あぜみちの会ミニコミ紙

みち39号

(2005.3.10)


シグナル39

福井市 中川 清

昨年は、類のない台風の当たり年でした。年間九個が接近・上陸は異例ですし、発生二十三個中、四割強だから、例年の三割以上、その確率は、昨シーズン話題の安打数記録更新のイチローの打率を優に上回りました。
 そういう中で昨年も稔りの秋を迎えました。 
 食べものは、本来、他のものの「いのち」を戴いているのです。米だって、野菜だって、果物だって、肉と同じく、生きている他のものの「いのち」を人間が食べる訳です。弱肉強食を、一概に酷いとは、言えない訳ですね。
 そうすれば、そこに、食べ物に対しての感謝の念が、生じて来る筈です。
 それのひとつが、収穫感謝祭でもありましょう。
 食物を感謝しながら戴くことは、摂取栄養にも大変な意味があることです。いらつきながら食べるのと、心豊に食べるのでは、第一、唾液とか胃の消化液の出方が違ってきます。食べもので胃(腹)を満たすだけでなく、感謝の念を忘れず、心をも豊に満たしたいものです。
 しかし、今「いのち」を戴くこの食事に、食べ残しが多いのに驚かされます。最近の風潮として、人の命を軽視するような犯罪が各地で多発している暗いニュースと、無関係とはいえないのでは…と思います。食物を大事に、そして感謝の心をみんなが持てば、こんな犯罪は減少すると思いませんか。毎食「戴きます!」「ご馳走様!」が、家族で言える家庭からは、凶悪犯は生まれますまい。
 二〇〇四年のあぜみちの会収穫感謝祭は、敦賀の上野農園で開催され大盛況でした。
 敦賀までわざわざ足をお運びいただいた方々に感謝申し上げます。


「血 液」

福井市    名津井 萬


私は酪農経営をしている。
 先日、テレビで猛獣の一家を放映していた。複数の子供が生まれ、成長して行く状況である。そして子供が青年期に入ってくると、親は子を追い出すという。追い出された子は別の一家を探し入れてもらうという。それは本能的に近親交配をさけるためだそうだ。自然界の動物本能の素晴らしさを知った。
 私は、二十数年前に酪農で大失敗をした。
 自家育成の乳業に人工授精した時、ウッカリして同じ種牡牛を授精し、受胎してしまった。母牛と娘牛の父牛は同じということだ。十ヵ月後、牝の子牛が生まれた。少し小さいが体型はよい子牛に見えたので育成した。十八ケ月で人工授精し、翌年に分娩した。乳が全く出ない、約二キロぐらいである。普通は二十〜三十キロは出なければならない。近親交配の最悪の結果であった。
 おまけに十数万円の損失でもあった。それ以来、乳牛の交配には近親交配にならないように注意している。
 昨年の十月十五日に福井市本郷地区の農家より牛糞堆肥が欲しいとの電話があり、ダンプで五台運んだ。本郷地区の道中に大きく赤い字で書かれた横断幕が目についた。それには「埼玉国体、レスリング競技出場、杉本祥太君」と大書されていた。
 杉本祥太君は「みち」前号(三十八号)四頁の、福井の専業農家・その群像、杉本英夫氏の息子さんである。
 杉本英夫氏は物静かであるが、スポーツマンで、剣道は有段者の腕前である。
 息子さんの祥太君も、父、英夫氏の「血液」を受け継いで、見事なスポーツマンとして県代表として国体に出場するレスリング選手だと知り、感嘆すると共に、父親が私と同じ専業農家の仲間であることに、私の喜びも大きい。
 祥太君の優れた能力は、父、英夫氏から受け継いだ抜群の運動神経の「血液」と、併せて、山深い山間の地に生まれ育った環境にも一因があると思っている。
 山とは坂である。祥太君は幼年の頃から山、坂を歩み、走り育ち、足腰が鍛えられたと思う。
 レスリングは強靭な足腰と抜群のスピードが必要である。父、英夫氏の剣道におけるスピードと瞬発力の「血液」が流れているのであろう。
 杉本祥太君の今後の活躍を祈りたい。(国体では全国五位に入賞した)


          労多くして実り少なし
                            福井市 酒井恵美子

 サツマイモの茎の需要がこんなに多い年を私はいまだかって経験したことがありません。何故?、それは秋の葉菜類の育ちが、極端に悪かったからでしょう。野菜が異常に高値なのでちょっと手が出ません。不特定多種類の虫の異常発生ともいえるほどの虫が、地中、地上の両面から容赦なく攻めまくるのです。無農薬、減農薬など言ってはいられません。
 農薬の有効期限が切れるのを待って、待って。さて少し食べようかなと思う頃、次世代の虫が孵化して、「あれ」と思っている内に葉脈だけの葉が哀れな姿をさらけ出し、立ち枯れ病でくしゃくしゃになってしまうのです。また、種からのやり直しが余儀なくされ、こうして私は三回の蒔き直しをしました。
 人は「温暖化の所為だ」「激しい雨、台風の所為だ」といいますが、私は原因はそれだけではないような気がしてなりません。それは、雑草だけはやたら元気だからです。日照りも、虫も、病気も何のそので、畑中、我が物顔に蔓延り、生き生きとしているのです。
 科学が進んでバイオとかメリクロンとか品種改良だとか、先端技術が進みました。農業資材も肥料も農薬も農業技術も日進月歩の歩みを続けています。しかし、野菜の体質は反比例して低下していくように思われてなりません。免疫力の低下、これは人も作物も同じなのではないでしょうか。人は病気を治すために薬を飲み、清潔へと神経質になり、安心、安全と騒ぎ立て、サプリメント、健康食品が横行する分、自己治癒力を低下させているかもしれません。野菜が育ちにくくなったのもそんな所に原因があるのかな、とも思うのです。
 だったらどうする…と言われても、はたと困ってしまいますが、自然に学ぶ、雑草の生命力の強さに学ぶ、基本に戻る、といったようなことを再考することも大切なのかなと思います。
 二〇〇四年は、概ね、悲観的な作柄が春から続きましたが、今、私の菜園では人がうらやむほどの生き生きした野菜が育っています。労の多い分稔りも多かれと願って、雨の日も炎天下も汗したご褒美かなと、ちょっとだけ得意になっています。



         「最近気になること」
                            福井市 細川嘉徳

 昨年の十月十四日の新聞に久しぶりに「うろこ雲」の写真が出ていた。見られた人も多いと思うが本当に今の時期珍しい。と言うと話がおかしくなってしまうが、三十年程前は九月から十月に掛けて、この種の雲はよく出たもので、子供の時は「いわし雲」とか「さば雲」などと呼んでいた。それが今ではあまり見られなくなってきた。今回のようにたまに出ると、新聞のニュースになるほど珍しくなってきたということだ。たかが「うろこ雲」であるが、この雲が出ると秋の深みを感ずる。秋も深まると朝夕は凌ぎやすくなるものだが、それでも日中はかなり暑かった。もう晩秋といってもいい十月十二日に、入道雲が出ていた。異常気象は空の様子も変えている。

 そういえば昨年は二十三個の台風が発生し、その内九個も上陸した。おまけに七月十八日の福井豪雨が記憶に新しい。それだけではない。火山の噴火と地震の多発、そして熊騒動である。これは一に地球温暖化の結果であることは間違いないだろう。熊が出るのは山に餌がなくなったからだとか、地殻変動を敏感に察知しての行動だとか聴くが、全く根拠がないとも言えない。

 「うろこ雲」が出た後は、天候は必ず下り坂になる、と亡き母から聞いていたが、事実、十四日は雨になっている。この世に苦労するために生まれたような短い生涯を送った母だが、類まれな天気博士だった。明日の天気を不思議なほど当てた。近所の人も天気に関しては母に一目置くようになって、「明日天気どやろの」と、挨拶代わりに聞きに来ることが多かった。農家の秋の仕事は特に天気に左右されたからだろう。母はきっと毎日雲の動きを観察していたに違いない。

 当時ラジオもまだそんなに普及していなかった時代のことである。しかしながら昔の天気予報はあくまで予報であって、それこそあたるも八卦、あたらぬも八卦で、世間様も予報が外れても寛大であまり気にせず、その分、自ら気象観測をせざるを得なかった長閑な時代であった。今では観測や通信技術が発達して、予報はほぼ信頼できるようになった。そのためか人々は天気を見るのに、空を見るより先ずテレビをつけ、そして新聞を見る。忙しくてゆっくり見ておれない人もいるだろう。観測技術がどんなに発達しても、地震や台風は止められない。

 雲の形や流れが穏やかでないように思うのは自分一人ではないはずだ。中国から来る黄砂が多くなっているのも事実だが、何より気になるのは季節に出るべき雲が出ないことである。温暖化に付きものと言ってしまえばそれまでだが、入道雲一つとってみても、時節はずれに出たり形の崩れたのが多すぎる。空一面に敷き詰めたような爽やかな「うろこ雲」は、あと何回見られるだろうか。母に聞いてみたい。


ふくいの専業農家・その群像
第3回
片岡仁彦(42歳)
エサシファーム代表

「江差」とは
田と田の間にある小川や水路に稲を植えたもの
作物の自生力を信じて、人間はそこに力を貸すだけ
そんな思いを込めて「Esashi Farm」

就農の動機は、農業施策の方向を見て
離農が増えると

作物を作り上げるあり方と
機械好きの農機作業の工夫

信頼を得る農作物を目指し
異業種の人々との交流を通じて
消費拡大を図る。

『未来はあるが明日がない、夢はあるが仕事がない。』と
農業への転職後、悶々とした日々
いま、「農作業のあり方、経営」を語る
かつての少年の日、あの目の輝きで。
(写真・文  松田宗一)

超省力有機(勇気)栽培で美味しいコメつくり

福井市 林 照翁
●田んぼが現代アートに
 田植えを終えた上岡満栄さんの泉谷棚田(愛媛県五十崎町)は、白一色の不織布マルチシート(布マルチ)が敷き詰められ、山間に現代アートが出現した様だ!
 福井新間(○四・六・一五)「脈々ニッポンの技」の記事でこの田んぼの写真が紹介されており、百聞は一見に如かず、さっそくこの夏愛媛に出かけてきました。
 ちょうどこの水稲布マルチ直播栽培の提唱者である津野幸人氏(鳥取大学名誉教授)ともお会いすることができ、布マルチを製造している丸三産業職員の方の案内で、上岡さんの田んぼを見に行きました。

●紙マルチから布マルチへ
津野氏は鳥取大学教授時代に、田をリサイクルペーパーで覆って雑草を抑える「再生紙マルチ水稲栽培法」を考案した。
しかし、この栽培法は区画整理された半らな土地でしか使えず、田の形にこだわらず棚国でも使える栽培法を模索していた。
二○○○年初め、原綿を扱う全業「丸三産業」にたどりつき、「天然素材一○○%で、水田に敷くシートをつくってもらいたい」と社長に依頼。こうして、シートの強度や布面の均一性の改良を重ね、水田実験にこぎつけました。

●布マルチの除草効果
 種籾から第三葉が出るまでは胚乳養分で苗は生長できる。
 苗が独立栄養期(第三葉期以後)に移行する時点で完全落水する。水田に伸びていた水稲根は落水操作で土に密着して、このときより、地中に根系を拡張する。根が土中に伸びれば、再び田に水を入れても布は根が土と密着しているので浮かばない。(右記解説図参照)
この操作の良否(水管理)が倒伏問題にも関係してくる。
(布マルチ栽培の失敗の原因の項参照)

●水稲マルチ直播栽培の基本となる考え方
ここで紹介する水稲布マルチ直播栽培は、たんなる除草剤を便わない稲作技術ではない。
積極的に荒廃水田を活用して環境を修復すると同時に、美味しい有機米の生産を超省力で実現しようと意図するものだ。
これまで無農薬・有機栽培に取り組んできて、いやというほどご苦労を重ねてきた方々にぜひ採用していただきたい農法である。また、内容から見ても慣行農法に習熟した人にはもちろんであるが、これから無農薬・有機稲作に取り組もうとしている初心の人にも容易に採用できる稲作だと思う。
ただ、農薬・化学肥料を使う慣行稲作から無農薬・有機稲作に転換しようとされる方は「出来るだけ多くの収穫を上げよう」とする従来の稲作常識を乗り越えて、先ずこのテキストによって頭脳の柔軟体操をやり、発想を転換してから取り組んでいただきたい。
津野幸人
(水稲布マルチ直播栽培テキストより)

布マルチ栽培の失敗の原因
1.浮かべ期間の水不足
・布が地面に着くので雑草が発生(雑草を水中で発芽させ布で抑える)
・用水は必ず布の下に入れる。用水に混じっつた種が布の土で発芽する。
2.ならし不良
・凹地のイネはタコ足となり倒伏する(右下写真参照)
3.中干しの不十分
・その後、水をかげ過ぎるので土が固まらない(倒伏)
4.地カ不足で穂数、一粒のモミ数とともに少ないため低収量
5.永年雑草が生える


2005年は福井県で布マルチの試験栽培を予定しています。(15アールほど)
さらに詳しく水稲布マルチ直播栽培を知りたい方は、テキスト・ビデオを用意
してありますのでご連絡ください。
910-0121 福井市定正町16−13
林 照翁

シルクロードの旅と農産物

  清水町  宇野 肇


●ウルムチヘ直行便

昨年、九月二十八日〜十月二日、私は長年の夢のシルクロード、そのど真ん中のウルムチ〜トルファンに旅することが実現した。
名古屋空港からひと飛び、六時間でウルムチ空港に着いた。距離にして五千キロの空の旅。唐の時代、玄奘三蔵が徒歩でインドまで行った時代なら、日本からウルムチまで辿り着くのに幾年も要したであろうが、その日の内に到着できたのは飛行機という科学文明の偉力を痛感する。
 午後四時名古屋空港発、内蒙古上空を通り、夜の十時ウルムチ空港に降りた瞬間、ぴりぴりと寒さを感じた。おそらく摂氏五度ぐらいと思った。

●沙漠とオアシス
新疆ウイグル自治区は中国の西方に位置し、南はチベット高原、西はパキスタン、アフガン国境沿いの崑崙山脈、パミール高原、北はロシア国境のアルタイ山脈、東は邪連山脈に囲まれた地球規模の盆地でやや中央に二千キロに及ぶ天山山脈が連なっている。面積は中国の六分の一、山脈のオアシス以外は殆ど沙漠である。最も大きな沙漠はタクラマカン沙漠、千五百キロの長さである。水分はゼロパーセント、一度風は吹けば砂埃となって舞い上がる。
トルファンは海面下マイナス百五十四メートルで世界で一番に低い地形、二百キロ離れたウルムチより平均気温で十度の差があるという。年間雨量十八ミリ、蒸発量三千ミリ、夏場の砂地の地表温度八十度、同気温四十度〜五十度、しかし夜と昼の温度差が大きい。
こうした地理的気象条件なるが故に、世界的にも良質の干葡萄の産地にもなるのである。
日本でも、うまいコシヒカリは、山間部の昼夜の温度差が大きい処というのに似ている。
帰りの飛行は現地時間八時五十五分離陸、一路東方に飛行したが、天山の巨峰が眺下にみえ、山脈以外は全て不毛の沙漠だった。飛行六時間のうち、約二時間は火星上空を飛行しているような不毛の沙漠だった。時速八百キロにして約千数百キロにも及ぶ広さをもっている。年間雨のないところ。

●豊かな農産物
日本で大根を播種する時期は九月上旬頃である。一ヶ月ほど続いた干天で土は干し上がっていても、九月になれば台風が水を運んで大根がまける。
しかし、トルファンやウルムチでは百年待っても雨は期待できない。ではどうして野菜を作るのか…?。それは天山山脈の雪解け水が便りである。
カレーズといって、山のふもとの地下水脈まで地下トンネルを掘って一直線にトルファンに送水するのである。その数約一千ケ所にも及ぶという。シルクロード全域でのカレーズの総延長は五千キロというから、その灌漑の智恵というか、その水によって豊かな農産物が生産されているのである。
私の今回の旅はシルクロードの歴史的遺跡参観が主目的であるが、私が一農民であるので農の文化から目を離さない。
移動する車窓から葡萄畑はよく見ることが出来る。よくみると、小さい溝に水が細々と流れていた。
収穫の秋なので、とうもろこしが露天に干してあった。綿花畠があり綿をつんでいた。小麦をまく季節なので、まず圃場を潅水し、その上に播種しているようであった。
車窓から見る限り農業機械は一台も見ることはなかった。ガイドさんに、米は作られないのかきいたら、シルクロード全域では三ケ所あるとの事、オワシスのアスク、ホータン、カシュガルとの事である。

●バザール見学
トルファン、ウルムチ両市ともバザールを見学した。ウルムチは二百五十万都市である。バザールは生活百般の物資を集積し販売する市場である。土埃の中、衛生的とはいえないが、むこうでは埃におどろいていては生きていけない。
野菜市場には、日本の大スーパーにある野菜は殆どある。胡瓜、茄子、トマト、キャベツ、さつまいも、南京、チンゲン菜、ささげ、しいたけ等きのこ類、白菜、ねぎ、ねぎは日本のものより数倍大きいし、キウイは三倍ぐらい大きい。西瓜は本場だけあって十トントラックに山積みで搬入していた。珍しくいか、たこ、太刀魚まで並べてあった。海からはるかに遠いシルクロードに海のものがあった。保冷なしに色あせていた。
さて、ここで不思議なことに、日本での夏野菜はいくら頑張っても秋のお彼岸が限界である。あるのはハウス栽培である。でも、ウルムチは日本よりはるかに朝夕は寒いのである。それでも立派な夏野菜が豊富にあるのである。これはどうして作られるのか不思議の一つであった。都市近郊の農地にはビニールハウス一棟も見ることはできなかった。この秘密を解くには現場に行くしかない。一つの想定であるが、日中の沙漠の温度が高いからではないかと思う。
それに、虫喰いの野菜がないことである。立派な姿をしていた。日本の場合、大根をまいても、防除しなかったら、コオロギや青虫に喰われ一本の大根もとれないのである。日本のように湿気の多いところは虫が生息するのに適しているので、初めから虫の大群の中に虫の餌になる菜をまくことになるが、むこうでは水分がゼロの乾燥地帯だから初めも終わりも虫は生息できないのではないかと思う。つまり、防除は必要がないため、虫喰い野菜はないのではと思う。
シルクロードは乾燥度百パーセント、一年中天からの雨水なし。そこで立派な野菜を作るには天山山脈の水が頼りであること。
日本に帰ってきて雨。二十一個の巨大台風が日本列島に水を運び、大麦の転作をしようにも圃場は百パーセントの含有水、トラクター耕運もできないほど、日本は水中生活のように思う。稲は水中作物だから、日本は水穂の国か。
ウルムチの町かどで焼栗一キロを買う。日本円で百五十円。また、ウルムチのホテルで日本のチャンバラ映画のテレビを見た。最後にもう一つ、大きな驚きがあった。それはトルファンのアスターナ古墳群を見学した時である。日野川の河川敷に群れをなして生えているエノコロ草、別名ネコジャラシがその古墳群の一画に生えていた事であった。それを持ち帰った。


【読者の声】
 好久□見了(ハオ チュウ メイ チェン ラ お久しぶりでございます)
 みち三十八号をお送りくださいまして有難うございます。
 今年の日本列島も千変万化賑やかでした。
 二十一の台風、びわ湖を運んで福井の空でおとす。とにかく台風のエネルギーはどうして発生するのか、また、人間社会も気違い人種の多発、政界も三菱も以上もろもろの事が発生し、台風が去ったように何もかも流れていきます。これでいいのでもなく、なんたることかと気が病みます。さて「みち」倫から外れる人間、他人事でなく己を反省したいです。
 道、路、未知、自然界にははじめから道はない、一人歩き、二人歩きしてだんだん巾ができたのです。東海道五十三次の時代の道が今日では高速道路、新幹線がピューッと走り去ります。人間のみち、二千五百年前、釈迦や孔子、キリストらが道をひらいて下さったのですが、その道から外れる人間。
 「みち誌」のシグナルも一本の道である。子供は親の背中をみて成長する。先人の道標がなかったら歩けないのです。私と言う人間、後人のための道標が残せるか!今一度己の歩いた道をふり返りたいです。恥かしくない道すじがつくれたか、イエスとはいいきれない己の一生、せめて学ぶことである。
 九月二十八日〜十月二日、シルクロードに行ってきました。農民のみたシルクロードの拙文をお届けいたします。よろしくお願いいたします。
十月八日 中川先生へ
       宇野 肇 拝



飛騨自由大学セミナー・講演録(連載第5回)
「人と人」、「人と自然」の新しい繋がりを求めて

           福井市  玉井 道敏

 これは四万十川を歩いた時の写真です。ちょうど桃の時期。これは岡山の桃です。ちょっと白っぽいんですけれど、これは源流というか、上流のほうです。三日ほど行きましたかね。ずーと河畔を歩いたんですよ。河畔というか、川岸を。これはかなり大きな川になっています。一緒に行った林君ですけれども、彼と二人で行きました。こういう感じですね。これはいちごですかね。こういう感じで、道を歩いたということです。やっぱり四万十川、カヌーが盛んですので、そういうカヌーで遊んでいる人がいます。これはトウガラシか、何かを作っている状況、トウガラシをかなり、シシトウですね。これは野良犬がよってきたところです。これも何か野菜ですね。これはちょっとした小屋で、お地蔵さんが祀ってある小屋で休んでいるところです。なんとか堂と書いてある。これが有名な沈下橋。チンが沈む、沈む下の橋。要するに、水が増えると沈むわけですね。引けばまた通れるという、そういう橋です。こういう橋が何箇所も、ずーっとあります。これは泳いでおるところです。非常に水がきれい。泳ぎました。これは網なんですね。こういう川船があって、漁師の網があります。これも沈下橋のところです。これはエビか、なんかを獲ってる道具ですね。こういうのを仕掛けて、それを上げて、調べているところです。舟母といういい旅館がありまして、今度また十一月一日から五日まで四国へ行くんですけれども、三日目にここでもう一回泊る。これはおもしろいんですね。このへんでリュウキュウと言うんですね。里いもの葉柄ですね。これを食べるんですね。これを今処理している。リュウキュウ、この辺でリュウキュウと言う、ハスイモのことだそうです。できた料理がこういうもの。これは先ほどのハスイモの酢の物ですね。これはエビです。これは鮎じゃないかな。まあ、こんな料理が出ました。これも沈下橋です。これがさっきの里芋です。これはカラスがよってきたんですね。なんか動物の色が濃い。例えばアゲハチョウがいっぱいいるとかですね、花にいっぱい群がっているとか、チョウチョがいっぱいいましたね。これはアゲハチョウ。これはトンボ公園ですね。中村市の。下流の海に注ぐところにある、トンボ公園。高知県中村市のトンボ公園。これは、この時分はまだ若いですね。十何年前ですから。ここに住み着いて、高知の大月町というところの海岸に住み着いてですね、そこの漁村とか、農村の記録をですね、まとめている人がいるんです。鈴木さんと安岡さんと言われるんです。なぜか、謄写版でやっておられた。謄写版で、俗に言うガリで。それが非常に珍しかったから、報告書が年にいっぺん出るんですけれど、それを頂いた縁で、遊びに行ったわけです。これは生ブシだと思います。生ブシの工場を案内されて見に行った。こういう倒れかかったような家に住み着いて、そういうミニコミと言ったらいいんですかね。そういうのを出されています。今ちょっとご主人のほうが、体を悪くされておりますけれども。二回ほど遊びに行った。これは段々畑。もう本当に、雑草園みたいな形になっていました。そういう場所なんです。これはギターを弾いているところです。以上が四万十川だったと思います。
 これは娘の写真です。高校一年で、留学というか、向こうの高校へ一年間行ってました。その間、日本では休学という形で。一番下の子やったもんで、もう行きたくて仕方ないと言いますので、出しました。バンコクとチェンマイの間のタークという、非常にミャンマーよりの小さな都市でホームステイをしてました。これは軍人と一緒に撮っている写真。ちょうどこの時、タイ米を入れた年だった。一時、不作でタイ米を入れたでしょう。その時でした。これはタイの衣装です。これの真ん中がうちの子です。これは踊りを習っているんです。福井へ帰って、報告会をしたいと言うもんで、その時この踊りを披露してくれました。非常に難しい、この踊り。これもどっかへ遊びに行った写真だと。友達と一緒に映っています。この子が一番しっかりしていますね、三人の中では。やっぱりそういう体験をしてきているというのは、強いですね。非常によく気がつきます、なんでも。今東京にいるんですけれども、食事にでも行くと、自分が出すと言うんですね、お金を。そういう子です。非常にしっかり、そういう意味でしっかりしています。これがホームステイをしたところの家族ですね。どっかへ遊びに行った時。先生方やら、向こうの母親。これは先生に、花を捧げとるところですね。これはお坊さんに捧げ物をしているところですね。これはどっか、ミャンマーよりのところで、ミャンマーへも2回ほど国境を越えて行ったと言うてました。山岳民族の地域へ行った時の光景だと思います。人力車みたいなもの。これは象を撮った写真ですね。これは山岳民族の子供達を撮った写真。これはショーを見ている。こういう感じでショーが。これは向こうの衣装をつけて、友達と映ってる写真ですね。これがうちの子です。これもそうですね。これは結婚式、向こうの結婚式を撮った写真です。これはどっか食事によばれた時ですね。これはどっか市場だと。こういう感じで食事をしてる。これはホームステイの家の家族です。以上がタイです。
(以下、次号)


短歌「しろつつじ」
福井市 小林 としを

老い我を受け入れくるる野のありて健やかに今日が始る  

一夜の雨が作りし道の水溜りに春泥重き長靴洗う      

男結び夫に教わり稲架結いし日の蘇りひとり棚結う     

白黒の汚れし野良猫ひとひらの花びら背にのしのしと行く  

やがて伐らるる椎の老樹は苔青し耳あてて聴く水流る音  

吾が家の重鎮たりし椎の老樹伐採するを祖に詫びにつつ  

父編みていづめは河岸に燃え尽きぬ少しいびつな形くづさず

戦いに求められし日残ししと云う父祖こもりゐん錆びし鉄瓶 


蕎麦の花
福井市 鉾・俳句会


二つづつ抓みて数ふ茗荷の子     田中芳実

白蝶の紛るる許り蕎麦の花       青木敏子

下校児の歌声流る蕎麦の花       猪之詰佐智子

闇の中一面蕎麦の花明り        今川和歌子

蕎麦の花未だ暮れ切らぬ一軒屋    岡田貞子

その中を舗装路走る蕎麦の花     小倉不尽

柿吊るす先ず秘と一尋の縄綯いて   河合紫仙

冬菜畑海まで続く秋岬          斎藤由起子

雁渡し三角波のフェリー港        柴田喜代子

木犀の香りの籠る雨の庭        高谷三恵子

夕暮れに白の漂ふ蕎麦の花      滝波トシ

篤農と昔は呼ばれ柿を剥く       谷本静枝

夜目に見し真綿被れる蕎麦の花    田山恭子

黒塀に赤き土管や路地の秋      土田章代

かりんの実数を覚えし児が数ふ    中野ちとせ

試験田稲を刈りつつメモを取る     皆川誠道



編集後記
玉井道敏

◎今号も発行が遅れましたことお詫びいたします。原摘の多くは、昨秋に提出して戴いていたので、今回も発行時期と原稿内容とに季節感のずれが生じました。どうかお許しください。

◎平成十七年度の会費(年間千円)を納人してください。
平成十六年度は一号しか発行していないため、五百円の会費にしては、という意見もあったのですが、今後は年四回発行するよう努力するということで、これまでどおり、年間千円とさせていただきました。
どうかよろしくお願いいたします。

◎今号から、小林としをさんの短歌を掲載します。農業や農村をフィールドにした歌が詠まれており、『みち』の楽しみがひとつ増えました。
小林としをさんは、現在は福井市網戸瀬町にお住まいで、生まれは、昭和4年、春江町下小森です。昭和十七年、百日紅に入会、昭和四十五年、百日紅同人となられて以降、十五年の長きにわたって、歌作に励んでおられます。平成四年には百日紅叢書として『歌集しろつつじ』を発刊されています。
ご期待ください。

◎宇野肇さんからはシルクロード紀行の原橋を戴きました。短期間の目程ながら、好寄心と探究心にあふれた内容の文章は、路駝の背にのられたご壮健な姿とともに、惹きつけられます。

◎中川清さんをはじめとして、名津井萬さん、酒井美恵子さん、細川嘉値さん、松田宗一さんなどなど、みち投稿者のレギュラーが少しずつ増えてきています。みちの発行母体である『あぜみちの会』の結成の原点は、農業者からの発信です。えらい人達ではなく、普通の農業者や市民が気軽に自分の想いを語り、意見をぶつける場として『みち』があります。皆さんからの投稿をお待ちしています。
         原稿送付先
・        福井市南四ツ居9-1-3
         玉井よろず道楽研究所
(玉井道敏)          

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