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あぜみちの会ミニコミ紙

みち50
(2008.11.7 立冬号)


アフリカ青年研修 山崎農園にて 松田宗一氏撮影



シグナル50

福井市 中川 清  

  「みち」が、50号を迎える。考えてみると十数年の積み重ねでもある。古いものを読み返してみると、感慨深いものがある一例だが、13号「十一年余前」のシグナルでは、生産者一人に、消費者五十~百人の連携が出来て、毎月、一定額で、消費者が生産を支えるシステムが出来たら・・と提案している・・

  私は今、四~五十戸の方に、直接支援を願って、またその数倍の方に、日頃、種々支えを頂いています。

 今の地産地消とは、また違った連帯であります。夢かも知れないが、あるJAと都会の団体とが、手を結ばれれば、そこに交流も生まれ理想的でしょう。

 つい先頃まで、アフリカから農業研修生が、十数名二週間、福井に宿泊滞在して、勉強して帰った。私も何日かお付き合いをした。私の語学力では、十分意を通じたとは言えませんが、笑顔で、最後の一夜を、酒を飲み交わして、交流をしました。その折り、県の山田さんに通訳を願って彼らに話した事があります。「私はここで一番の年長者だと思う。六十年以上農業をしていて、何時も心掛けていた基本は、自分の後に続く人の為に何か残したいと言う事です。例えば日頃トイレに入って出る時、スリッパを次の人の為に向きを変えて揃えて出てくる。この心がけが例です。

  そして、この次の人の為の心がけは、環境とか、地球温暖化問題にも通じるのです。今日の料理だって作った人は、食べる人の事を思って作った筈です。農作業の例では、次の列を植える人の為に、センターラインを引きながら植えるものです。整地作業だって、後の管理作業の事を配慮して作業をします。あなたも国に帰ったら、此処で学んだ事を、国の後輩に何かライン引きが出来る事を祈っています」と・・どこまで意が通じたか解らないが、翌朝、帰りのバスに福井駅東口で偶然出会った時、私が手を振ったら、気付いてか、彼らが何人も立ち上がって、手を振って挨拶して別れを告げた。彼らは、何か持って帰って呉れたかなぁ・・





          み ち と 突 角

                                       名津井 萬

  あぜみちの会の機関誌「みち」が、今回で五十号を数える事になった。手元にある創刊号を改めて読みなおして見た。創刊は平成五年(一九九四年)冬号として発刊された。今年じは十六年目である。よく続けて発刊されたものだと思っている。創刊号から数号読みかえしてみると、「微笑みの出る文」など、今も生き生きとしている。号を重ねれば重ねるほど、その貴重さと記録の素晴らしさを感じている。五十号が発刊された後、一冊の誌に纏める計画もあり、また一つ楽しみが増える。今後も一つの記録としての続刊を望んでいる。

 私事だが、今年の三月に酪農教育ファームの研修で上京の折、父方の従兄弟で最年長の野路寅雄大兄を品川区の自宅にたづねた。八十七才で壮健である。

 私の父方の従兄弟(従姉妹)は男十二名、女十一名が健在である。

寅雄大兄は、私の父を慕い、尊敬してくれていて、私と会えば必ず、私の父の思い出話に花が咲く。今年は私の父の戦没七十周年、生誕百周年と云う事で、佛前へと香料を頂いた。

寅雄大兄は、今回ノーベル物理学賞に選ばれた、南部陽一郎先生と旧福井中学校(現藤島高校)で同級生だった事を何時も自慢されている。三月にたづねた時も「南部君は・・・」と君づけで言われていた事は、羨ましいばかりだ。南部先生の今回のノーベル物理学賞は四十数年前の理論だそうで、選定者の能力の低さが感じられる(失礼だが)。寅雄大兄の話しによると、中学生の頃から優れた頭脳の持ち主であったと言う。

帰りに寅雄大兄は「列車の中で読んで見ろ」と言って「突角」と題する冊誌をくれた。約二百頁あり、編集兼発刊人は野路寅雄とある。勿論、帰りの列車の中で読みふけった。「突角」 と題する冊誌は、旧福井県立福井中学校へ昭和八年に入学し十三年に卒業の級友でつくる「突角会」の会誌である。その中には南部洋一郎先生の名も出てくる。旧福井中学と言えば、県下各地の小学校のトップクラスの人材の集まった学校である。「突角」を読んでいると豊富な人材集団である事が分かる。後に「突角」八号、九号を贈って頂いた。

 昭和八年の福井中学校は現在の県農業会館附近から東西にのびた敷地にあった様で、現県庁のお濠の東南附近に、三角に尖った学校敷地があり、学校としては死角の様な所で、その場所を突角と呼んでいた様である。「突角」の名付親は、室田外吉先生だと記してある(室田先生は私も知っている)。

入学のその年に校舎が火災で焼失し、北陸中学校で間借りし、新しい中学校は、牧ノ島区に新築されたと記してある。牧ノ島は、私の住む西藤島村の一村である。卒業は牧ノ島の新校舎から巣立ったと云う。それが現在の藤島高校である。

野路寅雄大兄たちは八十才後半になるも、文筆の劣えを知らず「突角」と云う独特の表名をもって発刊を続ける、その気力に脱帽である。

私たちの「みち」の発行も、未だ未だで、未だ青二才だ。これからも「みち」の発行をねがっている。





        『みち』50号に寄せて

       
埼玉大学共生社会教育研究センター   平 野  泉

  「あぜみちの会」の皆さん、いつも『みち』をご寄贈いただきありがとうございます。そして1994年の創刊から14年を経ての50号達成、ほんとうにおめでとうございます!
これだけの内容のミニコミ誌を継続的に発行するのは、並大抵のことではありません。皆さんの努力に、まずは心から敬意を表したいと思います。

 全国のミニコミや市民活動の記録を収集・公開している当センターには、A4一枚の家族新聞から著名NGOのニュースレターまで多種多様な刊行物が届きます。しかし、じつはその中に「ああ、これは『みち』と似ているな」と思えるものはないことに気づきました。とはいえ私が知らないだけで、実際はあるのかもしれません。そこで現在23万件のミニコミ・データが入力されているデータベースに「農業」と入れて検索してみました。すると200点ほどのミニコミがヒットしたのですが、どうも「農業」関連のミニコミといっても以下の3つに大きく分けることができそうなのです。

A 生産者から消費者への発信。例えば、『農加研だより』((株)白鷹町農産加工研究会、山形県白鷹町)など。
おいしい農産物を消費者に届けると同時に、生産の近況も伝えるものですが、とても少数です。

B 消費者からの発信、あるいは消費者運動から生まれた生産者と消費者の共同事業体からの発信。
例えば、『お米の勉強会』(兵庫県西宮市)や『あしの会だより』(兵庫県伊丹市)など。   
安全な食べ物を生産者から共同購入する運動や、消費者・生産者でつくる共同農場が発行する通信などはここに入れてみました。これがいちばん多いようです。

C 大きな社会運動の中で生まれた農業事業体からの発信。 
例えば三里塚の米や水俣のミカンなど。生産者が発信者であることには変わりないので、Aの一部としてもいいのですが、やはり運動の比重が高いという印象なので、別にしてみました。

 そのほかに「地域と農業」のミニコミとしてよく知られている、ちょっと変わったものとしては、『甘楽農民新聞』があります。これは群馬の高瀬豊二さんという方がたった1人で取材から配達・集金までを行い、1953年から1982年までの29年間で1,045号を発行された新聞で、扱うテーマの広さや地域へのこだわりに関しては確かに『みち』と相通ずるものがあります。しかし、やはりおひとりでの発行ということもあってか、「ネットワーク」の存在が感じられる『みち』とはずいぶん毛色が違うと言わざるを得ません。つまり、地域で農業に携わり、地域と農業、そしていのちと食べものを心から大切にしている人たちが思いをわかちあい、つながる場としてのミニコミは、センターには今のところ『みち』しかないのです。もしミニコミ同士のつながりで「他にもこんなミニコミがあるよ!」という情報がありましたら、ぜひご一報ください。

 さて、この原稿を書くにあたり創刊号から49号までをあらためて通読してみたのですが、1994年のコメ不足(第2号)、2001年の狂牛病騒ぎ(第31号)など、当時のことがいろいろと思い出され、50号の重みと、記録し続けることの価値をしみじみと感じました。また、毎年持ち回りでさまざまな地域で開催される収穫感謝祭の様子あり、日本社会や政治への苦言あり、新しい農業技術の紹介あり、講演録あり、旅行記あり、はたまた短歌・俳句あり…という内容の多彩さにも驚かされました。地域と農業にこだわりながらも、書きたいことを書くこと。そして「規約」などにしばられず、ゆるやかにつながりたい人たちがつくる自由なネットワークのひとつの場でありつづけること。それが発行継続のカギなのかもしれません。

 また『みち』を再読していて考えさせられたことがもう一つあります。「あぜみちの会」の皆さんはもとより、ミニコミ発行者の皆さんがミニコミに込める思いを、センターはしっかりと受け止めて来ただろうか?ということです。「顔の見える関係が作りにくくなっているいまこそ、もっともっと、人をつなごう。そのために、できることをしよう。それが、センターの仕事だ」一そう思っていたのに、いま、その仕事がどれだけできているだろうか。日々の雑務に追われて、かんじんなことをおろそかにしていないだろうか…。

 田んぼと田んぼ、人と人、むらとまち、生産者と消費者。その「境界」に存在する「あぜ」を取り払おう、という中川清さんの呼びかけ(第3号「シグナル」、1994年7月25日)は、センターがその名に掲げた「共生」とも響き合います。そして「あぜみち」から「あぜ」をとって残ることば、「みち」。『「みち」とは道(人の歩いた跡・レール)でもあるが「未知」にも通ずる』(同上)という、誌名『みち』に込められた思いは、今も色あせることがありません。

 土と生きものを相手に一日も休まず働き、おいしい食べものをつくりながら『みち』の刊行も続けてきた「あぜみちの会」の皆さん。センターもそんな皆さんにならって、この社会の中にあるたくさんの不要な「あぜ」を取り払い、「未知」につながる「道」を人びとがともに切り開いていく、そのお手伝いができるよう努力していきたいと思います。

 次の節目は100号ですね。
 どんな『みち』になるのか、どんな「道」が見えているのか。とても楽しみです。






       川はげんきですか?
         大河川が川原砂漠に

                         日本有機農業研究会 上杉幸康  

 川辺を歩いたり、徹夜おどりで汗をかく
 お盆に福井県の隣り、「郡上八幡徹夜おどり」に行きました。夏になると、「今年こそは、今年こそは」と思いつづけていましたが、やっと想いがかないました。長良川鉄道の「郡上八幡駅」に降り、長良川の支流、吉田川の上流に向かって川岸を歩きました。速い流れは、大きな帯になって、同じ形の波を繰り返し、足下を通りすぎます。元気のいい川を見るのは、久しぶりです。町の中を縦横に水路が走り、その流れは全て吉田川へ注ぎます。落ち着いた町の暮らし向きは、きっとこの豊かな水に支えられているのでしょう。

 踊りは夜八時ころから夜明けまで。三味線、笛、太鼓の囃子にあわせ、四~五人の歌い手が代わる歌い継ぎます。囃子が変わると、歌も踊りも変わります。浴衣姿に下駄をはいた踊り手は、町の通りいっぱいに広がって、下駄の響きと威勢のいいかけ声が夜明けまで続きました。いく晩も踊り続け、昼間の通りは静かですが、夜には町いっぱいの賑わいになります。とにかく踊り好き、戦時も踊りは絶えず、「玉音放送を聞いた数時間後、もう踊りはじめた」という伝説もあるそうです。

 帰りは岐阜行きの路線バスにのりました。昼間のバスは空いていました。私一人の貸しきりでした。バスはずっとか長良川に沿って走ります。流域の家々の造りは川に向いてL字型の縁があり、いつでも、誰にでも開かれているようなやさしい造りでした。

信濃川、山古志村を訪ねて
 九月十三日~十四日、ATT流域研究所(荒川、利根川、多摩川流域研究所)のお誘いで、新潟県十口町市、長岡市山古志村(旧古志郡山古志村)を訪ねました。ツアーの目的は、①信濃川中流域の発電所と信濃川の水問題について、②震災後の山古志村を訪ねることでした。

 信濃川中流域の水問題は、水力発電用に取水され、発電所で使用された水が本流に返されず、「トンネル放水路、みえない川」によって、いくつかの発電所にたらい回しされる。西大滝ダムでの取水、宮中ダムでの取水を経て、千手発電所から新小千谷発電所までの本流約六十数キロメートルが河原砂漠になっていることです。流域減少により希釈量が少なく、水質の悪化、水温が上昇し、魚が住めない。鮭の遡上ができない。上水道水源に影響し始めている。農業用水が取れない。流雪溝への取水に大きな負担がかかる等々、地域の暮らし全般の問題になっています。

 信濃川水素(中流域)には十六ヵ所の水力発電所が集中しています。その内訳は東電七箇所、東北電力二箇所、電源開発四箇所、JR東日本三箇所です。JR東日本の信濃川発電所(千手発電所、小千谷発電所、新小千谷発電所)で発電した電力は、関東一円の列車運転に使用されています。JR東日本の年間電力消費量は六十一億KWH。その内の約十六億KWHが信濃川発電所で発電したものです。首都圏に生活する私は、このような事実について全く知りませんでした。桾澤伸司さん(十日町市役所克雪維持課長補佐)の話をうかがうと、実は信濃川の水問題のすべては首都圏の私たちが負っていることがわかります。同じような問題は、静岡の大井川、四国の四万十川、九州の筑後川等々、全国の大河川にもあるそうです。

 現在、JR東日本と十日町市との水利権の契約は、最大毎秒三一七立方メートルの取水に対して、毎秒七.〇立方メートルの河川維持用水を魚道に放流することになっています。これはあまりにも少ないと、地元では毎秒三三立方メートルの河川維持用水の放流を要求していますが、JR東日本との合意にはなっていません。

 「信濃川は、その源を甲武信岳に発し、千曲川として長野県内を流下し、長野、新潟県境に至り、ここで信濃川とその名を改める。流域面積は一一.九○○平方キロメートル、幹川流路延長はわが国最長の三六七キロメートルの大河川である。古来、その清 で豊富な流れは流域の豊かな自然を育み、その押し出す土砂は広大で、日本の代表的な穀倉地帯の越後平野にみられる肥沃な大地を形成してきた」(「信濃川の水問題 資料」)。豊かな水は自然を育み、人の暮らしを支えてきました。栄えた古代都市も、水を枯らして滅びました。水と人との繋がりを断つことは、私たちの明日はないということです。

 二○○四年の震災から四年目の山古志村。震災の爪痕を剥き出しにした山肌にも雑草が生え、雑木が枝をのばして、少しずつ緑が甦っています。まだ村に帰っていない人たち、やむなく村から出ていった人たち、村の暮らしは完全復旧にはなっていないようですが、家屋、道路、田畑の復旧は進んでいました。高齢化の進む油谷集落では「水田営農組合」を作り、震災で失った農業機械の購入、使用の共同化。田植えから収穫まで、協同作業で支え、助け合いの伝統が続いているそうです。

 山古志村の「牛の角突き」を見ると、山古志村の人柄が見えるようです。闘牛ではなく、角突きです。勝ち負けをつけません。引き分けです。この日は一五組の取り組みがありました。牛が紹介されると、二つの入り口から、各々勢子に引かれて入場です。前足で土を蹴り上げ、鼻息を荒くして、相手を威嚇します。勢子が鼻綱を放す。牛は全身の筋肉をふるわせ、ドンとぶつかります。押す、押される、押し返す。そのたびに場内からおおきなどよめき。牛の動きにあわせて、成り行きを見守る勢子たち。さあ、どこで、誰が「引き分け」の合図をだすのか。合図があるのか、ないのか、見えない合図があったのか、分からないうちに、一斉に勢子たちが両牛の周りをかこんで、引き分けます。素早く牛の後ろ足に綱をかける者。前にまわって、鼻面をつかみ、鼻に綱をかける者。タイミングをはずして、場内を走り回る牛と勢子たち。ここは勢子たちの腕の見せどころです。主役の牛と一緒になって、勢子たちの動きが場内を沸かせます。取り組みが進むうちに、私も「引き分け」のタイミングを読んだりしましたが、外れてばかりでした。

 山古志村の助け合いの伝統は、「勝ち負け」をつけないようでした。





                 目指そう!偽りでなく本物を
 
                                          酒井 恵美子

『持続可能』という言葉が重さを置かれている今日、『みち』の発行から十五年、ともかく続いたということは、たいしたことだと思います。個人の熱い思いが綴られ続けてきたことが読者の感動を呼び励みになって今に続き、未来に続いていくのではないのでしょうか。私と『みち』との出会いは、農業歴まだ駆け出しの頃、農協で屋敷さんの講演を聞きに行ったとき、「みちの発行しているので投稿すれば即座に採用してくれますよ」という一言が始まりでした。それから十五年、その歴史を今噛みしめています。

 今回は、五十号記念ということで、多くの方々の投稿があるのではと特に楽しみに待っています。
 経済優先社会が産み出した功罪が偽装。それが横行する中で当然ながら本物志向が首をもたげます。そこで今回は本物の農産物の生産の、しかも持続可能なあり方を考えてみたいと思います。

 以前は「今の若いもんは、ばあちゃんの作った野菜は食べてくれない」という言葉をよく耳にしました。買った物は見かけもよく、きれいで珍しいものも手に入るということだったと思います。でも今は偽装の食品が安心、安全な食品を脅かしている中、顔が見えるとか、履歴書付きの食品とか、また地産地消だのといろんな事が言われ、ばあちゃん菜園が見直されてきました。しかし、家で作ったものが必ずしも、安全、安心で、おいしいかと問えば、かなりの?符が付くのではないかと思います。その由は、単刀直入に言えば勉強不足ということにあると思います。農薬も化学肥料も無かった時代、農家はどんな努力をしていたでしょう。そして、その時代の食べ物の味を六十歳以後の人々なら舌が覚えている筈です。その人達が、現在、日本の農業を支えているのですから、その時代をベースにして、更に進んだ農業技術を生かし、環境の変化や時代背景を考えた農産物を生産するための知識や技術は欠かせないものがあります。

 例えば、自然界には、どれだけの解毒能力があるのかも見極めなければなりません。また、無農薬食材を消費者は要求しますが、平地の農地では今の段階では無理なことも事実です。野菜の苗を購入した時点でも葉に穴があいていたり、アブラムシが付いている苗を見たことがありません。即に処置されているのでしょう。
 有機野菜も声高に主張しますが、有機物だけでは不足する成分があり、おいしい野菜が育たないとこもあります。化学肥料で補うのが手っ取り早いでしょう。

 堆肥には茶がら、もみがら、米ぬか等は有効で欠かせないものですが、使い方によっては、とんでもないことが起こります。農協で出しているもみがら堆肥は何年間積んでおいても草一本生えず、みみずも小さな虫一匹も寄りつきません。何故でしょう。コーヒーかすを地面に撒いておけば、雑草の発芽がおさえられ、虫も寄りつきませんし、そば畑に雑草が茂っているのを見たことがありません。

 また、料理研究家の為永さんは、お正月や祭りのような年に何回かの『晴れの日』に少々汚染された食べ物を口にしたからといって即座に問題が起こるのではなく、日常において不健康な食べ物を食べ続けることが問題なのだと言われます。同じように一回の農薬を基準通りに散布したからと言って、そんなに怖がることもないのではないでしょうか。撒き続けるということ。製品に農薬や毒物を混ぜてみせかけの産物を提供することが問題なのだと思います。

 その辺りのところを生産者は勉強しなければならないと思いますし、JAや農業試験場の方々も農家の一人一人に滲透するように頑張って欲しいと思います。その上、温暖化現象はいろんないたずらをけしかけてきています。

 減農薬の果物は腐り易い病気が発生しやすいと言われまあすし、減農薬米も低温保存の設備がないと虫やカビの発生を抑えられなくなったと言われます。日本中の米にカビが生えたり、虫に食われたりするなんて、考えたくもありませんし、農薬使用も許されるものではありません。他にもいろいろな事が絡んできますが、安全で安心な作物はそう易々と生産できない理由がその辺りにあるのでしょう。それに安心安全な作物を力んでみても実践がついて行かなければ掛け声に終わってしまいますし、採算が合わなければ農家の生活はどうなるでしょう。また自給率確保のために農地を拡大しても生産量が半減してしまえば自給率が下がっても上がることは難しいでしょう。その辺の舵とりも大きな課題です。机上の空論に終わらないよう、生産者も消費者も政治家ももっと勉強する必要があると私は思うのです。





   嶺南から

                                
鶴 田  利 忠

 私は玉井先生のおすすめで「あぜみち」を読んでいます。私は宅地を道路に削られ五十坪に足りない地に家を建て住んでいますので菜園もありません。

 菜園、やぎの話などうらやましく思いながら「あぜみち」を読んでいます。私は古代史が趣味で主に敦賀近辺のことを調べています。私は日本の歴史は越前から始った、と考えています。

 南越前町大谷三十五号の地名はニニギ畑であります。ニニギノ命という方は天孫降臨神話の主役、ともいうべき方であります。また九頭竜湖に伊勢川という川がありますが、かつてその流域に元伊勢と云われる神社があり、ダム建設地に周辺の集落が消えると共に、その元伊勢の神社も消えました。

 不思議なことに九頭竜湖の真南に現在の伊勢神宮があり、白山の真南に伊勢神宮の奥の院である朝熊山があります。現在の福井市には百をこえる白山神社があります。白山神社をよく見て頂きたいのですが、白山神社は山の中にポツンと祀られる、ということはなく必ず道路の近くに祀られています。白山神社の近くの道路は古代からの道路といえます。

 昨年は継体天皇即位千五百年という年でした。継体天皇は男大迹大王と言われた方ですが、男は「田を耕作する」、大は「すぐれた」、迹は「あしあと」でありますから現代風に解釈しますと、男大迹大王は「新旧開発にすぐれた業績を残された方」となります。

 南越前町大谷にニニギ畑があること。九頭竜湖近くに元伊勢神宮があったことなどから、古代王朝は越前にあり、白山神を守護神としていた、と考えています。そしてそのことを「いうな!」というのが鉢伏山の言奈地蔵である。と考えます。

 白山神社の伝説伝承の類を探しています。もしご存知の方がありましたら教えて下さい。

℡一四―○一二四 敦賀市市野々町二丁目二九―一―八





  近代化によってもたらされたもの、失われたもの
       主に農林業の視点から


                     玉 井  道 敏  


 京都の林業家の友人の言によると、スギは植えてから20年ぐらいになると林地崩壊を起こす危険があるそうです。植林する前に伐採した木の根が腐り、スギの根が土をつかむ前に林地が崩壊する可能性が大きくなるそうです。二年前の福井の豪雨では、かなりの木材が流れてきて、橋桁などに引っかかったそうですが、20~30年前のスギの植林と急激な降雨による土砂の崩壊との因果関係があるのかもしれません。

 人間が自然を管理するためにその環境を単純化してきた時、そこに何かの大きな力が加わった場合、バランスが崩れて崩壊がおきるのかもしれません。自然を改造する時には特にその結果を慎重に予測してから行なうべきです。先祖や自分達が住み続けてきた環境をいつまで改造し続けられるのか、慎重に考えるべきだと思います。


■ これから

以上のように日本の近代化の功罪を、現場の動きに即して紹介し、どちらかというと批判的に考えてきたのですが、その過程でいくつかの問題点に触れてきました。それら課題を今後どのように解決し、克服していくのかが我々の世代に求められています。近代化によって失われたものをもう一度見直してみる、そして再生の努力をする。近代化の矛盾を批判的に捉えてそれを止揚するような新たな方向を作り出すことも必要です。また、現在、近代化に取り組んでいる国々が、将来同じような課題を抱える事を避けるためにも、参考になる事を提示し、アドバイスできればと思います。

福井県は現在も開発志向が続いていますが、地域、地域、それぞれの近代化があってよいのでしょうし、場合によっては、近代化に変わる理念に基づいた目標を地域の実態に合わせて定める事も必要です。日本は全国画一化の方向に傾きやすい性格を持っていますが、その反省を踏まえて、地域の個性をもっと生かす、生かせる方向で、場合によっては国の方針に異を唱える形での地域づくりが行なわれてもよいでしょう。
先にもふれたように、水田の装置化などによって失われた農の恵みへの見直しや、再生の動きがあちこちでみられますが、多様な命が共存する、共存できるような環境を再び作り上げていく。水田をただ単に、効率的に米を生産していくだけの装置と考えずに、多くの多様な価値を生み出す豊穣な場としてとらえ、生命の循環の場として位置付けていくことが、農の楽しみを取り戻す事になるのではないかと思われます。

地球の有限資源に頼る生活から、再生産できる資源への転換、再生産できる資源の見直しを図る。エネルギー資源の利用についても、国々の利益から地球上に住む全ての人々の利益に、そんな転換が図れないものでしょうか。

最後に『もったいない』という言葉を紹介して今日の話を終えます。最近、滋賀県知事に当選された嘉田由紀子さんが選挙運動のキーワードとして使われた言葉であり、ケニアの環境活動家マータイさんが21世紀のキーワードとして広く世界に紹介されている日本語です。『物の価値を生かしきる』『無駄を出さない』というような意味ですが、環境問題を考える上でも、大量消費社会を見直す上でもインパクトの強い言葉です。

今から五十年前の子供時代、御飯粒を落として食べずにそのままにしておくと、両親やお手伝いさんから「目がつぶれるよ」ときつくしかられたものです。そんな時代の日本を経験している世代の自分としては「もったいない」と言う言葉がすとんとハラに落ちるのです。

今日は皆さんから貴重な時間をもらってまとまらない事をしゃべりましたが、皆さんにとっては「時間がもったいない」と思われたかもしれません。お許しください。これで終わります。





     べたつぶれは地球の恥


                                   宇 野  肇

  宇宙ってあるのかなあーあるかも知れないし、ないかも知れないのだ。何故かというと、人間の知恵ではどうにもならんのだよ。星の数ほど…っていうじゃない。とにかく多いんだ。でもその見える範囲は宇宙の一千億分の一つにもならないんだ。私たちが肉眼で見られる星の世界は、太陽系のある銀河のほんの一部分なんだ。銀河には大小あるが、その数一千億とか二千億とかあるという。

 光の速度は、1秒間で三十万K米(地球を七周半)の速さという。この速さで一年間走る距離を一光年という。(30万キロX 60秒 X 60分X24時間X365日 )とても計算できるものではない。お月様まで約一秒、太陽まで八分、われわれの属する銀河の直径が十万光年、厚さが三万光年といわれる。その銀河の片隅にある太陽系の大きさが十時間というから、太陽系の存在がおおよそ想像がつくというものだ。もうこうなると、一光年の彼方は最早宇宙の果てといってもおかしくはない。ましてや、千光年、万光年、億光年といっても言葉だけがおどるといってもよい。

 スバル宇宙望遠鏡というのがハワイ島の高い山頂にある。一度のぞいてたしかめたいが、その夢は実現しそうにない。そこでの観測では、百五十億光年先の銀河をみることが出来るという。天文学的数字とはこのことである。わが地球が誕生してから今日まで、四十六億年といわれる。するとその年数の三倍強の昔の銀河ということになる。スバルが発見したその大銀河も、わたしたちが夜空をながめる一つの星の大きさにしかみえないという。まあーまゆつば物語りというほかにない。冒頭に述べた如く、宇宙ってあるかもしれないし、無いかも知れない存在なのである。

 でもわからないままの宇宙を、そのまんままとめなければならないのも、宇宙人の責務でもある。試(こころ)みることも無駄ではあるまい。地球からたった一光年(地球に近いシリウスまで約八光年)の宇宙空間でも、最早宇宙の果(はて)の感ありと先述した。そこは東西南北・上・下といった方角が0(ぜろ)であること。光は全く無く、漆黒の世界、真空、その上零下幾百度、音もなければ、時間もない、広さもない、とにかく無い無いづくしの世界なのだ。いやその世界もないのだ。とても、とてもロマンどころじゃないんだ。満月のお月さまには万葉の時代からロマンの世界だった。地球から光(ひか)りの速さで一秒の処でさえ、人間の生存は一秒も許さない死の世界なんだ。

 でも宇宙にはたった一つだけ、不思議と奇跡が発生したのだ。全宇宙には六〇兆個の星があるという。(人間の体も60兆の細胞あり)恒星もあれば惑星もあるだろう。その六〇兆個の天体の中でたった一つだけ生命の天体が存在するということである。その天体は水の惑星、地球なのだ。種の原因が未だ不明でも、生命の種類が三千万種という。巨大な鯨もいるし、メダカもいる。飽きもせず戦争もするし、恋の花も咲く。又米つくりの星人もいるが、広域農道を走らせば、みごとなべたつぶれのコシヒカリを散見する。この田はもはや米つくりの資格はない。せめて23.5度のはんいの米つくりを研究せよ!名付けて北極星米をつくるのだ!





     史跡「新田塚」と私

                             細 川  嘉 徳


 福井大学前の三国芦原街道を北へ約二キロ、初めての陸橋の手前にこんもりとした落葉高木樹に囲まれた祠があります。ここが南北朝の武将新田義貞が戦死した所と伝えられ新田塚と呼ばれているところです。つい五十年ほど前には鬱蒼とした杉の森で、文献によれば面積は八八○坪とあるので、現在の約二倍位はあったと思います。芦原街道に面していますが人通りもなく、一面田んぼで文字通りの畷でしたが、今はその面影はありません。

 私は毎日早朝ここまでウオーキングを兼ねて参拝に来ます。ふとした動機でこのことを始めて十数年、雨の日も風の日も雪の日も、風邪でも引かない限り殆ど休んだことはありません。そんなことをして何か御利益でも、と聞かれても返答に困ります。そんなものは何もないからです。ただ今日も無事お参り出来たと言う、ささやかな満足感だけはあります。お参りと言っても別に神様が居るわけでもなく「新田義貞戦死此所」と彫られた石碑が、宝形造りの社殿風の建物に収まっているだけで、つまりこの石碑を拝んでいるにすぎないのですが、心は神様に向いています。

 この境内の案内板には次のように書かれています。「新田塚 国指定史跡 灯明寺畷新田義貞戦没伝説地 明暦二年(一六五七)農民がこの地の水田から鉄製の冑を出した。当時の藩の軍学者井原番右衛門が、これを暦応元年(一三三八)閏七月二日にこの付近で戦死したと伝えられている、新田義貞のものであると鑑定したことから、この地が義貞戦没地と考えられるようになった。福井藩主松平光通は万冶三年(一六六○)この地に「暦応元年」閏七月二日新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。以後此の地は新田義貞戦死の地とされ、「新田塚」と呼ばれて今日に至っている 福井市教育委員会」

 この案内によれば、義貞の冑が発見されたのは、義貞が亡くなってから三三二年、それから今日まで三四八年経っている。つまり新田塚は三百五十年近く土地の住民の手で守られて来たと言うことになります。昔から地元の人々に「新田さん」「新田さん」と言われて親しまれてきた所です。そういえば小学校時代、学校から草刈り作業に、何回も来た覚えがあります。その時作業が終わると、必ず祠の前に整列して「新田義貞公をたたえる歌」を歌ったものです。素朴で単調なメロディーは、何故か哀愁を帯びていい歌だと思います。

 しかしながらこの歌は終戦と同時に今日まで、歌われることはありませんでした。当時の関係者がGHQに配慮して自粛したのではないかと思います。いま新田塚は明新地区のシンボルとなり、毎年五月五日には前夜祭も含めて盛大な祭りが行われています。また毎年義貞公の生誕地、群馬県太田市との交流も行われています。

 去る十月十一日藤島神社で新田義貞公殉節六七○年祭が盛大にとり行われ、その時神前で詩吟の仲間とこの「新田義貞公をたたえる歌」を詩吟「新田義貞 副島種臣作」と共に奉納させて戴き感激しています。この歌で明新地区の歴史を学びそのロマンを楽しみながら、地域文化の伝承と発展に繋がればと願っています。それではこの歌詞を紹介します。

一 大中黒の御旗の風
   吹き起こらずば鎌倉山
   照る日覆いてたてる雲
   散りうすべしやたてる雲

二 黄金づくりの宝の太刀
   ささげて祈れる真心に
   稲村ヶ崎満つしおも
   夜の間に引きてただ渡り

三 御代の光に行く水も
   澄みかえりたる足羽川
   波間さやけき影見れば
   臣の鏡の清きかげ

太平記のロマン溢れる新田塚は、春夏秋冬、風情鮮やかに私を迎えてくれます。



   倒伏の田   小林としを

大雨に倒伏せしも日の浅く 廻り刈りが出来るとコンバイン出てゆく

あてにされぬ齢となれど 出ずには居れぬ吾が性鎌を携う

刈り安き向きにと稲を直せども すり抜ける稲あり見逃す今は

借りてある軽トラも動き出す ライスセンターこみ合う午后は

「母さんが居てくれたから早く済んだ」 開口一番息は言いくれぬ

風は火を火は風を巻きぼうぼうと 刈田燃す火は音をたて走る

白菜をようやく植え終え寄る石に ほのとつたわる秋のぬくもり

九頭竜はま青に澄みて銀色の 456+99すすき穂むらを風わたり来る


   香き日      北風尚子

幾度か訪ね来たりしの鯉の街 我雨降る山峡(あい)の郷(さと)

玄関を出る時とどきし君からの 手紙は我と信濃をゆく

友作るパッチワークの展示会 その素晴らしきに肩たたき合う

何気なくとなり合わせに坐りし人 満員電車の杳き日語る

幾重にも重なる傘の群の中 見えぬども待つ青のシグナル

地に落ちて動けぬ小雀手の中に ぬくめておりぬ命はかなき

紺壁の波おだやかな東尋坊 見はるかす見ゆ雄島のあたり

あみ笠に踊る女のしなやさし 山の端の月赫々と輝(て)る

意のままに書けず丸めし紙屑の ほぐる音する午前二時半

眞夜ひとり深夜便を開きいるに カサコソ音するくづかごの中

海見ゆるホテルに集う姉と姪 快気よろこぶ晝食の会


     中秋   鉾 俳句会

天高し黐(もち)の葉に降る日の光     田中 芳実

月明り連れ添ふ影の離れずに    阿部寿栄子

長屋門入るや銀杏(ぎんなん)」撓(たわ)わなり    宇佐美恭子

一病の憂(うれ)ひ忘るる良夜かな     嘉藤 幸子

十六夜(いざよい)の話も出でてお薄(うす)受く    黒岩喜代子

篤農(とくのう)の穭(ひつじ)田(だ)日日に緑濃し     小玉久美子

零余子(むかご)飯(めし)「地産地消」の湯宿かな  榊原 英子

松虫に誘われて入る野天風呂    坂下 政宣

天竺(てんじく)と睨(にら)みごっこの稲を刈る    高氏 砂子

十六夜の御堂に朋(とも)の遺(い)句(く)を読む   月輪  満

紅(べに)木(む)槿(くげ)早や点りたる常夜灯     中川ヒロ子

暮れ六つの鐘の音色や秋深し    西本 きく

無花果やぱつくり割れて鳥騒ぐ   橋詰美禰子

十薬や閉ぢたるままの峠茶屋    畑下 信子

静寂(せいじゃく)の棚田の秋に立ち尽くす    前田 孝一

向日葵(ひまわり)の頭(つむり)を垂れて種実る     松永 和子


     馬来田寿子

後世に 伝へてゆきたい左内の忌

木の実落つ 音かすかにも伝わりて

新米の 栗御飯とはしあわせな

椎の実を拾ふ 親子の声響く

今は亡き吟友 偲ぶ十三夜    




   編集後記

                          

 毎号編集作集は楽しみと苦しみが交錯しています。三十号までの屋敷編集長・ジェイエイプリントコンビから三十一号以降は玉井編集長・宮本印刷コンビヘと引継ぎ、何とか五十号に達しました。

 埼玉大学共生社会教育研究センターの平野泉さんによれば、「地域で農集に携わり、地域と農集、そしていのちと食べ物を心から大切にしている人たちが思いをわかちあい、つながる場としてのミニコミは、センターには今のところ「みち」しかないのです。」ということで、全国、二十三万作のミニコミ・データの中で一つしかないとなると、その存在の重さに励まされます。

 それと五十号を記念して「みち」一~五十号の合本集を是非つくり上げたいものです。

 今後とも、購読者の方々も含めて、「みち」関係者の皆様の熱いご協力、ご支援を賜りますよう、よろしくお願いします。
 
        (玉井道敏

 


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