あぜみちの会ミニコミ紙

みち43号
(2006.8.30)



シグナル43

福井市 中川 清

 今年は、春先から天候が異常だ。年内早く大雪が来て、春遅くまた雪が降った。日照も不足で、地球温暖化の声がする中で、四月、玉月の気温が、平年値より上がらない日が続き、桜の開花も山野草の芽吹きも遅れ気味だった。不順な気候の割には、風邪患者の大量発生、大流行?は防げたみたいだ。風邪をひいたら風邪薬を・・・が常識みたいだが、本来風邪は「風邪薬で治すものではない!」[私は医師でないのでこんなことはえない?が、ここ十数年、風邪などひいてない私の体験からの独り言=風邪の治療は、「人の持つ免疫力で治るのが基本で、薬はその免疫力のサポートをするものというのが基本!」だから日頃から、その免疫力を養っておくことが肝要だ。免疫力の差が、同じ冬でも風邪をひく人、ひかぬ人ができる差だろうと思う。

その為に、日頃、運動で体を動かし薄着を習慣にして(乾布摩擦なども良いかも・・・)気持ちも、ハリを持っていることでしよう。だからサラリーマンは気の弛む週末に風邪を引きやすい傾向がある。

私は、寒中でも、長袖の下着やバッチなど着用したことが無い=人に勧めはしないが=でも、一旦風邪ひきと感じたら逆に、運動を控え、栄養を補給して(厚着して?)安静に休養していた方が好い。微熱が出て、体温が上がることが体内の風邪の菌駆除に好作用するから、何でもすぐ解熱剤服用は・・・?と思う。精神力だけで、この世の中、生きていけるものとは思わないが、年を取っても、肩や腰に「ハリ」感じるよりは、これからも、気持ちにはハリを持って、多くの人さまと交わり、その支えを得ながら、ほどほどに頑張って生きたいと思っています。よろしく







一如の世界
                
福井市 名津井 萬


 昭和三十年代、私は全国愛農会に入っていた。本部は三重県で、愛農高校もあり県内にも卒業生がいる。理事長は小谷純一先生で、熱烈なクリスチャンであり、当時、無農薬農業、自然農業を熱心に唱えられていた。
 北陸にも愛農会員が数多くいた。そして北陸は佛教の盛んな所であり、北陸は佛教を主体とした愛農会を、との声もあり、金沢市で佛教を主体とした愛農研修会が催され、青二才の私も参加した。その時の研修は殆ど覚えていない。しかし一つだけ覚えている。それは佛教の講師の言である。
師は旧陸軍大学校卒業で、戦争中、戦場へは一度も出ず、軍の命令で「世界の宗教をすべて研究せよ」との事で、終戦まで「世界の宗教」に没頭したそうである。その結果、結論は、世界で最高の宗教は「佛教」だったと話された。その一言が頭の中に焼きついている。先日、私の叔父の山形寿氏が記した「六十年回顧」(昭和三十七年記)を改めて読んだ。"あとがき"に次の一文が記してある。
 「私は今日あること、心から感激に堪えない。今こうして此処に健康で安住して居れることは第一祖先のお陰である。妻を始め家族及び一族又郷土の方々、社会大衆の方々のお陰である。若い時から勉強も随分した。逆境にも遭遇して来た。常に指導的地位に立ち一歩先に歩いて来た。信念としては「骨身を惜しまない真実に生きたい」一如の世界(明闇、苦楽、長短)貴い信仰だ。そこに私は幸福者として心から感謝している。大自然の運行に偽りはない。小さな個人の計い、余りにも愚かである。真心で天の命に順応、無理せず、初一念を貫徹すべきだ。然も大衆の為に私心あってはならぬ。今日あるを喜び六十年生かしてもらったことを喜び、過去の体験を生かして余生無理せず、天命のままにこの身を捧ぐべきだと思う。私利私欲を捨てて大自然が示してくれる大道に邁進すべきを痛感する。」
 私は家庭の事情で約六年間(十四才〜十九才)叔父の家で生活した。時に叔父は四十六才〜五十一才の時であった。非常に佛教に対する信心が厚く、夜の食後、時々「お経をあげるから来い」と言って、正信偈を唱えさせられた。また時折、私に「一如」の世界が最高だと一言っていた。うわの空で聞いていた。
 私は今七十二才になるが信心らしいものが一つも無く、情けない気持ちが一杯である。末だ「生まぐさい」考えしか浮かばない自分に果れている。ただ最近「一如」の言葉が好きになり、その中味を探検したいと思っている〔そして自分の室に「一如」と下手糞ながら掲額したいと企んでいる。



             
農の原点を問う

                         福井市 見谷春美


 私は農家で育った。朝、日がさめたとき、大人達は居らず、しばらくすると仕事から帰ってくる。そのときまでに子供達は朝飯の用意、にわとりのえさ、馬、羊のえさなどをやっておく。学校から帰っても大人達はいなくて、帰ってくるまでにいろんな家事をしておく。そんな中で大人達のすることを一日でも早くできるようになって、何かのまにあいたい、そんな背伸ぴのする気持ちでした。そんなころの農業は一粒の米をも惜しんで、手を尽くし、一坪の場所も多くを望んで、あし原を開拓した。こぼした一粒のごはんも感謝し拾って食べた。苦労したことが解るがゆえに感謝した姿だと思う。作物を育てるということが、大きな価値がある時代でした。育て、実ったことが一家をささえる程大きな力を発揮したからです。だから、肥料にふん尿が良ければ人のものでも集めてきたし、気の遠くなる様な草でも毎日毎日身体を酷使し、はいずり廻って取った。そんな大人達の背中を見て得た米を誰が粗末にできようか。その想いがこぼれたごはんを拾って食べさせたのでしょう。そんな中でも、植物を育てることのすばらしさ、楽しさを彼らは教えてくれました。幼い私もしおれている野菜に重い水を運び、一しゃくずつ野菜にやった。そしてしばらくするとぴんとする。それが夕風にゆれている。そんな情景に私は、「おお、なすびがこんなに喜んでいる、苦労して水をやってよかったなあ」と本当に嬉しい顔をして言った。私もなすびがとっても嬉しそうにみえて、さっきの根気辛さがどこかへ行ってしまった。それからはなすびが気になって何度も通った。土には草やわらを腐らせた堆肥をやり、ふん尿を作物の大好物だと心がけ、病気にかけまいと、風通しや工夫をこらし、いろんな状況にも耐えてきた。だから農業はおもしろいという人もあり、大変きついわりにもうからないと捨てる人もある。労働時間をお金で価値観を決める時代になってからの農業はとても価値のある職業とは思われなくなった。就農者人口激減した。そんな状況のなか、看護士で働いていた私は縁あって専業農家に嫁いだ。少なからず農業の豊かさを知っていたからだと思う。「どんな世の中になっても第一に必要な職業だ」と教えられ、本当にそうだと思っていた。だから、農業に大きな夢を持っていた夫に、何か役に立ちたいと思ったのです。何で看護科をしてきたんだろう。農業科を選べば良かったと後悔した程だった。基本を何にも知らない悔しさでした。夫についてやっていくうち利益を得るのも全く夢じゃない。希望が持てた。それは今までの手のかかる身体の幸い農業技術が合理化され、省力化された中で昔から比べればとても楽で、収益にも結びつき、楽しくなった。ところがだんだん作物が育たなくなってきた。肥料をやっても以前程効果がなく、病気(菌類)も多く発生し、殺菌剤、殺虫剤の施用の回数も増えた。ウィルス(青枯病)まででてきた。化学肥料薬散は欠くべからざる手段で減らすことは全く考えられない農業技術の中、対策は地中の悪い菌(ウィルス)の除去と土作り(堆肥の多施)でした。前者の対策は殺菌剤でも殺虫剤でも効果は全く得られず地中のガス消毒が使われた。クロールピクリンです。またドロリロールなどです。これはトラクターにガス浣注機を取り付けて地中に浣注する方法で、その後からポリでマルチをしていく方法です。ガス清浄器を付けてガスマスクをつけ夏場の署いさなかの作業でした。その時期の方が効果があがり、またガスぬきも速いということです。防毒マスクの使用法を徹底されないままの作業で呼吸困難におちいったり辛い思いをしたものです。
 また昔のような土作りはせず、肥料は化学肥料だ。化学肥料の場合、酸性、アルカリ性を繰り返すうち、塩類の蓄積がおこり、白い塩を発生させ、作物の生育が止まってしまう。連作障害です。施設ハウスで人間の思うように作物を育てられると思ったのですが、その当時の知恵では行き詰まりを感じてしまったのです。士はウィルスで汚染され、土中構造は水のしまない粉状になり、団粒梼造とは夢のまた夢になってしまったのです。昔から農地は荒らしてはいけない。(作物をつくらず草原にすること)一生懸命作り続けないと土地がやせるから…と言われたものだ。私は決して荒らしていない。なのに作物が育たない程ダメになってしまった。その現実に途方にくれた。これは技術に問題がある。土は生きている。なのに化学的に植物生理を操作してきた。多くの微生物の働きで植物体内はもちろん植物をとりまく環境をも作られていることを忘れていた。作物の成長をじゃまするものは排除する考え方は多くの微生物のバランスをくずした。また、肥料にしても有機肥料は作物が吸収し残ったものは微生物により分解して土を作り出す。化学肥料はそのまま土中に残る。農業技術の中に土中のpHを六・五〜七・〇に調整すると作物がよく育つと言われている。一般的に酸性(pH五・○〜五・五)です。それを調整するのに、石灰(アルカリ)を施用する。そして肥料(酸性)をやる。それを繰り返し続けると塩類が蓄積される。きれいな作物(形よく虫や病気のついていないもの)を、収量多く望むぱかりに必要以上施用してしまう。その悪循環が土の成分また、土の構造を変えてしまった。
 そこで、大変な作業になるけれど昔親達がやっていた農法でこの土を生き帰らせたいと思った。微生物農法です。七月にトマトがウイルスにやられて全滅して、二月にキュウリを作付けするまで、ただひたすら土作りをした。収入のない一年でした。キュウリが大きく成長して立派なキュウリ畑になったときの感動は例えようのない思いでした。キュウリの葉は照りがあり、厚みがあり、花はりんと大きく、見るからに実が太る確実なものを感じさせてくれるし、実も弾力があり柔らかい。味も甘く、今までの化学肥料で作ったものとの遠いがよく分かる。
 昔のことだから、有機栽培というものの注目がなくて(昔は化学肥料を使わず有機だけでしていると、へんくつものに見られた。ひまな道楽でするもので生活していけない)あまりアピールしてもお客さんは飛びついてこない。だから特にアピールしないで見谷農園のトマトでアピールし、後は品物で勝負した。よく売れた、自信が持てた。そして本物を知った。
 今までのことを振りかえると危ない薬を使ったものだと思う。作柄よかれと思うゆえに使ったのだが、体にはよくさしつかえなんだものだと思う。いや、さしつかえていたが、それと思わなかったのだろう。でも薬散から帰ると疲れたと横になったり、御飯がおいしくないといいながら体にさわることを感じていた。ランネートという薬は今でこそあまり効かなくなっているが、当初は効果抜群でよくやった。日中は暑くてやれないので三時、四時ごろやった。夕食、ビールを飲んだものなら、苦しくて起きられなかった。その後、いろんな薬をやってもやった後は先ず炭酸系のものを飲むように言われた。何故だか分からぬうち、それもあまり言われなくなった。それよりも予防対策で着るものとかマスクとか、風土とか注意するようになった。30年経った今、農薬の弊害はいろいろ言われるようになった。そんな今、農産物の本物が問われ、トレーサビリティーだの、認定制度とか導入され、安心、安全が言われるようになった。しかし、農葉、化学肥料、除草剤などが便われる農法になって以来、30〜40年経た今、さまざまな生態系をくずしてしまった。そんな中で殆どが自然農法に帰るにはどれ程の時間を要するだろう。気が遠くなる前に不可能だと感じてしまう。でも少しでもそれに近づけるには一回でも施用を減らす。最小限の施用にとどめる。そして出来ることから自然農法を取り入れる。それだけでも随分と変わるのではと思う。生産者がその意識を持つためには消費者、また行政の農産物の本物への意識づけがとても大切だと思う。その啓発活動に植物を育てることのすばらしさと農産物の本物の味を紹介できる。アンテナショップとレストランを始めた。ちがうと論ずるより感じて知ってもらいたいと思ったからです。これからの成長ざかりの幼い子供達のために何か間にあいたい(役にたちたい)と願っています。


         さんさんと輝く店になれ

                      ファームビレッジさんさん 中島 早苗


 私が二○○五年五月に「ファームビレッジさんさん」に就職して、早一年ニケ月が過ぎました。
 長年企業で事務職(後に総合職)として働き、農業・流通販売業(直売所)・サービス業(レストラン)とは、まったく無縁な生活をおくっていた私にとって、劇的な生活の変化でした。こういった世界に飛び込んだ以上、食に関する書籍・情報誌・ファッション雑誌・いまどき流行の雑誌を読んでと意気込んだのですが、この店はそういうものに左右されない確固たる信念をもって運営していることを、身をもって実感するにはそう長くはかかりませんでした。
 直売所では美味しい米を消費者に提供するため、生産者の「こだわりの米」を販売しています。JAS有機栽培米や福井県特別栽培米の認証米のほか、アイガモ農法など生産者の一人一人がこだわりをもった米を、その場で精米して購入することもできます。野菜など青果物の本来の味を味わってもらうため、肥料や農薬の使用に注意するだけでなく、とれたてを提供しています。また、地域特性を生かした雪中野菜や伝統野菜などの提供を通じて、自然と共生してきた先人たちの知恵を消費者に伝えています。毎目「おはようございます」「こんにちは」という元気な挨拶とともに、生産者が自慢の農産物や加工品などを持ってきます。その顔は自分が丹精込めて作ったものを、お客様に安心して召し上がっていただきたい、美味しいと喜ぶ声が聞きたい、喜ぶ顔がみたいという、いきいきとした表情です。私はこの時間をとても大切にしたいと思っています。消費者の立場にたって生産者の声を聞き、生産看の姿勢や思いを消費者に伝えたいと考え、納品時の生産者からいろいろな情報を得るために、この時間を活用しています。これらの情報などを伝える手段として、農産物・加工品などの新鮮さ、安全性、生産履歴、美味しい食べ方、身体への効用など、作り手の熱い思いをポップにしてPRしています。特に最近は生産者の農場に直接出掛けて写真を撮らせてもらい、直売所やレストランに掲示しています。普段は土などと格闘している生産者がもっと前面に出てもらいたい、商品の売れる楽しさを感じてもらいたい、生産者の明るい顔が見える店舖づくり、これらのことは私のさんさんでの使命のひとつだと思っています。
 バイキング形式の農家レストランでは、地元生産者の旬の農産物などを利用して常時40品目程度のメニューを提供しています。各メニューには食材の生産地や生産者の名前、簡単な作り方、含まれているアレルギー食品名を表示しています。直売所においては栽培履歴のわかる農産物・生産者の顔がみえる農産物・有機認証農産物といった農産物の提供を通じた一方向の情報でしたが、レストランでは、食の提案によって安全の実感ももたらしていると感じています。例えば、レストランで福井の伝承料理である麸の辛子和えを食べられたお客様が「これ美味しいねえ。そういえば昔おばあちゃんが作ってくれたよね」と会話が弾み、笑顔が溢れます。「じゃ帰りに直売所で買物をして作ってみるね」となります。直売所にある農産物の料理の仕方を提案できるレストラン、そしてレストランで食べて美味しかったから、直売所で材料を買って作ることができるお店「さんさん」。「さんさん」のレストランはそんな家庭の食卓の延長でありたいと願っています。生産者の栽培した米を米粉にし、生地を2日間寝かせるなど、こだわりの製法で作った米粉パンを販売しています。
 小麦のパンでは味わえない、香ばしさともっちり感で好評を得ています。最近の健康志向に伴い、米粉パンと一緒に野菜や果物を食べられるようにと、ほうれん草パン・にんじんパン・ブルーベリーパン、サラダパンなど新作が登場し、マスコミにもとりあげられました。店頭販売の小麦粉パンとは差別化し、更にオーダーメイドの低カロリーの米粉パンを提供することによって、売上増を図ると共に消費者の健康まで考慮した活動を実践していきたいと考えています。世の中に物が溢れている時代。消費者は本物へのこだわり、安全安心へのこだわりを求めています。食育という言葉が氾濫し、食育という文字を目にしない日はないくらいです。「さんさん」では生産者の農園での収穫体験・もちつき体験・ケーキ作り教室・収穫祭の開催など、消費者と生産者とを結ぶ体験・交流を通して、「農産物が育っている環境が見える」「育てている人の豊かな顔を知ってもらうだけで農産物の背景が見える」ということを伝えていきたいと思います。また農水畜産物には「命」があり、それを使って手をかけた料理には「心」がある、ということを、直売所やレストランという媒体を通して「食」に込めて伝えていきたいと考えています。二○○五年十月より始まった、消費者を対象にした「食」に関しての勉強会『この指とまれ』は、毎回多くの熱心な参加者に支えられ現在にいたっています。講師にはこだわりの生産者や、食に関する専門家、行政、環境カウンセラーなど、さまざまな角度から食に追ってもらっています。これは私が是非とも開催したかった勉強会です。参加者と共に学び成長できる場に発展でさるよう、更に企画を充実していきます。あぜみちの会発行の「みち41号」に、「さんさん」はあぜみちの会の惑星だと書いていただきました。この小さな惑星が消滅しないように、食に関するアンテナショップとしての役割を発信し続けるために努力していきます。さんさんと輝く店になれ!




               出前講座の記録
            小学生に米づくりの話をする
                                    編集子


日本農業新聞が平成十七年度に実施した"出前講座"に、中川清さん、北幸夫さん、安実正嗣さんが参加しました。何れもあぜみちの会のメンバーです。それぞれ受け持ちの他県の小学校へ出かけて、小学生を相手に、「お米のできるまで」「米作りの苦労や喜び」「水田の役割」などの内容で米作りについての話をする、という内容でした。三人とも福井県を代表する米作りの大ベテランであり、さぞかし口八丁手八丁で小学生相手に講義をしたと思うのですが、今回は中川さんからの提供資料で、その記録をまとめてみました。中川さんのもとに寄せられた子ども達の感想を読む限り、出前講座は大好評だったようです。


五年生のみなさんヘ
みなさんからのお便り今日、うれしく拝見しました。お話していた時みんながしんけんにうなづいて聞いていた顔を、今思い出しています。私の話したことが一つでもみんなの心に何かを残してくれたと思うと、うれしい限りです。
私が想像していた以上に稲村ケ崎の五年生のみなさんは、学校でよい先生にいろいろ教えてもらってよく勉強しているのだなぁ、と感心しました。もうすぐ六年生ですが、これから中学生、高枝生になっても、今度のことを思い出して「ごはんの美味しさ」や「お米の大切さ」を、いつまでも忘れないで下さい。
私もいただいたお便りを、繰り返し読んでは、稲小のみなさんの元気な笑顔を忘れないようにします。みなさん元気で勉強してください。
中川清



         園芸福祉のすすめ
                     ふくいの園芸福祉研究会
                            代表 松山松夫


1.はじめに
日本園芸福祉普及協会「しおり」や松尾英輔著「社会園芸学のすすめ」からの抜粋と筆者の考えを加え、取りまとめた。「園芸福祉」は世に出て5年と短く、また園芸植物などを介した活動のため、福井に適応した「園芸福祉」が大切。したがって、読者の皆さんと共に一歩一歩創りあげるつもりでの記述である。
2.まず「園芸福祉とは」
一言でいえば"野菜・花や果物などみんなと作りながら、幸せになろうとすること"。地域に暮らす様な人達が、同じ立場で、植物の種子〜発芽〜成長〜開花〜結実〜収穫という営みに接し、作る楽しみ・喜びを共有しながら、かつお金では買えない園芸の諸効用(恩恵)を積極的に活用し、心身の健康・人間関係・地域の活性化をより向上しようとするもの。
 しかし、心身に障害があるため、療法的専門家の支援によって、その効力(恩恵)を享受しつつ、より幸福になるようにする活動が「園芸療法」で、園芸福祉のなかの一分野である。
3.その「園芸福祉の効用(恩恵ごとは
(1)生産的−作りたい欲求を充たす
本ものの食物(新鮮・美味・栄養豊富・無農薬汚染の)。花とみどりの景観(庭、室内、花壇等々)。
(2)経済的−経済的欲求を充たす
園芸商品そのものによる収益(紫陽花展などで)。美的環境の商品化(著名な庭の拝観料)。医療費節約(自給園での手入れや仲間との交流は、心身の癒しや健康維持につながる)。
(3)環境的−地域での暮らしの場を快適にする
浄化(値物からの酸素、フィトンチッドや水生植物による)、防音・防風・防火効果など。
(4)心理、生理的−五感を通して、心が充たされる
@植物と接しながら潤い・和み・安らぎ・心地よさ・落ち着き(癒しの効果)
A体動かし植物とかかわり、汗かいてスッキリ→快感で、ストレス解消。
B手入れに工夫した結果が成功し快感、一方明日への期待感で愛情そそぎ、自覚と責任感も強くなる。
(5)社会的−植物を介し、互いに心通うようになる(人と人つなぐ媒体)
@近隣人間関係の円滑化(花端会議、農園端会議、物々交換で)
Aまち、村つくり…花ハス・花ラッキョウなどの協働作業による社会性を学ぶ
(6)教育的‐学校・家庭・社会の場で「育て」ながらの多面的効果
@学校教青一理科・生物教育…植物の種類による生長から、生命現象観察。情操教育…生命力の不思議さに驚き、美しさに感動し心の豊かさを育む
A農業教育:作物と雑草・気象・肥料などを総合的活用することを身につける。
B家庭・地域教育:暮らしの中で食べれる・毒・薬になる植物、その利用方法(遊びも)など親や先輩から知らず知らずのうちに学ぶ、所謂意図しない教育の恩恵。
(7)身体的
@食薬嗜好:体調維持に必要な栄養源
A身体機能:好きな園芸活動で、心身の機能低下を遅らせる。
B心理:カラフルな花や果物を仲間と見たり・触ったり語り合ったりして生まれる喜びは免疫力向上。
(8)精神(人間)的
@われを忘れて熱中させる園芸の魅力−個人の精神的成長促す。
A人から評価される喜び−社会的成長を促す
B園芸を通しての人間的成長を促す。
4.園芸福祉の全国の動きと福井県での取り組み
(全国)日本園芸福祉普及協会は、'01年に設立したNPO法人。園芸福祉活動の普及に向けて、園芸福祉全国大会(第1回が三重県で長崎県、北海道、静岡県、'05年は福岡県)、事例発表を中心とした園芸福祉シンポジウムや海外視察研修、人材養成の各種講座(「初級園芸福祉士」養成など)の開催などを行ってる。「初級園芸福祉士」養成講座は、'02年に三重県でスタートし、北海道、岩手県、福島県、群馬県、干葉県、埼玉県、東京都、新潟県、長野県、静岡県、岐阜県、京都府、三重県、和歌山県、大阪府、兵庫県、広島県、福岡県、長崎県など二七地域で開講され、これまでに二、五○○名以上が受講。これまでに合格した、全国の四十三都道府県で二、○○○名近い「初級園芸福祉士」が活動を始めています。
(福井)
'98(平10)介護福祉士養成校の「専門学校ウエルフェア福井」にて、福井県初の「園芸療法」開講。
'01.7 県介護福祉士会ブロック(大野・小浜・鯖江)研修にて、『園芸福祉』の講義と実習行われる。
'02.6 「福井県園芸福祉(療法)研究会」発足。小浜市の公園ボランティア育成事業支援する。
'04.9 県介護福祉士会研修大会にて、吉長広島国際大教授の[園芸福社のすすめ]講演会開催される。
'04.10 福井新聞に『園芸福祉広がる輪…障害・高齢者に活用へ』掲載、「ふくいの園芸福祉研究会」発足、現在会員33名が実技など月例研修会を県総合グリーンセンターや県社協で行ってる。
'09.9 「園芸福祉士」養成講座、北陸三県初 福井・県総合グリーンセンターで開催予定。福井県では、これまで七名の「初級園芸福祉士」が誕生。園芸福祉に関心のある方はいつでもお問合せ下さい。ご連絡は090−3887-326×松山まで。



      ものを育てることは自分を育てることでは?
                                                    福井市 酒井 恵美子


昨年のことです。JA女性部学習会は、月1回程度開催されています。その内たった1回だけ営農指導の学習会がありました。どこか偉い講師が見え、私達は期待を込めての参加でした。ところがその話はまるっきり教科書通りで、長年菜園をやっている私達には「その程度のことなら私でも講師になれる」というような内容でした。「もっと実際に即した具体的な問題に迫れないのか」と大口を叩いたら「それなら、お前の菜園を指導の場に提供しろ」と言われました。「しまった、黙っていればよかった」と後梅しましたが、その場の成り行きで、満場の拍手をもらって泣くに泣けぬ始末で今春を迎えたのです。

☆困つたこと☆

その@ 夏野菜は、きゅうり、つる豆を始めトマト、なすに至るまで棚や支柱が必要になります。毎年強風が来る度に棚がその重みで壊れたり、倒れたりして応急処置が欠かせませんでした。先ずはかっちりした棚づくりから始める必要があります。そのため長さ5〜6mの長い竹を25本用意しました。これが一番大変で、ダンプでないと運べないのです。

そのA 毎年、農協で運搬してもらっている籾がら堆肥を「今年はダンプで取りに来い」というのです。軽トラなら何とかなりますが、ダンブもなく運転できる者も簡単には見つかりません。

そのB 野菜の苗は半分は購入し、半分は自分で種をまいて育てています。電熟器やトンネルを利用しての発芽ですが、うまくいかない年もよくあるのです。失敗すると代品がないので気を遣いました。

そのC 花物、葉物、その他地下まきの野菜類も一つの見せ場です。失敗したからと言って隠したり、被ったりできません。五月十五日現在、発芽がおぼつかないものもありますが、まあまあの現状です。そこで、専門性とか、分業性のあり方について思うことが少しあります。物を制作することと、ものを育てることは自ら異なることは当然のことですが、育てることは自然条件や環境に支配され対応のむずかしさが伴うからです。総合的な考え方が自分の中に育たないと難しいところがあると思うのですが、米専門とか特産品の専業農家は専門的腕がそれなりの成果を挙げているでしょう。しかし、家庭菜園になると野菜、果物等全般についての勉強も必要ですし、キャリアも重要な要素であり、そのものの特性を極めることが何より大切で、成果につながるものだと思います。野菜のことなら何でもおまかせ、になる必要があるのではないでしょうか。近頃、スーパーより八百屋という声を耳にします。その理由は八百屋は農家と直接契約してその料理法まで客に紹介し、出来映えといい、安心感といい、味も上々という、スーパーには真似のできない面があるからだそうです。また、評判のいい料理店や料理研究家は多少なりとも自家用の食材を作っているか、農場へ足を運んで食材の品質を確かめた上で、料理の腕をふるうとかしているようです。医療においても専門分野では優れているが、体全体を聴診器と指先の感覚で診断できないのか、しないのか、検査へのたらい廻しでデーターがないと診断も下さないとか。少し器用な人なら、カンナやノミが使えなくても家を建てることもそう難しいことではないとか。おかげで大工の仕事が半減したとある方がぼやいていました。仏具作りの人も今は効率よく安価に什上げることに専念し、昔培つた腕のふるいようがないとか。経済効率の社会の中で大切なものを置き去りにしている面を垣間見るような気が致します。東京の郊外で野菜を作っている人が「野菜のことなら何でも対応します」と言い切った人がいます。本物だと思いました。これが原点かなと思いました。



          山羊を飼います(連載C)
         「名前をつけるまでのいきさつ」

                                             福井市 土保 裕治


ヤギを連れて遊びに行くと、人が引かれて近寄って来ます。そのとき何故か人はしばしば「名前は?」と聞くのです。しかし、名前は子供たちにつけてもらおうと決めていたので、いつも「山野羊子」(山羊のメスのこと)と答えていました。ところが、「若いうちにつけないと、おとなになってからでは自分が呼ばれていることが分からないので返事をしない」と聞いてから、心配になって来ました。そこで、一匹目の今回はエコ・プランから募集して決めることにしました。というのも、名前をつけてくれる子供たちと親しくなる機会は、まだ当分作れそうにないのです。なぜなら、昔と違い、今の小学校は日曜日に子供がいないからです。そうなると、平日に連れていく度に会社を休まなければならないのです。それまでも自分なりに一応考えてはいたのですが、これぞと言う名が浮かんで来ず、決めかねていたことが遅れた本当の理由だったのかも知れません。飼い始めた7月の時点では生まれてまだ3.5ヶ月なのに、まるで母親のような(異様に)大きい乳です。みんなは幾つかの名前を考えてくれましたが、この珍しい1匹だけに相応しい独特な名前をつけてやりたいとのこだわりが私にはありました。そして、そのような名前をつけてやれるのは、やはり、親代わりであり、最も近くで観察している私しかいないとの結論に行き着きました。そう決まると早いものです。(でもすでに、飼い始めてから5ケ月も経ってようやく)納得のいくちょっと変な名前にたどり着いたのです。ちょうど、年末恒例のお楽しみ餅つき、そば打ちが副理事長、由田さん宅で行われました。そこで、皆に参列してもらい、じっとしないヤギを前にして儀式を行い、考え抜いたこの名前を披露しました。
実は、名前を披露した記念すべきこの日この場所で、私は初めてこのやぎが発情していることを発見しました。普通九月から始まると本に書いてあるのに、12月になっても一度も兆侯が見つけられず前途を悲観しかけていたところだったので、飛び上がる程嬉しくなりました。でも、やはり、ホルモン異常のせいか、発情の兆候がとても弱く、不明瞭ではありました。(つづく)

命名式(めえめえしぎ)
めえめえやぎ殿 平成16年3月18日生まれ ♀
 あなたを「ちえぽ」ど名付げます。
 今日から、「ちえぽ」ど呼ばれたら、「めえめえ」と返事をしなさい。
名前の由来
 「ちえぼ」のち:大ぎいちちのち前号にも書いたとおり、牛や山羊
       の乳房は出産して初めて大ぎくなるものて、出産した
       ことがない子ヤギは小さいままのはず。どうもホルモ
       ン分泌異常が原因。
 「ちえぽ」のえ:エコ・プヲンのえエコ・プランのマスコット。みん
         なで可愛がってね。
 「ちえぽのぽ:土保、岡保のぽ土保が岡保地区の里山で育てます。
また、別の意味も含んでいます。
 ちチ:智恵、知恵=お手などのしつげが出来へ案外かしこい。したたかさ
 え工   もある。=人の女の子の名前でもあり、メスらしさを感しる。
 ぽボ:坊=人の男の子の意味があり、「やんちや坊」からおてんばに通じる。
      やぎの性格は強情と本に書いてある=きかん坊
皆さん、よろしく。どうぞ祝福してください。
平成16年12月23日       名付け親   土保裕治

(エコプランふくいの情報紙「リレーションシップ」より転載


            一枚のハガキに思う

                                      福井市 細川 嘉徳


 今年の連休は五月晴に恵まれて行楽地はどこも人出が多かったようだ。澄み切った青空、燃えるようなつつじの紅と若葉の緑、一年の中で最も自然が美しい姿を見せるこの時節は身も心も爽やかにしてくれる。ただ今年は黄砂現象が強くこの美しい景色が損なわれているのは残念だ。そんな中で我が家の牡丹が二鉢(ピンクとローズ)見事に咲いてくれた。これと言って特別に管理したわけでないが、冬の間軒下に置いたことで雪の被害に遭わなかったせいかもしれない。道行く人がわざわざ足を止めてくれるとこちらまで嬉しくなる。
その牡丹の前で近所の人と話をしているところに、郵便屋さんが一枚のハガキを手渡しで届けてくれた。ハガキは「寒かったですが漸く暖かくなってきました、桜の花もあっという間に散ってしまいました」という書き出しで「先日戴いたキビダンゴが大変美味しく8年前に岡山に行った時のことがとても懐かしく思い出されました」先日所用で先生のお宅にお伺いした時に持って行った子供だましのようなお土産のお礼だ。奥様の何とも言えない心の温かみが伝わる思いがして、何だか海老で鯛を釣った気分になり恐縮している。
 普通このような時は電話で簡単にお礼を言うのが一般的だ。今はこのようにハガキや手紙を書かなくても、用件を伝えたりするのに便利な電話やファックス、更にはEメールなどが有り、瞬時にお互い用件や意思を伝えることが出来るようになって久しい。特に携帯電話を便利さで言うならこれに優るものはない。それに比べるとハガキや手紙は届くのに時間が掛かる。しかも何人もの手を煩わせて相手に届けるのに最低二日は掛かる。
 そのこともあって現在ハガキや手紙を書く人は少ないと聞く。書かないと言うよりも書けなくなったとも聞く。事実我が身に当てはめてもそれが云える。下手な文字で手紙を書くよりワープロの方がきれいに書ける。忘れた文字もちゃんと出してくれる便利さもある。Eメールであればそこでボタンを押せば即座に相手に通じる。別に宛名を書く必要もなければポストまで行く必要もない。便利さと早さには敵わない、それに写真まで一緒に送ってしまう。スゴーイ世の中になったものだと思う。
その便利さに溺れて書かなくなったこともあるが、そこでいざ書くということになると、急に億劫になることは事実だ。書くとなると先ず古ぼけた頭の整理をせねばならず、それから宛名を書き、切手を貼ってポストまで出しに行く。これだけでも大変なことになる。その結果簡単に出来る手段として電話を使うようになるのも仕方がない。しかし考えてみるとこの煩わしい手間や時間に、差出人の思いがその分入るのではないかと思う。
このような嬉しいハガキを貫うと、そのお礼のハガキまでも書きたくなる。この上はワープロに頼らずボケ防止のためにも、恥を恐れず、下手な字でも短い手紙やハガキを書かねばと思っている


連載A
                  焼畑と赤かぶ
        福井市味見河内の焼畑による赤カブ栽培体験録


                                                       福井市 玉井 道敏


三.河内赤カブの焼畑栽培

 福井市美山地区は、嶺北地の中央部、西の福井市と東の大野市の中間に位置する山村で、福井市街部から車で30分の距離にある。町の総面積一三、○○○へクタールの約9割を山林が占め、全域にスギの美林が広がる。耕地はわずか三パーセント、五○○へクタールあまりである。この地域は良質の本材を多く産出することから、古くより奈良、京都の寺院建設のための用材を提供し、越前と美濃を結ぶ要衝として発展してきた。
河内集落は美山地区の東南部、大野市に近く位置し、足羽川の支流である上味見川の最上流に位置する静かな山里であの支流である上味見川の最上流に位置する静かな山里である。味見河内は、越前七河内の一つで、その名は川の上流に開けた小さな平地という意味に由来する。現在の戸数は二四戸、水田面積は八へクタールである(注3)。古来大野市とのつながりが深く、特産の河内赤カブは大野市へ通ずる的坂峠などを越えて運ばれ、大野市の七間朝市などで販売された。河内の地名は古くは一一三二年の醍醐寺文書に『有羅可内』と記載され、福井県の無形民族文化財に指定され、毎年五月五日に催される『じじぐれ祭り』の祭事や、福井県重要文化財に指定されている聖徳寺の聖徳太子像の存在など、古い歴史を感じさせる集落である。以前は焼畑、炭焼き、養蚕がこの地の経済を支えたが、現在は特産物としての可内赤カブが残存するのみである。
河内赤カブは紅色系のカブで、飛騨の赤カブ、大野紅カブとともに全国的に著名である。現在の栽培形態は山林での焼畑栽培と水田転作による平地栽培があり、二○○三年の栽培面積は焼畑が八○アールで、出荷する生産者は七人、あとは自家用に作る程度である。一番多く作っている生産者は、焼畑、水田合わせて約四○アールを作付している。青果としては大野市の七間朝市、福井市のスーパー、青果会社に出荷し、加工品として酢潰けを販売している。
昭和三十年代には六○数戸の農家ほとんどが焼畑による赤カブ栽培に取り組んでいた。河内における焼畑の特色は、作付け作物が戦前より赤カブに特化している点である。夏ナギ型の焼畑で、山林を開いた初年目に赤カブを栽培し、次年度以降、アズキ、ノバ、アワなどを栽培したこともあったが、主体は一貫して赤カブであった。隣接する大野市で江戸時代から開かれている七間朝市の存在が、早くから河内赤カブを商品作物として性格付けたと考えられる。
河内赤カブの特性は焼畑栽培で最も強く現れる。重さは二○○グラム〜三○○グラムの中カブで、形は豊円から偏
円球、色は鮮紅色を呈する。
この表皮の紅色の鮮明さが河内赤カブの最大の特色である。特に表面に水を打った時の紅色の鮮やかさはなんとも美しい。河内以外の他地域で河内赤カブを栽培しても、この鮮明な紅色は発現しないと言われている。内部の果肉には赤い色素がゴマ状の点となって中心から放射状及び同心円状に分布し、酢潰けにすると全体が鮮やかなピンク色に染まる。葉は欠刻が少なく幾分開帳し、毛じがあり、葉柄部にわずかに紅色が現れる。果内はやや硬く、ほろ苦さと辛味を備え、野性的で山菜的風味を持っている。筆者の経験では、春先にその茎葉を食すると特にこのカブが持つ風味が強く現れる。なお、平地栽培のカブは焼畑栽培のカブに比較して、その侍性や品質において劣るというのが現地での評価である。さらに、平地栽培では近年根こぶ病の発生が大きな問題となっており、根こぶ病抵抗性品種の開発や導入が試みられている。
ここで、河内で行なわれている夏ナギ型焼畑(注4)の作業手順に触れておく。七月中旬から下旬の盛夏時に、畑を造成しようとする山林や原野を伐採(野刈り)する。ところで以前は、焼畑用地を二十年から三十年のサイクルで循環していたが、最近は杉林の増加もあって焼畑用地が少なくなり、六〜七年の周期で畑造成をする。伐採した草木を2週間ほど乾燥させ、八月上旬〜中旬にかけて火入れ(野焼き)し、即日または一両日中に播種する。播種前に、燃えカスを集めて再度焼くとこ焼きをし、さらに軽く耕起して雑草の根などを取り除き畑として整える作業を行なう。播種後かるく土をかける(野打ち)こともある(最近はあまりしない)。焼畑栽培のポイントは播種後の降雨にある。
河内地区では夏季によく夕立があり、温度の日較差が大きいためよく露がおり、また九月、十月にはたびたび霧が発生する。このような気象条件も可内赤カブの発芽や生青を促進する要因として働いている。なお、焼畑栽培は本来無肥料であるが、最近はごく少量の肥料を播種後に散布している。発芽が悪ければ追播きをする場合もある。播種後の管理としては、九月に除草と間引き作業がある。十月中旬になればカブも肥大してくるので、順次大きなものから抜き取り、十月下旬から十一月一杯が収穫、出荷の最盛期となる。収穫作業は根雪の来る十二月中旬まで統く。採種は自家採種で、栽培者それぞれが十一月末頃に河内赤カブの特性を良く備えた株を選抜し、焼畑の場所の一角に二○〜三○株を植え付ける。翌年の六月未に子実の実った株を採取し、乾燥して種子を採る。その種子を八月上旬に播種するというサイクルをとる。
河内赤カブの由来については、聖徳太子伝説、平家の落人伝説、岐享県の美濃を本拠とし河内集落を含む一帯を支配した豪族、伊自良氏によってもたらされたという説、河内集落に大阪住吉神社の分社が建てられた頃(約一、○○○年前)関西から渡来したという説、など種々あるが、一般的には七○○年〜八○○年前にこの地にもたらされたものとされている。一方で、河内赤カブの系譜を考えると、このカブの特性は和種系カブと洋種系カブの中間的形質を備えていることから、いつかの時点で、和種系と洋種系の交雑によって生じたか、変化したものと推測される。それにしてもその鮮やかな紅色は何処からもたらされたのか。青葉高氏によれば、目本のカブには、白色、紫紅色、紅色、淡緑色の品種があり、紅カブは紫紅色のカブから突然変異によって生じたものであると推測されている。例えば、飛騨紅カブは紫紅色の飛騨八賀カブの中から見出され、それが品種として確立された年代は、明治後期から大正の時代である[青葉高一九八五]。
河内赤カブはそれ以前に存在していたと考えられ、おそらく岐阜県から福井県にかけて古くに栽培されていた種々のカブが交雑し、その中から紅色の特性を持った品種が選抜され、河内集落で河内赤カブとして栽培され続けたものと想定される。さらに、青葉高氏は前掲書で、「例えば岐阜県の北西部には、葉に毛があり、種皮型はA、B混在型で、根の地上部は紫紅色の石徹白カブや鷲見カブがある。この付近は県境ではあるが人の往来は割合に多く、文化の交流は盛んであった所と思われる。
そこでこれらのカブは、おそらく飛騨八賀カブのような紫紅色で毛の多い洋種系品種と、関西の和種系の白カブ、また北陸の青首の品種との間で偶然交雑が起こり、その結果生まれた品種であろう」と推測している[青葉高一丸八五」。河内赤カブもこのような系譜の中に出自を持つ品種であるように思われる。
(注3)一九五○年代の戸数は六○数戸を数えたが、一九六三年の三八豪雪などの影響により過疎化が急速に進んだ。水田面積も一九五○年代には一五へクタールの耕地があったが、過疎化やスギの植林の進展などで半減した。
(注4)ナギハタ型焼畑において、盛夏に伐採、火入れを行い、ソバやダイコン、カブなどを作る夏焼き型の焼畑をいう。一方で、前年の秋に伐採し、翌年の春に火入れをして、ヒエ、アワなどの主穀作物を作付けする春焼き型の焼畑がある。


                    編集後記


▼子供時代の記憶では、夏季到来の気温の目安は三十度、最高気温でも三十三度程度だったと思うのですが、近年は確実に二〜三度、夏の気温が上がっています。気温上昇に生物として適応するため、何とかクーラーをつけずにやっています。
▼見谷春美さんの文章からは上澄み液でなしに泥水の世界を感じさせられます。クロールピクリン、ドロクロールの説明のあたりは、身体を張って農業生産に取り組んでいる姿が髣髴とされ、迫力があります。
農業技術の近代化が持続的な農業生産につながらない様子が体験を通して語られています。
▼今号も園芸福祉やファーマーズマーケットの原稿を掲載しました。これらに食育や野菜ソムリエなどを加えて考えると、農業の世界を拡げる、農の底辺を拡大する、という意味ではこれらの活動は大切です。それでは肝腎の農業生産の方はどうなのか、農業生産を担う農家が、意欲を持って活き活きと生産に取り組むような支援や手当がなされているのか。最近、農や農業を取り巻く周辺部に対する応援歌が大きくなって、農業生産に対する応援歌の音量が小さくなっているのではないか。そんな感じがします。
▼出前講座の小学生の子ども達の感想を読むと、的確にポイント(中川さんが伝えようとしている事)をつかんでいるな、頭が柔らかいな、と思います。子供時代の頭の柔軟さが大人になるとなぜ硬くなるのか、どれだけ年をとっても好奇心旺盛で、柔軟な思考のできる人間になりたいものです。
(玉井道敏)


          平成18年 あぜみち中川賞募集中

平成十八年の「あぜみち中川賞」の応募原稿を募集しています。
この賞は、中川清さんをはじめとする有志の方により運営されており、あぜみちの会が、これからの農業を担っていく方達の夢の実現を支援していくものです。ふるって、ご応募ください。

応募資格
福井県在住の農業者(個人)で、原則として五十歳未満の方としますが、五十歳以上の新規就農者についても対象とする場合がありますので、該当者があれば応募を受けつけます。

応募方法
農業を始めた動機、現在の経営状況、そして、あなたの農業経営で、是非実現したいと考えている「夢」について、書いてください。
そのような夢を持つにいたった理由、その実現のための具体的な方法なども併せて書いてください。
・原稿は、図表、イラストを含めて四○○○字程度。必ず、住所、氏名、生年月日、連絡先電話香号を明記してください。
・原稿受付締め切り
十月三十一日(火)
・提出先(問合先)
〒九一○−○八○三
福井市高柳町三−八
あぜみちの会事務局安責正嗣 宛
電話(〇七七六)五四−七五六五
FAX(〇七七六)五四-八一三九

審査・発表
作文の内容審査と対面による現地調査を行い、夢の内容と意欲、実現性等を審査し、特に今後の発展が期待できる方を選考します。賞金は最優秀賞三十万円です。
審査結果と受賞された方の原稿は、当ミニコミ誌「みち」において発表し、十一月二十三日に開催されるあぜみちの会収穫感謝祭において表彰します。

 


このホームページに関するご意見、ご感想をお聞かせ下さい。 m-yamada@mitene.or.jp

[ホームページ] [あぜみちの会]