あぜみちの会ミニコミ紙

みち44

(2006.11.7)


あぜみちの会 収穫祭 (旧朝日町愛農園、2006.11.23)


シグナル44

福井市 中川 清

 女子中学生が、「いじめ」が原因で、自殺した。とか、「セクハラ」で、……とか、と言う事件が、近頃、やたらと新聞やテレビのニュースを賑わせている。やった奴を弁護する気は、毛頭無いが、受ける側に、もう少したくましさが欲しいと思う気がする。
 日本農業だって、外国からは、ウルグアイ……国内からは、生産過剰と、輸入農産物との価格競争などと、叩かれている。これを、試練と受け止めるか、背を向けて泣き出すかで、世の中、変わって見えると思う。
 世の中、暗い事件もあるが、求めて明るさも探してみよう。
 収穫の秋です。明るく楽しい収穫祭に参集下さい。明かりに背を向けた人の顔は、カメラで捉えた逆光の被写体みたいに、顔色は暗く見えるものだ。明るさを求めて、その光に正面から向いていれば、顔も輝いて、周りの人も、その輝く顔を見て、明るさを感じると思う。明るい日を、明日と言う。明日を信じようではありませんか。


漢字の素晴らしさと原点の大切さ
                
福井市 名津井 萬


  先日、新聞で芦原温泉の老舗「はいや松風園」が、開業当時の「灰屋」に改めたとの記事を読んだ。創業百二十二年の歴史を刻んでいると云う。六十余年使った「はいや松風園」の館名を「灰屋」に戻すのは、かなり勇気がいったそうである。灰屋は、先祖が西陣織などに使う木灰を扱っていた事に由来するそうだ。原点回帰への思いだと言う。今日まで「はいや」とはなんだろうとの思いがあった。
  五、六十年前、福井高等女学校を「ハイヤー」と云っていたのを思い出す。高いレベルの女学校の意味と思う。ひらがなより、やっばり漢字には意と味があると思う。
  数日後、やっばり新聞で、名酒「越の磯」の表記を「越廼磯」に改めるとの記事を読んだ。酒造会社、磯見酒造は、私と同じ旧西藤島地区の八ツ島(現、大宮五丁目)にある。明治四十二年に旧越廼村茉崎で創業したそうである。百年近い歴史と伝統を持っている。
  社長は、「越廼」と云う村の歴史や存在を残したいと思うと語っている。私は越は越前の一字を取り、磯は磯見酒造の一字と思っていた。「の」を「廼」に変える事によって原点と歴史を感じ取る事が出来た。やっぱり漢字には意があり味がある。と同時に家業の歴史に自信と誇りを持ち原点を大切にする心意気に痛快の思いである。
  先日、金沢に旅行した。湯桶温泉の旅館「かなや」に泊まった。女中さんに「かなやは昔、金屋と書いていたのですか」と、尋ねたら、「いえいえ、昔から、かなやです」との答えである。翌目、隣りにある、竹久夢二の記念館「金沢湯桶夢二館」を見学した。展示品の中に、大正六年に竹久夢二が来沢した際、湯涌温泉の旅館「全谷館」で「夢二抒情小品展覧会」を開いた資料が出ているではないか。「かなや」は「金谷館」であると大発見をした思いであった。またその日、金沢のひがし茶屋街を散策した。その時、藤島山、円長寺と云う寺があった。由来を読んだら、一五八六年(四百二十年前)越前国藤島村(福井県福井市)より来た僧、道清により建立された寺と云う。私の住む西藤島は藤島郷の西に位置する。僧、道清の故郷の藤島に対する想いと誇りと自信を感じ、自分の原点を大切にする心意気に痛快の思いである。
  改めて漢字の素晴らしい意と味と、原点の大切さを久しぶりに痛々快々の気分で味わった。



ふくいの農家・その群像(第5回)

             
井 上 幸 子 越前町八田


 小学生だったある日

 シジミが農薬で汚れていた

 家人から「もう食べられない」


 環境問題に関心を持つきっかけとなった

 生家での出来事は

 結婚し農に携わるようになって

 「農家サイドから環境を基本においた栽培」を

 実践し説き歩く日々となった


田んぼに這いつくばる雑草との戦い


 失った生き物を取り戻し

人間社会の驕りへの反省と

自然をいとおしむ思いをこめて

 農業と自然との調和を目指す

(写真・文 松田宗一)




         野菜の育て方を科学的に考えよう
             −達人の話から−

                      酒井恵美子苗


 「野菜作りのノウハウは、生育状態を科学的に推察することで作柄の良し悪しがある程度決まります。ただやみくもに種を蒔いて肥料を施し、収穫するだけではいつまで経っても進展はありませんよ。」これは真柄紘一さんの話です。
参考になりましたので、話の中からいくつかを思い出しながら私の考えも交えて書いてみようと思います。
○「今年はトマトが例年に比しておいしかったのは何故?」
 「春先に寒気が居座っていたからです」と。これでは答えとは言えません。加えて「そのため木の成長が抑えられてじっくりと育ち熟成したからです」と一言えば納得できます。「化学肥料はどうしてよくないの?」「化学物質の良否はさて置いて、野菜の成長が促成されるからです。味が今一つ乗らないということになるのです」といった具合です。あわててはいけません早く大きくしようとあせってはいい物はできません。熟成するのを待つのです。有機肥料はゆっくりと効く、ここがポイントなのです。
 そう言えば若い木の柿は青臭く、古木になるとコクが出てきますね。
○「スイカとカボチャの葉の大きさは、さほど変わらないのに光合成はカボチャの方がぐんと多いのは何故?」
 甘いおいしいスイカを作るには一株一個が最適です。欲張って数多く実らせると糖分が分散して甘味が乗りません。その理由はスイカの葉がくぴれている分、光合成の面積が少なくなっているからです。ちなみにカボチャの葉数は一個成らすのにスイカの半分くらいでいいのかな?
○「子育てはどの葉がするの」「下の方の葉は木を育てるためにもう役割は終えている。
 実を熟させるのは若い上の方の葉です。」・・・と。人も同じですね。子育てをするのは母親でおばあは子育ては完了しています。
 要らぬ口出しは無用ということでしょうか。葉を取るなら下の方から。そして頂葉は必ず残すこと、水あげや肥料の吸い上げが悪くなる。しかし、逆に芯を止めて木を若返らせる方法もある。そのところの見定めを科学的に考えよう。
○肥料はドカンとやって少しずつ効かせよう。これはX。
 様子を見ながら少しずつ。食い溜めは害あって益なしです。
○肥料袋の上下を切って苗にかぶせ寒さよけなんてとんでもない。野菜をいじめているだけ。
 風通しも悪く、光合成もさえぎって何か寒さよけですか?暖めるなら地面、根張りをよくして成長を促すのです。透明ビニールの使用をおすすめします。
○十年一日が如く、毎年、毎年同じ品種のものばかり作らないで。
 衣服のファッション見て歩くなら、たまには種屋さんもゆっくり覗いてみよう。面白そうなものに挑戦してみてはいかがですか。保存性があるからといって、しわしわのじゃがいもやねぎになった葱ばかり多面積作るくらいなら、食べられる分量の野菜を多種類作る方が合理的と思いますが?
○収入と支出は、バランスがとれて家庭経済が安定する。
 光合成と同化作用はバランスが大切。それには昼と夜の温度差が大きい程作物の成長がよい。お金も稼ぐことばかり考えていると疲れてしまいますね。逆に負債がかさむと命取りにも・・・ということでしようか。
○夏野菜を惜しいからといって最後の最後まで収穫し、あわてて片付けて秋野菜の種まきという計画性がない作り方は、行き当たりばったりで、まずよいものは望めない。何年も先の見通しを立て、今年の年間計画を立てるのが野菜作りの基本です。等々。マニュアルには出ていない面白い野菜の作り方を学ばせて頂きました。
さすが、現役の観察力の鋭さと、注意深く学ぶ姿勢は達人ならでは・・・と思いました。無駄なところに多くの労力を使わない、その妙味を私もマスターしたいと思います。

   十月六日記

 



               連載3
焼畑と赤カブ
 福井市味見河内の焼畑による赤カブ栽培体験録
               玉井道敏

 福井市味見河内の山林で、十年以上にわたって赤カブの焼畑栽培を実践している集団がある。1991年に活動を始めた『福井焼き畑の会』(注5)(以下焼き畑の会という)である。地元の生産者以外の一般市民で構成される組織が焼畑を実践している例は、全国的にも稀有なことなので、その取り組みを紹介したい。
 焼き畑の会の母体となったのは一九八七年に結成された『ふくい・木と建築の会』(以下木と建築の会という)と1990年に立ち上げられた『民族の風景みみずく映画会』(注6)(以下みみずく映画会という)であった。みみずく映画会の上映会で、四国の椿山における焼畑の記録映画を採り上げた際、福井県美山町河内集落の焼畑実践者でその歴史に詳しい梅田秀彦氏を講師として招き、その講演を開いたことがきっかけとなった。
 上映会に参加していた木と建築の会の会員達は、福井県内で今も焼畑が行なわれていることに関心を持ち、自分達でもやってみたいとの声が挙がり、早速木と建築の会の会員に呼びかけたところ二十数名の賛同者があり、木と建築の会の活動の一環としてその実現を図ることとなった。
 河内集落にゆかりのある高倉政宏氏(父親が旧美山町の出身で、河内にある聖徳寺の檀家でもある)と笹木竜三氏を世話人として、場所の確保など地元との折衝を行なった。地元では当時の赤カブ生産組合の組合長で旧美山町の町会議員でもあった山本行雄氏を中心に対応し、高倉氏がやるなら」ということで、焼畑の実施が承認された。そして実施場所として集落の共同利用地の一角が示された。当時を振り返ると、地元においては「福井で面白いことをやろうとするグループがある。一回やらせてみよう」という気持ちと、「この際、今も焼畑で赤カブを作っていることを村外の人にも知ってほしい」という願望があったようである。このような経緯を経て、1992年から焼き畑の会による河内赤力ブの焼畑栽培の実践が始まった。
 一年目は全面的に山本行雄氏の指導を受けたが、最初焼畑用地として提示された場所を見た時、クズや2メートルを越えるススキがびっしり生えている現場を見て「こんな所を畑にするのか、と唖然としショックを受けた」とは、現在会の運営事務を一手に引き受ける北倉武徳氏の言である。それでも20数人の会員が熱心に1日かけて野刈りを行い、十アール程度の焼畑用地を作った。その後、火入れ、播種、間引き、除草の各作業を山本氏の指導を受けながら実践し、11月上旬には収穫にこぎつけ、収穫前夜祭を企画して、地元の人達との交流会を実施することが出来た。
 当初は1年だけの実施を考えていたが、1年目の体験に自信を得て、2年目以降も実施することとなった。焼畑に取り組んだ当初の経緯から、会の会長は高倉氏が続けて務め、2年目以降は事務局を竹内、北倉氏が担当する体制で継続して実施されている。筆者から見て、素人集団が過酷な作業を伴う焼畑の実践を、地元の了解を得ながら十数年間も継続していることは並大抵のことではない。このあたりのことについて少し触れてみたい。
 2年目以降山本氏の指導は一切無くなった。「お前達に任せたから自分達で全部やれ」ということであった。ただ、焼畑用地の選定については、赤カブの連作は不可能なので、毎年毎年相談して地元の了解を得る形となったが、それも3〜4年目からは焼き畑の会で場所の見通しをつけて了解を得ることとなった。当初指定された場所は地元の共同利用地で、河内集落の人達もそこで焼畑を行うこともあり、焼き畑の会では地元に配慮して、共同利用地の中でもなるべく条件の悪い所、例えぱ標高が高く傾斜のきつい条件の悪い場所を選んで実施してきた。11年目からは谷が変わって個人の所有山林を借りて実施している。
 毎年11月上旬に行なう収穫前夜祭は、河内の集落センターを会場に、焼き畑の会と地元農家の交流を図る場として定着している。赤カブ料理や各自が持ち込む一品の料理を肴に、酒を酌み交わしながらいろんな話が飛び交い、理解を深める絶好の場となっている。それでも焼き畑の会の会員と地元農家が心を許して打ち解けるまでには5〜6年の年月が必要であったという
 10年目には焼き畑の会で記念事業を実施した昔、河内カブラを背中に担いで大野市に運び朝市などで売ったという的坂峠の山道に石碑を建てた。また、河内集落で毎年5月5日に実施されている県の無形民俗文化財『じじぐれ祭り』にも、柴みこしの担ぎ手などに焼き畑の会の有志が参加している。さらに、今回の豪雨被害に対して会として見舞金を出すとともに、十数人の会員が河内集落を流れる用水の泥上げ作業などに地元の人と一緒になって取り組んだ。このような交流の蓄積と協力関係の構築が、地元と焼き畑の会の信頼関係を築き上げ、十数年に及ぶ焼畑体験の継続につながっている。十数年の間には、地元において焼畑カブの盗難や焼き畑の会会員の不幸な事件が発生するなど、その継続が危ぶまれたこともあったが、山本氏をはじめとする地元有志の理解と焼き畑の会の誠実な対応があってその危機を乗り越えた。
 1997年に山本行雄氏が他界し、その後は現在の赤力ブ生産組合長の西川誠一氏が地元の窓口となって、焼き畑の会の取り組みに対応している。焼き畑の会が行なう河内集落での焼畑による赤カブ栽培が継続されている要因は、河内集落、焼き畑の会の両者に見られる良きリーダーの存在、河内集落の開放的な対応と焼き畑の会への信頼、焼き畑の会の「したいことを楽しくする」という自由闊達、自主的な姿勢と集落への気配りなどが挙げられる。そして、両者ともに焼畑の実践と交流を通してお互いに刺激を受け学んだことも多いと思われるが、本項のまとめとして、焼畑栽培体験を通して地元農家から学んだ栽培上の知恵を、北倉武徳氏の言として紹介する。
 「間引きや除草は朝方にはするな」・・・朝は露が降りていることが多く、幼苗も露にぬれて水分を吸収していて、その時間に間引き作業を行なうと折れやすく、傷つきやすい。苗が傷ついたり、折れたりするとその後の生青が芳しくなく、カブラの肥大にも悪影響を与える。地元の人は、昼間の暑さで苗がしおれている状態の夕方に間引き、除草作業を行なっている。
 「ススキを刈る時は地際から二十〜三十センチ残して刈り、そのまま火入れする」‐地際から刈ると残った刈株で作業中に足を傷つける恐れがある。20〜30センチ残っていても焼けば間題はない。
 「新規に開畑する場所では、休閑期が長いほど雑草の発生が少ない」‐休閑期が長いほど下生えとしての雑草の発生が抑制され、雑草の種子が少なくなっている結果、開畑後の雑草の発生が少なくなると考えられる。
 農業の現場で作業をしたり、調査する時の楽しみは、長い年月の間に培われた農家の蓄積された知恵を吸収できることで、これが一番の醍醐味である。福井焼き畑の会の意欲はこの醍醐味によって支えられているのだろう。
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(注5)現在の会員数30名、毎年、美山町河内で山林を借りて焼畑による赤力ブ栽培を行なっている。
(注6)ふくい・木と建築の会は、建築と環境問題に関心を持つ市民と、木造建築の復権を通して環境問題に貢献しようとする建築関係者たちで構成され、最も多い時で約400名の会員を数えたが、現在は活動を体止している。民族の風景みみずく映画会は民族文化映像研究所の記録映画を見る会で、1990年から5年半かけて約95本の映画上映を行なった。最盛期には100人の会員がいたが、ふくい・木と建築の会と同様、現在は活動を休止している。

五.焼畑体験
 2002年に『ふくいの伝統野菜・るるぶ』の会(注7)(以下るるぶという)でも、美山町河内集落で焼畑体験に取り組むこととなった。経験豊富な焼き畑の会との共同作業の形で実施し、るるぶからは筆者も含めて十人前後の会員が参加した。その奮闘振りを会員の記録を元に再現したい。
(1)焼畑に取り組むまでの経緯
 2002年3月17日、るるぶのスタッフ会議を開催し、今年度の行事計画を詰める中で県内産地バスツアーの目的地として河内赤カブの栽培地である美山町河内が候補地として挙げられた。早速、当時の河内集落の区長でるるぶの会員でもある西川誠一氏にその旨を伝えると「ただ単なる一過性のイベントでは駄目で、伐採から収穫まで、赤カブの生産にずっと関わるなら受け入れてもいい」という返答であった。再度スタッフでその可能性を検討し、積極論や慎重論が飛び交う中で、るるぶとして思い切って焼畑による赤カブ栽培に取り組もうという結論になった。この時点ではるるぶの会員で焼畑の作業がどのようなものか知るものは無く、あとでその大変さを思い知らされることになる。2002年3月28日、るるぶと地元との第1回打ち合わせを行う。るるぶからスタッフ3名、地元からは西川氏が参加し、河内集落センターで話し合う。西川氏から、今回焼畑用地として予定している場所を提示される。河内集落の北側斜面の山林で、前回の焼畑利用から30年を経過している所である。さらに具体的な作業時期の打ち合わせをする。
 種子は昔から作り続けてきた在来種を使う。7月中下旬に伐採し、2週間ほど野ざらしして乾燥させる。8月上旬に火入れしその日の内に播種作業を行なう。発芽の具合によっては追い播きの必要性もある。その後は管理作業として間引きや除草作業を行なう。順調にいけば11月上旬に収穫となる。これら一連の作業をきちんと責任を持ってやってくれれば、るるぶで焼畑体験をやってもらってもいい、ということになった。消費者との交流と銘打って現場で実施されるイベントの多くは一過性であり、地元の人たちにとっては労多くして益少なし、ということが多いのだろう。るるぶも心しなければならない。現場確認はまだ残雪が多いということでこの日は見送りとなった。
 2002年6月9日、るるぶと焼き畑の会と地元とのご一者会談が実施される。るるぶから参加した千万卓丈氏の記録[千万卓丈2003]を読むと、この日はもっぱら焼き畑の会のこれまでの体験に基づく発言を傾聴している結果となっている。西川さんから提示された焼畑予定地は、3月に示された場所が変更されて、大野市に通ずる林道を、河内集落から3キロメートルばかり入った林道脇の山林となった。標高400〜500メートル、前回の焼畑利用からおそらく50年は経過している個人所有の鬱蒼とした雑木の山林で、南北と東面に斜面があり面積はあわせて50アール程度、傾斜度は30〜60度である。西川さんの算段では、今年焼畑を実施後ブナの若木を植えたいという。毎年5月5日に実施される河内集落の『じじぐれ祭り』の時に担ぐ柴みこしの材料となるブナを集められる山林が近辺では数少なくなり、その確保に苦労していることから、将来に向けて今からブナの植樹をしておこうという遠大な計画である。
 三者協議の結果、今年の焼畑体験はるるぶと焼き畑の会の共同作業で実施することとなる。共同作業というと対等}関係で格好は良いが、おそらくるるぶとしては焼き畑の会におんぶに抱っこの形となるだろう。具体的な作業の日程として、7月14日と21日の日曜日に立ち木伐採と畑造成を行い、2週間後の8月4日の第1日曜日に火入れと播種を実施する予定となった。
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(注7)1999年に福井県で設立された伝統野菜に関することなら何でもする会、伝統野菜生産者、農業技術者、料理関係者、主婦など多彩なメンバーから構成され、現会員数は県内外合わせて約60名である。




         短歌
            白南風
                    
小林としを


思い出したように始まる耳鳴りの蝉かとまがう梅雨近き朝

毛鞠程の西瓜ころころ葉がくれに見ゆる畑に防鳥網張る

夏祭りの行事も発れ小学生一人もいなくなりし吾が村

きおいつつ生きゆくことも今はなく走り穂ゆらし白南風は吹く

閉め忘れいるよと夜の縁側にレースのカーテンふうわり動く

小判草のゆれいる道辺に仰向けに甘えて猫は白き腹見す

自転車にわが躯け下る坂の道麦藁帽子阿弥陀にかぶり

をちこちに轟きいたりしコンバインの音止みし夕虫の鳴き出づ




      俳句
        稲雀
                
鉾俳句会


掘り立ての甘藷を配り頬緩む  青木 敏子

神木の二幹の間に望の月  石川 弼美

照らされて花の縺るる萩の寺  猪之詰佐智子

無花果が熟れる千の花内包し  今川 和加子

天辺は鳥に任せ柿をもぐ  岡田 貞子

梨実る樹皮の無骨を侮りぬ  小倉 不尽

気遣ひは無用と一人秋耕す  河合 紫仙

両脇に古希座りたる秋収め  斉藤 由紀子

柔土に一粒づつ大根蒔く  高谷 三恵子

生垣に蔓絡ませて道草垂る  田山 恭子

十六夜や薄き影引くお市像  土田 章代

蕎麦の花四面に浮きて家一つ  坪田 哲夫

宮役が稲の一穂持ち帰る  皆川 誠道

秋の海茜に染まる日暮れ時  村田 優子

網打ちの如く逃げ翔つ稲雀  田中 芳実




          編集後記
                                             

今号は常連の原稿をもどに、急遽組み立て、編集しました。今年のあぜみち収穫祭の宿を引き受けていただいた『あさぴ愛農園』の寺坂夫妻、張り切っておられます。みち読者の皆様、友人、知人をお誘いの上、11月23日には、ぜひ、越前町あさひ地区の『あさぴ愛農園』に足をお運ぴください(玉井道敏)

 


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