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あぜみちの会ミニコミ紙

みち45

(2007.2.19)


あぜみちの会 収穫祭 (旧朝日町愛農園、2006.11.23)


シグナル45

福井市 中川 清

 亥年が明けた。「亥」が気に(木)かかると、「核」という字になる。北の方角から、今年気になる事項ではないか?その他、刻という字も亥かついでいる。時を刻む、とも言うか、「命を刻む」ような事件かこの処、やたら多い。いじめ自殺、親子兄弟の殺人など…。亥の年のはじめに、心したい事項です。
 それにしても、今年は、穏やかな新年でした。「初日の出」が我か家の庭で見られ、カメラにも収めました。最近では、記憶にないことですが、正月五日間無降水は、新記録だという。環境問題で、暖冬のせいでしょうか?マイナスの気温という日が少なくなっている気かしませんか?
 冬は寒いということが、大切な気かします。温暖な地方に住む人よりは、寒い地方の住人が、一般に勤勉で忍耐強いとされている。冬の無い国に、民族紛争か絶えない所が在りませんか?また子供達の苦労は「買ってでもさせる」とも言います。微温湯よりは、ある程度の刺激が、成長の過程には必要なことを、動植物を育てでいる農家なら、皆んな体験で知っでいる筈です。
 暖かいと、つい気かゆるむ、怠けぐせも出る。自然現象で、これを毎年、忠告していてくれる「有り難いこと」だと思って冬場も、いたずらに暖房や、厚着をしないで、暮らして来ました。おかげで、毎年風邪にもかからずに、過ごせています。
 人の体は、「怠け癖」もつきやすく、環境にも順応性か高いとも言います。常に、「鍛える心がけ」を持っていたいものです。漢字を書く事から遠ざかっていると、漢字記入能力が、年とともに衰えて来るのか近頃、感じられてなりません(冬来たりなば、春遠からじ)年の始めの「独り言」です。



健康、長寿、その他
                
福井市 名津井 萬


  「農業」(大日本農会発行)十二月号の論壇で福井県立大学の祖田修学長の「健康長寿の謎解き」と題しての論文を読んだ。
 福井県は男女とも全国で第二位の長寿県である。と云う事は世界で一、二の長寿地域となり、生活しやすさも全国でトップ、福井県はユートピアの一つと記している。その実態の背景を研究し、健康長寿の謎解きをしているそうだ。
一、バランスの良い日本型食生活
二、魚、油揚、がんもどき、豆腐の豆類の消費量は全国一位
三、塩分は全国で三十八位
四、米の消費量は全国一位
五、学校給食は全国二位
六、地下水豊富で、水道水に占める地下水の比率は七十三%で全国二位
七、食の満足度は全国一位
  (旅行社調べ)
だそうだ。次に
一、祖先や家族を大切にする気風がある。
二、神社、寺、その他の行事への参加率五十七%
三、女性は働き者、共働き先行県
四、出生率も全国でトップ
 それを支える理由の一つに、三世代同居家族で、その比率は二十三‰で全国第二位(全国平均十一%)。私の青年の頃からの友人で、現在、県会議長の屋敷勇先生は、二十数年も前から県、市の壮年会長として、三世代交流を大きな活動のテーマにし、今日も声高く発言している。そんな地道な活動が今日につながっていると思う。「ローマは一日にしてならず」である。
 それから福井県は隣近所との交際費、信仰や祭礼にかける費用も全国トップレベルで、農村的な良さがあり、文化活動、ボランティア活動も活発で、都市的なセンスと農村的なものが融合していると記している。
 次に「食育」について、福井県出身の石塚左玄についても記している。私は四年ほど前に、北陸農政局の方から明治時代に食育と共に五育が教育の基本として制定され、五育とは、食育、智育、徳育、体育、才育と教えられた。その五育は石塚左玄の唱えたものである事を知った。
 明治三十一年に「食物養生法」を出している。その中で「民は殊に家訓を厳にして体育、智育、才育は即ち食育なり」と記している。
 私の食育基本は、日本食を基礎とし、それに洋食も加えるべきと思う。
 米、豆、野菜、魚、それに肉、卵、そして「牛乳」であると確信している。そして汗を流すことが。「名津井萬食育論」である。
 少し脱線するが「農業」十二月号の巻頭言は、市之宮和彦氏(大日本農会副会長)で元福井県農林水産部長として在籍された人である。
 巻頭言が「変わるインド、変わらないインド」と題して記している。「インドに思いを寄せる日本人は以外に多い。佛教が生まれ、天竺と呼ばれた国、東京裁判で米英無罪なら日本も無罪としたパル判事の国、昭和天皇崩御の際は三日間の喪に服してくれた国、多様性が際立ち、ゆったりとヒンドウー的成長を続けていた国:・」と記している。もう一回脱線だが、大日本農会の会長を平成十五年まで務めた人は、昭和二十年〜二十年頃、福井県農政で活躍された山極栄司氏である。
 なお、大日本農会より農事功績表彰を受けた者は「あぜみちの会」では中川清氏、古道豊氏、現会長の北幸夫氏、他に農友の田川久一郎氏、不肖、私である。
私は平成十九年の年賀状に「笑涯是健康」と記した。




  風習といったものから


             あさひ愛農園
 寺坂康夫


 青年団との出会い

 私は高校を卒業後、郵便局に勤めることとなりました。電話交換をする郵便局でしたので、ヘッドフォンをかけて
「何番ですか?」と接続する仕事です。これが嫌で仕方がありません。
「あら、男の人や」と必ず言われたものです。『大学を目指していたんだぞ。それが電話交換手か!』
 朝七時の電車に乗り、八時のバスに乗り換え局舎には八時二十分到着。夜勤や宿直勤務もありました。この年のお盆には初めてのクラス会。クラスのほとんどが大学に進んだため、私は侮しくて侮しくて参加することが出来ませんでした。
 通勤時間は多くの本と出会うことが出乗ましたが、いつも独りぼっちでした。同年代の人との出会いなど無く、ましてや女性など無縁。このままでは青春は過ぎてしまう。生きている価値など無い、とガラにもなくこのまま死んでしまいたいと思うようになりました。自殺です。
そんな時「青年団に入らんか」と誘いがかかりました。初めて参加したのは支部団長の家。そこには昔真っ暗になるまで遊んだ懐かしい顔がありました。共に悪さをした幼友達でした。こうして康夫青年の青春が開花し始めたのです。
 男女十名ほどの支部団で遊んでいるとき、もっと大きな組織があることがわかりました。町団です。当時は百八十名ほどの団員を抱えていました。私は執行部入りを果たし、どんどん出世していきました。ついに青年団長になってしまったのです。その時二十四歳。団長はちょっぴり目立つ存在です。女性とは縁の無かった私にも出会いがあり、ドキドキの連続。すべては失恋に終わりましたが、この時読んだ本が『若きウェルテルの悩み』 主人公と同じく自殺してしまうのではと思うくらいあまりにも刺激的でした。思わずファンになり、ゲーテ全集を買ったのですが、いやはや難解、積ん読になってしまいました。
 町団を卒業して福井県連合青年団へ。五千人を束ねているところです。広報担当として、県連青の機関紙発行と加盟団の育成指導を行うのですが、この時に妻との出会いがありました。妻は支部団員でまだ初々しさが残っていました。『素直』というのが第一印象です。
 さて、仕事では出世しませんでしたが、県連青の事務局長となりました。家にはほとんど帰らず、職場と事務所との往復。当然ながら服も汚くて、妻は「汚い人」と、結婚の対象とは見ていなかったそうで、まあ、それが普通でしょう。職場は県庁前の中央郵便局で、職場にある電話二台の内、一台は私専用でした。県庁、新聞社、各種団体などなどからの電話・電話・電話。課長が「自分で電話を引け!」と怒ったのも無理はありません。この時読んだ本が「次郎物語」下村湖人著。少年次郎が母の死を通して愛を感じて大きく成長する様が何とも感動的でした。生き方を考えさせる本で、結婚式での引き出物になりました。

 結婚

 青年団は第二の復興期とも言われ、運動は「地域づくり」。自己を高め地域をより素敵に創っていくという、青年らしい活き活きとした理想を掲げての活動を展開していました。私は二十七歳。そろそろ結婚も考えねばという年に入っていました。当時、男は二十五歳女は二十二歳までに結婚という風潮でしたが、不思議に焦りなどはありませんでした。私は事務局長二年目を迎え、さらに多忙な日々を過ごしていました。こうしたある日、福井松竹の支配人から「山田洋次監督が試写会と併せて福井に来られるのだが、お会いしますか?」とのうれしいお誘いがありました。役得、職権乱用、いや汚職?とにかく「二人でどうぞ」という。それではということで初々しさもすでに無くなった彼女に電話しました。でも内心は「だめだろうな、ふられるな」と思っていたのです。汚い格好で風呂にもいつ入ったか分からない男はダメに決まっています。ところが「いいですよ」とは驚きの返事。この時、天の声が響きました。
『この女と結婚しろ』
 さて、大事な山田洋次監督との話は緊張して、ほとんど覚えていません。にわか仕込みに監督の本を読んで話題が尽きないようにと努力はしたですが。
 この時は風呂も入って、ネクタイも締め、歯も磨いていました。さて、帰り道です。いよいよ一大事です。心臓がドキドキ高鳴り始めます。ロマンテイックな雰囲気を醸し出すべく「戦争と平和」の一説を取りだしました。長々とストーリーを話し、その流れで「結婚して欲しい」とプロポーズ。でも妻は「この人は何か言いたいの?結婚して欲しいのかな?」と、冷めていたとか。
 私たちは″結納″はせず、婚約式。結婚式は青年団結婚式。会費制ですべて団員の手作りです。引き出物はもちろん「次郎物語」の文庫本。カマボコと思い、冷蔵庫で保存した親戚もおりました。とにかく結婚とは何かというところから、封建的なしきたり、風習といったものから脱却し、より自分らしく幸せなスタートを切る事の意味を考えたものです。とにかく流れに棹さす結婚式ですので、親、親戚を巻き込んでてんやわんやの大騒ぎ。でも結果的には心豊かな親孝行の結婚式となりました。五六豪雪の年で山のように雪があり、暖房のない体育館での式で参列者は皆震えていましたが、この時の忘れられない出来事が一つ。公民館には誓いの言葉のひな形が用意されていました。ひねくれの私は自分達の言葉でと、和紙に筆で書きしるしました。さあ、いよいよ二人で読む時がやってまいりました、が、無いのです。胸に納めてあるはずのものが無い。
″誓いの言葉″は新婚旅行から帰ってきたとき、机の上に鎮座していました。ともかくもこうして多くの仲間たちから祝福され、幸せいっぱいの新婚生活はスタートしました。
 やがて子供誕生。子供は男の子でした。喜びいっぱいで病院へ。でもその時地獄に落ちた瞬間でもありました。「奇形児です。知恵遅れで二十歳までしか生きられないでしよう」
産まれて二日日に医師の事務的な説明を受けましたが意味がわかりませんでした。何度も何度お聞き返したのですが、分からないのです。帰りの自動車の中で、ことの重要性をようやく理解したとき、涙で目は見えず、手は振るえ運転できませんでした。
 病名は「ダウン氏症候群」=蒙古病=とかもいわれています。染色体の一部が突然変異を起こし、知恵遅れで心臓など内臓などに合併症を伴うことがあり、短命ということでした。突然変異がなぜ起きるかは未だ解明されていません。千人から二千人に1人の割合で人種、地域、貧富の区別無く生まれます。今でこそ″宝物をもらった″と胸を張って言えるのですが、この時は「何故自分の子供にこんな子が生まれてきたんだ」と、ただただ取り乱すだけでした。こうして、大きな心配は家族、親戚を巻き込んでいきました。なにより私たちの人生は大きく変わり始めました。この時はこの息子こそ宝″であるなんて分かるはずもありません。

 ターニングポイント

 かつての青年団時代の仲間と家族旅行をすることとなりました。行き先は大分の犬山町。出会ったのは犬山の仕掛け人「八幡治美」「八幡欣治」親子です。
「こんな山ん中でも独立国なんよ」「人生楽しい?」「もっと楽しまにやあ。まだまだ楽しいことやってみたいと思うちょるけん」焼酎を飲みながら徹夜で話し込みました。息子が生まれ、この子のために何かできるかを考えてきた私たちにとって衝撃的な出会いでした。八幡親子が『世界の大山町』にまでした生き様は私たちの悩ましい出来事などは吹き飛ばしてしまうものでした。家族を養っていくのには理想や理屈ではできないことはわかっています。でも忘れていたこと、「人生楽しむべし」は心に響き渡りました。
 三十四歳になって私は郵便局を辞めました。当然ながら家族、親戚は大反対。四人目が妻のお腹にいるときでしたから無理もありませんが、妻と二人で出した結論でした。
「この子のために生きる」、のではなく、「この子と共に生きる」生き方を具体的にすること、農業の道に進み、自分と地域をよりよいものにしていくという生き方とすることでした。実際は土方に出て日銭を稼ぎ、商品を持って家々をまわりと、あまいものではありませんでしたが、日々は充実していました。この時の経営は自作地三反、借地二町、もも一反半、冬の味噌加工。父母、子供四人と夫婦合計八入がようやく生活できる状態からめ宍スタートです。

 愛そして命

 集落の新聞づくり、飲み会、壮年団活動、生協運動との出会いなどとにかく多忙な日々を過ごしていたとき、妻に大きな変化が表れるようになりました。聖書研究というので、まあ気晴らしになればと思っていたのですが、大きな間違いであることに気づいたときは手遅れでした。突然「夜の集会に行く」と言いだし、日曜は午前の集会、やがて平日には伝導に歩く日々。共同作業はここでストップ。私にとって妻はパートナーではなく日雇い人夫となり、会話はありません。作業指示だけです。家に帰っても会話はなく、子供達と遊ぶことで紛らわせていましたが、妻の存在はただの同居人。まさに家庭内離婚でした。
 この地獄のような生活が実に十年間続きます。激しい憎悪に包まれ離婚届用紙を何度妻に突きつけたことでしようか。そんな中で子供達は成長していきますが、それと共に妻からの感化は半端ではなくなり、ついに爆発するときが来ました。娘が教義に基づいて剣道の授業を拒否し、それを知った私は家を飛び出します。明け方までさまよい歩きました。家庭も自身の人生も終焉を迎えようとしていました。その時青年団時代の友人にかけた電話で事態は急変します。
 「愛しているか?愛していないのか?まだ愛しているのなら最後の手段だ」
 朝一番の新幹線に飛び乗りました。東京では友人が手配してくれた専門家に相談。妻を救出する事が決定され、数ケ月にわたるプログラムが動き出しました。そしてある日、専門家によって救出行動は始まりました。救出は愛に満ちていました。愛とはなんて凄いのか。妻のかたくなな氷のように閉ざされた心を溶かす愛。妻の信じる教えより遥かに高く深い愛。妻は救われました。「寂しかった」という妻の言葉が私の心を突き刺しました。一緒に歩んでいるつもりが、そうではなかった、二人三脚ではなかったのです。「人生楽しむべし」は遥か彼方で、目標を完全に見失っていました。
 (なお、この時の救出劇は本となって出版されました。)
 妻が現世に帰ってきたとたん、長男の「心臓手術」を勧められました。技術が飛躍的に進歩し、年齢的にも最後のチャンスといわれ、迷いはありませんでした。普通は心臓には四つの部屋があるのですが、息子には二つしかありません。手術で穴をふさぎ、弁も直すというものです。これまでは風邪を引いたらすぐ入院。肺炎を引き起こし、ちょっと走ったりしても、紫色になるチアノーゼ。大変でした。
 手術は六時間ほど。妻と別室で待機していたのですが、この時よからぬ事が頭をよぎりました。このまま死んでくれ」。その方が本人も家族も幸せになるのでは…。
 手術が終わりました。集中治療室では面会が三分間だけ許されました。白衣、マスク、帽子と完全武装で入室。たくさんの管が体のあちこちに繋がっています。薄目を明けてこちらを見ています。妻が泣きながら名前を呼び、手を差し出して顔や頭をなでようとするのですが、それはかないません。生きていました。生きているんです。生きているってすばらしい。息子は私を許してくれるでしょうか。

 地域の中で地域とともに

 あぜみち収穫感謝祭の話は七月にはいってからでした。実行委員会の方々との顔合わせは八月。九月、雨の合間をぬってドロドロになって稲刈りをしながら考えていたのはテーマ
 私達夫婦はそれこそ二人三脚で「禁じられた甘酒」をエサに飲み会を主催、さらに桃の花見で犬宴会。機関紙「内郡かわらばん」も今では八十号を数えましたし、子供田んぼ、古代米づくり、あるいは町づくりグループの立ち上げなどなどいろんなことをしてきました。そんな中で「なぜ農業の道に人ったのか」という原点に立ち戻ったときテーマが決まりました。

 すばらしい明日のために
  =おいしく笑って健康で

 あぜみち収穫祭は私たち夫婦の歩みを中間総括する絶好の機会となりました。息子から″命≠、妻から愛≠、地域から感謝≠学びました。おかげて今があります。今回の収穫感謝祭は本当に感謝″ユだったんです。

 「二人は幸せでいっぱいやね。」
 「いつもいっしょにいるね」
 「ラブラブやね」
 と言われます。まあ、少しだけおもしろい体験ができたかな、ぐらいに思っているのですが、そんなにラブラブでもないし、自慢できることなどありません。むしろ失敗だらけて恥かしいかぎりです。地域はそんな私たちを暖かく迎えてくれています。これからも地域の中で地域と共に″楽しく″過ごしていきたいと 願っています。



  第8回 あぜみち中川賞 最優秀論文

        私の農業について
                      見谷ナーセリー 見谷 雅彦


 農業を初めて十年になる。人生のひとつの節目として今まで自分がやってきたことを振り返り、今後の方針を考える良い機会だと思い書いてみることにした。
 私は福井市の新保町にある有限会社見谷ナーセリーにてビニルハウス施設で花苗や野菜苗を栽培している。花苗としては、春の花(パンジー・アリッサム・ロベリア等)から夏の花(ベゴニア・ペチュニア・マリーゴールド等)そして秋の花(パンジー・ハボタン・ポインセチア等)など約三十種類、年間約三十万本の花苗を生産している。それに加えナスやトマト・キュウリ・メロン・スイカ・キャベツ・ハクサイ等の野菜苗を約六十万本生産している。このうち二十五万本は接木苗である。年間通して数多くの栽培品目がめまぐるしく移り変わり、それぞれ的確に栽培していかなければならないため気が抜けない。これらの栽培技術を身に付けるだけでも一苦労である。最近は多くの品目においてコツをつかんできたが、まだまだ問題点を残すものもあり努力を必要としている。最近つくづく感じるのは、温度管理・水管理・床上の配合・追肥のタイミングなどの良い花を作るための要素は多岐に渡り、それぞれを最適に調整するためには植物生理の基本をキチンと勉強しなくてはならないということである。以前までは試行錯誤の末、「結果オーライ」で決めることが多かったが、一旦トラブルが出ると原因が迷宮入りになってしまうことが多かった。今後は正確な情報や調査おく必要があると感じている。
 このようにして見谷ナーセリーの事業は拡大してきた。しかし手広くなったせいで管理すべき事項が激しく増加した。ただでさえ品目の多い花の栽培管理に加え、造園の現場管理、小売店での顧客管理などとても▽人では掌握しきれない状況になってしまった。両親がメインでこれらをこなしていた時期もやはり情報伝達不備などからお客さんに迷惑をかけてしまうこともあった。社長から各社員へ直接単純に作業の指示をしているだけでは成り立だなくなってきている状況を痛感した。自分が社長となってからはまずこのへんから改善しなくてはと思った。従業員の教育と仕事意識の向上である。そのためには、見谷ナーセリーの仕事について従業員全員で深く話しあわなければならない。自分の見谷ナーセリーに対する仕事の思いや方針を従業員全員に浸透させる必要があるのである。それと組織の編成である。とは言ってもそんなことやったことなかったので、とりあえずそれぞれの現場に担当者をおき部下をつけた。情報の記録・伝達のマニュアル作成、報告の義務付けなどその場でできるだけ適切なルールを作った。作業をすることより打ち合わせをすることの方が多くなった。打ち合わせが足りないと、失敗したり自分の予想外の結果になったりする可能性が高いからである。作業分担ができたおかげで自分のルーチンワークがかなり減った。取り組むべき仕事を諸々の問題解決や新規の仕事の検討など本来の仕長としてすべき仕事に当てることが出来るようになった。でも現場のチェックは欠かせない。現場を周って状況を見て手落ちが無いか確認する。仕事を任せたからといって、現場の状況を全く知らないでは済まされないからだ。事務所にいても従業員みんなの手元が容易にイメージできる状況でなければならないと思っている。最近の自分の仕事は専らこのような管理業務と営業になった。
 花の営業においては、まず市場出荷をしていない。花の業者等と直接相対で話をして販売しているのだ。よって営業はどうしても私の仕事になってしまう。出荷最盛期になると朝から晩まで電話が鳴りっぱなしの状況になり、でも電話の度に作業を止めることは出来ないのでケイタイにはクルマの運転中でなくともハンズフリーのイヤフォンを付けている。受注の際に必要な在庫数量管理も圃場にある数量に秀品率を計算に入れながら把握しなければならないし、また予約による計画出荷を請け負っているお客さんには不足なく出荷できるように在庫をキープしつつ、最後には在庫が残らないように売り払わなければならない。と非常に神経を使う業務なのである。今のところこの業務は自分か責任を持ってあたっている。これからどのような販路をとろか判断することも重要な検討事項である。
 世間では団塊の世代が定年退職する時期になってきた。家庭でのんびり過ごす人たちが増加すると見込まれる。最近、造園の仕事で庭のリフォームを請け負うことがあるが、この世代からのオーダーには「家庭菜園を作って欲しい」と言われることが多い。定年後に自宅の庭で自分の思いのままに野菜を作ったり花を植えたり、といった緑と触れあう生活を求める人たちが増えてくるのだ。こんな状況の中で見谷ナーセリーの果たせる役割は?と考えるようになった。冷静に情勢を眺めて適切な体勢を整えていきたい。
 私は両親のように「大きな夢を持ってがむしやらに頑張る。新しい分野にも果敢にチャレンジする」といった激しい情熱は持ち合わせていない感じだ。これは両親が頑張ってくれたおかげでそれほど苦労を味わず今までこれたせいでもあると思う。私の考えるプロとは同じ仕事を繰り返しやることによって技術を磨き良い商品を作ることだと考えている。井戸の中の蛙は大海は知らずとも天の高さを知ると思っている。この考えは変わらないが、今まで述べてきたように人々の需要の多様化に沿うためには世間を見て柔軟に、時には大胆に行動しなければならないことを両親の生き方から学んだ。自分に与えられた状況はどうであれ、今はとにかく頑張るしかない。ちょっとやそっとがんばっても親のおかげと言われてしまうところが二代目のツライところであるが、大事なことは「見谷ナーセリーを健全に運営して、お客さんに求められる仕事をすることだ」と信じて今後を頑張っていきたいと思う。




    「私の農業について」の感想


                   福井新聞論説委員長 渡辺数巳



 先日、北陸農政局と北陸管内の論説委員との懇談会で富山・石川県内の農村地域を視察する機会を得ました。農地・水・農村環境向上活動支援実験事業に指定されている南栃(なんと)市の土生(はぶ)地区や氷見(ひみ)市の畜産農家を訪れ、直接、農家の人たちから話を聞きましたが、いずれも、悩みは後継者不足でした。農業を引き継ぐ後継者をいかに育てるかが、これからの日本の農業に課せられた最大の課題ともいえるようですが、今回、「あぜみち中川賞」を獲得された見谷さんの「私の農業について」を読んで、とても心強く感じました。

 見谷さんは両親の農業経営を受け継いだ「二世農業者」ですが、親の世代とはまた違った感覚で農業をとらえています。花や野菜の栽培技術を研鍋すると同時に、社員の管理や販売にまで目配りをしながら、経営に携わっています。これまでの農業のように、ただ生産するだけでなく、営業、販売まで視野に入れた総合的な経営感覚が求められます。

 品ぞろえの農富な多品目生産にどう対応するのか、県外市場から入荷してくる安価な商品にどう対抗するのか。農業経営の苦労がひしひしと伝わってきます。なかでも、お客さんが花の苗を購入して花壇に植え付けるまでを見届ける「総合的な緑のサポート」はこれからの農業のあり方を示すものではないでしょうか。団塊の世代に向けた「家庭菜園づくり」は同じ団塊の世代としてなるほどと思います。新しいビジネスチャンスになるでしょう。

 両親とは考え方もやり方も違います。親の世代のように「がむしやらに頑張る」と言うのとは違って、二代目農業経営者としての、静かだけれども、確かな意気込みが感じられ、頼もしく思います。

 来年度から国の「経営所得安定対策」が導入されます。すべての農家を対象に作物別に補助金を支給する現在の方式を改め、担い手が中心になる集落営農組織や認定農業者に助成するようになります。国の農業政策も大きく変わろうとしています。

 これからの新しい日本の農業の担い手として、今後ますます、ご活躍されることを、心より願っております。




         野菜作りの原点

                           酒井 恵美子


 「私は米を作ることはできません。米は稲が作るのです。私はその稲を一生懸命育てているのです。」これは、中川清さんが「みち」の中に書かれた一節です。その一生懸命育てるということがどんなことかを私は一生懸命考えてみようと思い始めているのです。

 本物の食べ物とか、食育のあり方とかが昨年から日本の中心的課題になっているようですが、その本物の食べ物は本物の食材から成り立っていると思うのです。その本物の食材を生産するのが今は非常に難しくなっているのが現状ではないでしょうか。

 それは作物(魚、肉類も含めて)の生育の生命線である上と環境に問題が多すぎるからです。急速に進む温暖化のもたらす影響。化学物質に汚染されていく環境(水、上、雨)等々に農業技術がついて行けない現状も大きな要因であり、経済効率優先の社会的背景も又、しかりかとも思います。その打開策が、焼畑の中に見えつ隠れつしているように思えたので、その感想の一端を書かせて戴こうかと思います。

 私は昨年、初めて焼畑の会員に入れてもらい、赤カブラ作りに参加致しました。とは言っても参加したのは二回だけです。その一回は焼畑の作業の時です。焼くといっても一面に火を付けるのではなく、上の方に着火してそれを火だるまにしながら下へ降ろしてくるのです。八月の炎天下の作業で私は見ていただけですが、たいへんなものでした。その二時間後に一列に並んだ人の手から、前へ進みながら種をばら蒔いてそれで種蒔きまでの作業は完了しました。
 その二回目の参加は除草と間引きです。種蒔き以来この日までは炎天続きで雨など殆ど降りませんでした。私は間引きどころか発芽したとはどうしても信じることができませんでした。一体何を考えているのだろうと疑問を抱きながらの参加です。
ところが一面に広がるカブ畑を目の当たりにしました。

 その見事さはもう驚嘆の一言でしかありませんでした。その後には何故、何故…の疑問が湧きあがり、私の菜園作りの努力がただ空しくなってきました。人間の思い上がりが打ちのめされたような、否定されたような複雑な気持ちで一杯になりました。
耕さず、水もなく、肥料もなく、誰が考えても最悪の条件の中で育つ作物の生命力、これを信じる以外に本物の食材作りはないのではないかと思いました。私流に「あなたまかせの野菜づくり」と思うことにしました。

 小さ在谷川から朝夕立ち昇る霧が野菜をうるおし、夏の太陽の急激な温度上昇を柔らげ、気温の朝夕の較差が光合成と同化作用のバランスを保ち、浄化された土が完結してできたたまものなのでしよう。そして、その味こそなつかしの逸品でした。この種を私の畑に蒔いでも決して同じ物は生産できない・・とその時同時に思いました。

 悪条件は焼畑ではなく、一般の畑にあるのです。でも絶望ばかりしていては前へ進みません。元気な土、元気な環境が健康な人の命を支え、元気な山や草等、生きとし生きるものの命の源になることを再認識し、そのための・歩を踏み出す努力を、今から始めなければならないと強く思いました。



 



               連載4
焼畑と赤カブ
 福井市味見河内の焼畑による赤カブ栽培体験録
               玉井道敏

(2)焼畑造成

2002年7月14日焼畑造成(野刈り)作業@

朝八時、河内集落センター前に集合、るるぶと焼畑の会、合わせて15名ほどの参加、早速、車に分乗して現場へ出がける。銘々林道脇に車を置き得物を持って4〜5メートルの岸を攀じ登って山中に入り、すぐに草刈り、立ち本の伐採作業を始める。それぞれがもつ得物は鎌、鉈、鋸、草刈機、チエンソーなどであるが、やはり草刈機、チエンソーが威力を発揮し、たくましい音を立てて作業がはかどる。草を刈り、立ち本を切り、切った木の枝葉を払い、長い木をいくつかに切り分ける。ブナ、クヌギ、ナラ、サクラ、クリ、アカマツ、スギなどを相手に格闘していると、夏の盛りで30分もすると汗が噴き出してくる。
斜面での作業を1時間も続けるとグロッキー気味、単純ではあるが予想以上に過酷な作業である。それでも人海戦術で、鬱蒼としていた樹林の中の空間が増え、空の見える度合いも広がって、除々に明るく開けてくる。後続の何人かも作業に参加し、地元の強力な助っ人、川北勘一さん、西川誠一さん、水口一雄さんも駆けつけて、伐採作業に参入するし川北勘一さんの年齢は八十歳を越えるが、チエンソーを担いで急斜面を軽い身のこなしで駆け上がり、尾根にある樹齢50年を越えるスギやマツをいとも簡単に切り倒す。我々はあっけにとられるばかりである。
林道から焼畑造成地の山林へは5メートルばかりの崖となっていたが、焼き畑の会の竹内氏が伐採した木の枝や自生する蔓を使ってはしごを作り、架けてくれたので、山入りが大変楽になった。このあたり、多士済々のメンバーで構成される焼き畑の会の実力ぶりが窺える。
作業開始から2時間あまり、手に力が入らなくなりそれぞれ斜面に座り込むことが多くなる。鋸で木や技を切ったり、鉈で茎葉を払うことがこんなに疲れるとは、初めての経験である。11時半には午前中の作業を切り上げて大休止。昼会をとった後、多くの参加者がマグロのように林道に身を横たえている。参加者の一人が持ち込んだスイカを、鉈で割って食べるという楽しみもあった。
13時ごろから作業開始、休憩の後でしばらくは力も出るが、1時間ほどで疲労が増してくる。リーダーの北倉氏は、皆の疲労具合を見て、15時に今日の作業の終了宣言をするが、地元の人はまだ残って作業を継続する。
今回の焼畑造成地は例年よりも面積が広い(3倍ぐらいある)のと、前回の焼畑利用後50年ほど経過していて山林そのものの状態であることなどもあって、手ごわい野刈り作業となった(例年は大体1日の野刈り作業で畑造成を終える)。ということで、畑造成作業の見通しはこの日の作業状態では立たなかった。次回の作業は一週間後となる。

2O02牛7月21日(日)焼畑造戊(野刈り)作業A

 朝8時、河内集藩センター前に集合、焼き畑の会、るるぶ合わせて20数名の参加、新しいメンバーの参加も見られるが、前回の作業で懲りたはずなのに皆熱心である。早速に現場へ移動して作業開始、前回切り倒した倒木の枝葉を払う作業が主な内容で、鋸や鉈が主な道具である。細い枝は簡単に切り落とせるが、太い枝となると力が必要で、握力や腕の力の酷使が激しくなり、斜面での作業もあいまって体力が消耗する。また、夏の盛りで切り開いた空間に大陽の光と熱が容赦なく注ぎ込み、結果として参加者の座り込む時間が長くなる。間に休憩を入れても午前中の作業は11時半で切り上げ大休止となるが、疲労困憊ですぐには食事が摂れない。昼食後は前回同様、みんな林道でごろ寝をして体力の回復に努めている。
午後1時より作業再開、枝葉を切り落とした太い幹は火入れ時に燃え残るので、これを手作業で林道まで搬出しトラックに積み込む作業を行なう。これらの木は何人かが家に持ち帰って薪やホダ木として利用するとのことである。暑さの中、この作業はきわめて重労働で体力の消耗が激しく、北倉氏の判断で午後2時には作業を打ち切った。計画では前回と今回、2回の作業で焼畑造成を終える予定であったが2日かけてもまだ焼畑造成は完了せず、さらに次週にずれ込むこととなった。

2002年7月28日(日)焼畑造成(野刈り)作業B

3週連続の焼畑造成作業、今日は倒木の枝葉落としと造成地の防火帯作りが主な作業内容である。酷暑が続く中、焼き畑の会から六名、るるぶから六名が参加、切り倒した木々は枯れて茶褐魚に変色しているが、枝葉落しと切り落とした枝葉を数箇所に集める作業を行なう。これらの作業は午前中でほぼ終了する。午後は伐採跡の周りに防火帯を設ける作業をする。周辺の山林と焼畑用地の境界に、幅約2メートルの防大帯を作り周りの山林への類焼を防ぐ。防火帯から燃えるものをなくし、また緊急の場合に避難しやすいように、細かい枝葉を除去したり、木の根っこなどをていねいに取り除いていく。
一グループ6〜7人、2グループに分けてそれぞれが両側から防火帯を作っていく。
午後3時頃には作業が終了し、何とか焼畑用地が整備された。造成前の鬱蒼とした山林の中に開かれた空間が出現したという感じである。
3回の焼畑造成作業には延べ約60人が投入されたが、作業能率からすれば、おそらく地元の人たちの三倍程度の労力をかけたのではないかと思われる。酷暑の中での山仕事がいかに厳しく、体力を消耗するものなのか、わずかの体験ではあるが実感したところである。

(3)火入れ(野焼き)と播種

2002年8月7日(水)

(当初8月4日に予定されていた火入れ作業が降雨のため延期となる)、この日に急遽火入れ作業が実施されることとなった。平日ということもあって参加者の確保が危惧されたが、焼き畑の会、るるぶ、地元あわせて延べ20人ほどの参加があった。朝8時に集合、8時半頃、現場到着、1時間ほど防火帯の再点検と燃えやすいように調整、準備作業を行なう。火入れは焼畑作業では要となる重要な作業であり、また危険を伴う作業ということもあって、これまで我々の作業を何くれとなく見守ってきてくれた地元のベテラン3人も参加する。
通常火入れは畑造成した斜面の上のほうから火を入れて、その火を徐々に下へおろししっくりと焼く(注8)経過をたどるが、今回は様子が違った。9時30分頃、河内集落の川北勘一さんは、まず山の神に捧げるお神酒をまいてから、すぐに南と北と東の料面の合わせ目、造成畑の中心に火を入れた。東の斜面は焼畑には使わない(ブナの苗を値える)ので、切り倒した太い木の幹がそのまま放置されていたので、さっと焼き上げる算段のようだったが、連日の好天で刈り倒した木の枝葉や草がよく乾燥していたこともあり、点火してから短時間に予想外に強い火勢となって一気に東の斜面を燃え上がり、上部にあるマツの樹林帯に火がつく事態となった。地元の人や焼畑の会のベテランの会員の何人かが慌てて煙が充満する中、防火帯を駆け上がり、燃え広がった火を消しにかかる。
火は防大帯を突き抜けて樹林帯に達したようで、ベテランといえども火勢の具合は予測しがたいようである。斜面一帯に、煙が立ち込め、熱さと臭いに息が詰まりそうな中での消火作業であったが、それが功を奏して大事には至らなかった。東斜面の火が一段落してから、南北の斜面に大が廻り始める。ここは順調に燃え広がり、火が弱いところには新たに火をつけるなど、火勢を管理する余裕があった。点火して1時間、10時半ぐらいには造成畑全体に一通り火が廻って下火となった。
この間1時間ばかりはエキサイティングな体験だった。その後、燃え残りを集めて燃やすとこ焼きを行い、燃え残った太い木や枝は斜面から下部へ落として播種に備えて焼畑用地を整える作業を行なう。午後は苦労して整えられた焼畑用地で播種作業をする。焼き畑の会は南斜面を、るるぶは北斜面をそれぞれ分担して管理することとなった。
河内赤カブの種子は河内赤カブ生産組合のメンバーが自家採種したものを使用する。赤力ブの種子は、小さなもののたとえであるゴマ粒の半分ほどの大きさ、それを紙コップにいれ親指と人差し指でつまんで、腕を大きく左右に振りながら播いていく。火が消えたとはいえ、灰はまだ熱い。中にはおき火がまだ残っている所もある。そんな造成畑に何人かで列を組んで、一斉に播いていく。赤カブの播種が終わって、今度は青首ダイコン、辛味ダイコン、二十日大根、ハクサイの種子を混播する。これらの種子は赤カブよりもかなり大きいので少し荒っぼく播いていく。
順調に行けば、十日ほどで双葉が出るという。播種後は降雨による水分補給に期待するしかないが、発芽が芳しくなければ追い播きが必要となる。事実、今回はその後の発芽が悪く、るるぶのメンバーは2週間後追い播きのために再度現地に入り、焼き畑の会でも何度か迫い播きを行なったようである。
(注8)下方から火を入れると、あおられて大勢が強くなり、表面を焼くだけとなって燃えカスが多く出ることや、火が大きくなって周辺の山林に類焼する恐れがある。





         短歌
            特攻の本
                    
小林としを


足早に朝の廊下を歩み来て息は(特攻の本)読めと置きゆく

平和なる世に生きる息がひそかにも特攻の本読みていしとは

封じ込め来し永き歳月今ここに特攻の本にまみゆ嬉しさ

いつになく熱く語りて夕餉どき孫に譲りぬ特攻の本

雨となり還りくるべき大川の水の流れをうべないにつつ

大根種子蒔かんと待ちいし雨あとの川霧白き畑に降りたつ

いつの世の子の物ならん牛蒡掘る穴より出でし白きこん坊

日輪に時刻たずねて今日吾はいにしえ人になりて豆打つ




        気比の海
                                   北風 尚子


禅寺に肩を寄せ合い姉と聞く車屋太鼓に刻を忘るる

幻な友我が庭の草取りくれて話ははずみひと日くれゆく

石投げて三丁跳びする気比の海昼餉忘れて孫とたわむる

娘の転居見届け共に昼寝する早くも夕陽山の端にあり

ホームにてお茶を渡してくれる娘にうなずきながら泪こらえる

プリン食べおいしいよねと言うわれに「ウマイ」とひとことニ才の孫は

古里の友等集いて語る夜半話はつきず今日の日は過ぐ

友と行くつるべおとしの秋の日に虹を追いつつ娘の住む町へ





          編集後記

                                             

▼今号は第13回あぜみち収穫感謝祭を中心に編集しました。越前町のあさひ愛農園を会場とした収穫感謝祭、随所に園主寺坂夫妻のセンスと思いが発揮され、地域を巻き込んでの生き生きとしたイベントとなりました。それと、寺坂さんを取巻く丹生地区専業農家軍団の結束と支援も見事でした。

▼第8回あぜみち中川賞の受賞者は見谷ナーセリーの若き社長・見谷雅彦さんとなりました。その論文は、明確でわかりやすく、それでいてその意志を感じさせる内容で、今後の活躍が期待されます。
専業農家二世の論文は中々出てこなかっただけに、あぜみちの会としてはうれしい反面、ほっとしています。

▼酒井恵美子さんの文章は、焼き畑の会に入って始めて体験した印象が新鮮な驚きをもって表現されています。焼畑農法から現行の化学農法を考える視点を今後も持ち続けながら野菜作りを実践される事、そしてその中から何か新しいものが生れてくる事を期待しています。

▼最近、『移動と定着』ということに関心を持っています。
人間にしても、文化・文明にしても、農作物にしても、世界または日本の各地域から移動と定着、馴化を繰り返しながら、そのトータルとして現在の姿がある。だからこれからも当然変化するものと考えられます。

▼新しい投稿者としてあわら市の北風尚子さんの短歌を掲載します。娘さんやお孫さんへの想いが素直に表現された作品です。これからもよろしくお願いします。

▼2007年度の『みち』発行は、何とか年間目標の4号(42号〜45号)を達成しました。地味な活動ですが、これからも中味の濃い原稿を、掲載し続けていきますので、ご支援ください。
(玉井道敏)


 


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