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あぜみちの会ミニコミ紙

みち48
(2008.2.19 雨水号)



敦賀市山地区のマナオーナー園 2008.3.30撮影



シグナル48

福井市 中川 清

 新しい年が明けた。
 昨日迄とは、何も変わっていないが、何か清々しい気分になれる。
 ところで、昨年の一年を象徴する漢字一文字は「偽」だと言う。
 振り返ってみれば、食品の偽装や、人の信頼への偽装など、あまりにも多すぎた気がする。「偽」とは人の為と書く。人の為にやったという、きれいごとや、言い逃れが、「偽」の素だと言うことか。
 新しい年は、人の為でなく自分の良心に恥じぬ為にしっかり事を為したいものです。
 さて、今年の抱負としては「みち」も今年中には、五十号に到達することになる。
 振り返って「シグナル」を、読み返してみると、改めて、十数年の時の流れと、考え方の変化を感じる。そして、自分の年齢の高齢化を感じるものです。
 私は最近、高齢化を「考齢化」だと思うことにしている。ただ単に歳が過ぎただけでなく、歳のことを考える年齢になったという思いです。
 健康のことに気を使い、とかく掛り付けの医師に頼りがちですが、自分の「意思」にこそ、将来を委ねたいと思っています。
 新しい年「ねずみ」の歳です。鴉声に似せて、今年も「チュウ」くらいに、頑張りましよう

 



          活気のある農業のチャンス

                                       名津井 萬


 私は酪農を営んで五十余年になる。現在、乳牛の餌であるトウモロコシなどの穀物からのバイオエタノールの生産が増大している。そのため輸入飼料が高騰して、畜産農家にとっては大打撃である。しかし日本農業にとって、自然と共生し得る循環型農業と国土保全のチャンスと思う。
 私の酪農の場合、輸入乾草も高騰して来たので、輸入乾草の乳牛への給与を全廃し、変わりに、稲発酵飼料を一昨年から使用しはじめ、現在、乳牛への粗飼料給与の五〇%までを占めている。乳質、乳量も落ちこまず、かなり良い成果を示している。
 稲発酵飼料とは、ホールクロップサイレージで、稲の出穂後、乳熟期に青刈し、三百キログラムのロールにして、ビニールでラップし乳酸発酵させて年間を通じて乳牛の餌
また米などからのバイオエタノールの生産も、私は大賛成である。米からバイオ燃料を作出すると、五分の一の残涜が出るそうで、これは栄養的にも餌として利用出来るそうだ。また米からのエタノールは五〇%取れるそうだ。ワラやモミガラからもー〇%取れるそうである。残涜は餌や堆肥になるから、国土環境保全からも最高と思うし活気ある農業になると信じている。
 私は十数年前から、日本の自給率低下のー因に、我々畜産農家の輸入穀物飼料があると発言し、そのためには飼料米の生産研究に全力を注ぐべきと考えていた。今、その事が、発生してしまった。
 私の農業の先輩である、武生の川崎秀男氏は、どんなに良い発想や意見を唱えても、実現には十年の年月がかかると言っていた事を鮮明に覚えている。

 唯、飼料米はトウモロコシ等と比較するとコストが大きな問題であるのは事実である。しかし、真剣に取り組んでいる行政機関もある。日本人の研究能力から考えれば、米の多収穫品種の改良、栽培研究で解決できるはずだ。輸入穀物の高騰と供結城は、未だ続くと思う。今こそ、大きく分けて、主食米の生産、飼料米の生産、バイオ燃料米の生産、この三つの米の生産課題を追求すべきである。日本人の頭脳だったら達成可能である。
 日本は幸い豊かな水に恵まれた、瑞穂の国である。用途別の米作りで荒地を甦らせ、作業機械の効率を高め、今こそ活気ある農業の大きな「チャンス」と思っている。



    第9回 あぜみち中川賞 最優秀論文
               私の夢
                                            水島省吾


 

 小さい頃から体を動かすことがとても好きな子だった様に思います。小学校の頃は野球に熱中して仲間(チームメイト)と共に少年野球の大会にもたくさん出場しました。私のポジションはショート。レギュラーを勝ち取った頃には3番を打っていました。中学生になってハンドボールをはじめました。ハンドボールは野球と違ってチームプレイがうまくいかないと勝てないスポーツだからです。もともと色気が多い性分から高校生になるとテニスをするようになりました。農林高校を選択して進学したつもりだったのに勉強にはあまり興味がなかったように思えます。
 高校を卒業して家具屋に就職したがーケ月で辞めてしまい、それから携帯電話の販売店でアルバイトをしました。そのうちお店をまかされる様になりましたがそこでもなにかしら充実した気持ちで仕事を続けていたわけではありません。携帯電話屋を辞め家業である解休業に従事しました。県外の仕事もたくさんあり朝早くから夜遅くまで現場を転々とし家屋やビルを解体してゆく仕事をしては、なにか心の中に空虚なものがなかったかといわれれば「いやなかった」とはいいがたいものです。でも外で仕事をすることが嫌いでなかった自分がそこにいたのは確かです。四~五年解体の仕事を続けて行くうちに会社の経営がうまくいかなくなり倒産してしまいました。なにか心の中をハンマーで叩かれたような気持ちになったのもこの頃だったと思います。
そうこうする内に派遣会社に就職して機械の組み立てに従事しました、それは単純作業の連続でした、達成感・到達感のない日々を送っていたように思います。
 ふとしたことから農業支援センターのドアを開いてから何かが大きく変わったように思えました。支援センターの紹介で今のアジチファームの義元さんに出会いました。農業が凄く魅力的に感じられました、太陽の下で仕事をしたかったし楽しそうに見えたのも確かです。高校時代は農業高校を選んだのでそれなりの農業に対するイメージはありました。でも職業として「俺は農業には進まない」と思っていたからです。でも社会にでて「食べてゆくこと」「生活してゆくこと」、その大変さを経験してきたようにおもいます。
 農業だったら「食べていける」「自給自足の生活ができれば」、ここー、二年で少しずつ形になってきた様に思います。新しい自分が少しずつ見えてきたように思います。アジチファームは今まで経験したことのない所でした。自分で作ったお米を粉にしてパンを作る、そしてそれを色々な所で売る、生産・加工・販売が一体となって仕事をしている、私の知っている農業とは大きくちがっていました。ただ一つの物を作り続ける例えば「キャベツ農家が一面キャベツを作りそれを市場に出荷するそれを毎日毎日、毎年、営々とし続ける」それは農業の一つの形態であることは確かなことだけれども、アジチファームのやり方は別の角度、今までの物の見かたとは違った角度からせめていく様に思え、とても新鮮に刺激的に感じました。
 朝早く起きてパンの成形から一日の仕事が始まります。ふくらんだパンにトッピングをしてオーブンにいれる、包装して農産物の直売所に持っていくのを待ちきれずにいるお客さんに出会うと、とても嬉しくなります。友達からも「農業いいね」といわれるようになってきました。一連の米作りを丁五回分経験し、自分で少しずつ作業をこなせるようになってきた、初めて動力散布機担いだ時はビックリしました、あまりの重たさに。中に肥料を詰め田んぼの中を歩きながら肥料をまいていく作業、簡単そうだし楽な作業に見えるのに実際やると簡単な物じゃなかった。「穂色をみて肥料の量を決め」また均一にあげるのが難しい。「目」で何処にどれだけの量を撒いたのが見えないので大変苦労しました。均一に撒かないと同じ田んぼで穂色が違う田んぼになってしまう、少ないと収量がない、多すぎると稲が倒れてしまう。秋の稲刈りの時には大変苦労しました。稲が倒れているとなかなかコンバインで刈り取っていかず機械の故障から作業時間のロス、一つの作業が最後の最後まで響いてくる大切な作業なんです。今年は田植えから稲刈りまで一連の作業を通して田植えの難しさ、真直ぐ走らせる事がなかなか出来なくて慣れて来た頃に終わってしまう。一年にー回しかできないから、一つ一つを大事に真剣に取り組んでもまだまだ時間がかかりそうです。秋の収穫を終えると新商品の米パン作りが始まった。新しい米パンの商品を出し続けるように新しい自分を創り続ける。これも私の人生のテーマだ。そこには農業の持つ「暮らし」と「稼ぎ」が一体となった農業の魅力を感じた。いつも帰宅前には自分の作った物、自分が作るのに関った物、じいちゃん、ばあちゃんからのおすそ分けなど食べる事の実感がある。
 私のこれからの夢は今のやりかた。つまり物作り・加工・販売をさらに充実させてゆくことだと思っています。まずは今の仕事を主体的にこなしていくこと、そこで仕事を深くしていくこと、さらには角度を変えた物の見方ができるように自分を鍛えていくこと、さらには良きパートナーと自分の暮らしを形づけていくことだと考えています。自分の作った作物を調理して出せるお店、遊べる空間、皆が楽しめて生活していけるような空間を創りたい。皆がいつも集まり「皆でその空間を創り」、いつも笑顔でいれるような、僕の夢はずっと笑って暮らしていくこと、一生遊ぶこと、そんな場所を創り生活して皆で暮らして行くことが出来たら。いや、創って行きたいと思う。全然、具体的ではないけど僕の頭の中のイメージは「山や海や森や湖」の近くにひっそりたたずむように小屋がありその場所では音楽を楽しんだり、皆で野菜や果物、お米などを作り、作ったものを調理して食べる、一緒に色んな物を作り空間も創り上げたい、この自分の夢を思い続けて行きたいし、思い続ける事が大事なんだろうなと思う。それが自分への活力になり、そして新しい道また違った夢をみる事が出来ると思う。簡単に口で言うことはできるかもしれないけど、思い続ける、実現する事の難しさ、そして楽しさがあるからこそ明日ヘの活力になり未来への楽しさが増すというか:・面白さだと思う。「夢を持てる喜び」「一日一日を大切に」なかなかうまくできるものではない、なんとなく過ごして行く日々もたくさんあるけど「そのなんとなく過ごして行く日々」の中にも「大切な事がたくさんある」、その日々を大事にして、未来の自分にそして明日に楽しみがあるように一日一日を大事にして仲間や友達、家族などと過ごすことのできる時間を増やしたい、そんな空間、時間を作って行きたい。
 アジチファームでの十月十四日上映会で「フランドン農学校の尾崎さん」が上映されました、その中で僕達と同じような年代の人が農業に魅力を感じ農業に従事していく姿を見ました、そしてその事は私と同じ「自立」するには農業の持つ主体性つまり自分で種をまきそして育て加工し販売する。これからも自給をキーワードに新しい農業「楽しい農業」をやっていきたいと思います。


       あさひ味噌かわらばん第七七号より
              
三代目麹屋  寺 坂 康 夫

  三十年前、中国から青年五名がやってきました。彼らは中国青年団が送り出した農業研修生。福井県の青年団が受け入れ、農家や農業試験場で半年間研修しました。言葉が通じず、やむを得ず漢字で意思疎通を図るのがもどかしく感じる日々でした。
 このほど、再会を果たすべく訪中しました。ホテルの前に待っていた彼らは昔の面影そのまま。思わず抱き合いました。言葉は通じなくても心はすぐにわかるものです。お互い年齢は重ねていてもすぐに青春時代に戻りました。彼らは今では大学教授となっていました。青年館でのレセプションは緊張の連続。中国の青年団は一億人いるんですが、その幹部と元駐日大使が同席されたのですから。最後に私が発言することになって、「あなたたちのせいで仕事を辞め農業の道に進んでしまった。最後まで私を見守る責任があります」と発言。大爆笑となりました。
 今回は、辻一彦さん(元衆議院議員・日本青年団会長)の日本中国青年交流五十周年が大きなテーマでした。辻さんは五十年前、「日本中国青年不戦の誓い」を結び、共に青春を駆け抜けたのです。
「国の形」は違っても、いや何かあっても何を言われても、私も友情を持ち続けます。大切な、大切な、大切な財産ですから。


                          宇と宙米
 
                                          宇野 肇

 一年のうち同じ場所で二度米を作るのを二毛作という
この言葉もう死語かいな 
若者には通じないだろう
地球上で 米が二度とれるところは・・・
赤道をはさんで南北緯度約二三・五度以内か
日本の南国土佐あたりは どうかなとも思う・・・

奇跡とも 不思議とも北緯三十六度の我か田で実現!
というと農業改良普及所は不可能というだろう
それもそのはず米は田植から
刈取りまで百二十日は要る
華越前で五月一日田植 八月末刈取りだ

よしんば九月一日田植で
百二十日後は十二月三十一日だよ
福井では 二米の豪雪もあった五六豪雪
秋のお彼岸で稲の生育は限界
これでは米の二毛作は不可能
なんだ

ちょいと待ってくれ 
でも実際に二回目の稲刈りが十月三十一日に実現した
普通の華越前より短かくて四十五m前後
でも実りは一毛と同じ百%の籾である
それを稲架(はさ)で天陽(てんぴ)干し

どうして米の二毛作が実現し
たか 之れ秘密
授業料は高いぞ 
宇と宙が贈ってくれた米だもん
どんな味がするかなー
後のことはこれでおしまいに
するかー

どうしようか・・・・
約一ケ月後の十二月一日精米
機にてもみすりと精米
喰べてみた 
百%の宇と宙米味良し香り良し
これぞ!の米
地球最後の米 宇と宙米 ありがとう!



   惑星だより アジチファーム
          農業への思い
                      
堀田 慶亘


 文章を書くのが苦手な私にとって、このような人の目に触れる原稿を書くと言うこと自体非常におこがましいわけであるが、私の農業に対する思い、仕事に対する考えを整理しまとめることで、改めて自分に向き合うことができるのではないか、そのチャンスではないだろうか・・・という思いから稚拙な文章力ではあるが、書いてみようという気持ちになった。
 私が数ある職種の中から自分の仕事として「農業」を考え始めたのは、今から10年以上前のことである。その当時のことを思い出すと、「農業」と「農業とは全く違う職業」との間で悩んでいたが、何となく自分の気持ちは農業に傾いていたような気がする。その理由はおそらく自分の育った環境にあると思う。私の家は農家で、小さな頃から百姓仕事が自分の身近にあった。ゴールデンウイークには田植え、秋には稲刈り、野菜は畑から取ってくる・:自分にとってはそれが当たり前の生活であり、自分の体の中に「農業」という仕事が小さい頃から染み込んでいたように思う。そして、私にとってはそれがとても居心地のよいものであった。四季の移り変わりを肌で感じ、土の温もりに触れ、自然の雄大さを体全体で感じ取ることができる・・・将来は自然と何らかの関わりを持ちながら生活したいと漠然と心に思っていた。
 しかしながら、実際生活していく上で経済的なことなど様々な理由から他の職業も経験した。だが、やはり幼い頃からの居心地の良さ、自然に触れていたいという強い思いが根底にあり「農業」を選んだ。
 実際、農業に携わりながら私は「農業」の新たな魅力に気づかされた。雄大な自然に向き合い、土に触れ、太陽の光を浴び、「自分は生きているんだなあ」を心の底から実感できる。もちろん、気候に左右される仕事である故、難しいことやうまくいかないことも多々ある。だが、悪戦苦闘しながら何らかの策を見いだす。そして手塩にかけて育てたものが、消費者の手に渡り喜んでもらえる。「おいしい」と言ってもらえる。大好きな自然と関わりながら、人に喜んでもらえる。こんなにうれしいことはない。
 また、現在お世話になっている職場での経験から、農業は無限の可能性を秘めていると感じるようになった。この秘められた可能性を実現するためにも、様々な人の出会いを大切にしながら、これからの一日一日を実りあるものにしていきたい。



 
               どこまで 欲張り続けるの

                                      酒 井 恵美子

 一月十三日、JA女性部中藤島の支部総会がありました。
 総会の持ち方は通常どこにでもあるような形でどうということではありません。
その後のアトラクションで『食と農』というタイトルで見谷ナーセリーの見谷春美さんの講演がありました。
 見谷さんと言うより、フアームビレッジさんを経営されている方と言った方がピンと来られる方が多いのではとも思います。
 施設園芸で今は花の栽培を中心に農業を営んでおられます。今日に至るまでの苦労話や農のあり方についてのお考えをいろいろ拝聴しました。駅前通りの西武デパート前の花壇の花は、何年間も見谷さんが提供なさっていることは周知のことと思いますが花作りの以前は農作物の促成や抑制栽培をされていたようです。
ハウス内は、病虫害の発生や土づくりにおいては露地よりも問題も多く悪戦苦闘されたようです。その中で人の健康や環境問題、経済性や課題が多いため花の栽培に切り替えられて病害虫の対策は農薬に頼らず現在は微生物を軸にした発酵の原理に発想の転換をされているそうです。
農業は人の命を支える仕事です。花作りは直接は人の生命と関係がないように思われますが、人は心と体で成り立っているものであり、心を育くむことに大いに役立っているとも。
 「鍬と宇宙船」を書かれた秋山豊寛さん言によりますと豊かな自然は自然に人の手が加わることによって維持されるもので、放置されたところには、豊かな自然や美しい景観、自然の恵みを期待することはできませんと。山であれ川であれ里、海であれ、人の手の加え方で豊かにもなるし、環境破壊の悪循環にもなると言われている事を思い出していました。
その点では採算のとれない米作りや不出来な菜園でも大いに社会には役立っていると胸を張れるものではないかと思いをめぐらせています。それでも私は欲張りです。温暖化現象に悩まされ続けている菜園に病虫害被害が少なくて実り多いものを望み続けています。晩秋が過ぎ寒に入ってもなお元気に這い回る虫(今年は特に多かった)。日照りと過度の雨量をくり返すことで発生する病気や枯れ死など、又、気候によって左右される発育障害等、プロの見谷さんなら教えてもらえるかと愚問を発したのです。
 見事に抑えられました。そんな特効薬などある筈がないのです。くもの糸をプツリと切り落とされたような私の思い上がりにやいとを据えられたような大いに反省する機会になりました。その返答は次のようでした。
 「それは、あなたが思い通りにならないから悩むのでしょう。そして農薬に頼らなければできないようにしたのは、人間そのものの仕業です。その中で農薬も化学肥料もひかえて労力も惜しんでなお環境に優しく経済性もある立派な作物をより多く実らせようと望むなら一生懸命戦う他に方法はありません。そこに生きる虫達も作物も何とか生きようと必死です。農薬に対して更に抵抗力を身につけ、作物は馴化して姿、形を変え、生き残りに必死で、人の知恵の更にうわ手を行くのです。
人は更にそのうわ手を考えるとすれば、いつまでもそのくり返しになるでしょう。自然にまかせれば、それなりに育つものを人よりも少しでも早く、又遅く立派なものをより多くと・・・人の欲には際限がありませんね。」と私はその通りだと思いました。納得もしましたが、諦めた訳ではありません。手さぐりの中から自然体でみんなが共存共栄できる方法はないのか追求してみたいと思います。痛めつけられた傷や病気を完治することはできません。退治するのではなく治めるのです。退治でなく体治です。国を治めることを政治というようにお互いになだめて生きる他に手だてなし・・・と五木寛之は言っています。ある人にあなたの師匠はと聞かれたとき、あえて言えば失敗のくり返しが先生かな・・・と。思い当たることが沢山あります。
 つけ加えれば、あの焼畑です。水も薬も肥料も一切与えず、除草と間引きを2~3度やっただけなのに、見事な赤カブが育つのです。その中に何かヒントが隠されているのではないでしょうか。一生問い続けても私の知恵袋では及びもつかないのでしょうか。



        山羊を飼います パート2

                     子やぎ誕生
                                      土 保 裕 治


 こんにちは。いつも応援ありがとうございます。さて、ご無沙汰していましたが、その間もお腹の中の赤ちゃん達は順調に成育中です。毎日見ているのですが、特に昨日は「ちえぽ」のお腹がかなり大きくなって来たように見えました。そろそろだと思います。多分、来週十三日前後と見ています。そして、あとの二匹も同じ頃続けて産むんじゃないかなと思っています。
ただし、今回は予定日を決めるデータが不足だったため、当たらないかも知れません。変化がありましたら、また、お知らせします。    (二月八日記)

 「ちえぽ」は十三日前後と見ていることはお伝えしましたが、どうもいよいよだと思います。
一番食いしん坊の「ちえぽ」がエサを食べに寄って来ないのです。こんなことは通常はありえません。「メイちゃん」が食べているのを見ているのに、じっと座ったまま、動こうとしません。静かに体の中の変化を待っているように見えます。そして動く時も、慎重に、ゆっくりです。このぶんだと、きっと明日朝には生まれていると思います。
となると、名前は当然「チョコ」。でも、お腹がかなり大きいので、ひょっとして、名前は三ついるかも知れません。生後三〇分で立つまでを見れるといいなと思います。明日は無理でも、あと二回チャンスがあります。また、お知らせします。(二月十三日記)

 四産目の「ちえぼ」は今日の十五時ではまだでした。でも、今日も食欲は少なく、動きはゆっくりです。乳房がさらに張って来ているので、近づいていることは確かです。生まれてまもなくで赤ちゃんが立ち上がるのを多くの方に見てもらえるように、週末に産んでくれるよう頼んでおきましたので、三匹のうち誰かは叶えてくれるでしょう。というのも、もう一匹の角があるメス(初産)の乳房も初めて大きくなって来たので、続けて産まれる感じです。発情が九月の同じ日だったからです。また、お知らせします。
        (二月十四日記)

 今朝九時に見に行ったら、向い赤ちゃんが二匹立っていました。ちゃんと立って歩くことからすると、生まれてから三時間は経っているようです。先に産んだのは角があるメスの方でした。しばらく見ていても、母親はお乳を与えようとしないので、母親が立てるかどうか心配になりましたが、初めてのお産を無事終えて、ずっと体を休めていたようです。立てることが分かった時初めて、こどもたちはお乳を飲もうと、乳房の付近を突っつき始めました。でも、どこからお乳がでてくるか、まだ、場所が分からず、うまく飲めません。二S三日のうちには、上手に飲めるようになるでしょう。
母親は匂いをかいでこどもの体調をチェックしたり、凪めて毛づくろいしたり、お乳を与えたりと、ちゃんと役目を果たしてくれたので安心しました。子育てを教わっていないわりには、まあまあ出来ています。ただ、純白になるまで、まる二日間砥めまわす「ちえぽ」の丁寧さと比べるとかなり手抜きですが。
なお、二匹ともオスで、分かった途端、がっくり。嬉しさが半減しました。なぜなら、昨年から六連敗だからです。さて、期待の「ちえぽ」はまだです。多分週末に産んでくれると思います。メスを産んで欲しいな。また、お知らせします。
       (二月十五日記)
 昨日十七日(日)昼、「メイちゃん」が双子を産みました。また「ちえぽ」も双子を産みました。これで、完了です。三組の双子計六匹が誕生し、四日間で急ににぎやかになりました。ただ、幾つかの問題が見えて来ました。そのうち、一番困ったのは、「ちえぽ」が昨日生まれた「メイちゃん」のこどもの方を我が子と思い違いしている様子で、実のわが子をあまり砥めず、汚れたままです。お乳も飲ませようとしないのです。このままでは衰弱して死んでしまいそうなので、他の母ヤギの初乳をもらって与えることにしました。
幸い二匹とも産後まもないため、まだお乳に免疫があるので、助かるかも知れません。でも与え続けなければならないので、大変厄介なことになりました。自宅で飼っているならできることですが。しばらく本業の仕事ができないのが痛いです。
       (二月十八日記)

 昨日、「ちえぽ」が、産んだ我が子にお乳を飲ませようとしないので、他の母ヤギからもらって与えましたが、生憎、乳の量は三匹合わせても僅かしか取れませんでした。そこで、名津井牧場に粉ミルクやアドバイスを頂いて、今朝行った時には一匹がすでに硬くなっていました。貴重なメスでした。危ないと気付いていたのに、やっぱり助けられなかったことが残念です。
赤ちゃんだけを自宅に連れて帰れば良かったのに、と悔やんで落胆している時、ふと、気が付くと、昨日飲ませなかった「ちえぽ」は、今、残ったオスにはためらわず与えているのです。
ひょっとすると、「ちえぽ」は二匹の衰弱死を予感して、弱いメスに乳を与えず、オス一匹だけにすることを選んだのではないかと思えて来ました。これまで「ちえぽ」は感心するほど熱心に丁寧に子育てをして来たヤギです。産んだ我が子にお乳を飲ませないなんて、他のヤギならともかく、あの「ちえぽ」がどうして気が狂ったのかと昨日は信じられませんでしたが、ケガが元で自分の乳が片方しか出ないことから、二匹では不足すると思って取った行動だと推測すると、昨日と今日の矛盾が解けるように思えてなりません。
こう考えると、ヤギも結構かしこいのではないか、何も考えずに生きているのではなく、取っている行動に理由があるんだなあと、そして人間と似て、きっといろいろ悩みもあるんだろうなあ。    (二月十九日記)



                        寒梅に寄せて

                                       細川嘉徳


 地球温暖化問題が叫ばれている中、案に違わず今年の大寒の入り(一月二十一日)は雪無しの最高気温六・八度、最低気温二・一度で平年より〇・八度高く三月中旬並みの暖かさであったと新聞に出ていた。ちなみにこの時期一昨年は四〇センチの積雪があったものの、昨年は積雪ゼロ。今年も大した降雪が無く暖冬は間違いなさそうだ。しかし暖冬とは裏腹にガソリンの価格はリッター当たり一五〇円、灯油百円の高値は、庶民を別の寒さで震え上がらせている。
 この暖冬で早くも中央公園の梅が咲き始めたと二十二日の新聞に出ていた。天気が良かったので所用のついでに、早速梅見としやれた気分で出かけた。今年は幾分時期も早いのではないかと思う。公園に行って先ず一回りすると、咲いているのは紅梅一本だけで、花はまだ数えるほどしかついていない。四、五人が散歩している中に、中年のご婦人が高級カメラを三脚に据え、場所を変えアングルを変えて熱心に梅を写している。隣で安物のバカチョンで写すのが恥ずかしくなる。それでも見に来た記念にと思い三、四枚写し静かな梅園を散策する。紅梅の菅は大きくなっているが、白梅はまだまだという感じだ。
 ところで梅は遣唐使が中国から持ち帰ったのが初めという。素朴な枝に早春に咲く清雅な花と高貴な香りは、忽ち日本人に愛され、皇族や公家の庭に競って櫨えられ歌会が開かれたと言う。また梅には好文本と呼ばれる別名がある。それは中国の晋の武帝が学問に親しめば梅が開き、学問をやめると開かなかったという故事に由来する。江戸時代には梅の名所も数多く遣られ、詩歌や俳句、漢詩にも数え切れない梅文化がある。
 福井では正月に二十五日(天神講)まで掛け軸で梅と共に学問の神様、菅原道真公を床の間に祀る風習がある。梅を愛した道真公が大宰府に流される時に、紅梅殿の梅に名残を借しんで、

 東風吹かば
  匂ひおこせよ梅の花
 あるじなしとて春な忘れそ

一首詠んだところ、今度は梅が道真公を慕って、一枝が京都から九州の大宰府まで飛んで行ったという。現在太宰府天満宮に「飛梅」と命名され神木として祀られている。
 さて同志社大学を創設された新島 譲先生は、真冬の厳しい自然の中で風雪に耐え、百花に魁て咲いている梅の姿に深く感動して、次の漢詩を詠んでいる。

  寒 梅

 庭上一寒梅 笑侵風雪開
 不争又不力 自占百花魁

  (読み下し)
 庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
 笑(わら)って風雪(ふうせつ)を侵(おか)して開(ひら)く
 争(あらそ)わず又力(またつと)めず
 自(おのず)から百花(ひゃっか)の魁を(さきがけ)占(し)む


 毎年春を先取りする気分に駆られてこの寒い中、中央公園で梅を見るのが習慣になってしまったが、その理由はこの漢詩が、人の生き方の何かを語りかけているからである。



       近代化によってもたらされたもの、失われたもの

             -主に農林業の視点から-
  
                                           玉 井  道 敏

☆作家・中野重治の講演

 福井県にゆかりの深い作家、中野重治の講演を約40年前に聞いた事があります。『水面積と土面積』というテーマで、内容は社会の近代化が進むにつれて「水面積が減り土面積が増える」といったような内容でした。近年は「水面積、土面積が減りコンクリート面積が増える」と言い直さねばなりません。
 このような現象を惹起した原因のーつとしては、一九六〇年からの所得倍増計画とそれに続く日本列島改造計画の実施に伴う巨大開発が挙げられます。全国でダムや石油コンビナート、工業団地、原子力発電所、高速道路などの建設が積極的に進められ、電力や工業製品の生産は飛躍的に高まったのですが、一方で、公害の発生、自然の破壊も進行しましました。
 福井県内でも、南部の嶺南地方では原子力発電所が15基も設置され、国内はもとより、世界的にも原発の集中立地地帯と位置付けられています。北部の嶺北では九頭竜ダムの建設や福井臨海工業団地の造成、石油備蓄基地の設置などが行われました。
 福井県の海岸線は風光明媚なことから国定公園に指定されているのですが、上記のような巨大開発によりかなり自然が破壊されました。先日も、二十九日に皆さんが行かれる予定の三国町にある三里浜へ、砂浜の植物観察に出かけたのですが、石油備蓄基地の建設によって、三里浜が一里浜になっていました。
 次には社会基盤整備のための土木事業の実施です。私の子供時代、道路は舗装がされていなくて穴だらけの路だったのですが、最近は舗装されていない道路を探すのに苦労をします。そのほか上下水道の整備や河川改修など、国民の生活向上の為の公共事業が全国で実施されました。そのことで国民の生活基盤は飛躍的に整備されました。
 農業分野でも、先にもふれた水田などの生産基盤整備が積極的に行われました。区画を大きくし、農道や用排水路が整備されるなど、機械作業に適した水田の改良が行われ、農家は重労働から著しく解放されました。
 このような巨大開発・整備やインフラの整備、農業生産基盤の改良などにより、生産は著しく向上し、国民の生活は便利となり、いろんな分野で社会の効率化が進んだのですが、反面、公害の発生、生活環境の悪化、自然破壊などのマイナス現象もたくさんあらわれました。近代化の表と裏の両面が現れているともいえます。
 ところで、水面積土面積が減りコンクリート面積が増えたことが何をもたらしたか、ちょっと飛躍するかもしれませんが、なんとなく社会が無機化してきているのではないかということです。何か、瑞々しさが失われていて無機的になっている。このことが近年、新間紙上を賑わす色んな事件の根っこにあるような気がしています。
 もう一点、水田の装置化について考えてみましょう。水田の装置化によって作業は非常に便利になったのですが、田んぼに生息する生きものは激減しました。用排水路を整備しコンクリートで固める事で、田んぼで産卵するために上がってくる魚たちが上がれなくなり、農作業の合間に目を楽しませてくれたヒガンバナやミソハギなどの野の花も農道を整備する事でめっきり少なくなりました。赤トンボは水田で生まれますが、その数も少なくなりました。農の営みが生きものを生み出していた、米の生産だけでなしに、水田は色んな機能を持っていたのですが、水田の装置化はその機能を米を作る事だけに特化してしまった、ともいえます。里山などの林についても同じことが言えるでしょう。農や林が与えてくれるその恵みへのまなざしをもう一度、取り戻す事が必要です。最近各地で、田んぼの生きものを取り戻そう、という活動が起こっており、期待したいと思います。

☆バイオリニスト メニューインの言葉

 次に、少し違った面から日本の近代化を考えて見ましょう。
 皆さんはアメリカのバイオリニスト、メニューイン(一九一六~九九)を知っていますか。彼は日本の敗戦後間もない一九五一年に来日した最初のー流演奏室です。その後、日本が復翼てから再来日した時に、ジャーナリストの筑紫哲也氏がインタビューし、「すっかり(日本は)変わったでしょう」の問いに、メニューイン氏が答えた内容をレジュメに載せました。
 キーワードは『箸』です。
○ メニューインは自ら音楽院を創設して後進の音楽家を育てる中で、どうして日本の子供や若者は細やかでデリケートな指使いにすぐれているのか、を考察した。結論が先の『箸』の発言だったそうです。日本人は二本の棒の間に中指を挟む事で微妙な箸使いを編み出しました。その手先の器用さという日本人の特性のーつが日本の経済発展、近代化に も関係しています。
 ここに福井県で作られた日本の箸を持ってきました。福井県の南部地方、若狭は塗り箸では日本一の生産地です。私はその地域の出身で、小さい時から箸を使ってきたので、大変器用かと言うと、実は大変不器用です。同じ日本人でも器用さには個人差がありますが、概して、日本人は器用と言えるでしょう。


短歌

  初のうぐいす      小林 としを

あら玉の漬けき光まといいる八坂の宮居に柏手ひびく

さし交わすつつじの枝を突き抜けて咲く水仙の白潔ぎよし

うす紅に蕾ふふめる花の鉢買いて嬉しも春は来迎う

視力衰え今年限りと書かれある賀状に添えある君が詩哀し

八十路坂目の前にしてクラス会に誘う電話に弾む声きく

診察待つとなりの媼は知己のごと独り暮らしの心細さ言う

夫植えて逝きにし墓前の玉つげを髪切る思いに刈りそろえゆく

春の詩吟じいる刻吾が声に声に合わせ鳴き出でし初のうぐいす




  かばんの中身       北風 尚子

雪降らず日差し暖か寒の入り雁の小群が田面飛び立つ

海見ゆるホテルに集う姉と姪快気喜ぶ晝食(ひろげ)の会

杳き日に歩き通いし停車場の桜なつかし車窓より見む

デイフォームに出かけし姉の家に行き座布団枕にひと刻眠る

植物の名を尋ねてはその後で決まった様に食べられるかと孫

行き違い電車待つ間のひと時はカバンの中味確かめており

カサコソと落葉踏み行く宮の社ブランコ二つ風に揺れおり

ちゃん付けて呼び合う楽しクラス会頬寄せ手を取りグラス片手に



   俳句

  年末年始       鉾俳句会

肩少しすぼむ幼の初荼の湯    嘉藤 幸子

禁軍酒冬日差し込む山門に     小玉久美子

日溜まりをふくら雀に譲りけり   榊― 美子

年の瀬や丸みを帯びし竹箒     笹岡美津枝

春近し三国仏壇扉開く       中川ヒロ子

故郷や羽子突く音の続かざる    中田小百合

餅搗のエプロンの手のリズミカル  西川 幸子

輝きて寺の屋根反る寒日和     西本 きく

野水仙北前船の大錨        橋詰美揚子

山門に踏切の音寒の晴       畑下 信子

霜の刃を踏みて鎮まる古刹径   前回 幸一

石羅漢石に還りて凍てにけり    回中 芳実



           馬米田寿子

天高し奉祝稚児の粛々と

つかの間の冬の陽ざしや猫と居て

大修理始まる寺や冬に入る

よもやまの話弾みて納め句座

旅づかれ風呂吹の膳ありがたし

空き家にも小いさき松の飾りかな


●執筆者一覧●

松田 宗一・大野市矢
 紫水の郷を退職、写真の世界に役人か

中川  清・福井市中荒井
 頓知と元気印に益々磨きがかかる農業界の一体さん

名津井 萬・福井市地蔵堂
 酪農家、ファームサルート経営、安定感抜群

水島 省吾・福井市黒丸町
 アジチファームで修行中

寺坂 康夫・越前町内郡
 米、桃、味噌の多角経営農家

宇野  肇・福井市在田
 独特の表現世界に遊ぶ

堀田 慶亘・福井市黒丸町
 アジチファームで腕を磨く

酒井恵美子・福井市高木中央
 野菜作りと原稿執筆に力が入る

土保 裕治・福井市宝永
 メールアドレスはショーネン、五十を越えた少年です

細川 嘉徳・漢詩に造詣深し、
 吟詠の達人

玉井 道敏・福井市南四ツ居
 個と組織のあり方に思いをめぐらしつづける

小林としを・福井市網戸瀬
 百日紅同人、凛として美しく老いる塩

北風 尚子・あわら市田中中
 三十年の歌歴、家族・身近な人たちへの熱い思いを詠む

鉾俳句会・福井市大安寺
 代表・田中芳実氏

馬来田寿子・福井市足羽
 シダレザクラで有名な足羽神社が棲家


編集後記

▼名津井さんの稲作生産への提言は、50年余りの酪農経験に裏打ちされ、また時代の動きを的確によんだ、まことに時宜を得た方向付けです。農家自らが、自分の意志で時代の流れに合わせて、経営を大胆に変革していくことの醍醐味が、名津井さんの文章からうかがえます。

▼アジチファームで働く水島さんと細田さんのこれからの農業への夢を語る文章からは、若者らしい感性とセンスが濃厚に感じられます。「蟻の世界では本当に働いている蟻は二〇%に過ぎないが、これを排除すると、また次の蟻が働き始め二〇%に達する」とは、大阪の能勢で有機農業を営む尾崎零さんの言ですが、農家の子弟が農業を継がなくても、農家以外の世界から農業ヘの参入者が必ず出てくるから心配しなくてもよい、とも言っておられます。農業後継者の出自は別に農家でなくてもよい、それと、農業後継者の育成は農家に任せる、それでいいんですよね。

▼酒井恵美子さんの旺盛な執筆意欲に脱帽、福井市寺前町の『貴光寺』発行の月刊誌『ひびき』の常連執筆者でもあります。それをもたらすマグマは、社会に対する強烈な好奇心と想いにあると想像しています。

▼自分は短歌、俳句の創作の世界とは無縁ですが、同じ人の作品を読み続けていると、その人の個性が浮かび上がってきて、想いが伝わってきます。表現の形がどうであれ、表現者は日常的な生活の中からその想いを蓄積し、蓄積が豊かであればあるほど豊かな作品が生れてくるような気がします。出会いはなくとも、その作品で人を知る、そんな楽しみが編集者にはあります。
        (玉井道敏

 


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