、ある食堂から「明日から出せない。ある豚屋は金を出して引き取ってくれるから。」と言われた。それが養豚を断念するキッカケであった。
 酪農は近くを流れる福井県三大河川の一つである日野川があり、乳牛の基本的「餌」である野草が無限で豊富で「無料」である。稲ワラも利用出来る。それで酪農を選んだ。
 今、食品残渣は金を払って処分している。産業廃棄物である。
 豚の飼育に食品残渣が最高の飼料と思う。欠点は、豚肉が「水豚」と云われ、重量はあるが、肉にしまりなく、脂肪が多く過ぎるのも事実である。しかし畜産技術者に聞くと、その対応は充分出来るとの事である。
 今こそ食品残渣を利用した養豚が最も大切な時と思う。
 日本国内で大量に出る食品残渣を豚のエサとし、肉は食用に、糞尿は堆肥として土地に還元する。経営にとっても有利と思う。
 「豚を飼いたい。」





        「私の今、そしてこれから」      
       
                   アジチファーム 堀 田  慶 亘

  私が現在の職場で働き始めて一年半が過ぎた。新しい土地での新しい生活。何もかもが不慣れな中で、ただ「農業がやりたい」-その想いだけで突っ走ってきた一年半だった。仕事においてはまだまだだが、多くの方との新しい、そして素晴らしい出会いに恵まれ、刺激ある毎日を送ることができている。将来について不安がないわけではないが、好きな仕事に携われているーそのことに対して、周りの方全てに感謝の気持ちでいっぱいである。
 私は農家に生まれ育った。小さな頃から百姓仕事が身近にあり、ゴールデンウィークの田植え、秋の稲刈りなど、家族総出となって取り組んだ記憶が今も鮮明に残っている。また稲刈り後の田んぼはそのまま野球場と化し、近所のお兄ちゃん達と野球を楽しんだことも忘れられない思い出の一つである。もちろん我が家の食卓も、畑からとれた野菜でにぎわっていた。果物といえば、専ら木からとってくるみかんや柿だったことも当たり前だったが、今となっては懐かしい。しかしその当時はそれが「当たり前」のことだったので何とも思わなかった。むしろ逆に、食卓に肉や魚がたまにしか並ばないことを寂しく思っていたものである。しかしながら、今、その「当たり前」が何と贅沢だったのだろうかと思わずにはいられない。贅沢な中で育ったんだなあと痛感している。
 私はこの自分の育った「当たり前」の環境が大好きだった。ゴールデンウィークに出かけられないことも、 休みの日に手伝いがあることも、特に嫌だと思ったことは記憶している限りほとんどない。むしろ、田んぼが稲刈り後は絶好の野球場となるのが楽しみで、率先して手伝いをしていたような気もする。私にとってはこの環境は本当に居心地の良いものであった。四季の移り変わりを肌で感じ、土の温もりに触れ、自然の雄大さを体全体で味わうことができる・・・祖父母が畑で作った作物はどれも本当に美味しかった。そんな「当たり前」の中で、私の心には漠然と、将来は自然と何らかの関わりを持ちながら生活したいという思いが芽生え始めていたように思う。
 しかしそんな思いを抱きながらも、高校、専門学校と、農業とは全く別の道を進んだ。今となっては、農業から視点を変えたことで得たものも多くあり、大切な時期だったように思う。また別の道へ進んだおかげで、改めて「農業にチャレンジしたい」という自分の気持ちが湧き出てきたとも感じている。
 そして私は地元を離れ、福井とは全く別の土地で酪農と畑作を経験した。何もかもが初めてで、分からないことだらけだったが、毎日生活していく中で、小さい頃から感じていた居心地の良さがなんだったのか、はっきり認識できた。雄大な自然に向き合い、土に触れ、太陽の光を浴び、「自分は生きている」と心の底から実感できた。自分の居場所のように感じ、これが私が幼い頃から感じていた居心地の良さだったんだと身に染みて理解できた。もちろん、気候に左右される仕事である故、厳しいことやうまくいかないことも多々あり、投げ出したい気持ちになったり、くじけそうになったりしたこともあった。でも、外に出て仕事をしているうちに、この居心地の良さのとりこになってしまうのである。私がこのときを乗り越えられたのも、今があるのも、最も大きな要因は幼い頃から感じている居心地の良さにあると思う。
 この「居心地の良さ」「自然に触れていたいという思い」を求めて、今の所「アジチファーム」でお世話になっている。まだ一年半であるが、一年半仕事をする中で、農業は無限の可能性を秘めていると感じるようになった。私が今まで働いてきた職場では、「畑で○○を作る」というようにその過程に肥料やりや草刈りなどはあっても、スタートからゴールまでがひと目で理解できるものであった。しかし、アジチファームでは、「田んぼでお米を作る」→「できたお米を製粉する」→「その米粉でパンや麺を作る」というようにスタートからゴールまでが発展的なものであり、スタートから幾様にも変化してゴールにたどり着いている。このことは、私の中では今まで経験したことのない、非常に画期的なものだった。
 朝の始まりは「パン作り」。調理は嫌いな方ではなかったが、せいぜいラーメンやうどん、頑張ってもみそ汁を作ったり、餃子を焼いたりする程度だった私にとってパンを作るということ自体、晴天の霹靂だった。だが、やってみると意外におもしろい。今では食べることはもちろん、作ることにおいても米粉パンの大ファンである。小麦粉を使ったパンとは違い、もっちりとした歯ごたえ、腹持ちの良さなど、多くの魅力がある。その一方で、すぐに固くなってしまうなど、まだまだ改良をしていかなければならない点もあると感じている。少しでも改良を重ね、日本人の主食であるお米の良さをパンという形態でもより多くの人に知ってもらえたら・・・と思っている。
 四、五月の田植え、八月後半から十月前半までの稲刈りの時期は本当に忙しい。一年半働いて、普通に考えれば一サイクル終了しているので、ある程度やり方を理解しているはずなのであるが、無我夢中で取り組んできた一年半だったたけに、まだまだ自分の中で見通しが持てていないのが現状である。もっと段取りの良い方法や作業工程順があるのだろうが、試行錯誤の繰り返しである。このことが、田植えや稲刈りの時期をかえってせわしなくしているように感じている。もっともっと経験を積んで、見通しが持てるように、自分なりの勘のようなものが身に付くように、多くのことを吸収しながら日々頑張っていきたい。
 稲作やパン作り以外にも、全国の様々な所へ視察に行くこともできた。同じようなことをしている所、同じようなことをしながらも展開の仕方が違うところ、全く別のことをしている所・・・。様々な場所で、様々な手法を見せていただき、様々な人に出会うことができた。またその土地その土地の風土に触れ、自然を感じることができた。多くの刺激を受けるとともに、自分の今していることを改めて考えたり、客観視したりするきっかけになり、実り多き視察になっている。もう少し周りを見ることができるようになったら、自分からも積極的に全国各地の様々な場所を開拓していきたい。さらにいつか自分からも何かを発信できるようになっていきたい。
 しかしながら、この一年半で数え切れないほどの失敗をしたのも事実である。自分なりに作業工程に見通しが持てていないことやトラブルが起こった場合に対応の仕方が分からないことや繁忙期に体がなかなか慣れないこと・・・など要因は様々であるが、数多くの失敗をし、周りの方々に多大なるご迷惑をかけてきた。その度に落ち込み、反省するわけであるが、そんな自分の心の支えというか、元気の源は、パンを購入してくださるお客さんの「おいしいね」「また買わせてもらうわ」という声や農作業中に「ご苦労様」「頑張ってるね」という近所の方々の声である。時には「これ、家で採れた物だけど食べて」と言って差し入れをくださる方もいる。前述したとおり、農家で育った私にとって「家で採れた物」ほど贅沢な物はなく、そして居心地の良さを感じ、おかげで気持ちを奮起することができるのである。
 この一年半、新しい土地で無我夢中のまま突っ走ってきた。右も左も分からずに、ただ闇雲にやってきた。そんな自分の夢というと、不器用な私にとっては、今のこの現状に精一杯で、なかなかイメージが沸かないというのが正直な気持ちである。もちろん、「1から全部自分でやってみたい」「地元に帰ってやってみたい」「農業でしっかり食べることができるようになりたい」「自給自足がしたい」など、漠然とした夢を描くことはある。いや、本当は、今はまだまだ分からないことや未経験のことが多すぎて、夢を描く自信がないというのが本音かもしれない。そんな曖昧でいいのか、もっとしっかりしなくてはいけないのではないか、そういった思いがあるのは当然なのだが、これが今の私なのではないかと思う。回り道をしながら自分の居心地の良さである原点にたどり着いた。今はスタートラインにようやく立てたという感じではないだろうか・・・。でもただ一つ確信している、確固たる思いがある。それは「これからもずっとずっと農業と関わり続けていくこと。」ようやくこれこれだというものに出合えた今を大切にし、これからその思いをはっきりとした夢にし、そしてその夢までの道のりをもっと具体化できるように努力していきたいと思う。この一年半で、「農業」を媒介にして多くの方に出会い、支えられてきた。「農業」のおかげで人間関係も大きく広がった。この貴重な出会いを糧にして、様々なことを学び、吸収しながら、これからも一歩ずつ自分らしく農業とともに歩んでいきたい。





         審 査 か ら
                               松田 信子

 「農業がやりたい」その一途な思いを内に秘めた堀田さんは、「農作業の仕事は小さい時から好きだから」と淡々と語る。三十三歳のその精悍なまなざしから私は、すがすがしい清涼剤と自分の生き方を考える示唆を感じた。彼は幼少のころから、家族総出の田植え、稲刈りを手伝い、食卓には自然の恵みがあふれ「当たり前の暮らし」を体験している。ありふれた毎日がどんなに豊かで楽しかったか。草野球で知る土の感触、祖父母、両親、兄弟とともに汗を流す農作業は肌に心地よかった、四季の移ろいに「夢は農業」と、秘めた思いを体に覚えさせる。学生時代は農業とは違うITを学んだが、物足りなさに視点を変えたことで「農業にチャレンジ」との思いが彷彿とわきあがってきた。北海道に渡って酪農家での体験は過酷な労働や自然との挑戦ではあったが「生きている自分を」認識し、「農業がしたい」という夢をかなえる第一歩になった。
縁を得て現在の「アジチファーム」で働く。米栽培を基軸に米パン、米うどんの加工、野菜、ブドウなど幅広い農業経営規模を誇る専業農家に就職して、一年半。いつかは自分の土地を持ちたいと「自立」への闘志は逞しさと「夢は叶えるもの」の顔が滲む。妻子ある二男で小浜市出身。「農業の形態」を通勤農業と共働きで試行錯誤の日々。今は経営者の引いたレールを走っているだけと謙遜するが、農業に生きる喜びは隠せない。新規就農の青年農業者に出会い日本の農業の新しいかたち型を見た思いをしている。




                 驚き 驚き! 驚き!
      
                          室谷かつの

 数年前、JA女性部の仕事をしていた時に、玉井様とお会いしたことがあります。来賓としてご出席して下さりご挨拶をお受けしただけでしたが、今回名刺をいただいて驚きました。名刺の裏に紙面狭しと書かれている数々の役の多さに目を奪われました。お会いした時や皆さんと会話を交わされているご様子から、特に大声でなく、皆さんを先導されているわけでもないのに、実際は皆さんの中核となって各分野、各会を指導し、とりまとめておられるのです。この間の会議には門外漢の私にもその時々に話題の中に加わるよう促され、私もお仲間に加えてもらったような気持ちにさせてもらいました。
 「みち」五十号を読ませて頂き、今年で十六年というのは驚きです。みちは道と同じく長く続いている証であり、今後も道として長く続くことが紙面の随所に見受けられます。
 次に、会の皆さんの向上心に驚きました。実践発表をする方が普段着なら聞く方々も普段着で構えがありません。しかし内容は人生の生き方を述べる大変重いものでした。淡々と発表されておられるものの、人生の指針となることを話題提供され、現在も実践過程であることです。幼少時代に感じたそのことの実現化ですから、凄いです。自然を友とし、自然の驚異を受け入れ、吾が身の食するものを吾が手で生産されているのですから至福の境地にすっぽり浸っておられるわけです。
 そして、若い方の提供された問題について夫々の方々が各々にご自分の体験から溢れることばであり、肯定の中にも指針らしき意見も飛び出してきます。現状の不満ではなく、次の段階への方向づけや希望が際限なく話し合われる様子をお聞きしていると、私まで楽しくなり羨ましくさえ思いました。
 私も来年度に向けて惣菜作りグループの「めっけもん倶楽部」をたち上げたいと思っています。奥越地方の農産物を主材にして、よりおいしい惣菜を作りたいと思っています。



   異常的な気象現象は困ったものだ・・・
    われ百姓はお天頭様だよりだ
                           
島津 一郎

 1.平年値の意味は薄らぐ気象情報
 海洋気象を主体とした気象情報には「平年に比べて○○です」と言う情報が流されてくる。これは大きな判断材料にはなると思われるが、この情報を活用できるのは農業においてはその地域に住んでいるものがそれなりに基礎的な気象知識を持ち合わせていないと活用することは出来ないであろうし、これまでに可なりの経験を積んで来ている者にしか分からないではないか?
 ましてや、本年のような経過からみれば正しくこれがいえると思われて致し方がない。三月から四月にかけての多雨、七~八月の無降雨、超高温、旧盆以降の連続降雨、その後は二週間も連続して無降雨、全くもって農作業の遂行困難の連続(雨に振り回されて全くもって忙しい秋の採入であった)
 近年の高温化現象によっての農作物の栽培が変化しているものを幾つかを拾ってみると
<図省略>

2.偏った降雨には困ったものだ・・・長期の無降雨だって異常気象
 無降雨が続くと、稲作では水不足が起きてくる。その水源を山水に頼っている山間部はその影響を大きく受けてくるが、集団転作の影響や水利の便が整ったところでは殊更に困ったことはないようである。むしろ八月下期より九月初の連続降雨の影響が大きく、稲の収穫は大変なものであった。
 しかし、これが露地の野菜となると大変なことになってくる。一般の畑は潅水施設が整っているわけではないので、いきおい自然の降雨に頼るしかないのが実状で、本年の例では八月初めに定植したキャベツやブロッコリは活着はなんとかしたものの、その後の生育が進まない、追肥を効かすことも、害虫駆除のための粒剤の効果も出すことができない有様だ。こんな中でも雑草だけは繁茂してくるのが憎らしいくらいだ。
 天の恵みである降雨は一回の降水量が二十~三十ミリメートル程度で、五~七日に一回降ってくれれば良いものだが、最近はゲリラ型の降雨しかない・・・そして災害の発生、復旧工事も旧来からみれば、行政の構え方が変わってきている・・・予算措置の問題だろおうが、災害発生原因の多くは、それなりの原因があって生ずるもので次の予防的な要素を加えた復旧事業は全くと言ってよいほどなくなってきている。
 最近になって露地野菜を増やしてきている小生にとってはバケツで水を運ぶ事しかないものかと苦しんでいるのも現実なのだ。

3.気象情報はもっと具体的にならないものか
 多雨の国日本では、降雨に対応した農作業のパターンができていると言える。
 短期的な一週間程度の予報は観測機能も整備され、かなり情報の精度が良くなってきていると感じられるが、これが長期的になると全くと言いたい。
 気象情報の発信はどの様な形で取り扱われているかを知る機会があったが、短期的には予報官の「感」が大きく影響するらしく、統計的な要素が加わるだけだという。
 長期的な情報に期待されるものは、異常的な現象(長雨や好天続き等)への対応であり、これがこれまでの平年的な根拠では今日の状況に合致していない。・・・どうすれば良いのだろうか???
 こうした例は積雪の多少予報は余り当たったことがないのではないか。

4.野菜づくりを増やしてはいるものの・・・
 数年前より園芸振興の視点や技術サポーター(技術支援員)の関連もあって露地野菜を増やしてきている。増やして来たもう一つの理由は近くにファマーズマーケット(以下FMと表示)が出来た事もあって少量多品目の生産形態となり、品目数は年間延べ四十品目を越すようになってきた。(一部は自家消費分も含む)
 FMの運営には数多くの提言、提唱はあるが今回は別扱いとしておこう。ただこの様な生産者直結の直売システムが民間企業でも取り入れられて来ている。
 FMの事業主体であるJAさんよ・補助金に甘んじていないでビジネス感覚を高め、商品知識を深く理解して、しっかりしなさいと言いたい。
 本県の園芸作物の生産状況から見れば、二・八枯れ(企業社会でもあるもの)と言われる位、二月と八月は産物が極めて少ない。これの対応としては、夏期の遮光栽培位は可能としても、高冷地を組入れた栽培が極めて難しい。冬季の施設栽培は、その施設の導入に投資が必要になってくる。それは当然の事としても、施設の栽培の装備のレベルにもよるが、それなりの投資をし、元をとるには十年から十五年位要する。これをクリヤーするには少なくとも六十歳前半には取るべき措置と言えようし、後継者が継続してくれれば良いのだが、この事を若者にぶっつけた所で何の答えが帰ってくるわけでもない事位は承知しての事だ。今、七十歳を過ぎたものには露地で頑張るしかないのだろうと観念している。
 現実的な問題はたくさんあり過ぎる。まずは畑の区画が小さい、機械の利用が難しい、連作障害を回避し、特定の土壌障害(根瘤病)の措置、輪作体系を明らかにしておくべき事への対応はそれなりの努力が必要なものだ。

5.施設依存型の農業は技術音痴を増やしているようなもの・・・
 苗を購入し、乾燥調製は大規模施設に委託することが当然のような中で、これを利活用するための情報をどれだけ得ているのだろうか・・・○月○日早朝の作見指導に出向いた折に、この苗は何時播いたものなのか、何日経過したものを植えたのか尋ねたら、全く答えがなかった。これは現在の就農者は圧倒的に高齢者が多いことも影響している事は理解できたとしても、「内の若い者は農業を手伝わない」などと嘆き、ぼやく前に何か忘れていませんかと言いたくなる話になる。これらの事を承知していなくて、今の生育状態からみてこんな作業が必要なんだと言い切ることが無いままに協力を求めても非協力的になってしまうでしょう。「ただ仕事をしろ」と言ってもそっぽを向かれるのは当然ともなるではないか。
 一方、供給する側もこれら品質に関わってくる情報(食味UP要因)を的確に伝えることがない限り、必要とする技術や具体的な行動とはなり得ないでしょう。
 「○月○日早朝の作見ですよ」という形ではカバー出来るものではないことを承知しておくべきであり、この事がこれ以降の管理や関連作業に具体性を増し、より的確に取組がなされ、これが強いては後継者の理解するところともなるものではないだろうか?
 拾数年前に集落の若い衆が日曜日になって何故、田圃に行かなくてはならないのか分からんという・・・なるほどこういうものかと思い、現地の見学を主体にした講座を継続的に実施した結果、若い衆は「やっとその必要性が理解できたものだし、これに掛ける労力も半分で済むようになった」といった返事を今更のように思い出してもいるところでもある。

6.ECOツウリズム活動の断片・・・
 地域に農村活性化施設も設けられ、その運営責任を預かっていることと、何とか小生なりの体験や実践を通して消費者との交流を考えてきた。こんな時に地域の公民館活動の一環やNPO法人との連携が整って交流活動が始まった。
 ECOツウリズム活動の内、この地では辛いにして機田形状の田園光景が他には類が無い位に素晴らしいものがあって「里山学級」として位置付けを行い園芸作物や穀物を含めた農産物、一部は林産物、そして自然観察を取り入れて参加者も多く、「絵はがきみたい」だという光景に浸りながらの交流は意義あるものと感じ取れた。里山にしかない手法の紹介や昔とは変わってきている姿も含めて「米」のできる姿を理解する場面では、消費者が買い求めるときにどの様なポイントをもっているのかを尋ねた。
 意外や意外、ほとんど言って良いくらい商品知識を持ち合わせていなく、目先の価格のみが先行してしまうのが一般的のようで、例えば米の価格において表示が同一品種であっても幾段階もあることは、何故なのか理解されていない・・・産地の差なのか、混米の割合の差なのか、玄米時の検査格付の差なのかは現行システムの中では分かり難いものとなっているのだろう。・・・この様な状態では生産者の努力が届かないことになる。
 当日は朝採り夏野菜の試験(7品目)も行った。採れだち新鮮野菜の美味しさは大きな感銘を与えた様だが、これも知識としては殆ど持ち合わせていなかった。ただ生産者は安全、安心さとともに新鮮さを保ちながら消費者にどうやって届けられるのだろうかとふと考えさせられた。
 このECOツウリズム活動はカリキュラムを組替えながら数年継続する予定でもあるので沢山の参加がある事を期待し頑張ってもいる。





         青い地球をいつまでも
                                      酒井 恵美子

 あらゆる情報で目にするもの耳にするものは、地球のエコのことばかりです。これだけ攻め立てられれば、地球上に生を受けた生き物に対する意識はいやが上にも高揚いたします。
 1月9日、寒の入りを過ぎたのに、10℃以上の日差しのある日が続きます。外の空気もすがすがしいので庭の芝の中に座ってみました。何と芝のすき間にはびっしりの雑草が。生気を失った芝の間から、今がチャンスとばかり光を求めて勢いづいたのでしょうか。春先が思いやられます。例年なら雪に抑えつけられて地にペタンと張りついている筈の菜の葉類が堂々と茂っていました。近所にも分けられるほどの七草をつみました。温暖化は着実に進んでいることを実感せざるを得ません。地球環境を何とかしなければ…と思う反面、ここまで来てしまっては今更何ができるの…とも又思います。
 正月明けの早朝、一週間連続して、カグヤが撮った「月面から昇る青い地球」が映し出されていました。宇宙に数ある星の中で青く光る星はただ1つです。何とも神秘的で美しくロマンチックです。宇宙からこぼれた雫それとも涙かなと思いました。 その美しい星が何億年もかけて育んだ生き物を、水を、空気を私達の世代で衰えさせてはいけないと強く思いました。しかし、その難しさも又思います。
 寒ければ暖房、暑ければ冷房、食べものも無駄にし、車も又走らせます。お金が無いと言いながら、立派な家に住み贅沢三昧の暮らしを夢見るのも私達です。正月にはチリ一つ無いようにと山程のゴミを出したのに、正月明けには又何袋かのゴミが留まりました。人が生きるということはゴミを出し続けるということなのでしょうか。こんなことばかりする生き物は人間以外には居ません。人のエゴのために、他の生き物を巻きぞえにすることも許されることではないでしょう。
 そして、このようなことをいつまでも続けていたら環境は悪くなっても良くなることは無いでしょう。では、となると、どうしていいのか分らなくなるのも現実ではないでしょうか。
 話は変わりますが、私達(70~80才)の年代の人は戦災や地震を体験しています。当時は今のような福祉制度もなく、倒壊した家は、釘抜きと金てこ1本で一家総動員で片付けました。仮設住宅など思いも寄らぬことで倒れた家の古材や稲架木や竹等組み合わせて仮の住まいを自分で建て粗末な食べ物でしのぎました。学校も真暗なテントの中に一個の電灯をつけ勉強もしました。冬迄にはと地方から集まってきた大工さんと小屋の中で寝食を共にしながら何とか囲いのある住宅も作りました。農家では玄関も台所も空間というところは全部稲を積み込めて住まいか小屋か分らない中で作業をして、秋の収穫も一通りはこなしたものです。こんなことを思うと、一向に進まない環境問題ですが、一度、天変地異が起きて家も無い食べ物も無い電気もない援助もない人間ギリギリの最低の暮らしをみんなが体験する必要があるのではないかとも考えてしまいます。その頃は災害で死傷した人はいたものの暮らし方で自殺した人も弱音を吐いた人も誰一人居なかったように思います。むしろ、今よりは活き活きしていたと思います。最近の世界中に巻き起こっている経済破たんは起こるべくして起こったことでしょう。




  農業経営の確立過程における経営者能力の発揮
                                   代表 玉井道敏

一はじめに
三十六年間における福井県農業技師としての勤務のなかでの最大の収穫は、数多くの農家との交流の体験である。行政、普及、研究、教育、いずれの分野においても、会議や調査を通して、また農家とのグループ活動を通して接触した農家の人間的魅力にいつも圧倒されつつ、それが何によってもたらされるのか、いつも考えさせられてきた。
福井県を代表する農家の今日の農業経営確立までの過程を、時系列的に追うことにより、彼らの経営展開の節目節目に発揮される経営者能力を分析しながら、考察を加え、彼らのもつ実践者としての人間的魅力の源泉に迫りたい。そしてその過程を通して、農業再生のきっかけをつかんでみたい。

二 個別経営における経営の確立過程

(1)あぜみちの会
福井県を代表する専業農家十数戸で構成されるあぜみちの会は平成元年に設立され、これまで『あぜみちのシグナル』など4冊の本を刊行するとともに、定期的な活動として、機関誌『みち』の発行、農家を会場とした収穫祭の開催などの活動を行っている。
今回は会の構成農家の中から4戸の農家を選定して調査するとともに、あぜみちの会に所属する他の農家の経営や日ごろの言動も参考にしながら、本論を取りまとめた。
なお4戸の調査農家の概要は表10-1のとおりである。


一)市街化の動きに対応した大規模稲作経営農家の経営戦略

(1) 立地と経営の概況
A農場は福井市の中心部から北東へ7kmのところに位置し、一帯は、標高10mの平坦な沖積地で、大半は粘質で肥沃な湿田地帯である。近年、大型ショッピングセンターなどの進出により、郊外型商業地域としての市街化が進み、A農場のある集落の農地の一部も市街化区域に編入されるなど、混住化と農地の減少が激しくなっている。
現在の経営は、稲作が主体で、自作地6ha(うち4haの水田は福井市に隣接する丸岡町にある)、全面請負20ha、部分作業請負23ha、乾燥調製4,700俵となっており、収入は約5,000万円である。昨年ハウスを建てて、野菜との複合経営を目指している。労働力は経営主と長男が中心で、母親と経営主の妻は補助労働力の家族経営である。法人化はなされていない。
経営主AM氏は55歳で、がっちりした体格に、日焼けした顔に精悍さと人懐っこさを感じさせる容貌の持ち主である。県内の農家の先輩、後輩含めてAM氏への信頼は厚い。
(2) 経営の展開
 就農の動機
 戦後の厳しい時代に9人の兄弟を抱え、農業一筋に経営を拡大してきた父の影響から、農林高校へ進んだ。その在学中、早くも腰の曲がり始めた母(40歳半ば)の姿を見て、「男一人でやれる農業を」と心に誓った。この気持ちが、AM氏のそれからの営農に対するバックボーンを形成している。ついでに農業専門学校へ進み、「稲作+肉牛」の複合経営を念頭に、畜産を専攻したが、学園で学び、交流していくなかで、具体的な目標である「男1人で20haの稲作経営」を明確に意識するようになった。父親は、AM氏が学生のころから、AM氏名義で米を出荷し、AM氏名義の営農預金口座を作っていた。これは、父親からAM氏への就農への励ましであったのではないか、と今にして思われる。
 昭和44年、卒業と同時に父親の経営(4ha弱の水稲単作)をすべてまかされた。
 農業経営の変遷
 昭和46年の県営圃場整備事業で、集落の水田が60a区画に整理され、50筆あった圃場が7筆一団地に生まれ変わった。この年、トラクタ、田植機、コンバイン、乾燥機など一連の機械を購入し、営農体制を整えた。暗渠排水などと相まって機械の作業効率が向上し作業も楽になった。しかし機械の購入代金は借り入れをして調達していたので、資金繰りの苦しい時期が続いた。
 昭和49年に初めて全面請負を受託、隣接集落から1.2haを請け負った。当時の集落は機械化による土・日曜農業の全盛期であり、他の事情もあってAM氏の居住集落の農家から全面請負の出てくる素地はなく、やむなく隣接集落への規模拡大を図ったが、これも思うようには進まなかった。全面請負と同時に部分作業請負も始め、乾燥調製への委託希望が多かったので、昭和51年に総合施設資金で、乾燥機と籾摺り機を導入したところ、面積にして15ha分の希望が集まった。
 昭和55年(就農11年目)には請負耕作を全面的に拡大する方針を立て、「耕す時代から任せる時代へ! A農場へ任せてみませんか!」との文面のチラシを近隣の農家組合を通じて配布し、規模拡大の布石を打った。それまでの請負や転作対応で確保した信頼が幸いし、このチラシを契機に2~3年で3ha近く全面請負が増加した。また、この年、集落に集団転作の必要性を働きかけ、他の集落に先駆けて生産組合を組織化し、大麦~大豆の周年型栽培に取り組むなど、自らの営農が地域から遊離しないように苦心した。
 このような苦心の結果、昭和61年には自作地と借地合わせた経営面積が10ha、就農20年目の平成元年には、経営面積は11.8haとなった。
 平成3年、自宅近くの自作地を売却し、その売却費すべてを規模拡大に投入し、経営の基盤を固めた。具体的には、買い替え特例の制度を活用して隣接市町村で水田4haを新たに購入、他に1億4千万円の資金を投入して、ミニライスセンタの設置、トラクタ、トラック、ダンプの購入など大型の設備投資を行った。この投資は、経営の刷新と規模拡大の推進を図る上で有効であった。AM氏としては、後継者(長男)への就農の励まし、という思いもあったが、就農以来最大の投資であった。
 昭和55年のチラシ配布以降、経営規模は増え続け、平成8年には経営面積16.4haと部分作業請負面積あわせて就農当時目標としていた20haに到達した。また、ミニライスセンタは整備してからしばらくの間は60%の稼働率であったが、現在は処理数4,700俵とほぼ能力一杯の稼動に達している。
 AM氏の年間労働時間は、平成4年以降1,900時間弱となり、ほぼ一般サラリーマン並となっており、そのほかには補助的に母親と妻が手伝う程度で、平成10年からは大学を卒業した長男が就農した。今後は経営の法人化(有限会社化)を図っていきたいと考えている。

(3) 経営者能力の発揮
 AM氏に、自らが考える経営者能力を尋ねたところ、「健康」と「目標を持ってそれをやり遂げる意思の強さ」という答えが返ってきた。AM氏の経営の発展過程を見ているとそれに「先見性」と「決断力」を加えたい。市街化という農業にとって不利な条件を逆に活用して経営基盤の確立を図り、近郊地帯における大規模稲作経営を作り上げ、合せて後継者を確保した手腕は見事である。
 あわせて、農協の理事をはじめ、県の指導農業士の会長などの数多くの公職を引き受けるとともに、地元の農業後継者育成のための諸活動、専業農家を中心とした組織「あぜみちの会」やファームビレッジ「さんさん」(http://www.fv-sansan.com/)をリードしていく姿は見事である。AM氏が自らの経営の確立を通して、また諸活動を通して、多くの人と繋がりをもち、多くの発想を受け入れることで、彼のもつ資質の上にバランス感覚と総合力を身につけ、そのことが先輩農家からは一目置かれ、若い農家からは頼りにされ、目標とされる経営の確立と人間的魅力につながっていると思われる。

一)稲作の合理化と養鶏専業経営の確立
(1) 立地と経営の概況
 福井県の北東部、三国町にK養鶏農場は立地する。自宅のある地域は純農村地帯で水田は1ha単位の大区画圃場に整備されている。近くには県内最大の丘陵地帯がある。現在採卵鶏5万羽と水田2.2haを経営する。採卵鶏部門は有限会社でK養鶏農場となっている。粗収入は約1億5千万円である。会社は役員4名、従業員7名(常時従業者2人、パート5人)で、役員は家族で構成される家族経営の有限会社である。農場は自宅から10分程度の丘陵地にある本場(4万羽)と自宅近くにある分場(1万羽)からなる。経営主のKY氏
は現在65歳、就農して47年になる。大柄な体躯に柔和な容貌をもつ紳士である。

(2) 経営の展開
 就農の動機
 KY氏は、中学生のときにすでに将来農業の道に進むことを決意しており、当時の職業科の作文に「父に負けない百姓になる」ことを記述している。中学卒業後は、農家の長男のほとんどが農業高校へ進学する時代であり、将来的に多角経営を視野に入れていたため、畜産科を専攻した。当時、KY氏の両親は、水稲を本業に鶏30羽と豚4~5匹程度の経営規模であり、油屋集落での水稲規模拡大は無理であった。このため、養鶏であれば適当な敷地があれば、容易に規模拡大が可能であり、畜産科を専攻しことは先見の明があったようである。最終決断は、高校の研修で、愛知県の養鶏農家に経営に影響を受け養鶏を志すこととなった。
 昭和31年、高校卒業と同時に就農した。就農時に父が鶏舎一棟を建ててくれ200羽、平飼いからのスタートであった。父は自宅を開放し農業技術の研究会を開催するなど地元で篤農家といわれた人で、また、人の世話をするのが好きで、村会議員や地区の公民館長などを務めた。また、農業改良普及員が家に頻繁に出入りしており、県指導者との関係は深く、付き合いは父の時代から続いている。
 また、就農と同時に養鶏部門をすべて任された。このことが、後の自らの経営への責任と自信の高揚へとつながったと考えられる。
 経営の変遷
 KY氏の経営規模は、就農時の採卵養鶏200羽(平飼い)からスタートし、その後3回にわたり規模拡大を実行し、現在の5万羽に達している。これを実現するには、一方で、水稲部門における徹底した省力化が背景にある。
 最初の規模拡大は、就農から13年目の昭和44年から3か年で行っている。このときは、農業後継者資金と農業近代化資金を導入して3か年で5,600羽に増羽している。また、46年には三国町の養鶏農家40戸による三国町養鶏組合を設立し、20年にわたり組合長を務めた。
 この第一期の規模拡大の6年前の昭和38年に集落全戸参加による油屋機械利用組合を設立しトラクタの利用の共同化を実現し、さらに昭和42年にはトラクタ、バインダ、大型防除機を導入して、稲作の主要作業の共同化を図った。組合設立にはKY氏をはじめとする集落内の4戸の20歳代の畜産農家がリードし組織体制を検討していった。彼らは、近い将来、稲作だけではやっていけなくなるような事態がくることを見通しており、副業であった畜産部門を本業として発展させようと、稲作部門の省力化を積極的に図ったのである。
 二回目の規模拡大は昭和54年で、農業近代化資金を導入し1万羽に増羽している。この7年前の昭和47年に、油屋機械利用組合を発展的に解散し、農事組合法人油屋水稲生産組合を設立、中・大型機械化一貫作業体制を確立した。さらに昭和50年から52年にかけて圃場の再整備を進め、当時福井県内では例のない1ha区画の大圃場を実現した。
 3回目の規模拡大は「一生の間で一番の節目」という大規模なものであった。それは昭和62年に訪れる。計画は、現状の1万羽から5万羽に増羽し、費用は土地代、設備費合せて2億円の投資である。養鶏は5~6年のサイクルで価格が変動し、卵価が悪い時に計画を策定し決断することが重要と思われる。この時期を逃さずに行動しなければならないが、何よりも両親の了解は言うに及ばず、妻の協力を取り付けることが必須である。これまで見てきた養鶏農家の成功事例では、経営者の妻の協力が欠かせないことを知っていたからである。50歳の時の決断であったが、長男が国立大学の農学部に進学したこともあり、将来自分の後継者として就農するという期待感もあったに違いない。建設は62年に着工し、労力配分や販売先の開拓も配慮して、平成2年、4年と隔年で増羽し5万羽の規模とした。
 さらに、規模拡大を目指すうえで法人化は避けて通れない道であり、法人化すること自体が農業にかけていくという明確な意思表示になるという考えのもと、平成2年1月に有限会社を設立した。この第三期の大胆かつ綿密な設備投資により、当面の経営基盤を確立し、夢を実現したといえる。このような設備投資や合理化によって、現在、KY氏の年間就労時間は1,600時間となり、さらに、畜産農家には珍しく会社として週1回の休日制度を設けている。
 今日の経営の基盤を築いた3回目の規模拡大から10年、KY氏は、現在地元自治体の職員である長男の就農に備えて、最後の規模拡大を構想中である。また、これまで中心的役割を担ってきた水稲生産組合においては、その運営を集落の後継者に任せ、自分は相談役として後見する。




             丑年に思う

                             細 川  嘉 徳

 今年は元旦に雪が降ったが、この後たいしたことなく、この分では今年も暖冬間違いなしだ。昨年は子の年、内外共に大山鳴動した年だった。まず中国ギョーザ中毒事件をはじめ、五月には中国四川省でマグニチュード8の大地震で被害者一千万人、ミャンマーもサイクロンに襲われ死者・行方不明一三万人と、自然災害としてじゃ今までに聞いたことがない大規模の天災であった。年末にはアメリカ発の金融不安が全世界に波及し、株が大暴落、世界中が百年に一度の同時大不況になり出口が全く見えない。加えて国内の政治はねじれ現象で政治が空回りして、政治不信も大きい。とにかく去年は地球が荒れに荒れた年であった。このような中で嬉しいニュースもあった。四人の日本人がノーベル賞を受賞したことだ。
 そして今年一月二十日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。今回アメリカ国民が黒人のオバマ氏を選んだこと自体に大きな変革の意味がある。そして全世界がこの難局をどう乗り切るか、オバマ大統領の手腕に世界の期待は大きい。
 今年も中央公園の紅梅が、昨年より早く花が咲いたと新聞に出ていた。春一番に咲く梅の花に惹かれ、いそいそと公園まで出かけ、漸く見つけてカメラに収めてきた。

 年々歳々花相似
 年々歳々相似たり
 歳々年々人不同
 歳々年々人同じからず

年ごとに花は同じでも、年ごとに見る人は同じではない。
劉廷(りゅうてい)芝(し)の「白頭を悲しむ翁に代わる」の詩の通り、毎年春が来れば花は時期を違えず咲くが、人間社会の春は送迎の季節、新陳代謝が行われる。思いもよらぬことに新年早々友人を亡くした。これも自然の摂理かも知れないが、言葉に出来ない無情を覚える。人は七十歳も過ぎると、友人は減っても増やすことは難しい。昨年は「変」という文字で去年の世相が表示された。確かにそうかも知れないが、良い意味で生活にも新しい変化は必要だ。
 今年は丑年、不況の嵐の中、先ず健康に心がけ、時代の変化に対応出来る体力と気力を養い、マイペースであせらずたゆまず、牛歩の歩調で過ごしたいと思う。




   回想   小林としを

 今にして感謝の言葉つらねある遠住む旧友(とも)の賀状気になる
 生さぬ仲に耐えいて遊ばぬ秀才の友を追いいし日は遙かなり
 遠山脈に対いて泪すとありし便りのひとこま胸にねむれる
 帰省して戻りゆくとき僅かなる米を渡しいぬ乏しかる世に
 麗ちゃんにあげいて減りし米のこと母と話ししと後に父言う
 人住まぬ家にも季はめぐり来て棗たわわに落日返えす
 うすれゆく茜の空に黒々と影絵となりてビルは鎮もる
 風に鳴る椎の老樹の低ごもる音を聞くなし伐りて幾年


   三ヶ月      北風尚子

 
陽の沈み木金星も輝きて スマイリングムーン山の端にあり
 菊人形源氏の語りそのままに 恋の歌あり式部の公園
 カラオケに酔いしれ見上ぐる中空の 月は満月わが影うつす
 樹々の影移ろう狭庭に白妙の 笹百合咲けりわれの背をこし
 夕つ陽のおちて沈もる山の端に 三ヶ日赫く輝きており 
 クラス会六十余年の月日経て 今よみがえるあの日あの時
 くじ作り男女交互に坐りいて 話ははずむ今宵ひと刻
 里の秋歌えば恋いし幼唄 友はいづこか師よ健やかに



   中秋   鉾 俳句会

 
御降りや殊に華やぐ庭の松     田中 芳実
 餅搗きや襷(たすき)姿の母浮かぶ     旭  政子
 餅米の蒸し上がる香が隣より    猪之詰佐智子
 除夜の鐘祈りては撞(つ)く僧素足    今川 和加子
 初夢や吾より若き母に会ふ     岡田 貞子
 我を過ぐ羽撃(はばた)き強き初鴉(はつがらす)     小倉 不尽
 初御空(みそら)住み古(ふ)る門(かど)に日章旗     河合 紫仙
 初笑ひ調子外れの正信偈      川田 邦子
 舞初や毛(け)槍(やり)振り上ぐ男舞      田山 恭子
 硝子(がらす)窓打ちて跳(は)ね飛ぶ玉霰     中田 節子
 七草や吾手作りの菜を揃へ     畑 純子
 節(せち)料理家族の一人嫁が笑む     藤井 敏子
 新妻の目覚めや直ぐに初鏡     藤田フジ子
 芋(いも)の子のひとつを抱(かか)くふ初湯かな  山口 浩
    
(注)「お降り」は新年三が日に降る雨や雪のことで、
豊作の吉兆としての季語です。


     馬来田寿子

 手作りの 松飾りして 山暮し
 初明り みくじ見せ合ふ 二人かな
 黒髪も 遠き想ひ出 初鏡
 わが干支の 春を夢みて 帯結ぶ
 霧晴れて しだるヽ枝の 雫かな


     豊岡悌子

 初笑い 涙線ゆるく なりにけり
 紅を引く 紅さし指や 初鏡
 捕はるは 無残なことよ 嫁が君
 息災を 包み火柱 どんど燃ゆ
 甑(こしき)湯気 くぐりて今朝の寒造り
       
 嫁が君・・・ねずみのこと
          甑(こしき)・・・米をむすタンク

 


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