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あぜみちの会ミニコミ紙

みち47
(2007.10.31 霜降号)


あぜみちの会収穫祭(2007.11.23 於福井県坂井市 田川農場)



シグナル47

福井市 中川 清

 リモコンでテレビのスイッチを入れる生活が当たり前になって、何が変わったか。昔は、自分で立ち上がって、テレビの傍まで行って、直接スイッチに手を触れて入力した。今や世のなか、体を使って努力しないでリモコン(指先)で動かせるのが当然という風習が蔓延してしまった。トイレだって用を足して離れると、センサが働いて水が流れて、洗浄するものが多くなって、用を足してそのまま立ち去る人があったりする原因になっている。 自分のした事の後始末を、自分の責任で(自分の体を動かして)きちんとするという基本が薄れて来ている。

 暑い暑いと言っていた八月九月も終わり、例年の秋の収穫祭が、今年は、坂井の田川農場をメーンに開催されます。多くの方の積極的ご参加を願っています。ただ、収穫感謝の秋祭りの神輿を二階の窓越しに寝そべって眺めているのは、どうも戴けない。感謝の謝とは「言葉で的を射る」事である。気持ちを的確に自らの努力で相手の心に伝えることであろう。収穫できたものに感謝するとは、こうありたいものと思っています。直売所「さんさん」でお客さんからいわれた一言、「農薬を使ってない農産物も大事ですが、安心安全は、何時までも継続して行って下さる事が、私たちには必要なのです。」この一言(の気持ち)が私の心の的を射抜きました。継続する事の意義を再認識です。

 あぜみちの会も収穫祭も皆さんのお陰で、今日まで続けられました。

 ありがとうございます。





          私の農の心とは

                                       名津井 萬

 私は中学卒業と同時に農業に従事し、農業経営者として独立したのは、二十歳の時であった。爾来、今日まで五十有余年、稲作と酪農の複合経営で生活してきた。その経営は「綱渡り経営」であった。かなり好運に恵まれた所もある。そんな私を心配して、親戚の小母さんが、姓名判断師の所へ私の名前を見せ判断してもらった所「この名前は必ず、引立ててくれる者が出てくる」と言われたそうである。私は姓名判断など信用はまったくしてない、しかし、私は今日まで大変に多くの方々に支えられて来たのは事実である。感謝ている。唯、「意地と我とヤセ我慢」の農業経営であった。

 今日まで農業だけに、たづさわりながら「農の心」と云う字句を耳にし、目にして来たが、私自身なぜか「農の心」の真髄が分からず、つかめずに来た。今も未だ確信ある答えがつかめずにいる。しかし先日、一寸、農の心ではないかと思う事に出会った。

 私は先祖代々、佛教を信教とし真宗大谷派に属する。今年の正月に寺から「法語カレンダー」を頂いた。

 先日、ボンヤリしながら、法語カレンダーを見ていたら「佛心というは、大慈悲、これなり」と云う字句を読んだ。本当にそうだと思った。それで、佛を農に置きかえて見た。「農心というは、もったいない、これなり」となった。私は今、やっと私の農の心とは「もったいない」に行きついた。少し目が醒めた。私は今、農産物の直売所に手を染めているが「消費者ニーズ」に応えてと云う事で、出来るだけ新鮮な野菜などを店頭に並べている。

 直売店のコンサルタントの先生も新鮮な物だけ毎日ならべる事と言われる。野菜生産農家は、売れ残れば自分で引き取っている。丹精こめて作った生産物が、どれだけ廃棄されているだろうか。本当に「もったいない」と思っている。生産農家は精魂こめて作っている。こんな「もったいない」事をしていて「バチ」があたらないのが不思議である。今に「バチ」があたる気がしてならない。それには。やっぱり両手を合せ、感謝の気持ちを絶対に忘れてはならないと思っている。

 私の農の心とは「農心というは、もったいない、これなり」。





    数ヶ月の雑感

                                 伊藤 直史 

 

平成十九年五月十五日、すべての鶏を廃鶏とした日。販売の最終日とした五月十六日足かけわずか十五年の新規就農者として、すべてを終わりとした。飼料の中心となる穀物価格の大変化、またすべてのコストとなる原油価格の大変化。毎年冬期における、産卵個数の減少。夏期における販売個数の減少。自分の行動、自分の知恵でなんとか続けましたが、自己事業の継続の環境を自分で、作り出す事ができませんでした。販売の大半を個人客に宅配をしていたコ

ストと時間も廃業の要因か、公的な支出増も、親のことも有り。「まぁ色々おましたわ、けどね、いやでやめたんとちがいます。」

 おはようございます。いらっしゃいませ。有りがとうございます。接客、販売、注文取り、苦情処理。販売は、販売でも今までとは少し違う日々、農産物およびその加工品などなど。「まぁ生活してたらな、色々なもん食べとるし、買いもしとるし、今までの経験で得た感性で各々に対応したら良いやろ」「ほらは、吹いてもうそつかん」「張ったり話しも話しの内」これで行こう。色々あって数ヶ月、福井市新保町にあります農産物直売所ファームビレッジさんさん、今やその店の直売部とやらに身をおいています。早い話しが、職業は変わっても自分自身は何ら変化ナシですわ。これでええかいな・・・。

 農家が出される各品目、量も規格もお値段も自由です。お客様がお買い求められるすべてのこと、それも当然自由です。自由と自由の接点それが直販所。でもね納得のいかない自由は、継続できない自由です。農家もお客様も、お互いが納得のいくための環境作り、その事が大切かなと思います。具体的なアイデア、具体的な行動は、その時々に色々と出しましょう。

 無農薬だけが農産物とちがいます。大型の農家だけが農家とちがいます。多くの商品をお買い求めになられた方だけがお客さまとちがいます。色々な人が納得のできる場、それが直売所ですわ。まぁ私自身まだまだこれから色々考えましょう。




       2007年「たねとりくらぶ」の集い
           in 福井県池田町

    (第九回全国種苗研修会)タネ・農の原点に回帰、そして交流


 八月四日(土)
 11時半 JR福井から送迎バスで会場の「能楽の里文化交流会館」へ、村山の厚かましい願いに応え、全員に用意してくださった地元産米のおむすびとお漬物の昼食をいただく。本当に美味しかった。また、受付近くには特産物や本が売っていて早くも買い物で荷物が膨らむ。そして二階の会場壇上には本日の主役である伝統野菜がパネルや本と共にずらりと並んで本当に美しく、美味しそう!

講演
「農村力をデザインする」
池田町長 杉本博文氏


 最近、まちを紹介した本「当たり前が普通にあるあるまち池田町」を出しました。
 池田町では、「普通が個性になるまちづくり」を目指してきました。「普通の暮らしを私たちの宝とするまちづくり」をしようという意味です。都市では取り戻せない「普通」がこのまちには生き残っています。見方を変えれば、人の暮らしの原点であり、最先端のまちです。このようなことをしてきまして、様々な賞をもらいました。環境大臣賞、環境保全型農業により農水大臣賞、観光ポスターが認められ国土交通省賞などなど。
 池田町は福井県の東南部、岐阜県と接する典型的な中っ産間地域、人口は三四○○人余り、一一○○戸、まちの共通課題は「農業」です。そこで、「農業の家庭菜園化」を提案しました。大抵が自家用野菜を作っていますので、みんなに自分の作っている野菜をもう一株余計に作ってもらえないか、有機、無農薬、手作業で作ってもらったものは、福井市ショッピングセンター内の池田町産直ショップ「こっぽい屋」で売りましょう、と呼びかけました。「一村一品」ではなく、みんなが一品持ち寄ったのを合わせれば沢山になると考えたのです。百の匠が一つという「百匠一品」ブランドを作りました。
 「こっぽい屋」とは幸せ、有難いという感謝の意味の方言です。まち独自の「ゆうき・げんき正直農業」の栽培基準と認証制度を作り、伝統的な作り方の技を記帳してもらい、認証を受けたものにはシールを貼っています。わずか二十坪ほどの店ですが、売上は一億二千万円となっています。店での「おばちゃんシャベリティ」が即ちトレーサビリティーとなっているのです。また、お米作りでは、約半分が特別栽培米の生産となっています。

たねとり実践技術の報告・研修
たねとり実践農家報告(司会・日本有機農業研究会理事久保田裕子さん)
「我が家の自家採種」は林重孝氏(千葉県)


 私は、一年間埼玉県小川町の金子美登さんの所に住み込んで研修を受け、二十七年間有機農業をやってきました。一九八ニ年に「昔の種を残そう」という金子さんの提案で、種苗交換会が十二~三軒の農家が集まり始まりました。種が農薬・化学肥料前提で品種改良されているのに危機感を持ったからです。種はきちんと冷凍保存すれば、二十年以上もちますので、毎年種取りをしなくてもいいのです。私のとってきた種は六十~七十種あります。陸稲、小麦、大豆、落花生、小豆、インゲン、ソラマメ、絹さや、スナックエンドウ、オクラ、サツマイモ、ジャガイモ、里芋、ウコン、ヤーコン、生姜、ウド、山芋、トウモロコシ、スイカ、しろウリ、マクワウリ、カボチャ、トウガラシ、小松菜、チンゲンサイ、ルッコラ、菜花、しんつみ菜、キャベツ、ごぼう、大根、ねぎ、ニンニク、ラッキョウ、パセリ、バジル、マーシェ、春菊、フダンソウ、オカノリ等、それぞれいろんな種類をいろんな方からいただいて作り、種取りを続けています。
 種取りが簡単なのは栄養繁殖のものと種子を米、麦、豆など雑穀、次は果菜類のうちトマト、スイカ、マクワウリ、カボチャなど完熟果です。キューリ、シロウリ、オクラなど未熟果や、コマツナ、チンゲンサイなどの葉菜類、ニンジン、ダイコンなどの根菜類などは収穫が終わってから種が取れるまで長い時間がかかります。
 種を自給する利点は、自分好みの品種を作ることができる、経費を節約できることなど、欠点は圃場を長期占有する、労力がかかることです。
 採種の基本は母種選抜です。多収、耐病、味や色形のよさなど、自分の気に入った形質で選ぶことが大切です。
 種の袋に「○○交配」「一代交配」など、交配と記載されているものは交配種、F1ですので、基本的に種取りはできません。
 採種(種取り)の方法は、
① 栄養繁殖は、基本的に交配種はなく、また花が咲かないから交雑の心配もないので、比較的簡単に採種できます。里芋、サツマイモ、ジャガイモなどのイモ類、ねぎ類の一部、ショウガ、ウコン、ウド、フキ、ラッキョウ、ニンニクなど。
② 種子繁殖、自家受粉は品種間隔離せずに採種できますが、他家受粉は交雑するため隔離して採種をします。交雑しやすいものは、毎年種をとらず、冷凍保存し、年毎に違った種類の種をとります。
種の保存法は、常温保存、冷蔵保存、冷凍保存(ビンに入れ、乾燥剤を入れ、周りをテープで密閉し-20℃で保存、家庭用冷凍庫で大丈夫。出すときは冷蔵庫に移して1~2日おき、外に出して1~2日、外気と同じになったらビンを開ける)。

「ひょうごの在来種保存会の取り組み」山根茂人氏(兵庫県)

(詳細は山根さんのご著書「種と遊んで」をご覧ください。とても楽しい本です。)
 子どもの病気から食べ物に興味を持つようになり、自分でも有機農法で作るようになりました。そのうち、なぜ種をとれないのか、自給の基本なのにと疑問に思うようになりました。そこで、20年以上前から仕事ではなく、遊びとして「やってみよう」と思い立ち、種取りやら、伝統野菜の種を取り続けている方のところへ通うようになりました。
 当時世間は一向に無関心でしたが、遺伝子組換えが問題になり始めてより、種に関心が向いてきたように思います。
 現在日本全体の種の自給率は28%、内野菜は10%です。種屋がF1を世界80カ国で作らせ、冷凍保存しています。
 あるきっかけから03年に兵庫県知事に、「兵庫の食を兵庫で。100年先への種の確保」を提案し、「ひょうごの在来種保存会」を発足させました。情報を交換しながら、県の応援のもと民間で運営することを旨としています。県内にまだ少し残っている、永々と引き継がれてきた種を後世に引き継ぐ作業を保存会が受け持っています。種の保存というより、「種を採り続けている人」とその地に照準を当て、「誰がどこでどんなものを栽培しているのか」を実際に現地調査し、彼らと共に保存活動をしていくのが主な目的です。このような活動が全国各地で網の目のように生まれれば、必要な時に助け合うこともできます。また、種取り人の発掘、採種技術、保存方法と共に「食べ方」の継承も目的としています。本当の伝統野菜とは、同じ地で毎年作り続けられ、その地の気候風土の中で序々に独特の個性を形成してきたもので、毎年購入種で栽培しているものは「伝統」とは言えません。
 「種はみんなのもの」との前提で種の交換会を続けていますが、貰った種を自分の種として登録されてしまう危険性もこの頃あります、どうしたものでしょう。

「黒河マナの振興20年」増田貞雄氏(福井県)
 黒河マナは、敦賀市の南にある黒河国有林を源流とする黒河川の最上流の村、山集落で古くから栽培されてきました。
 山集落は、156戸でしたが今では70戸、平野部には33.4haの水田があり、個人持分は平均48aの山間地域ですが、どの家庭でもマナはお浸しや漬物用に作り続けられてきました。秋に種を撒き、3月下旬から4月下旬まで、伸びたものから順次とう(花の茎)を手で折って取ります。長いこと自家採種を続けてきましたので、とう立ちの早晩がありますが、それが長期間収穫でき、家庭には好都合です。
 20年前、わが家の茅葺屋根の3階に「開けずの箱」があるのを発見し、開けてみたところ、マナの種が入っていて驚きました。きっと先祖が飢饉に備え、子孫に種を伝える風習があったのでしょう。
 マナはどこから来たのか定かではありませんが、多分中国の「真菜」が入り、日本各地で栽培され続けている内に、その地に合ったものになっていったのでしょう。アブラナ科のからし菜に分類され、もとはタカナと同じのようです。
 この祖先の思いを広く世に訴え、受け継いでいきたいと思い、みんなで集まり、「一村一品」運動として取り上げることにしました。なかなか販売がうまくいかなく、消費者に収穫体験を呼びかけたところ口コミで広がり始め、要望があり今では漬物の販売もしています。また、マナの漬物を塩抜きしてマナの「おやき」を作り、「ふりかけ」もでき、毎年マナ祭りもするなど村の活性化に役立ててきました。

種子交換会
 お待ちかねの種苗交換会は、各自が順次、ご自分の種の説明の後、まず種を持ってきた人優先で、みんながほしい種をほしいだけ、誰がもらったかを記入して、いただき、交換が終わり残った種を、私達希望者にも分けてくださいました。思いをこめた説明に「種」の魅力の一端を感じました。また、例えば、単に大豆と思っているものの中にも地域によりいろんな種類が作り続けられているのが実感として分り、「種は地域の文化と共にある」ことも理解できたように思いました。

懇親会(渓流温泉「冠荘」、冠荘料理+地元郷土料理+北陸・近畿伝統野菜料理
 この日の池田町の地元料理は、ふきのとうの甘味噌、きゃらぶき、ちんころ煮(じゃがいも)、おはぐろ煮(たくわんの煮たの)、うどのきんぴら、すこ(やつがしらずいきの酢の物)、みずぶきのごま和え、笹ずし、ほう葉飯。
 北陸の伝統野菜料理は、きゅうり、うり類は塩もみや宿漬けにして食べ比べ、なす類は蒸して生姜醤油で試食。
 各地から集まった野菜を使った料理は、かぐらなんばんみそ(新潟県)、高岡どっこのくず回し(富山県)、金時草の酢の物(石川県)、里芋のころ煮(福井県)、すこ(福井県)、河内赤かぶぬか漬け(福井県)、かわずうりのふの辛し和え(福井県)、マナ漬け(福井県)
 この日の料理を作ってくださったのは、池田の地元料理が、清水とみ子さん、川崎永子さん、別野礼子さん、伝統野菜料理は、出倉弘子さん(ファームビレッジ・サンサン)、加藤胡柳さん、黒田美恵子さん、竹原啓子さんでした。本当に心にしみる美味しいお料理ばかりでした。お野菜でこれほど満足し、感動したのは初めてでした。100人を超える人数分をご用意くださり、さぞ大変だったことでしょう。有難うございました。
 池田町の食材を使った冠荘の風土料理も、盛り付けも美しくて美味しく最高でした。上映会「河内赤カブラの焼き畑栽培」と朝まで交流会(疲れ果てて、ここは欠席)

8月5日(日)現地見学
「萌叡塾」(福井市中手)

 かつて東京で働いていたメンバー5人(男性1人、女性4人)が移り住み、2年がかりで自力で建築した共同住宅兼宿泊施設兼作業場で、「自然と調和した自給自足生活」を始めて20年以上。最初近所のお年寄りから農作業のノウハウを学び、今ではお米や野菜を無農薬で作り、鶏も飼っている。魚を釣り、山菜や野草を探し、生活全体の自給率を上げてきた。井戸水、燃料は薪や木炭、電気の自給も少しずつ実現し始めた。パンや、ローストチキンを焼き、予約制のレストランや店も開いている。種も自家採種していて、地下貯蔵庫に保管し、豆や果実類は順次日常の食用や保存食ともしている。織物や木工芸などの手仕事もしている。自給生活はある意味現代では最も贅沢な暮らしとのこと。最近では若い人の研修者も増えていて、自給生活を学んでいる。(問い合わせはTEL 07797-3-2421へ)

河内赤かぶら生産(福井市味見河内町15-58 生産組合組合長西田誠一さん)

 前日まで台風で雨続きだったので焼き畑の火入れは見学できなかったが、雨の前に動物的感で火入れしておいて下さったので、種まきを見学できた。急斜面を先ず下刈りし、上から順次火を付け焼き下ろしていき、まだ土に熱さの残っている2~3日中に種を撒く。この日はご夫婦が、ほんの少しの種を効率よく撒いていく実演を見せてくださった。急でがらがらの肥料気のない土に、木や草を焼くことでかぶらに必要な養分が入り、炎で病害虫駆除もできるので、無肥料・無農薬栽培ができる。草取りや間引き作業をして、10月下旬には収穫する。丸く艶やかな赤かぶらは中まで赤く、シャキっとした歯ざわりとほろ苦さが特徴で、漬物に向くそうだ。かつては必需品として、山を越えた大野市へ大量に出荷していた。夜中の3時に、四角く束にした赤かぶらを背中一杯に担いだ女性が隊列を組み、男性が先導し、真っ暗な山を下り、大野の朝市に売りに行っていた。しかし今では需要が減り、また作業がきつく農家も減った。800年の歴史があるこの焼き畑栽培を今も6軒が守り続けている。





  ―世界文化遺産― アンコール遺跡を訪ねて

                                          酒井恵美子

 機会があって、三月初旬カンボジヤのアンコールの遺跡群を訪れてきました。
 信仰の厚いクメール王朝文明のもとで創建された数々の仏教寺院。又、神々の象徴する巨大文明アンコールワット。トム等はクメール民族の消滅と共に放置され、七~八百年の永きに亘り、密林の中に眠っていました。フランス人によって発見された世界遺産という宝を持ちながら、カンボジヤが殆ど関与できない貧しさも同時に備えていることに違和感があり強い衝撃を受けました。国の内乱と侵略の続いた結果、国の落ち付く所なのでしょうか。
 民衆の大半は、政府の力も経済力も及ばないところで、生きることにあえいで居るような状態。それでもヒンズー教は姿を消したということですが、仏教は人々に生活の中で息づいているように見えました。
 自然との共生と言えば、格好良く聞こえますが、動物と人間の境目の生活を余儀なくされている中で、人々はたくましく生きていました。「憐れみをかける」これは文明社会に生きる人の倣幔さかも知れません。私たちの暮らしの中にも、文明の及ばない生き方が同居している筈です。
 寺院の中は、回廊だけが二重・三重と重ねられているだけで、中の広場は儀式に使われていたようです。尖塔の下には仏像が安置され、一坪程の広さの中で人々は一人ずつ祈りを捧げていると言った具合いです。城壁には色々な彫刻が施され当時の生活、戦いの様子、天国と地獄、王様の化身などが偲ばれます。中でも九つの頭を持つ大蛇と、何百何千という人々の綱引きは何処へ行っても見られました。不老長寿の薬を作るために、大蛇に海を撹拌させたという物語とか、寺院の中に龍が住み付いて王女となり、王と一夜でも枕を共にするのを怠ると王は殺され、民衆の不幸を及ぼすため、大蛇が王に近づかないように引っ張っているとか、数々の伝説が残されていました。
 王朝は民族争いで、強い実力ある王が次々と立ち上がり、その権力の象徴がアンコール寺院の建立であったようです。
 塔は周辺を見降ろせる高台や丘の上にあります。朝日は残念ながら雲の影で、見ることは出来ませんでしたが、回廊の上から見る夕日は、幻想的なものでした。
 全人口千三百万人余りの国民の一、二%と言えば、一五、六万人が水上生活者で、陸に家を持たない人々です。高床式の掘っ立て小屋に住む人も、ほぼ同数と聞けば、生活レベルは容易に想像できます。生活格差は今問われている日本の格差とは桁が違います。テレビもない、車もない、「おらいやだ」のあの歌が思い出されます。国民からは税金が取れない、頼みの関税入場等、公的財源は殆ど私物化され、ワイロは当然となっているお国柄は異様に映りました。
 アンコールの塔は、火山の噴石が積み上げられて、外国の侵略、宗教争い、自然の風化、シロアリに土台やられる等して、殆どくずれていて、修復には百年の年月が必要ではないかと思いました。公務員の給料は二五~三十ドル、アルバイト・ワイロなしでは最低の生活のも事欠きます。あれやこれやと聞きながら、アンコール遺産を持つカンボジヤの十年、二十年後の発展に期待を寄せ、信仰の広まりも願いながら、空路を後にしました。「見て来て、よかった」率直な感想です。(三月十三日記)




          連載①
    平成18年度留学生セミナー
    (分野別地方研修)基調講演要旨)
            

                           玉井道敏

2006年7月26日
近代化によってもたらされたもの、失われたもの
主に農林業の視点から
玉井よろず道楽研究所 所長 玉井道敏

はじめに
 
○ みなさんこんにちは。福井の地へようこそ。心より歓迎いたします。

○ 今の時期、日本の本州では雨期が上がって暑い夏がやってきます。この福井でも7月15日頃から10日間ほどたくさんの雨が降り、少し被害が出ました。この冬には大雪が降りました。近年は気候変動が激しい感じがします。地球温暖化の影響かもしれません。

○ 私は、福井県庁で、1967年から36年間農業技師として仕事をしていました。4年前に定年退職し、今は、私設の研究所を作って農業、農村などの事を調査したり、研究し続けています。専門は農業経済、経営の分野です。

○ 今日は日本や福井の農林業の動きなどを通して、日本の近代化の功罪などについて話してみたいと思います。私は学者ではありませんので理論的なことは話せませんが、現場で起こっている事をタネにして、明治維新(1868年)以来の日本の近代化について自分の思いをお話してみたいと思います。40分ほど話をして、あとの20分ほどは皆さんとの意見のやり取りや質問をお聴きできたらと思います。よろしくお願いします。

○ レジュメを見てください。

■ ある海外研修生の言葉(1995年)

○ 福井へは毎年、インドネシアなどから10人ほどの農業海外研修生がやってきて、それぞれ、農家にホームステイをして一年間農業を学ぶ研修制度があります。毎年、年度末に一年間の成果報告会を開くのですが、1995年にタイからやってきた研修生が、「日本の農業についてひとことで言えば?」の質問に答えて「ケミカルである」と答えたことが私の印象に残っています。戦後の日本農業の動きを端的に指摘した言葉です。

皆さんも福井へこられる時、電車から日本の田んぼや山野の風景を見て、何を感じられたでしょうか。今、稲は青々としていますが、一ヵ月後には熟して黄色くなり、米の収穫時期となります。
これは今朝、私の連れ合いが作ってくれた日本のファーストフード、『おにぎり』です。御飯を手でギュッと握って作ってあります。福井のコシヒカリを使っていますが、握ったあと崩れない、この粘りが日本のお米の特徴です。三つしかありませんが、よろしかったら後で試食してみてください。
米は現在も日本の主食ですが、日本における米生産はおそらく3,000年の歴史があります。水田という装置が3,000年の連作を可能にしてきたのです。これは凄い事です。

○ 日本農業に占める米の生産額は現在は30%弱ですが、稲作生産は色んな意味で日本農業の中核です。特に福井県は米の生産額が農業生産額の70%を占め、その農業は稲作生産に特化していますので、戦後(1945年~)の稲作生産の動きから近代化というものを考えてみたいと思います。

○ 戦後約60年の日本農業の動きを稲作生産から見てみると、土地生産性、労働生産性の向上と資本生産性、エネルギー生産性の低下が指摘できます。福井県における1945年頃の米の収量は10aあたり250kg程度でしたが、現在は500kgと倍増しています。一方で、米の生産に投入される労働時間は、1945年は10aあたり240時間でしたが、現在は40時間と六分の一に減少しています。ですから10aあたりの米の労働生産性は12倍に上がったわけです。
一方で、機械化などの進展により、10aあたりの資本の投下額とエネルギーの使用量は飛躍的に増大し、資本生産性とエネルギー生産性は低下しました。

○ 稲作生産のこれらの動きをもたらした要因としては、機械化、化学化、施設化、装置化、システム化などの進展が挙げられます。

機械化は、トラクター、田植え機、コンバインの普及によってもたらされ、そのことが耕起、田植え、収穫作業の大幅な省力化につながりましたが、一方で、これらの機械を買うために多額の資本投下が必要となりました。トラクター、田植機、コンバインをそろえると約1000万円に近い資本が必要となります。

化学化は除草剤、農薬、化学肥料の開発、利用により、草取りや防除の大幅な省力化という効果をもたらした反面、人間の農薬中毒や水田に生息する多くの生きものの死滅という環境破壊をもたらしました。

施設化は農協所有の育苗施設や乾燥調製施設の設置などが挙げられます。なお、これら施設の整備では福井県が全国で最も進んでいます。現場を歩かれる時によく注意してご覧になってください。またこれら施設の整備により、稲作生産において多くの農家が農協に依存する体制が強化されたともいえます。

装置化は水田の区画整理などの土木工事によって進められました。水田の区画を大きくする、農道をまっすぐにつける、用水路、排水路のコンクリートによる整備、地中の水分を調節する暗渠を設置するなどの一連の作業によって、水田での機械化作業が容易になりました。
  
そしてこれらの動きを総合化することで稲作栽培のシステム化が出来上がりました。なお、このような近代化の動きは稲作以外の農業分野、園芸や畜産などでも同様に見られ、農業の近代化が著しく進展しました。

○ このように、稲作農業の近代化が進展することで、大幅な労働力の削減が可能となり、結果として米の生産に従事する人は減少し、その結果、担い手の減少が起こりました。また、機械化や化学化などによる費用の増大と米の価格の低迷により米の収益性は低下しました。そのことが、さらに担い手の減少を引き起こしています。

○ 日本では、米が主食ですが、国内で米の自給が可能となったのは戦後の1960年頃です。ところが皮肉な事にその頃より食生活の変化により日本人の米を食べる量が減少し始め、最高時は一人当たり平均、一年間に120kg食べていたのが、最近は60kgを割り込み、日本人が米を食べる量は半減しました。米の収量が高まってその生産が増加する一方で、需要は減少する、米の需給がアンバランスとなり、国は1970年から米の生産調整に踏み切りました。現在は国全体の生産調整率が約40%に達しており、福井県は米どころということもあって30%の生産調整率の割当てとなっています。

○ 以上みてきたように、日本の稲作栽培はその近代化によって生産性を高め、非常に効率化が進んだのですが、収益性の低下や担い手の減少、生産調整の実施などいくつかの課題を抱えているわけです。今、稲作生産で収益を何とか確保するには、5ha以上の栽培面積が必要で、その基準から言うと県内のほとんどの農家は収益を上げていません。むしろ、農外で得た所得を農業につぎ込んでいるといった状況です。

しかし、担い手は減少したとは言いながら、それでも福井県の農家の多くは水田で米を作り続けています。これは、米作りが経済性だけでなしに、社会的な意味をもっているからです。福井の農村で暮らし、生きていくには米を作り続けることが、前提となる、そんな気がします。


執筆者紹介
玉井道敏(たまい・みちとし)
 1942年、福井県生まれ。京都府立大学農学部農学科卒業。福井県庁で農業技師として36年間勤務。2003年3月に定年退職後、私設研究所「玉井よろず道楽研究所」を開所し、農家とともに、農業・農村について調べ、考え、まとめ、発信する作業を継続している。



  中川先生   
        宇野


前略、みち四六号をお送り下さいまして有難うございます。
 先生とはずい分長くお目にかかっておりません。シグナル四六、「自由と責任」一般に軽く扱われています。百姓にとって田んぼは命そのものの聖域ですが、ドライバーがのみ捨てにするごみすて場です。百年河清・おそらくこの病気はなおらないでしょう。
みち四六には昔の田風景がいっぱいある「うた」がありますが、今の若い人にわかるかなあ・・・私も昔人間、「田んぼ虫」を書いてみました。可能でしたら四七号にのせて下さい。


田んぼ虫    宇野 肇

田んぼはね 私のいのち お母さんだ 
田んぼで生まれ育って 田んぼで死ぬる
幼いとき 田んぼは友だち
空いっぱいの 赤とんぼ
蝗(いなご)の畦(あぜ)を 泳いでいった
春の田隅の 水たまり
めだかが数匹 泳いでいた

雨降り知ってか 蛙(かわず)鳴き
苗とりの足に へれんぼが
鈴なりに吸いついて
見よう見まねで田植えして
少年の頃は 一人前
稲刈り にない棒はさにかけ

夜空の星をいただきて
米という字は八十八
それほど手間のかかる仕事ぞや
中野鈴子のおじいちゃん つぶやいた
田んぼの仕事ほど つらいものはない

朝星 夕星 あおぎみて
広い田を鍬(くわ)一丁のトラックター
一株 一株 のこぎり鎌のコンバイン
一日中腰まげて 苗とり田植え稲刈りと
ろくな食事も なかったぞ
あぶらげ一丁 さば一匹年に一度二度あるか

炎天下の田草とり
田んぼを這う 田んぼ虫
一家総出の田植え日だ
遠くで見れば 風情でも
植えてる本人 えらかもん
瑞穂(みずほ)の国はどこさ行った もう見えん


 
                  馬木田寿子

五合目に 人待つ馬や 秋深む
落葉たく 匂ひ残りて 山暮るる
神苑の 古井戸辺り 草紅葉  
落葉して 視界ひろがる 山暮し
御社の 完成間近 初紅葉

白木蓮(東郷先生を偲んで三首)  小林としを
風すさび白木蓮の散る夕べ 大義に生きし君が訃とどく
黒雲の渕金色にくまどりて 陽は沈みたり君は還らず
裸になり渡り来しとう少年の まぼろし顕たせ九頭竜流る
芭蕉と曽良の句碑を囲みて過ぎし代の 物語聞く歌の友等と
遠っ代の香りほのかに漂いて 鎮座まします五百羅漢は
棚段にぎっしり居並ぶ羅漢五百 褪せざる肩に埃をかつぐ
再びは訪うこと叶わぬ老いの眼に 九谷の谷の皿の彩鮮らけし
繁栄の時代偲ばる北前船の屋形に しばし囲炉裏をかこむ


  鯉の街 高山         北風 尚子 

手を合わせ朝のあいさつする人の 姿うれしい病院の前
方言を使いて笑わす君なりき 今宵訃を聞き泪にむせぶ
風を切り乗り来る孫の自転車の 荷台に小さく我はのりいる
間伸びやく竿竹賣りの客を呼ぶ 透れる声の風のなき午後
うつむきて歩き来る人何思う すれ違いざま鼻唄聞きゆ
坂下り追越すトラの風圧に 帽子押さえてペダル漕ぎゆく
幾度か訪ね来たりし鯉の街 俄雨降る山峡の郷(さと)
あるなしの風に揺れてるコスモスは 揚羽をとめて静かに咲けり


  越の野辺に   福井市鉾俳句会    

新涼や今朝の珈琲熱くして      木下志げ子

献水の碑の辺に式部瑠璃零す     伊藤 房枝

送る荷に入れし南瓜に日の温み    北出 雪子

夏休み終へたる子等の重き足     月僧通陽子

嬰児の円な瞳秋初め         小林 綾子

秋茄子の味噌焼きに匂ふ夕厨     高間 節子

色鳥の今朝も来て居る日柄良し    坪田 幸子

田の鳥落穂拾うて舞踏会       中田 茂子

水加減難しきよと新米研ぐ      長谷川智子

刈り終へし田にて白鷺夕日浴ぶ    吉村 浪子

稲を刈る群なす鳥を立たせては    小林 美江

夫と居る思ひの茶席糸芒       坪田 恵子

役終へて十字の儘の案山子かな    田中 芳実









 


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