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あぜみちの会ミニコミ紙

みち46

(2007.6.6)


福井県大野市阪谷地区の棚田(2007.9.8 撮影山田正美)



シグナル46

福井市 中川 清

 「みち」が創刊されてから十五年余が過ぎた。あぜみちの会の会報が「みち」と名づけられたのは、あぜみちから「あぜ」を取り除こうと言う願いが込められている。
 「あぜ」とは、区画の垣根のことで、家で言えば、塀のことであろう。
 これには、自分の縄張りという、仕切り線を取り除いて、自由に発言もし、行動をすることが、必要ではないかという問題提起が秘められている。発想も発言も、行動も自由ということは、その裏に、責任という重大な重しが在ることを知らなければならない。
 「からすの勝手だ」と言って個人事を「放っといてくれ」と言う風潮が社会秩序を守るより上位に置かれてはいないか。家庭のゴミは、本来出した人が始末するのが基本であるべきが、何時の間にか行政の責任にすり替えられている。昔は、子供の頃から「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられ、自分の言動に責任を教えられてきた。
 今は、産んだ子を育てられない事情がある人は、ポストへ預ける制度を公が認めるようなことは、なんとしてもおかしい。自分のした事の責任を、社会に転化するようなことは、絶対阻止したいと思う。ゴールデンウイークにバーベキュ大会で楽しんだ後、始末をしないで、ゴミを放置して帰ってしまう風潮は、そのひとつの事例であろう。
 社会に対する無責任への怒りを大事にしたいものです。
 それを注意すると「嫌われる」と皆んな良い子ぶっている。
 機関誌「みち」には、こうした、自由と責任の在り方の地道な運動の願い=垣根の中で自分さえ良ければ好いという風潮に警鐘する=が込められていることを知って欲しい。



          尊敬する先人二人

                                       名津井 萬

 山形  寿
 私は家庭の事情で、十四才から十九才まで(昭和二十二年~二十八年)叔父の山形寿家で養育を受けた。叔父は独学で教員免許取得し、昭和初期に地元の西藤島小学校教諭となり、後に味真野青年学校長、村長(四十一才)戦後、公職追放となるも復帰し、農協長、県会議員(二期)を努めた。
 公職追放をうけていた頃、私は同居していた。その頃、県興農同志会長として活躍し、県の農業振興に心血を注いていた。
 全国の精農、篤農、愛農家を呼び、自宅に泊め市内で研修会、講演会を開催し、必ず私を参加させてくれた。その頃、水田酪農を提唱し福井県酪農の最先駆者として活躍した。
 乳牛の他に、馬、和牛、豚、綿羊、鶏を飼い、田畑を耕し、生活改善をも心がけた。それらを総じて「立体農業」と称した。
 私は叔父の指示に従い手足となって働いた。それ等の経験が私の大きな財産である。
 ある時「ヨロの欠点は××だ」と言って、すぐ「それはヨロの長所でもある」と言われた事を今も鮮明に思い出す。自分の長所と欠点を時には振り返れとの事と思う。
 山形 寿は教育者であり、農業指導者であり、農業者であった。叔父の投稿した文の中に「悠久の大義に生きる」を心がけて来たとあった。「永遠に人として守り行うべき正しい道を歩む」と云う事と理解している。
 私は叔父の足許にも及ばないが、山形家で学んだ事を「私の農業経営」の糧としている。

  東郷重三
 地方政治家(市会三期、県会六期)として活躍した東郷重三先生が今春、三月三十日亡くなった。(行年八十九才)私の叔父、山形 寿の小学校での教え子である。先生とは、私は相反する事もあった。しかし色々と教えを受けた。先生が私に書いてくれた墨書がある。「断乎動 断断乎不動」とある。「自分が熟慮し決めた事は断乎成し遂げよ。他人の言動には断じて惑わされるな」と云う事である。精神的にふらふらしている私への叱咤激励の一句だと感謝している。私が青年団活動をしていた頃、私の挨拶を聞いていて、後で「上手に喋ろうと思うな、自分の思う事を正直に真剣に話せ」と言われた。今も鮮明に思い出す。私は先生の三つの願いに応えた。
 一つ 西藤島小学校百年誌の編集長をした時、色々な意見、注文、雑音に悩み疲れていた時、委員長である先生が、皆んなの前で、わざと私に対し「君に編集はまかせたのだから、君の思っている百年誌を、君が思う様に作ってくれ、金の事は心配するな」と言われ一ぺんに悩みが吹きとび、約二ヶ年かけて約六百頁の誌を発刊する事が出来た。
 二つ 「戦後の西藤島の五十年」誌が計画されながら数年を経てしまい、心配した先生は私を呼び「何んとしてでも発刊してくれ」と言われ、心友の細川嘉徳君と二人で、約一ヶ年かけて、昭和から平成「西藤島誌」三百五十頁を発刊させてもらった。
 三つ 平成四年から始まった日野川堤の桜並木「西藤島の千本桜」の計画が半分しか実現されず、平成十七年、明治橋の新設を期に明治橋までの桜並木の完成を何としてでもやれ、「君に期待する」と言われ、私は地区の連合会長を利して努力し、平成十八年には国土交通省の理解も得られ、暮れには土盛りも完了してしまい、今春は四十本植樹され、あと四十本は今秋の計画である。この間、先生は病床から関係機関へ要請を根気よく行なってくれた。また市会議員の稲木義幸議員のねばり強い努力もあったお陰である。
 先生の最後の願いが叶えられ、それを知って亡くなられた。私の喜びでもある。
 西藤島地区のド真ん中を流れる日野川の桜並木約五百本は二十年後「美しい西藤島」「輝く西藤島」のシンボルとなるかも知れない。
 山形 寿氏、東郷重三氏は西藤島の優れる先人、誇れる先人であり、身近で薫陶を受けた私は幸である。




    あさひ味噌かわらばん 第六八号

                                 三代目 麹屋  寺坂康夫

 学校でのみそづくりは楽しいですね。子供たちのみそづくりはそれはそれはにぎやかでした。質問もいっぱいで、「なぜみそづくりを仕事にしたのか」「楽しいとき、辛いときは?」「一番自慢できることは?」核心をつく質問に慌ててしまいました。
 六年生なのでまもなく卒業。半年後の味噌からは自分宛の手紙が出てくるようにタイムカプセルも仕掛けました。しっかり封印をして十月が来るのを待ちます。
 タイムカプセルの話をしていたときです。「先生、今年も学校にいるの?」「みんなも学校も大すきだから・・・絶対いるよ・・・」
 不意をつかれた先生が、みるみる涙顔。先生、男だぞ、ガマン我慢。でも人事ばかりはなんとも。どうやら来年度は可能性があるみたい・・・?
 先生はもしかして他の学校に行ってしまったとしても、決して君たちのことは忘れませんよ。先生は、必ず先生を追い越し、心豊かな、心深し、今の『大人』ではない素敵な人間になっていることを期待しているんです。だってみんな先生の子供なんですから。
 いま、政治が教育に入り込んできています。なんか違うよな、って感じるこの頃です。
《みそは生きています》
本品は寒い冬に仕込み、じっくりと発酵させたもの(天然醸造)です。着色料、甘味料、防腐剤、アルコールなどは使用しておりません。みそは生きています。ですので冷蔵庫などに保存願います。本品に不備な点などございましたならばご返送くださいませ。製品および送料をご送付させていただきます。お買い求めいただきありがとうございました。
《みそにこだわって》
 みその材料は米、豆、塩、水と、蔵に住み込んでいる酵母菌、乳酸菌などです。米は特別栽培米で販売もしています。豆は福井県産、塩は天塩と材料すべてにこだわっているのですが、実は当たり前の材料で仕込んでいるのです。農政の貧困と経済優先がもたらしたものと言い換えてもいいくらいおかしい現象です。
 父や母の時代にはどこの家でもみそや醤油を仕込みました。今は畑にネギがあってもスーパーで買ってくる時代です。みそ桶が汚くて嫌われるのです。生活様式が変わり食文化も変わりました。飽食日本を象徴しているとは思いませんか。
 まだまだ時代は変化します。マルチメディアの時代です。コンピューターが主役です。しかし、人と人とのあたたかいつながりや思いやりもますます求められています。暮らしをつくり、人間的な生き方を追求していくことがみそづくりを通してできる私のレジスタンスといえるかもしれません。
 だからこそ『たかが味噌、されど味噌』。
 平成十九年は猪突猛進干支の猪歳です。ところで友人が「猪歳は決まって荒れるので注意しないと」と言っています。そう言えば阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件、原発ナトリュウム漏れ事故は十ニ年前の出来事で、今年も記録破りの暖冬で年が明け、能登半島地震で大きな災害が起き、世の中を震撼させるような凶悪事件等が起きていることを思うと、今年年男の身にはこの話まんざらでもない、気を付けねばと思います。天災は忘れても忘れなくてもやって来ますが、人災だけは無くしたいものです。人災と言っても他人が起こす場合と自らが起こす場合があり、どちらも気を付けねばなりません。




     山羊を飼いますパート2(連載①)

                                         土 保 裕 治

 昨日(十八日)夜、餌やりに行ったら、おとといにはいなかったはずの赤ちゃんがいるのに驚き、「あれーおかしいな?予定より一週間早いなあ」と不思議に思いました。母「ちえぼ」の第三回目の出産は来週二四日前後と見ていたので。どうして赤ちゃんがいるのか、ピンときませんでした。おかしいなと思っているうち、赤ちゃんやぎは娘「メイちゃん」のお乳を飲んでいるではありませんか。一瞬、何故、姉の乳を飲むのか、どうして姉の乳がでるのか、理解できませんでしたが、よく見れば、「メイちゃん」のお腹はしぼんでいるし、「ちえぼ」はまだ大きいことに気が付き、ああ、そうか、産んだのは「ちえぼでなくて、メイちゃんだったのか」とようやく事実に気が付きました。両方とも妊娠しているだろうとは思っていましたが、もうまもないと感じさせる程、お腹が大きい「ちえぼ」と比べ、「メイちゃん」の膨らみは、まだだいぶ先のように思われたからです。生まれたのは双子です。どうもニ匹ともオスのようです。おしっこがお腹の真ん中から出ています。すっかり体は乾いて、しっかり立っていました。多分、生まれたのは朝早くのようです。膨らみの小さい「メイちゃん」でも双子なら、「ちえぼ」はいったい何匹入っているのだろうかと思ってしまいます。それとも、かなり大きな赤ちゃんかも知れませんね。来週二四日前後に結果をお知らせします。その頃、見に来て下さい。きっとどちらも見れますよ。岡保地区の曽万布町(そんぼ)錠詰牧場奥にいます。嶺北木材市場が目印です。  
 ニ九日の夕方に生まれました。前の日記に書いたように、「ちえぼ」の出産をニ四日前後と予測していましたが、予定日を数日過ぎても生まれないので、日数を数え間違えたのかと思いかけていたところでした。また双子です。一八日に生まれた「メイちゃん」の子も双子なので、いっぺんに四匹も増えてしまいました。膨らみの大きい「ちえぼ」はいったい何匹入っているのだろうか、それとも、大きな赤ちゃんかの答えは意外にも、まったく大きくありませんね。エサやりに行ったのは、幸運にも出産直後でした。やぎは三十分で立ち上がるそうですが、まだ体はべたべたで、立ち上がれません。でも、しばらく何とかよろよろ立ちました。母「ちえぼ」はニ匹を忙しく交互に舐め続けます。他のニ匹のように、真っ白になるまでなめ続けます。母親として立派に役目を果たしていますね。
 皆様、祝福して下さり、ありがとうございます。ヤギは双子が多く、それぞれが三~四キログラムの大きさで、大きさが二分の一に分散されているためでしょうか。どうも安産のようですね。(母体も五十~六十キログラムなので母子ども人類と同じ位ですが、もっと短時間で生まれるようです。)
・関心事その一「遺伝」
 「メイちゃん」の父には、あごに「ぼんぼり」があり、「メイちゃん」の母「ちえぼ」には、「ぼんぼり」がありません。「メイちゃん」には「ぼんぼり」があり、その子ニ匹とも「ぼんぼり」があり、「ぼんぼり」のない「ちえぼ」の子二匹とも「ぼんぼり」がありません。なお、この「ぼんぼり」は「肉髭」といい、働きはなく、なぜついているのかは不明です。神様が、必要のない無駄なものを与え賜うた珍しい例かも知れません。また、「メイちゃん」のちちには、角がありません。「メイちゃん」の母「ちえぼ」には、角がありました。「メイちゃん」にも角がありました。その子二匹とも角があり、「ちえぼ」の子二匹とも角がありません。

・関心事その二「交錯」
 誕生が十八日と二九日と近いため、四匹が寄り添って寝たり、一緒に遊んだりしています。また、「メイちゃん」の子が「ちえぼ」の乳を、逆に「ちえぼ」の子が「メイちゃん」の乳を飲んでいるのがちょくちょく見られます。基本的には母親のを飲んでいますが、(つまり、母親を間違えたのではないようです。)飲み足りない時に「はしご」をする様子で、我々と同じですね。その時「ちえぼ」も「メイちゃん」も分けへだてなく飲ませています。

・近い将来の別れ
 動物の世界ではオスは歓迎されないことが多いようですが、ヤギも近親交配を防ぐため、こどもはオスは一緒に置いておけません。残念ながら、四匹とも♂でした。半年以内にはサヨナラすることになりそうです。メスへの期待はまた次回(一年後)です。




        子育てと野菜育て

                                          酒井恵美子

 五月一五日に「畑の先生集合」の掛け声がかかりました。二年生の孫が学校の中庭にある小さな花壇で野菜を育てるために、畑の先生のキャリアを貸して下さいとの一つのイベントです。この日は、子供達といっしょにさつまいもの苗を植えてきました。その他に子供達が一人一鉢ずつ夏野菜の苗を育てていました。なす、トマト、ピーマン、おくら、枝豆等、各自が持寄ったものです。さすがにスイカ、キュウリ等のつるものはありませんでした。ところが、その苗は瀕死に近い状態でそのままでは救いようがありません。基本的に間違っていて、これは育てるのではなく、いじめているも同然です。どうしてこうなったかについて、私の考えを書いてみようと思います。
 子育ての基本は乳児のときには肌身離さず、這い這いする頃は手を離さず、歩くようになったら目を離さず、一人立ちするようになったら、心を離さずが原則だということです。これだけで立派に子供が育つとは限りませんが、この原則だけは親になったら自分の心と体に刻みつけておかなければならないでしょう。でも、この世は浮世ですから、いろいろなトラブルが起こります。その時は、この原則に基いて対処していくことになるでしょう。この積み重ねが、大げさに言えば、人生なのではないでしょうか。
 結論が先になりましたが、野菜作りも同じでしょう。発芽して双葉が育つ頃は人で言えば乳児期です。育つ環境(水を与えたり外敵等)を整え守ってやらないと枯れてしまいます。根が伸びて本葉が育ち自力で育つようになったら、これは幼児期ですから、育ち具合をよく観て、その特性が生かされるように手を掛けていくことです。そして花が咲き、実を付けるようになったら、放任でもいいのですが、栽培となったらそんな訳にはいきません。親育てです。甘やかさず、厳しすぎずと言ったところが、心を離さずとなるのでしょうか。農家にとては、事更に言うまでもなくごく当たり前のことですが、この当たり前を疎かにすると手きびしい現実がはね返ってくることになります。 この原則の上に技術が伴うのですが、ともすると技術だけが先行するとぐらぐら、ゆらゆらと安定しなくなるのではないでしょうか。
 話は戻ります。子育ては、親になったら、または親になる前に考えるものですが、野菜作りもまた然りです。学校で、野菜を育てるなら、これは立派な教育です。教師が知らないからとか、やった事が無いから・・・では教育とは言い難いでしょう。知らないのなら先ずは手掛けて下さい。子供と一緒に試行錯誤しながら一歩先に進んで体験すればいいと思います。手掛けることで、何かが見えてくる筈です。苗が買ってきたときより小さくなり、枯らしてしまうようなことが多ければ、プロの教育者として子供達の前に立てるでしょうか。医者が患者を前にして、立往生してしまうのでは医師としての資質が問われるのと同じように教材として扱うのなら、それなりの力量は備えて頂きたいと思うのですが、命の教育には動植物の飼育・栽培は適切な教材と思いますが、ともすると机上の空論になることもしばしばでしょう。
 今は、もう中学生になった私の孫が、二年生の時、夏休みの自由研究にスイカのつるが一日何㎝伸びたかを記録したり一本のトマトが何個実を付けたかを記録していました。生き物の生命力に感動を持つ一つの手立てにはなったのかなと思います。先生方、がんばって下さい。子供達をがんばらせて下さい。一農家の一人として及ばずながら応援致します





                連載⑤
   『焼畑と赤カブ 福井県美山町河内の焼畑による赤カブ栽培体験録』

                           玉井道敏

4)間引きと除草
 2002年9月1日(日)、1回目の間引きと除草作業を行なう。参加者はるるぶ、焼き畑の会合わせて15名ほどである。播種から3週間あまり、順調な発芽とその後の成長に期待していたが、雑草のたくましい生育に比べ赤カブの幼苗は弱々しい。斜面上部の発芽は極端に悪く、下部に発芽苗が集中している。30センチ四方に一本の割合で残してあとは間引けということであるが(間引いた苗は青菜として利用する)、もったいなくて発芽がまばらな所に移植を試みる。1種類の雑草がびっしり占有して生えていたが、おそらく長い間地中で我慢していた種子が、環境の激変で一斉に芽吹いたものと思われる。このあたりも調査すると面白いのだが、とてもその余裕は無かった。午前中、2時間ほどでこの日の間引き、除草作業は終了する。
 その後は、9月15日、29日、10月20日と間引き、除草作業を継続する。成長を続ける赤カブの個体数は少なかったが、ダイコンは比較的順調に育って、間引きの合間に持ち帰って、その味を楽しんだ人もいた。今回の焼畑体験に熱心に取り組んだ森下英樹・三代夫妻は、持ち帰った青首ダイコンを使って、ダイコンの煮物、ダイコンの葉のゴマ和え、生ダイコンのスライス切り、ダイコンの皮のきんぴらなどの料理を作って味わったり、2種類の辛味ダイコンを使っておろしそばにするなどして楽しんでいる[森下英樹・三代2002]。間引き作業の楽しみの一つは、播いた赤カブやダイコンの生長ぶりを確認できる。

5)収穫前夜祭と収穫作業
 2002年11月2日~3日、火入れしてから3ヶ月、いよいよ河内赤カブの収穫期となり、収穫前夜祭、収穫作業の行事が開催された。河内の集落センターに2日の夕方から関係者が参集、参加者はそれぞれ一品の料理を持参し、翌日の収穫作業に備えてセンターで宿泊するため寝袋を持参する人もいる。地元農家5人を招待し焼き畑の会から十数人、るるぶ5人、合わせて二十数人が集まり、しょっつる鍋などを囲んでの宴会となる。焼き畑の参加者同士とともに、地元の人たちとも酒を酌み交わし、打ち解けた雰囲気の中で交流の図れる絶好の機会である。準備されたスクリーンに今年の焼畑作業の経過が映し出される。焼き畑の会には映像の専門家がいて、記録映像を作るのはお手の物である。その画面を見ながら、今年の作業を振り返り、感想を述べ合い、飲食をしながら交歓する。地元の人たちからは河内集落の歴史や河内赤カブのこと、これまで蓄積され身体の中にしまいこまれている生産技術や生活技術についての話が聞けるのは最高だ。地元の人たちにとっても、このような場に参加して、多方面の分野の専門家から普段は聞けないような情報を得られて刺激となるだろう。一年に一度の機会ではあるが、このような場を継続して設けてきたことが、集落外の人たちが山林を借りて焼畑体験を継続してきた大きな支えとなっている。途中で帰る人、夜中まで話し続ける人、横になる人、寝袋に入る人、様々である。この日は近年になく早く、強い寒波の襲来があり、雷鳴と大降りの中での収穫前夜祭となった。
 3日は収穫の当日、朝から霰まじりの時雨の降る悪天候となった。やや小止みになった時を見計らって焼畑の現場に入る。今年は発芽の悪さがずっと尾を引いて赤カブの出来が悪かった上に、近年にない悪天候となり、十数人の参加者は少ない収穫物を分け合って早々の引き上げとなった。それでも長い苦労の末に収穫した赤カブはひときわいとおしく、雨にぬれた河内赤カブの紅色は素晴らしかった。
 以上で2002年の焼畑体験は終了した。辛い体験だったが、終わってみると苦労を忘れて「やったな」という満足感を持つとともに、頭で考えることと実践の間にある距離間を強く感じさせられた。『言う(思う)は易し、行うは難し』を地でいくような体験だった。
 後日談として、翌年の5月上旬の連休時に再度2002年度の焼畑体験の地を訪れた。赤カブやダイコンはたくましく茎葉を伸ばして、菜の花の盛りであった。蕾ごと伸びた茎葉を折り取って持ち帰り、春の菜の煮物として食したところ、赤カブの野生的な特性や風味を、濃縮した形で味わうことが出来た。

6)2003年の焼畑体験
 2003年も前年に引き続いて焼き畑の会とるるぶの共同作業で焼畑体験をする。前年度の場所から林道を少し大野よりに上がった道路沿いの斜面で実施する。この場所は、河内集落の西川誠一さんが10年程前に焼畑をしたという場所で、大きな草木も無く面積は20アール程度、7月20日に畑の造成を行い、作業は1日だけで終了する。昨年と比較して楽な焼畑造成作業であった。しかしその後、梅雨が長引いて伐採後雨の日が続き、刈り倒した草木が十分な乾燥しないまま、8月3日、火入れの日を迎えた。点火するもののなかなか燃え上がらずに何度も点火を繰り返す。昨年とは大違いである。その日の内に何とか播種作業を完了したが、これで順調に発芽し、生育するか心配であった。しかしその後の発芽は良好で、焼畑の斜面全体が赤カブとダイコンの緑で覆われる状態となり、その後もしっかりと育って11月2日の収穫日には、立派に育った赤カブやダイコンを収穫することが出来た。2002年と2003年を比較したところでは、水分の多寡が発芽、生育に大きく影響するように思われるが、今後も観察が必要である。

6.まとめ
 戦前、戦後の焼畑農耕の実施状況から入って、焼畑作物としてのカブの位置付けに触れ、現在も焼畑農耕により生産されている福井県美山町河内の河内赤カブについて記述した。次に美山町河内で10年以上にわたって焼畑体験を続ける福井焼き畑の会の取り組みを紹介、さらに筆者も所属するふくいの伝統野菜・るるぶと福井焼き畑の会の共同作業として実施した2002年の焼畑体験をドキュメント風に取り纏めてみた。その要旨は次の通りである。
一)戦前、戦後の焼畑に関する全国調査結果によると、福井県内でも大野市と今庄町の山間部を中心にかなりの農家が焼畑農耕を行なっており、焼畑実施農家数ではむしろ戦前より戦後の方が多い。しかし全国的な動きと同様、1955年頃より焼畑実施農家は激減し、1965年頃にはほぼ皆無となった。本稿で紹介する福井県美山町河内における河内赤カブの焼畑実践事例は全国的にも焼畑が現存する稀有な事例である。
ニ)焼畑作物としてのカブの栽培は、焼畑の基幹作物としては位置付けられてないが、東北や北陸など東日本の焼畑で、カノカブやナナギの形で作り続けられ、冬期間の保存食料として重宝された。一方で、戦後、焼畑の基幹作物であった雑穀類の作付けは減少し、これに替わって、商品化作物としてのダイコンやカブの作付けが増加した。なお、東日本の焼畑で栽培されたカブは主に赤カブで、洋種系の品種が多い。
三)河内赤カブは種皮系や葉の毛じの有無などから、洋種系と和種系の中間種的な特性を持つ品種と言われている。由来は、700-800年前に当地にもたらされたという言い伝えがあるが、かなり古い系統と推測される。江戸時代に始まった大野市の七間朝市で販売されてきたことが、河内赤カブの商品化作物としての性格を強め、河内の焼畑作物として特化してきた経緯を持つ。その特色は、色カブとしての表皮の鮮やかな紅色にあり、さらに硬さとほろ苦さと辛さの特性をあわせ持つ野性的風味のカブであり、その特性や風味は焼畑栽培で顕著に発現する。
四)福井焼き畑の会は1991年に結成された焼畑の実践集団である。12年間にわたって美山町河内の山林を借り受け、焼畑による河内赤カブの栽培を実践してきた。焼き畑の会と受け入れ側の河内集落の両者における優れたリーダーの存在と、収穫前夜祭などを通しての交流の継続、焼き畑の会の一切の強制を伴わず、したいことを楽しく実践するという自主的、自由闊達な取り組みの姿勢が、焼畑の実践を継続させてきた大きな要因である。
五)筆者及び筆者の属するふくいの伝統野菜・るるぶの有志は、2002年、2003年の両年にわたって、焼き畑の会との共同作業で美山町河内での焼畑体験を行なった。特に2002年の体験は、焼畑用地が前回の焼畑利用から50年以上を経過した山林そのものを対象としたことから、焼畑造成作業は難渋を極め、我々の日頃の軟弱さと地元農家のきわめて優れた能力を認識させられた。「言う(思う)は易し、行うは難し」を実感させられた、得がたい体験であった。
 ささやかな焼畑体験をする中で、現在、焼畑農耕は全国的にも殆ど廃れたが、農産物の質を追求する農業のあり方や、環境を汚染しない循環型農耕方式の確立などに対して示唆を与える農法としての焼畑農耕は再度注目されてもいいのではないかと考える。2004年10月下旬から10日間ほど出かけたメコン河流域の両岸の山々では盛んに焼畑が行なわれていた。焼畑に対する思いを一層掻き立てられたところである。
引用・参考文献
佐々木高明 1972「日本の焼畑」古今書院。
青葉 高  1985「野菜 在来品種の系譜」法政大学出版局。
芦澤正和  2002「地方野菜の復権」「地方野菜大全」農山漁村文化協会、359:pp12.
中尾佐助  1967「農業起源論」「自然 生態学的研究」中央公論社、497:pp486-487.
千万卓丈  2003「新赤カブ事情 焼き畑その風土―河内」産経新聞福井版連載記事より。
森下英樹・三代 2002「MORIのトレッキングー野菜が大好き」 http://www.fctv.ne.jp/mori/index.html

執筆者紹介
玉井道敏(たまい・みちとし)
 1942年、福井県生まれ。京都府立大学農学部農学科卒業。福井県庁で農業技師として36年間勤務。2003年3月に定年退職後、私設研究所「玉井よろず道楽研究所」を開所し、農家とともに、農業・農村について調べ、考え、まとめ、発信する作業を継続している。




        賞 味 期 限

                               福井市  細川 嘉徳

 先日わが家の整理棚を掃除していた時、思わぬ処から大好物の「どら焼き」が出てきて、生来甘党の上に腹が空いていたのでまさに「棚からぼた餅」早速一個平らげました。「味を覚えた猫の子」とは我が身のこと、ニ日目も一つ食べ三日目にまた一つ。食べ終わって何気なく包装袋を見て背筋に寒気が走ったのです。賞味期限が何と一ヶ月半も過ぎているのです。しまったと思ってもあとのまつり。幸い無事に終わったものの、もし何か起こればこれは自らの不注意による自らの責任と言うことになります。このことから「賞味期限」の言葉が気になって仕方がないのです。
 ちなみに「賞味」と言う字を辞書で調べると「ほめて味わう、おいしくいただく」とあり、この「どら焼き」が美味しく頂ける期限と言うことになります。つまり商品の品質を保証する期限です。この大事な品質保証を疎かにして、企業の信頼が地に落ちた大手食品メーカーをはじめ、電器、自動車等でも不良製品を回収交換して信頼回復に躍起になっています。信頼とは商品の味や便利さや機能を含めて、安心・安全の裏付けをも保証するものです。このことはメーカー、ユーザーの関係のみならず、広く一般社会にも当てはめるのは拡大解釈でしょうか。
 よく「友人は金で計れない財産である」と聞きますが、そこには友情という商品のやりとりで信頼関係が構築され、これが大きな絆になって友人関係が持続するのです。人間十人十色、無くて七癖、自分と同じ人間はこの世にいません。まして高齢社会の中で友情関係を持続するためには、自らの健康を第一にそれなりの努力が不可欠になります。それには色々言われているが、結局常に相手の立場に立って思う心を持つことではないでしょうか。世の中は持ちつ持たれつです。最近読んだ本の中に次のような詩がありました。

    葵(せり)を採(と)るに根(ね)を傷(そこな)う莫(な)かれ
    根(ね)を傷(そこな)えば葵(せり)は生(しょう)ぜず
    交(まじ)わりを結(むす)ぶに貧(ひん)を羞(は)ずる莫(な)かれ
    貧(ひん)を羞(は)ずれば友(とも)は成(な)らず
    甘(あま)き瓜(うり)は苦(にが)き帯(へた)を抱(いだ)き
    美(うま)き棗(なつめ)は荊棘(とげ)を生(しょう)ず
    利(り)の傍(かたわ)らに倚(き)刀(とう)あり
    貧人(ひんじん)は還(かえ)って自(みずか)ら賊(そこな)う

 この詩に下手な説明の必要はないと思います。この中国漢の時代、作者不明の古歌は、何かを語りかけているような気がしてなりません。




          稲づくり

                            南条花はす俳句会      今村和夫

 昔から「百姓は生かさず、殺さず」といわれているように、損得の経済性については教わることなく、生活の質素化と徹底した労働を強いられてきた。それが昨今は経済一辺倒のため、農業の本質的な財産まで失おうとしている。
 それも米は日本人の生命を支える大切な主食であるにもかかわらず、米余りでありながら外国から輸入する夢のない農業になってきた。古来、農民は米づくりに対しての愛情は深く、育てる楽しみ、収穫の喜び、その喜びを分かち合う優しさを育んできた。素朴な心と感謝の心こそ農民の精神である。
 そこで美しい自然の恵みを維持しながら、稲づくりに汗を流す農民の姿を、俳句をとおして顧みることにした。あわせ水田に適合してきた生き物たちのシグナルにも注目した。

   元日は田ごとの日こそ恋しけれ    松尾芭蕉
 
 山や川に囲まれた農村の景観は人々の五感をいやし、心身ともに活力を与えてくれる。水田に浮かぶ青い空、白い雲の風情には清々しさを感じる。

   野の虹と春田の虹と空に合ふ     水原秋桜子

 農民は雪融けとともに稲株を叩き、田起こしや代掻きに鍬を打つ。鍬起こしは一反(十アール)およそ二千株にもおよぶ。

   振りあぐる鍬の光や春の野ら     杉山杉風

 古代から鍬と鋤農具の代表として使われ、米づくりには八十八手の手間がかかるといわれてきた。

   耕耘機明日働く田にて夜を明かす   森下流子

 しかし、農業機械の進歩は目覚ましく、耕耘機すら過去の機械になった。とくに、トラクターのスピードと効率的な作業には驚かされる。

   トラクター春の大地を響きをり     和夫

 トラクターによる田起こしを待ちわびたように、どこからともなく大小の鳥が群がってくる。なぜかトラクターが引率しているように映る。

   田を起こす寄りくる鳥のゆるしおき   斉藤千賀枝
   田ごしらへ始まる水田鳥の群れ     和夫

 田打ちが一段落すると、畦の崩れや水漏れを防ぐための畦塗りがある。この作業はいまも昔も変わらない。

   畦塗りてあたらしき野が息づける    加藤楸郎
   うららかや土竜威しの風車回ふ     和夫

 転換作物の黄色く映えた菜の花、そして青々とした麦の穂は農村の色彩を豊かにする。
 
   わが畑もおろそかならず麦は穂に    篠田梯二郎
   菜の花の黄一色や転作田        和夫
   休耕田捨てし大根に花咲けり      和夫

 水をたたえた田には蛙やドジョウ、トンボのヤゴなどがたむろする。まさに田圃は小さな生き物のオアシスである。

   田蛙の燃える命の夜となりぬ      小阪順子
   水の澄む泥田に残る田蝶跡       和夫

 短冊型の畝にした苗代に種籾を蒔き、日に日に緑を増す苗を楽しみに見守る。「苗半作」といわれるほど苗の管理には注意を払う。

   苗代にいのち噴かざる籾が見ゆ    山口誓子

 田植は稲刈り作業と同じように、猫の手を借りたいほど忙しい。昔は農繁期になると、学校を休みにする粋なはからいもあった。

   田を植ゑて畷の子等となりにけり   石田波郷

 大きく育った苗の根の泥を洗い落とし、根元をそろえて藁で束ねる。そのときできる波がヒルを誘い手足に吸いつかれる。

   ひらひらと蛭泳ぎ来る我の手に    和夫

 田植えしやすいように縄を張ったり、方眼状の跡をつけたりする。運ばれた苗束は畦から等間隔に投げる。

   早乙女に苗束とんで山低し      篠塚しげる

 家族は勿論のこと、雇い人や労力を交換する「結い」をしながら田植えする。大勢での田植は疲れを感じさせない。

   田植女は泥の中にて立ち憩う     森下流子
   田植する結いの仲間や握り飯     和夫

 横一列に並びながら植えていく風景は見事である。一日一反植えると一人前だという。一服どきの畦での世間話には、身も心もなごみ笑顔がこぼれる。

   忽ちに一枚の田を植ゑにけり     高浜虚子

 これが現在では田植機の普及により、箱で育てた苗を一反三十分もかからずに植える。同時に肥料や農薬も施す省力さである。

   田植機の出番一日納屋狭し     和夫

 さらに圃場整備に伴い、種播き(直播き)から収穫までの作業は機械化され、人の手間とともに経費までが大きく削減された。

   青田には青空映す余白なし     橋本典男
 
 水田に住みついた生き物、とくに小さな虫たちからは生命の息吹きが伝わる。なかでもヤゴがトンボに変身する神秘的な瞬時は、言葉ではいい表せない感動がある。

   豊かなる田植の水に源五郎     木津蕉陰
   稲茎を抱いてヤゴは翅ひろげ    和夫
   蛍追ふ蛍稲田に見え隠れ      和夫

 ただ六月ころの田干し作業は、水を命にする生き物には死への誘いになる。

   田干期の蝌蚪足跡にひしめけり   橋本典男
   雨を呼ぶ燕が田の面低く飛ぶ    和夫

 休耕した水張り田はなぜか農業の衰退を象徴して空しい。しかし、水に生きる虫たちには恵みの環境になるのだから皮肉だ。

   みずすまし数多輪を描く休耕田   和夫

 メダカは田圃の回りの用水や小川のよどみに群れをなして泳ぐ。だが土のないコンクリート水路は流れが速く、水草も生えず、メダカが住める環境からはほど遠い。
 
   堰き入るる青田の水に目高かな   内藤鳴雪

 米づくりの原点は梅雨をうまく利用したことにある。それでも空梅雨のときには水喧嘩は絶えず、水番までして我が田に水をそそいだ。

   百姓の担へる銃や水けんか      山口誓子

 水喧嘩を解消するため、農民はただひたすら神仏に雨乞いをする。天の恵みの雨に潤う水田は稲だけでなく、小さなダムとしていろいろな生き物を支える。

   雨乞の天照らす日を仰ぎけり     外川飼虎
   虫食いの日記懐かし水喧嘩      和夫

 田の草取りは米づくりのなかでも、もっとも大きな負担のかかる仕事である。その影響からか、多くの農村女性は晩年になり腰痛に悩む。

   昼蛙百姓は田に四つん這ひ      橋本典男
   運命線泥に埋れて田草取り      和夫

 炎天下に頭を下げる草取り作業は、蒸し風呂に入っているような過酷さである。目まいを起こすことも珍しくない。

   炎書の田しずかに暑さあつめをり   及川 貞
 それに葉先で口を突く危険性、さらにはブユが顔に止まり、血を吸うのだからたまらない。

   雨上がり蚋が群がり我に寄す     和夫

 いまでは除草剤を使うので田の草を取ることはほとんどない。だが安心・安全の米づくりから。除草剤の使用は難しくなってきた。

   草刈りに刈り残しをく血止草     和夫

 稲の三大病害虫の一つにいもち病がある。雨の降り続く年には病気のかかる率は高く、収穫皆無の田もみられる。

   穂に出でヽ枯れたる稲や情けなし   桜井土音
  
 稲を全滅させるウンカを追い払う「虫送り」がある。松明を連ね鉦や太鼓を鳴らしながら農道をねり歩くもので、各地に伝統行事として名残りをとどめている。
 
   虫送る松明闇を拓きゆく       森下流子
   虫送る火の粉に迷ふ小糠虫      和夫

 駆除技術のないころは畦道などに焚き火を焚き、害虫を誘い殺した。いわゆる「飛んで火に入る夏の虫送りである。」

   虫焦げし火花美し虫舞        高浜虚子

 戦前から戦後にかけては石油ランプ、青色蛍光灯などの光を利用した誘蛾灯が設けrarえた。

   死にさそふものの蒼さよ誘蛾灯    山口草堂

 また初秋になると無数のイナゴが稲の葉を暴食した。丸坊主に食べられても防除のすべはなかった。

   日の没りの峡田の蝗かぞへ切れず   加藤楸郎

 イナゴは食糧難の第二次世界大戦から戦後にかけ栄養源としてふりかけや佃煮などに重宝がられた。鶏の好物なので餌としても捕まえた。

   騒ぎ立つ蝗袋を握りしづめ      高橋楱城  
   終戦日蝗食べしを語り草       和夫

 見つけるのも容易でないイナゴが、最近では山沿いなどに目立ってきた。忘れられた害虫の復活である。

   懐かしや蝗一匹飛びにけり     和夫

 農民は黄金に色づいた稲穂が垂れると収量が気になり、掌に穂をのせ一喜一憂する。

   豊作の稲穂手握り見たりけり    高橋虚子

 実りの秋を待ちわびるのは同じである。人間に見立てた案山子を立てるが、人との暮しになれた雀には効果が薄い。
 
   舗装路にゐても追わるる雀     津田清子

 ため水を落とし田を堅くする。

   水落ちて田面をはしる鼠かな    釈蝶夢

 稲刈りは朝露の深いころから始まる。鎌で刈る音がさくさくと響き心地よい。だが一日中腰を曲げ伸ばしするのはつらい仕事だ。

   刈る稲の利鎌のひヾき聞えけり   高浜虚子

 家族総出の稲刈りは絆を強くし、農業での生きる力を与えてくれる。刈り束をまとめ畦に出し、天秤棒で担ぐか、荷車に乗せ稲架まで運ぶ。

   これ以上積めば崩るる稲車     岩永草渓

 運ばれた稲は畦道や農道ぎわに立てられた稲架に干す。空稲架のときは子供たちの格好の遊び場になる。

   稲運び飽きし子稲架にぶら下がる   高野素十

 運ぶ途中や稲架掛けどきには沢山の穂がこぼれる。「塵も積もれば山となる」のように、一穂でも見失わないよう拾う。

   もったいない落穂拾ひや顔の皺    和夫

 よく乾かした稲は納屋か、畳をまくった部屋におさめ脱穀する。昔は一握りずつの稲穂をこき落したものである。

   稲扱くや夕暮明りあるかぎり     池内たけし

 脱穀した籾は晴れた日にむしろ干しする。だが、脱穀や籾干し作業は籾の埃体にまといつき嫌われる。

 日差しと雲の動きを見ながら籾を混ぜ動かす。

   日かげよりたヽみはじめぬ籾むしろ  高浜虚子 

 現在は刈り取りから脱穀作業までコンバインがする。さらに籾の乾燥、籾摺りは大型施設で始末する。

   コンバイン粒粒辛苦の語は滅び    水野静枝
   コンバイン藁の匂いを流しゆく    和夫

 コンバインの刻んだ稲藁はすき込んだり、燃やして灰として田に還元する。

 風走り火も走り出す刈田焼        和夫

 収穫の秋。農家にとって一年の苦労が報われるときである。地域の人たちが顔をあわせ、楽しい収穫感謝祭などがおこなわれる。

   新米のくびれも深き俵かな     浅井啼魚

 それがどうであろうか。農家は豊作貧乏に苦悩している。豊作を喜んでくれない不思議な国なのである。

   減反と値下げ伴ふ豊の秋      和夫
   新米の袋山積み米余る       和夫

 新米のご飯は艶も香りもよく美味しい。ご飯を中心とした日本料理は、他国では類をみない栄養バランスの優れた食文化である。
 
   新米を賞味し夕飯団欒す      和夫

 籾殻は田畑に施されるが、籾を焼く煙のたなびきは秋の風物詩である。その中で焼かれる芋の味は格別に美味しい。

   畦ぬけて籾焼く煙身にまとふ    吉崎千代子
   籾殻を浴びて雀の餌漁る      和夫

 田圃に群がる赤トンボもまた秋の風物詩である。しかし、水をなくした刈り田には産卵のすべがなく、群がる風情は減少の一途をたどっている。

   行く水におのが影追ふ蜻蛉かな   加賀千代女  
   赤とんぼ田の片隅の水を打ち    和夫

 昔から稲藁ほど日常生活の密着、貢献したものはない。まさに「藁の文化」は日本人の英知の結晶である。

   散らばりし藁屑敷きて藁仕事    高浜虚子

 純粋勤勉な農民は夜になってから藁仕事に精を出す。家族を支えるための夜なべ仕事である。
   夜なべ妻月にやつれし面上げぬ   島村水明

 「農は国の基なり」米づくりは日本の文化や国の繁栄と密接にかかわってきた。しかし、農業の衰退とともに美しい景観、豊かな自然や穏やかな人間関係の農村文化が失われつつある。人間として生きるための大切な物を忘れているような気がしてならない。

   秋深き隣は何をする人ぞ      松尾芭蕉


下萌えの草    小林としを

  初春の蒼澄む空を音もなく雲の帯引き進む飛行機

  雨となる木の流れの輪廻の如遷りて来ませ若きみ霊ら

  その父の毀れしパソコン直しいる汝の鋭き目差しまぶし

  誕生日忘れて過ぎし夜の卓に孫の嫁ごはケーキ広げぬ

  思考力鈍くなりしを憂いつつ見上げる空に夕月白し

  チクチクと電機は足を流れいて医院の窓に冬の雲ゆく

  雲切れて陽差し及べる畦道下萌えの草ほつほつ青し

  譲らんと思ひいたりし畑は春とぼとぼ来て紫蘇の種子播く



 梵鐘       北風 尚子

  初日の出夜明け待つ間のひと時は 星降るばかりの乗鞍の峡

  旅に来て新緑深き彼方より 静けさやぶるウグイスの声

  意のままに書けず丸めし紙屑の ほぐる音する午前二時半

  遥かなる山の連なり雲を呼び まばゆいばかりの山肌を縫う

  高野山早朝ひび交う汎梵鐘に 杉の木立のカスミ棚引く

   山の端を少しづつ染め夕映えす 車窓に湧き上眩の月

  下駄の音浴衣の裾にからみつつ 湯宿の店の杳き日思う

  雪吊りの秀枝水面に写りおり さざ波ゆらぎ夕光に映ゆ



       馬来田寿子 

  竹林の風音 今日は絶え間なく

  園児らの 声飛び交ふや 初夏の山

  花冷えに田楽の畑ひるがえり

  人絶えて夜の桜の妖しくも

  春風に宮参りの児よく眠る



夏 隣    

  久方の着物姿に春の雨      旭  政子

  山間の風がとぎ出す牡丹の芽   嘉藤 幸子

  気まぐれに爪を染めたる春の宵  川田 邦子

  一村の棚田の荒れてこぶし咲く  笹岡美津枝

  春田打ち土の眠りをさましけり  高氏 砂子

  椿吸ふ野猿の口の黄金色     中川ヒロ子

  総出にて田植の前の道直し    中田新一郎

  久久にぼたもち食べる社日かな  中田 節子

  双子島のどかな海に鳶の舞ふ   西田美弥子

  草餅の餡飛び出して顔汚る    西木 きく

  春日差し目をこらし見る風車ニ基 畑  純子

  耕しの鍬石打ちて刃をこぼつ   藤田フジ子

  咲き揃ふ堤を濡らす菜種梅雨   前川 秀義

  筆持ちて独楽吟は花を詠む    前田 孝一

  八方を向きて日当たる黄水仙   山口  浩

  蓮如奥今は何処の辺を通る    田中 芳実




 


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